ご本願を味わう 第二十二願

還相回向の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏他方仏土諸菩薩衆来生我国究竟必至一生補処除其本願自在所化為衆生故被弘誓鎧積累徳本度脱一切遊諸仏国修菩薩行供養十方諸仏如来開化恒沙無量衆生使立無上正真之道超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳若不爾者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、その菩薩の願によってはその限りではありません。 すなわち、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させようとするものは別であって、菩薩の通常の各段階の行を超え出て、その場で限りない慈悲行を実践することもできるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
<以下別訳>
わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。 ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。 すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
「常倫」:つねなみのともがら。普通一般の人人。/ 「諸地の行」:十地の菩薩が行う自利利他の修行。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう生ける者どもが皆、<この上もない正しい覚り>に向かうものであり、それを得るために<もう一生だけこの世に縛られているだけの身>とならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。ただし、(それは)大いなる(誓願の)鎧を身にまとい、すべての世間の利益のために鎧を身にまとい、一切の世間のために努力し、一切の世間を永遠の平安(ニルヴァーナ)に入らせるために努力し、一切の世界で求道者(菩薩)の行ないを実行しようと願い、一切の目ざめた人々に恭しく仕えようと願い、ガンジス河の砂(の数)に等しい(無数に多くの)生ける者どもを<この上ない正しい覚り>に向って安定させ、さらにその上の行の実践に向かい、サマンタ・バドラ(普賢)の行を実現することに定まっている求道者たち・すぐれた人々のたもつかの特別な誓願を除いてのことである。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、どんな世界にあっても道を求める人でも、私の国に生まれるならば、必ず目覚めた人になることが約束され、明るい人生を送ることができる。だがどうしても心の底から突き上げられる願いによって、人びとを迷いの世界から救おうと、目覚めた心を身にまとい、一歩一歩努力を積み重ね、この世の見せかけの幸せには目もくれず、目覚めた人の心の世界を尋ね、道を求める生活に徹し、目覚めた人の教えによって人びとを導き、この上ない心の世界へ共に手を携えて行こうと思う者には、その道を開いてあげよう。その人びとは、世間の見せかけの幸不幸に振りまわされることなく、目覚めた世界への道を着実に歩み、一切の人びとを救う働きを身につけるに違いない。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 三十二相といわれるような、深みのある立体的な人相は、一筋縄では追えんでしょうね。表は素直であっても、内心は逞しい。柔軟でやさしゅうなければならんが、また毅然として何ものにも譲らぬというしっかりしたものがなければ、こんな人相にはなれんでしょう。そこでこういう二重の事が一つの願に願われるという、複雑な願ができたのでしょう。一つの願の中に、二つの事柄が願われているのは、第十五願とこの第二十二願だけです。<中略>  「補処」とは、仏処を補うといういうことで、仏の候補者ということですが、これは死んで仏になるというのではなく、この世に出て来たお釈迦さまの跡継ぎのことです。大体は弥勒菩薩のことを「補処の弥勒」というのです。弥勒菩薩は、現在五十一段の等正覚の位で、トソッ天で修行していますが、その一生が終って、今から五十六億七千万年後に、この世に生まれて仏となって、第二の釈迦になるといわれています。親鸞聖人は、念仏の衆生はその弥勒と同じく、一生補処の等正覚の位になることができるといっておられるのです。
「一生補処の願い」とは、聞いても聞いても性根に入らん、聞いた値打のさらにない、一生お育てに預かるより外に道のない私でございます。せめて命終った時になりとでも、お釈迦さまのような尊い身になりたいという願いのことです。それでは死んだらなれますか。そう受けとるから間違いになるので、なれるかなれんかでなく、なれてもなれんでも、一生お育てに預かろうという、現在の願いの深さをいうのです。願いが真実であればあるほど、宿業の底をくぐって、せめて一生終った時になりとでもという、敬虔な形をとって現われるのです。こういう敬虔な態度なら、柔軟な相が現われること請け合いでしょう。その態度のことを「往相」というのではないでしょうか。

