還浄された御門徒様の学び跡 |
今を去るはるかな昔、(『仏説無量寿経』に「乃往過去久遠無量不可思議無央数劫」とある)錠光如来を始めとして多くの如来が世にお出ましになり、衆生を教化し、また滅度をとられた。
そして世自在王如来の世に法蔵菩薩が如来の説法を聞いて心に喜びを抱き、如来のもとにまいり、讃仏偈をつくり、仏をたたえ、志願を述べられ、それを達成するため教えを乞われた。『仏説無量寿経』にはドラマチックにその光景が説かれ示されている。
そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになった。
法蔵菩薩は、このそれぞれの仏国土のおいわれををつぶさに拝見され、ここにこの上なくすぐれた願をおこされたのである。そして長い五劫もの間、おもいをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取られた。
以下詳説する。註: 四十八願は「設我得仏***不取正覚」(わたしが仏になるとき***決してさとりを開きません)という形で構成され、***にいろいろの願いが述べられている。その内容は正に「世のあらゆる苦悩をなくし衆生を安穏の境地、大涅槃の世界に生まれさせずば」との願いが満ちみちていることである。
わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄道・餓鬼道・畜生道の者がいるようならば、決してさとりを開きません。
仏教の教えでは、衆生は自分のつくる業によって迷いの生死を繰り返し、輪廻するといわれる。その業によって、六つの世界に分かれ行く。それが六道である。
地獄
餓鬼
畜生
修羅(阿修羅)
人
天
の六世界(六道・六趣)である。またこれに四生(卵生・胎生・湿生・化生)を加えて、六道・四生と呼び、この中を生死繰り返すのが六道輪廻である。
従って、人はその罪業によって生死の繰り返しをして、永久に迷いを抜け出せない。この輪廻からの脱出は仏法の救済による以外は手だてがないとして、さまざまな信仰がおこったものである。
阿弥陀仏や観音菩薩、地蔵菩薩による救済、救いがそれである。
阿弥陀仏の救いのめあての第一に「地獄道に落ちているもの」「餓鬼道」「畜生道」に苦しむものの救済が挙げられていることは、そこに大いなる慈悲の心がはたらいていることなのである。
源信僧都の「往生要集」には、つぶさに地獄・餓鬼・畜生道の苦しみが、リアルに描かれており、時の末法思想の流布と相俟って、そこからの阿弥陀仏によるすくいは、当時の世の中に熱狂的にうけいれられたことであろう。
そして、この三悪道に落ちぬためのさまざまな悪業の否定、善業のすすめは長く世の中の極悪非道は勿論のことながら、小悪すらに対しても抑止効果をもったのである。今日、さまざまな悪業、殺人などの非道な事件が後を絶たないのは、こうした抑止力を持つ教えがなくなったからに他ならないと思われてならない。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「悪趣」とは、衆生が自分のなした悪い行為によって導かれ行く迷いの世界(六道輪廻の世界)を言うが、その中でも、地獄・餓鬼・畜生の三世界は、「三悪趣」(三悪道)とし言われる。
《趣は赴くを言い、往くことである。》
このことから、第二番目の願は「無三悪趣の願」でくりかえし衆生が地獄・餓鬼・畜生の世界に決して迷い込むことの無いよう誓われたことである。
源信和尚は、『往生要集』巻上に、
それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、たれか帰せざるものあらん。ただし顕密の教法、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しとなさず。予がごとき頑魯のもの、あにあへてせんや。このゆゑに、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし。総べて十門あり。
分ちて三巻となす。一は厭離穢土、二は欣求浄土、三は極楽証拠、四は正修念仏、五は助念方法、六は別時念仏、七は念仏利益、八は念仏証拠、九は往生諸業、十は問答料簡なり。これを座右に置きて、廃忘に備へん。
と書き出され、厭離穢土を地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天、と総結の七種類に分けて示し説かれている。その地獄・餓鬼・畜生の相は、まことにおぞましく、おどろおどろと恐ろしい世界である。人の世界もまたしかりである。
また、「天上より退せんと欲する時には、心に大苦悩を生ず。地獄のもろもろの苦毒は、十六にして一にも及ばず。」との『正法念経』を引かれ、天上もまた永久の楽しみを得る事のかなわぬ苦の世界であると言われている。
善導大師は長大な偈頌「般舟讃」を著わされ、その中でこのように説かれている。
般舟三昧楽 願往生
三界・六道は苦にして停まりがたし 無量楽
曠劫よりこのかたつねに没々たり 願往生
到るところただ生死の声のみを聞く 無量楽
釈迦如来の真の報土は 願往生
清浄荘厳の無勝これなり 無量楽
(釈迦仏の浄土「無勝荘厳国土」を言う)
<中略>
あまねく衆生に勧む三業を護り 願往生
行住坐臥に弥陀を念じ 無量楽
一切時中に地獄を憶して 願往生
増上の往生心を発起せよ 無量楽
誓願して三塗の業を作らざれ 願往生
人天の楽報もまた心にかくることなかれ 無量楽
たちまちに地獄長時の苦を憶して 願往生
捨てて須臾も安楽を忘れざれ 無量楽
安楽仏国は無為の地なり 願往生
畢竟じて身を安んずるに実にこれ精なり 無量楽
<中略>
また釈迦・諸仏同じく勧めて、もつぱら弥陀を念ぜしめ極楽を想観せしめて、この一身を尽して命断えてすなはち安楽国に生ぜしめたまふ。あに長時の大益にあらずや。行者等ゆめゆめつとめてこれを行ずべし。つねに慚愧を懐き、仰ぎて仏恩を謝せよ、知るべし。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて金色に輝く身となるということがないようならわたしは決してさとりを開きません。
