世尊よ。もしもわたくしが覚りを得た後に、かの仏国土において、地面から天空に至るまで、神々と人間の境域を超えて香り高い薫香、如来と求道者(菩薩)とを供養するにふさわしい薫香が、あらゆる宝石からできていて種々の芳香ある百千の香炉に常に焚かれて薫っているようでなかったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。
世尊よ。もしもわたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に芳香ある種々の宝石の花の雨が常に降りそそぐことが無く、また妙なる音声を出す楽器の雲が常に(音楽を)奏でているということがないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
(後半の願文は漢文経典には無い)
私の目覚めた眼の世界では、この広い大地から天に至るまで、宮殿、回廊、池や水の流れ、草木や樹々、その他この世のすべてのものが、数限りない何百種類もの香りを放つ宝石でできているかのように輝くであろう。その素晴らしさは、この世では体験できないものであり、その素晴らしい香りは全世界に広がるであろう。道を求めるものがその教えに耳を傾けると、誰でも目覚めた世界に向かわずにはいられなくなるであろう。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
この願は前の第三十一願と同じように、阿弥陀如来が自分の国をこのように願うと同時に、衆生の一人ひとりの国も、こうなるようにということでしょう。誓っていることは、大地より虚空に至るまでの間にあるすべてのもの、たとえば宮殿であるとは高殿であるとか、池とか橋とか、国中のありとあらゆる、一切の一つひつのものが、皆数限りない色いろの宝と、百千種の香りでできていて、その美しく妙なることは、この世のものではない。そしてその香りが十方の世界に流れ薫って行くと、その香りをかいだものは、皆仏道を修行するようにということです。
本当の宝は、ルビーとかダイアモンドというものではありません。そういうものには必ず副作用がつきます。ある時は幸せの材料にもなりますが、ある時には苦しみの道具にもなるでしょう。また茶碗や茶釜でも、どんな名工が造ったものでも、それだけでは値打ちがない。使うことによって時代がつき、使う人の、人格が名器に染みついて、光を添えるというでしょう。『安心決定抄』には、「三千大千世界のどこをおさえて見ても、仏の功徳のそみつかぬ所は、一寸の土地もない」といっています。そういう世界が本当に美しい香り高い世界です。
<中略>
そして存在するすべてのものが芳ばしい香りを放って、「その香りが遍く十方の世界に薫ずる」。存在するすべてのものが、尊い歴史を宿し、懐かしい想い出をもつものは、必ず辺りによい雰囲気が漂います。その雰囲気に触れ、美しい評判を聞くものは、私もあのようなりっぱな国を造り、あのような満ち足りた生活がしたいと、自分じぶんの願いに奮い起つようにということでしょう。
ここに「菩薩聞くものは」とありますが、これはたといそんなよい香りに触れても、その気のない人には、「馬の耳に念仏」であったり、「猫に小判」で、何の感動もないでしょう。この世界は「その気にならねば、見ても見えず、聞いても聞えぬ」ものです。<中略>ここでいう「菩薩」とは、浄土の菩薩で、自分じぶんの国を浄土にしたい、という願いに動かされている人のことです。
第三十一の国土清浄の願は、自分の国が限りなく、世界に開かれた国であるようにという、国の普遍性を願うことで、「二百一十億の諸仏の世界を見る」ことに対応しており、この第三十二願は、自分の国の客観性を願っておるのでしょう。周囲の人が自分の国の在り方に随喜してくれる所に、いよいよその真実性が証明されるので、この願は第十七願の諸仏称讃の願に対応しているのでしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
人と環境は別のものではありません。人が環境をつくり、環境が人を育てるのです。「ゆかしいかおり」の人が、「ゆかしいかおり」の環境をつくり、「ゆかしいかおり」の環境が、「ゆかしいかおり」の人を育てるのです。
阿弥陀如来は、この第三十二の願いにおいて、私たちを、「ゆかしいかおり」のする環境に住まわせ、「ゆかしいかおり」のする人間に育ててやりたいと誓ってくださったのです。
<中略>
念仏申すことによって、わが身が知らされ、如来の大悲にふれる時、煩悩に執着したくとも執着できなくなります。なぜならば、念仏申すことによって、私たちは欲望に引きずりまわされている悲しい自分の相がわかり、怒りに身をこがしている愚かな自分の相が見え、嫉妬にのたうちまわっている粗末な自分の心があきらかになるとともに、そんな私を悲しみ、慈しんでくださる阿弥陀如来の心にであうからです。
念仏申すことによって、「いやなにおい」を発する「煩悩」に執着する心がたち切られ煩悩を縁として、自らの相をかみしめ、如来の大悲をよろこんで生きる生活に変えられます。
<中略>
親鸞聖人は、「念仏のこころをもてる染香人(こうはしきかみにそめたるがごとしといふ)にたとえまふす也」(尊号真像銘文)と、念仏よろこぶ人を染香人、すなわち、素晴らしいかおりに染まった人とたたえられ、
と詠われています。染香人[せんこうにん]のその身には
香気[こうき]あるがごとくなり
これをすなわちなづけてぞ
香光荘厳[こうこうしょうごん]とまをすなり (浄土和讃)
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
ちょっと願成就の文がわかりにくいようでありますが、上巻には次のように説かれています。
百味の飲食、自然に盈満す。この食ありといへども、実に食するものなし。ただ、いろをみ香をかぐに、こころに食をなすとおもへり。自然に飽足して、身心柔軟なり。味著するところなし。ことをはれば化してさる。ときにいたればまた現ず。(三六)
百味の飲食、御馳走が自然に盈満するのですから、八百屋で買うてきたり、料理屋で取ってきたり、そういうことなくして自然に盈[み]ち満ちて目の前にちゃんとそれが具わっていくのです。この食有りと雖[いえど]も実に食する者無し、食べ物は目の前にあるけれども、実際に食べる方は一人もない。欲しいと思ったら前へ出てくるだけである。ただし色を見、香りを聞く、おいしそうだなと思い、いい香りがするなと感じて、こころに食を為すと思うだけである。
<中略>
この宝香成就の願が信心の人のうちに成就した有様はこういうようなすがたで顕わされているのです。それは極楽はけっこうなところじゃと思って喜ぶのもけっこうですけれども、やはり信というもののうちに、そういう幸せをこの世から得させてやろうというのがこの願の本当の目的であろうと思うのであります。
<中略>
たくさん金を持っておるとか、たくさん学問もしたというけれども一向香りもせず光もなし、青い顔をしたり萎びこんでおるような人も世の中にたくさんいます。その人の住んでおる家、その人の持っておる物、いろいろの宝、財産があって、立派な香水をつけるようなことがあっても、それは一向本当の香りでもなければ本当の光でもない。信心の人の喜びの境地は、一切の物柄が、諸々の人間界の生活を飛び越えたような人格の香りの高い光のある者にならしめようというのであります。
<中略>
蓮如上人の生活なんか全くその通りだと思います。その香りが自分のみならず他の者にまでおのずから影響していって、人が助かるようになっていくのです。自分は愚かな者であっても、知らず知らずそういうお徳を得さしめられるから文字も知らぬ者が喜んでおるのを見たり聞いたりしても、人が信を得るとおっしゃるのも、その香りがそとへ薫じていくからであります。だから自分個人の幸せも、利他的な幸せも皆この願力の力であるということを喜ぶべきであると思うのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
一つの教団なら教団、宗門なら宗門の中が充実してきて、ただいまの大谷派、本願寺派という真宗教団から、ほんとうに香りが出てくるときには、真言宗・天台宗・基督教・回教、そういう諸仏の国までみなその香りが薫じてくる。たといその浄土に行かず、教団に入らないでも、その教団の香りを聞いておのおのの仏道修行をしようということになるであろう。こういうことですから、これは内なるものが外へ及ぶところのいわゆる普薫の徳であります。前のは外のものを内に摂めるのである。後のは内なるものが外へ向かう。仏の国すなわち浄土の荘厳というものは、そういう意味をもったものにしたいのである。仏国においてはあらゆる世界はみな仏国へ映る、それが国土清浄である。その仏国の香りはあらゆる世界に及ぶ。それがすなわち宝香合成であります。それを今申しましたように、私は狭くすれば一つの道場、広くすれば宗門乃至教団というものの理念がここに誓われているように思うのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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