 第二十二願の後半は、親鸞聖人は「還相廻向の願」と呼んでおられます。しかしこれも昔の人が言っているような、死んで浄土に生まれて、一晩泊りでこの世へ戻って来て、衆生済度する、という夢のようなことではありません。心の眼の開けた後の、念仏生活のことです。それも信心決定したから、これから衆生済度という、高飛車に出る剛慢な態度のことではありません。そのことは浄土に生れたものは、一生補処の徳が与えられるが、これこれの願いのあるものは「除く」という形で、還相廻向の徳が誓われていることにも現われています。これは一生補処という敬虔な願いに生きるものだけに、与えられる徳であることを現われています。<中略> しかも一生補処の願いはこの願だけでなく、これからあとの願全体が皆、一生補処の菩薩の徳を開いたものだと思います。
<中略>
ここで還相廻向は、「弘誓の鎧」を着て行われるとあります。弘誓は「本願力に乗ずる」ことでしょうが、鎧を着ねばならねのは、還相廻向の修行の容易ならん、命がけということを現わしているのではないかと思われます。その後の願文は、そのやり方の有様を明らかにしているのです。
「諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修する」とは、菩薩の行は唯だ諸仏の国に遊ぶことによってだけ行われることですが、「菩薩の行」とは、相手と自分が共に育つことです。<中略> 「諸仏」とは、どこかにそんな人がおるのえはない。出遭う相手を人格として尊敬することです。<中略> 「遊ぶ」とは、無心に行動することですが、「諸仏の国に遊ぶ」とは自分の我執や先入観のものさしで、相手を見るのでなく、無心に相手になり切ることであり、正しく相手を知ることです。
<中略>
「十方の諸仏を供養し、無量の衆生を開化する」とは、「供養」は、恭敬供養ということで、「恭敬」は、自分の至らぬことを懺悔して、相手を敬うことです。<中略> 供養は、それがそのまま、相手が自分で自重して、ますますその尊敬される心に応えようとする心が、自然に発こることです。「開化衆生」とは、本人が自分の欠点に気がついて、自発的に、自分で改めようとする心が発こることです。<中略> 「無上正真の道に立たしめる」とは、自分の至らぬことに気がついて、人間らしいまことの人間になりたいという願いを発こさせることです。
「常倫に超出して、諸地の行現前し、普賢の徳を習する」とは、常識の道は一段一段、十地の階段を昇って行くのですが、念仏の道は常識の世界を超えて、十地の行のすべてが一歩一歩に顕現して、自ら普賢菩薩の徳といわれる、八地以上の徳が身につくことです。
<中略>
「初地」というのは、きのう申しましたね。菩薩の修行の段階のこと。信、住、行、廻向、地と五つに分けて、その中の地はさとりの位ですが、それを十段に分けているので、初地というのです。十地は、初めの三地は、仏の眼が開けた時見える徳ですから、智地といい、中の四地は、徳を身につけてゆく段階ですから、行地といい、最後の三地は、徳が見について、自然に行われてゆく位ですから、徳地といっています。十地の行は、詳しいことは、今は言えませんが、かんたんに輪郭だけ話して見ましょう。
 初地を「歓喜地」といいます。それは喜びが多いからといわれていて、龍樹菩薩は百ほど数えています。親鸞聖人も、その中からあらあらしたものを挙げておられますが、第一は主体性の確立です。今までとかく自己を見失い勝ちであった自分が、初めてしっかりと、大地を踏みしめて立った自己が誕生したことです。そして戸惑いしながら、手探りに歩いて来た人生が解った。人生観の確立です。孔子が「三十にして立ち、四十にして惑わず」といっていますが、そういうことでしょうか。仏教ではそれを、不退転地を得たといっていますが、その気持ちを親鸞聖人は、大きく二つにまとめておられるようです。一つはどんな苦難にも堪えて行く力を得たことです。<中略> もう一つは「諸仏の家に生まれる」ことを挙げておられます。<中略> 『大無量寿経』では、自己の誕生と共に、さらに弥陀の浄土に生まれたことと、自己の世界が発見された喜びを説いています。
 第二地は「離垢地」ですが、これは煩悩を離れることです。出家仏教では、欲を捨てよ、手を離せと教えていましたが、これは認識不足のために教えを誤まったのです。ラッキョは皮をはげば、中はからっぽですが、竹の子は皮をはげば、中に竹の芯があります。皮をはげば竹は枯れてしまいます。無理に皮ははがんでも、中の芯が成長すれば、用事はなくなれば、皮はひとりでにはげます。無我になれ、欲を捨てよと言わんでも、本当の我よ生まれて来い。本当の我が生まれて来れば、我執や欲はひとりでに離れることができるでしょう。歓喜地において、本当の我が誕生して来れば、人生観も価値観も、自から変って来るでしょう。<中略>
 第三地は「発光地」です。これはこの世の存在するすべてのものの上に、そのものそのものの有っている、存在価値が見出せることです。<中略>
 第四地は「炎慧地」です。これから行地ですが、これは炎の如く智慧が燃えるというのです。<中略> この世の尊さが解れば、いよいよ現実の人生がいやになる。そこでこの三昧の世界の浄土と、現実の世界の穢土との葛藤が始まって、内なる不可称不可説不可思議の浄土の功徳が、現実に形をとって現われようと、まごころの智慧が炎となって燃えることです。この地は意識される粗ましな我執を破るといっています。
 第五は「難勝地」です。どんな苦難にも堪えて行くことのできる修行です。<中略> これはすべて人生大学の高い授業料だと、受けて行くことではないでしょうか。この地では意識にのぼらない細やかな我執を砕いて行くといっています。
 第六は「現前地」です。この現前は諸仏現前です。そしてこの地は粗い法執を破って、浄土の徳が現われるといっていますから、わしはいついつご信心もらったとか、わしはもうさとったとかいっていても、いやな相手に出遭うと、今までの信心もさとりも砕けてしまって、改めて聞き直さねばならなくなる。常に自己の運命を開拓し、新しい人生を創造してゆく、道の第一歩に立って、これからこれからと、出遭う人ごとから、教えを受けてゆこうとすることではないかと思います。
 第七地は「遠行地」です。今までの解釈は、これまで一大アソーギ劫、二大アソーギ劫と、永い修行に耐えて、ようやくここまで来たものであると、ほっと一息ついた境地であるというのです。しかしそれでは遠来地といわねばならぬでしょう。私はこういう受け取り方を龍樹菩薩が「七地沈空の難」といって、「菩薩の死と名づく。地獄に落ちたよりももっと悪い」といっているのではないかと思って、<中略> 「この五十二段を最初に説かれた人は、将来に向かって、目指す目的の仏までやるぞという、希望的に説かれていたものを、後から出てきた菩薩方は、そこまで信が深くなかったから、こんな解釈をしたのでしょうか」と申しましたら、「そうかも知れん」といわれましたが、これは仏教徒にとって重大な問題だと思います。<中略>
 第八地は「不動地」です。この第八地から第十地までは、徳地といわれて、徳が身について、そうしようと意識しなくても、ひとりでに生活の上に徳が現われる位といわれています。聖徳太子は、七地までは自分で、自分の意識によって行動するのであるが、これからは自分で、自分がしようとしてできないが、自分の意志を超えて、自然に行われる位であるといっておられます。<中略> この地の人は「身土自在」の身となるといっていますから、常に相手と一つになり、相手の気持ちが解り、相手の世界が理解できる。それによって相手も自分を信頼し、自分の世界も理解できる徳が具わることでしょう。<中略>
 第九は「善慧地」です。この地の人は「説法自在」といわれていますから、相手を教えるのにその時その時に善い智慧が生まれることでしょう。どうでしょうか。あなた方、朝から晩までの間で、生きた言葉が多いですか、死んだ言葉が多いですか。生きた言葉とは、池に石を投げるように、すうっすうっと相手に受け入れられます。<中略> 言葉が生きて相手に通じるか、死んで撥ね返されるかは、第一に言葉以前に、自分の姿が相手にどう映っているかによって決まるのです。<中略> 第二に、たとい相手に好感を持たれて、自分の姿が相手の胸によい感じで映っていても、「ものも言いようで角が立」ったり、その時の相手の気持ちが解らぬと、言った言葉が撥ね返されます。<中略>
 第十地は「法雲地」です。これは「三業自在」の徳といっていますから、内にある不可称不可説不可思議の功徳が、全身の毛孔から、入道雲の湧き立つように現われることでしょうか。これは徳が身について、意識しなくても、自然に生活に現われて、言うことなすことが悉く法にかのうて、周囲の人に感化を与えることだと思います。ここまでくれば、五十二段の仏の徳と等しいというので、その最後位を「等正覚」ともいっています。
 「諸地の行現前す」とは、これだけの徳が、念仏の中に自然に与えられることです。それを「普賢の徳を修習する」といっていますから、私はこの願を「修普賢の願」と呼んでいます。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 すなわち、浄土真宗とは、どういう教えか、言葉を変えれば、本願の名号にはどのようなはたらきがあるのかということを、親鸞聖人は、往相(浄土に向かう相)と、還相(この世にかかわる相)にわけて明らかにしてくださったのです。そして、私たちを浄土に生まれさせるはたらき(往相廻向)の中味がどうなっているかというと、真実の教・真実の行・真実の信・真実の証になっていることと、それらがすべて阿弥陀如来の大悲心よりあたえたもうものであることを明かし、さらに、苦しみ悩む人びとを浄土に導く力をあたえるというはたらき(還相廻向)は、一生補処という最上位(利他教化地)の菩薩の上に具現するものであり、それは、第二十二の願(必至補処之願)からでてくるはたらきであることを教えてくださるのです。
 この往相廻向と還相廻向のはたらきを有する本願の名号に帰順する相[すがた]が信心であります。その信心の中味は、浄土に向って、この人生を力ぱいあゆもうという心(願作仏心)と、苦しみ悩む人びとを浄土に導こうという心、すなわち衆生を済度しようという心(度衆生心)です。
 さらに、この人生を浄土に向って力一ぱいあゆもうという心(願作仏心)は、
 一、目に見えぬ方々から護られる生活(冥衆護持の益)
 二、この上もなく尊い功徳が身にそなわる生活(至徳具足の益)
 三、罪悪を転じて念仏の善と一味となる生活(転悪成善の益)
 四、諸仏に護られる生活(諸仏護念の益)
 五、諸仏にほめたたえられる生活(諸仏称讃の益)
 六、阿弥陀如来の光明につつまれて、つねに護られる生活(心光常護の益)
 七、心が真のよろこびに満たされる生活(心多歓喜の益)
 八、如来のご恩を知らされ、報謝の生活をする(知恩報徳の益)
となって具現し、苦しみ悩む人びとを浄土に導こうという心(度衆生心)は、
 九、如来の大悲を人に伝えることができる生活(常行大悲の益)
となって実践されるのです。このような信心(願作仏心・度衆生心)の生活が、そのまま、
 十、やがて仏になると定まった正定聚の位に入る生活(入正定聚の益)
なのです。すなわち、一生補処という最上位の菩薩の生活なのです。
<中略>
 普賢の「普」は、普く十方世界に、教化がおよぶということであり、「賢」は相手の身に順応して善に導くということです。親鸞聖人は、普賢に左訓して「だいじだいひをまうすなり」とお示しくださっています。ですから、「普賢の徳」とは大慈悲心をもって十方衆生に真実の利益をあたえることであります
 南無阿弥陀仏の廻向(はたらき)によって、菩薩の最上位(一生補処)に至らせて頂いたものは、本願に護られ、ささえられて、十地の菩薩の行を行じる身、すなわち「普賢の徳を修める」身にして頂くのです。
 このことを誓ってくださったのが、「還相廻向之願」、すなわち第二十二の願であります。親鸞聖人は、この願の意をよろこばれ、

安楽無量の大菩薩
一生補処にいたるなり
普賢の徳に帰してこそ
穢国にかならず化するなれ (浄土和讃)

還相の廻向ととくことは
利他教化の果をえしめ
すなわち諸有に廻入して
普賢の徳を修すなり (高僧和讃)

と、嘆じておられます。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

ところでこの願成就の文は、

仏、阿難につげたまはく、かのくにの菩薩、みなさまさに一生補処を究竟すべし。その本願、衆生のためのゆへに、弘誓の功徳をもてみづから荘厳して、あまねく一切衆生を度脱せんとおもふをばのