ご本願を味わう 第四十六願

随意聞法の願

【浄土真宗の教え】

漢文
設我得仏国中菩薩随其志願所欲聞法自然得聞若不爾者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、その志願に随ひて、聞かんと欲はんところの法、自然に聞くことを得ん。もししからずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩は、その願いのままに聞きたいと思う教えをおのずから聞くことができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生れたであろう求道者たちが、説法を聞きたいと願ってそういう心をおこすと同時に、期待するとおりの説法を聞くことができないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 諸師がたの味わい

ここで気がついたのですが、「他方国土」の時は、いつでも「諸の菩薩衆」と複数ですが、「国の中」の時は、必ず「菩薩」と単数になっています。これにも何か願う気持ちの中に、違いがあるのでしょう。もちろん他方の菩薩と国中の菩薩は、一念仏者の二面です。「国の中の菩薩」に対しての願いは、いつでも理想とか道が解るという、智的なもので、弥陀対衆生という関係ですが、「他方国土の諸の菩薩衆」に対する願いは、生活するとか修行するという、行為的なもので、私対あなたという対人関係のものか、私対社会という社会関係のもののようです。智的な解るということは、内面的なことで、一人ひとりですから、単数であらわし、菩薩行とか、生活するという行為的なものは、おのおのが自分の個性によるものですから、複数であらわしているのだろうと思います。
<中略>
学ぶことは皆同じことであっても、実践はその人の個性と、実践する場が問題になって来ますから、一人ひとり別です。「国の中の菩薩」は、人生を生きてゆく定石を学ぶものであり、「他方国土の諸の菩薩衆」は、その人その人の個性にしたがって、青色青光、白色白光の、異なった色と光に輝く世界を造って行かねばならぬ。
<中略>
『華厳経』には「世界の体は願いである」といっています。その人がどんな世界に住んでいるかは、その人がどんな願いを有っているかで決まります。その人に何が見えるか、何が聞こえるかは、その人がどんな願いを有っているかが決めます。花が好きな人には、花が向こうから目の中へ飛びこんで来、鳥の好きな人には、どんな小さな鳥の声でも聞こえて来ます。
 ここでは「その志願に随って」とあります。それはもの好きに、「ちょっと聞いて見ようか」というような、ひやかし客には聞こえぬということでしょう。「志願」とは私が願うという願いのことではなく、志は志向でしょうから、自分の生きる方向を決定して、自分を動かしている願いということでしょうか。
<中略>
今日までのほとんどの宗教家の問題は、「死の解決」であり、「苦悩からの解脱」ですが、これらはすべて人生の半面の問題で、しかも大切なもう一つの半面の、与えられた人生そのものをどう生きるかという問題を忘れているのです。求道の動機が、特殊なものであれば、そこに開けたさとりの世界が、特殊なものに片寄るのは、当然のことでしょう。私は私の求道の問題が、誰もが解決しなければならぬ天下の公道であることを自覚して、一層自信を深めました。
<中略>
私は「蓮如上人の仰しゃるのは、いつもお寺参りをしておれということではなく、山を見ても川を見ても、畑を耕やしても、何をしても、そこからお育ての法が聞こえて来る、受信機を身につけることが大切だと、仰しゃっておられるのでしょう」と、答えました。さっきも申しましたように、『阿弥陀経』には、出遇う人ごとから、日々出遇う出来事から、法を聞いて、日々の生活の中から、人生を学び、自己を知って、人生創造の道を見出して行くことと説いています。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 「信心の行者は、望みのままに聞きたい法を聞くことができる」とは、信心の行者には、聞いてはいけない法は、一つとしてないということです。他の宗教の話も聞きたいと思えば聞かせてもらえばいいでしょう。他の宗教の教えを聞くにつけても、阿弥陀如来の真実が、いよいよありがたく味わえることでしょう。
 また宗教のお話だけでなく、哲学のお話もいい、芸術のお話もいい、科学のお話もいい、また一つ仕事に打ち込んだ人の体験談もいいでしょう。聞きたいと思う話を聞かせてもらえばいいのです。それらのお話は、すべて阿弥陀如来のおすくいに間違いないことを、いよいよあきらかにしてくださるはずです。
<中略>
どの本の中にも、その本を書いてくださった人の人生があり、教えられえるところが多くあります。私はそのことを何よりも有難いと思っているのです。小説を読みながら、念仏申さずにおれないこともあります。いろんな本を読ませていただきながら、阿弥陀如来のみ教えの確かさをかみしめさせていただくのです。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 「その志願にしたがひて」志願は志し願うですから、その人の願いに随うということです。「きかんとおもはんところの方」とは、こういうことが知りたい、ああいうことが解りたいと思う時に、「みのり」が自然に、自分からこうしてああしてと細工をしたり、努力をしたりしなくても、彼方からおのずから知らしめられるということです。自然とは自力の働かぬことであります。働かしてわるいのじゃありませんよ。聞きたければ人に聞いてもよい、書物を調べてもよい。それはやれるだけやるのだが、本当の法というものは、いかに本を一生懸命読みましても、わかる所だけはわかっても、わからぬところはわからぬものであります。その文字の意味はわかりましてもその真精神がわかりかねるものであります。わかったと思っておってもわかっておらないものです。知りたいと思っておるのにどれほど探しても知れぬ。その文字をつかまえておってはわからんが、これがひょっと何か知らぬ自分以外の力によって、耳の中、腹の中へ天来的に降りて下さるようなことがなければわからぬものであります。他力廻向とおっしゃるのがそういうものだろうと思うのです。
<中略>
宿善のある人は聞いておるとおのずから信を得ると申されます。それが自然です。己れがいかに気張っても疑い晴れぬのも当たり前だし、人が如何に聞かせてもわからないのに、聞いておるとおのずから信を取るようになるということが、法を聞こえてくると申すことです。このように信心の人にあっては、是非とも深く、広く聞きたいと思い、ほしいと思っている聞き難い法がわかるようにならしめたいという願です。国中菩薩となった人には、聞きたい、知りたいと思っておった法が、だんだんわかってくる。またそれが豊富になる、信心増長というのです。信心の根がだんだん深くなって、ふえていくようになり、いよいよ幸せが向上することです。法を得た幸せがだんだんふえてくる。そういうようにさせてやらねばおかぬとおっしゃるのです。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

 この「随意聞法の願」というのは、仏法を聴聞したいと思えばいくらでも聞くがよいという願いでありましょう。とくに「国中の菩薩」としてあるところは留意すべきであります。国中の菩薩であるからして、国の法だけしか聞いてはならないというのではない。その志願のままに他方仏国の方を聞くのもよいということでしょう。どんな法でも、聞きたいと思うならば自由に聞くがよい。真宗を信ずる者は他宗のお説教を聞くべからず、そういう頑冥なことはいえない。他宗の説教を聞くとせっかく決定した信心がくつがえるというようなあぶなげなことはいわないで、ほんとうに聞きたいと思ったならば他宗の教えも聞くべし、余教の教えも聞くべし、道徳経済の話も聞くべし、何でも聞くべし、聞けば聞くほど自分の道があきらかになるわけであります。聞けば聞くほどまどわされるというのは、要するに本当の弥陀の道ではないのである。無執無着の仏教精神というものは、こういうところにも現われているのではないかと思うのであります。聞けば聞くほど自分の道というものがあきらかになるからして、随意聞法せよ。こういう非常にひろい道を出して、国中菩薩に対して策励を与えている。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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