第三願は当時、四姓制度が強化され、肌の色に違いはそのままカーストを形成することになり、これを打破されようとする釈尊の教え(仏教)と既成宗教との対立を示すもののようです。
梵本では「ことごとく一色、即ち金色でなかったら」とあるそうです。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
人々の美醜は、今の世にも、何時の世にも人々を苦しめる煩悩の最たるものの一つでもある。
四十八願は、人であることによる執着の心、苦しみの姿、根源を絶ちきる、その願いの集大成なのかもしれない。執着を離れることとは、涅槃の境地にいたることである。
お釈迦さまは、ヒマラヤの神霊が「世間(人間)はどうして生起するのか」と問いかけたのに対し、
「六の感覚器官、つまり眼、耳、鼻、舌、身、意がそれぞれに対応する対象、すなはち、色、声、香、味、触、法に執着して、世間つまり人間が生じる」
と答えている。
執着したところに生存する人間、生老病死苦そこからの解放(解脱)それが悟りであり、涅槃(ニルヴァーナ)である。
そうした欲望に悩まされることのない世界の建立、それが、法蔵菩薩のご本願の世界である。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が宿命通を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないようなら、わたしは決してさとりをひらきません。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天眼通を得ず、数限りない仏がたの国々を見とおすことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天耳通を得ず、数限りない仏がたの説法を聞きとり、すべて記憶することができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が他心通を得ず、数限りない仏がたの国々の人の心を知り尽すことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が神足通を得ず、またたく間に数限りない仏がたの国々を飛びめぐることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、いろいろと思いはからい、その身に執着することがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
第五願から第十願までは人々のもつ顕在的な悩みも,未来に起こりうる苦悩ももれることなく救い上げ、聞き、癒し、寄り添い、また悩みをもつものの空間的な、時間的なバリアをも、すべてをたちどころに超えて安穏の世界にいざない救いとってくださる法蔵菩薩の志願のお心がそこにある。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
この第十一願、第十二願と第十三願は、三願文と呼ばれ、殊に大切な願文であ
る。
蓮如上人は正信偈大意に次のようにお示しになっている。
「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。
真実の行は、称名の行、すなはち第十七願であたえられた称名念仏であり、そして第十八願の至心・信楽・欲生の本願の三心は仏のさとりをひらく正しい因なのである。その信心をいただくことによって必ず浄土に生まれ仏となることを約定くださっているのはこの第十一願があって、そしてすでに成就されているからにほかならない。
衆生に永遠のいのち、無量に尽きることのないいのち(アミターユス)を願われ、果てしない空間に満ち満ちた智慧と慈悲の光明(アミターバ)を与えずば、と願われている第十二願・第十三願なのである。
「設我得仏 国中声聞 有能計量 下至三千大千世界 声聞縁覚 於百千劫悉共計校 知其数者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算して、その数を知ることができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 国中人天 寿命無能限量 除其本願 修短自在 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
第十三願では、「寿命に限りがあったら」と誓われています。この第十五願は、自在の寿命を願われています。どのような場合に寿命を自由にしたいと願うのかわかりませんが、如来の慈悲は、その願いがよこしまなものでなければ、それを包み込まれるということでありましょう。
安楽の声聞・菩薩衆、人天、智慧ことごとく洞達せり。
身相の荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆゑに名を列ぬ。
顔容端正にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人天にあらず。
虚無の身無極の体なり。このゆゑに平等力を頂礼したてまつる。
『讃阿弥陀仏偈』 22
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、悪を表す言葉があるとでも耳にするようなら、わたしは決してさとりを開きません。
読み下し文は「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ」とあります。乃至は数の最小を意味するところもあります。
「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
読み下し文は「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。」となっています。咨嗟とは「感嘆し、深い心でほめ称える」ことである。 阿弥陀経に
「恒河沙数諸仏 各於其国 出廣長舌相 偏覆三千大千世界 説誠實言 当信是称讃 不可思議功徳 一切諸仏 諸護念経」
かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において、広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、〈なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし〉と。
ご開山聖人は、この誓いを「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。<中略>しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。」(『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈)とお示しになっています。
十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 十七願成就
阿難、この義利をもつてのゆゑに、無量無数不可思議無有等等無辺世界の諸仏如来、みなともに無量寿仏の所有の功徳を称讃したまふ。
『如来会』下
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
(こういうわけで、ただ名号をとなえるところに,衆生のすべての無明を破り、衆生のすべての願いを満たしてくださるのである。称名はすなはちもっともすぐれた正しい行業である。正しい行業はすなはち念仏である。念仏はすなはち南無阿弥陀仏の名号である。南無阿弥陀仏の名号はすなはち信心である。よく知るがよい)
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 称名破満
一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。
『観経疏』 散善義
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
読み下し文
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 十八願成就
もしわれ無上覚を証得せんとき、余仏の刹のうちのもろもろの有情類、わが名を聞き、おのれが所有の善根、心心に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。もし生ぜずは菩提を取らじと。ただ無間の悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く。
『無量寿如来会』 上
他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く。
『無量寿如来会』 下 菩提流志訳
あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、
すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。
ただ五逆と謗正法とを除く。ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず。
『讃阿弥陀仏偈』
すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈
「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
『尊号真像銘文』 本
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。<中略>弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
『歎異抄』2
「設我得仏 十方衆生 発菩提心 修善功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不與 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
ご開山聖人は、衆生が浄土に生まれる因として、三種の因があると説かれました。
他力念仏往生(第十八願のこころ)大経
自力修行往生(第十九願のこころ)観経
自力念仏往生(第二十願のこころ)小経
の三種であります。
「つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり」(つつしんで、方便の仏と浄土をあらわせば、仏は『観無量寿経』に説かれている真身観の仏であり、浄土は『観無量寿経』に説かれている浄土である)と、『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(本)・総釈に示されている。
真身観の仏とは、観経第九の観に示される一心に仏を念ずる人々にあらわされる無量寿仏である。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失
疑いの心をもってさまざまな功徳を積み、このうえなくすぐれた仏の智慧を願い求めるなら、自ら積む功徳にとらわれて他力の信をおこすことができない。また、仏の名号を聞いて自力の信をおこすのであるから、浄土に生まれても蓮の花の中に閉じ込められて外に出ることができない。その人々は花の中にいることを、花園の宮殿の中に居るかのように思っている。
『如来会』下
定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は報土に生まれることの因ではない。三輩(上輩・中輩・下輩)のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなはち顕[けん]の義である。
その彰[しょう]とは、阿弥陀仏の弘願を彰[あらわ]すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多[だいばだった]や阿閻世[あじゃせ]のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希[いだいけ]がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰[おんしょう]の義である。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本)15 三経隠顕
「定善は他力の信心を示す縁である。」 (序分義)
「散善は他力の念仏を顕す縁である。」 (序分義)
回向発願心というのは、功徳には自分自身が過去から現在まで身・口・意の三業に修めた世俗および仏道の善根の功徳と、他のすべての凡夫や聖者たちが身・口・意の三業に修めた世俗および仏道の善根を喜んで得られる功徳とがあるが、深く信じる真実の心をもって、これらの功徳をすべて積み、それによって、浄土に生まれよう願うことである。以上のようなわけで回向発願心というのである。
『観経疏』 散善義
「設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心回向 欲生我国 不可遂者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
読み下し文
(この願は)念仏を称える功徳により浄土に往生する功徳蔵[くどくぞう]と呼ばれる教えを説き述べて、すべての五濁の世のものを導かれ、阿弥陀仏は、そのもととなる果遂の誓いをおこして、あらゆる迷いの人々を他力念仏の法に引き入れてくださるのである
顕浄土真実教行証文類 化身土文類六(本)38 三経隠顕
として、この願を「植諸徳本の願・係念定生の願・不果遂者の願・至心回向の願とも名づけることができる」と説かれている。
さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。
『仏説無量寿経』43 巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、他力念仏に帰することなく、自力の心にとらわれているから、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海に入ることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなはち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本)67 真門釈 結示
このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師などの祖師方の導きにより、久しく、さまざまな行や善を修める方便の要門を出て、永く、双樹林下往生から離れ去り、自力念仏を修める方便の真門に入って、ひとすじに難思往生を願う心をおこした。しかしいまや、その方便の真門からも出て、選択本願の大海に入ることができた。速やかに難思往生を願う自力の心を離れ、難思議往生を遂げようとするのである。必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をおたてになったのは、まことに意味深いことである。
ここに久しく、本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えのかなめとなる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本)68 三願転入
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて、仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
足下安平足相: | 偏平足のこと |
正立手摩膝相: | 直立したとき手がひざに届く |
四十歯相: | 歯が四十本ある |
大舌相: | 舌は顔を覆うことができる |
(阿弥陀経に「出廣長舌相 遍覆三千大千世界」とある。仏の舌をもって三千大世界を覆うことを示している。仏の大舌相である) | |
肉髻相: | 頭頂に隆起がある |
白毫相: | 眉間に白毛がある |
また、微細な特徴を八十種類に分け、三十二相とこの二つを合して「相好」という。(俗に『相好』を崩すの相好はここに由来する。)
「設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 來生我国 究竟必至 一生補処 除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道 超出恒倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。 ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏たがの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。 すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
この第二十二願は還相回向の願とも必至補処の願ともよばれています。「一生補処」とは次の生で必ず仏となることが決まっているものを指します。弥勒菩薩は、釈尊の後に成仏することが定まっている仏で補処の菩薩とよばれる。
この願の肝要は、*印を付した以降で、「人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包み多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏の国に行って菩薩行を修行し、数え切れない人々を導いてさとりを得させる。すなはち還相の仏として、諸地の徳をすべてそなえ限りない慈悲行を実践することができる。「そのようなことができなければ決してさとりを開かない」と誓われているのが第二十二願なのです。
天親菩薩の浄土論 (九)に
いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり。
これを曇鸞大師が注釈されています。(『往生論註』下 五六)
「回向」に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。「往相」とは、おのが功徳をもつて一切衆生に回施して、ともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり。「還相」とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那を得、方便力成就すれば、生死の稠林に回入して一切衆生を教化して、ともに仏道に向かふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがためなり。このゆゑに「回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」といへり。
*奢摩那 寂静のこころ・止観
*毘婆舎那 上に同じ
つまり回向を第一とするのは、ともに衆生の苦悩を除き生死輪廻の世界を離脱させるためなのです。 この還相の回向は第二十二願の成就により開かれていると言えましょう。
「設我得仏 国中菩薩 承仏神力 供養諸仏 一食之頃 不能偏至 無数無量 那由他 諸仏国者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けてさまざまな仏がたを供養するにあたり、一度食事をするほどの短い時間のうちに、それらの数限りない国々に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 国中菩薩 在諸仏前 現其徳本 諸所欲求 供養之具 若不如意者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がさまざまな仏がたの前で功徳を積むにあたり、供養のための望みの品を思いのままに得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がこの上ない智慧について自由に説法することができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が金剛力士のような強靭な体を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 国中人天 一切万物 厳浄光麗 形色殊特 窮微極妙 無能称量 其諸衆生 乃至逮得眼 有能明了 弁其名数者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてすぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう。かりに多くの人々が天眼通を得たとして、そのありさまを明らかに知り尽すことができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 国中菩薩 乃至少功徳者 不能知見 其道場樹 無量光色 高四百万里者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩で、たとえ功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝き、四百万里の高さであることを知ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 国中菩薩 若受読経法 諷誦持説 而不得弁才智慧者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が教えを受け、口にとなえて心にたもち、人々に説き聞かせて、心のままに弁舌をふるう智慧を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し諷誦持説して、弁才智慧を得ずは、正覚を取らじ。
読み下し文
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が心のままに弁舌をふるう智慧に限りがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 国土清浄 皆悉照見 十方一切 無量無数 不可思議 諸仏世界 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、国土は清らかであり、ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように、すべての数限りない仏がたの世界を照らし出して見ることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 自地己上 至于虚空 宮殿楼観 池流華樹 国中所有 一切万物 皆以無量雑宝 百千種香 而共合成 厳飾奇妙 超諸天人 其香普薫 十方世界 菩薩聞者 皆修仏 若不如是者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、大地から天空に至るまで宮殿・楼閣・水の流れ・樹々や美しい花など、わたしの国のすべてのものが、みな数限りない、いろいろな宝とさまざまな香りでできていて、その美しく飾られたようすは天人や人々の世界に超えすぐれ、その香りはすべての世界に広がり、これをかいだ菩薩たちは、みな仏道に励むでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 十方無量 不可思議 諸仏世界 衆生之類 蒙我光明 触其身者 身心柔軟 超過人天 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明に照らされて、それを身に受けたなら身も心も和らいで、そのようすは天人や人々に超えすぐれるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 十方無量 不可思議 諸仏世界 衆生之類 聞我名字 不得菩薩 無生法忍 諸深総持者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの名を聞いて菩薩の無生法忍と、教えを記憶して決して忘れない力を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ。
読み下し文
四十八願には『わが名号』という表現と「わが名字」という表現がある。第三十三願からは「わが名字」となっている。それまでは「名号」である。
サンスクリット語では(naman)とか(namadeya)と表記され、漢訳『名字』となっているようである。とすれば古い訳語は、呼び名としての「名字」なのかもしれない。阿弥陀仏の願が二十四願と四十八願とあり、そのこととも関係があるのかもしれない。一度ある先生におたずねしたが、明確にお教えいただけなかった。
なお、中国の古い記述(韓非子・紀元前三世紀)に「名号を立つるは、尊となすゆえんなり」とある。
「設我得仏 十方無量 不可思議 諸仏世界 其有女人 聞我名字 歓喜信楽 発菩提心 厭悪女身 寿終之後 復為女像者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の女性が、わたしの名を聞いて喜び信じ、さとりを求める心を起し、女性であることをきらったとして、命を終えて後にふたたび女性の身となるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。
読み下し文
インドでは仏教の起こる前から宗教的規範としてヴェーダという聖典群がある。それらの聖典の学習をはじめさまざまな法・生活規範として紀元前二世紀ころから「マヌ法典」ができたが、インドでは常にカーストに現される差別的思想が強い。この女身厭悪もその見方の一つなのであろう。
女性が仏になれないという「三従五障説」がある。そして仏になるには男子に変成して仏になるという教えができあがった。
三従説とは、 「女性は幼時には父に、嫁しては夫に、老いては息子に従え」というもので、独立することなく従属的な地位であり、男性の従属物であり、卑しいものとする女性観によるものである。
また五障説とは、「女性は梵天・帝釈天・魔王・天輪聖王・仏にはなれない」とするものである。この五王はいずれも各世界の支配者、指導者であり、男子の従属者たる女性がその位になることはありえないとするものである。
大乗仏教では女性の成仏について、一つは「なんらのさわりはなく女性は女性のまま成仏する」とする考え方と、もう一つは「女性は男子に変成した上で成仏する」との考え方がある。前者は般若空思想に立脚した惟摩経や如来蔵思想に立った勝鬘経などに説かれており、後者は『仏説無量寿経』や法華経等に説かれているものである。因みに小乗仏教は女人の成仏を認めていない。
『惟摩経』の中に舎利弗と舎利弗にたいして深遠な大乗の真理を説く天女との問答がある。
浄土真宗の系譜においては、『仏説無量寿経』に拠るわけだから、変成男子説に立脚することになる。
したがって浄土を願う女人には阿弥陀仏の本願力をもって男子たらしめ、浄土往生を遂げさせると説く。
善導大師「弥陀の本願力によるが故に、女人も仏の名号を称すれば正しく命終のとき、すなわち女身を転じて、男子となることを得」
法然上人は第三十五願をもって「これすなはち女人の苦を抜きて女人に楽を与える慈悲の御意の誓願、利生方便なり」と教化され、浄土門こそ女人往生の唯一の法門であるとされた。
親鸞聖人もまた、基本的には「変成男子」を「女人成仏」と受け止められた。
弥陀の大悲深ければ 仏智の不思議をあらわして
変成男子の願を立て 女人成仏誓いたり
「設我得仏 十方無量 不可思議 諸仏世界 聞我名字 寿終之後 常修梵行 至成仏道 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、命を終えて後に常に清らかな修行をして仏道を成しとげるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 十方無量 不可思議 諸仏世界 諸天人民 聞我名字 五体投地 稽首作礼 歓喜信楽 修菩薩行 諸天世民 莫不致敬 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の天人や人々が、わたしの名を聞いて、地に伏してうやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の修行に励むなら、天の神々や世の人々は残らずみな敬うでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 国中人天 欲得衣服 随念即至 如仏所讃 応法妙服 自然在身 若有裁縫 擣染浣濯者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が衣服を欲しいと思えば、思いのままにすぐ現れ、仏のお心にかなった尊い衣服をおのずから身につけているでしょう。裁縫や染め直しや洗濯などをしなければならないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ち切った修行僧と同じようでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 国中菩薩 随意欲見 十方無量 厳浄仏土 応時如願 於宝樹中 皆悉照見 猶如明鏡 覩其面像 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が思いのままにすべの数限りない清らかな仏の国々を見たいと思うなら、いつでも願い通り、くもりのない鏡に顔を映すように、宝の樹々の中にそれらをすべて照らし出してはっきりと見ることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 他方国土 諸菩薩衆 聞我名字 至于得仏 諸根闕陋 不具足者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 他方国土 諸菩薩衆 聞我名字 皆得逮得 清浄解脱三昧 一発意頃 供養無量 不可思議 諸仏世尊 而不失定意 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、残らずみな清浄解脱三昧を得るでしょう。 そしてこの三昧に入って、またたく間に数限りない仏がたを供養し、しかも三昧のこころを乱さないでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「三昧(さんまい)」 サンスクリット語(samadhi)
田舎で「さんまい」というと、墓とか火葬場を意味することが多い。これは平安時代にさかのぼり、墓所に三昧堂をたて念仏聖や三昧聖が死者を回向したことから転じて三昧に墓所、火葬場などの意味を持ったものである。
元来は、定、等持を意味し、心を静めて一つの対象に集中することで禅、瑜迦(ヨガ)を指す言葉である。悟りにいたるための「空・無相・無願」の三昧は心の静止した不動の状態が求められるのである。天台の四種三昧や、浄土教の常行念仏三昧などがあり、親鸞聖人は比叡山で常行三昧堂の堂僧をされていたという伝えがある。
「設我得仏 他方国土 諸菩薩衆 聞我名字 寿終之後 生尊貴家 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちが私の名を聞けば、命を終えて後、人々に尊ばれる家に生れることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 他方国土 諸菩薩衆 聞我名字 歓喜踊躍 修菩薩行 具足徳本 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、喜びいさんで菩薩の修行に励み、さまざまな功徳を欠けることなく身にそなえるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 他方国土 諸菩薩衆 皆悉逮得 普等三昧 至于成仏 常見無量 不可思議 一切諸仏 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、残らずみな普等三昧を得るでしょう。そしてこの三昧に入って、仏になるまでの間、常に数限りないすべての仏がたを見たてまつることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 他方国土 随其志願 所欲聞法 自然得聞 若不爾者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩は、その願いのままに聞きたいと思う教えをおのずから聞くことができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「設我得仏 他方国土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 不退転者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに不退転の位にいたることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「不退転」または「不退」とは、修行において退歩しないことで、もとは阿惟越致(アユイオッチ)でサンスクリット語(avinivartaiya)の音写語の漢訳ある。浄土教においては極楽浄土を《位不退・行不退・念不退・処不退》とする。
不退転とは、本願力により信心をめぐまれ、念仏を頂く人生に生き、命終して浄土に往生し仏となる固い決意のあらわれとでも言えることであろうか。
「設我得仏 他方国土 諸菩薩衆 聞我名字 不即得至 第一・第二・第三法忍 於諸仏法 不能即得 不退転者 不取正覚」
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「三法忍」=音響忍・柔順忍・無生法忍のこと。
音響忍 とは諸仏・菩薩の説法を聞き、驚き恐れることなく受け入れること。
柔順忍 とはすなおに真理に随順し悟ること。
無生法忍 とは真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままに悟ること。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓
五劫思惟之攝受 重誓名声聞十方
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 正信偈 (正信念仏偈)
正信偈には阿弥陀如来の誓願のおいわれが要約、右のように示されている。五劫という気の遠くなるような長いながい時間をかけて、思索をこらして、四十八の願は完成されたのである。そうしてこの願を世自在王仏にお話をされ、更に重ねて誓いを述べられた。それが『重誓偈』である。
Though I attain Buddhahood . I shall never be complete until peaple with sincere faith endeavor to be reborn in my land by repeating my name in sincere faith ten times and actually do succeed in this revirth.
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚
BUDDHA'S COMPASSION AND VOWS
The Spirit of Buddha is that of great loving kindness and compassion.
The great loving kindness is the spirit to save all peaple by any and allmeans.
The great compassion is the spirit that prompts it to be ill with the illness of peaple, to suffer with their suffering.
ほとけのこころとは大慈悲心である。
あらゆる手だてによって、すべての人々を救う大慈の心、人と共に病み、人とともに悩む大悲のこころである。
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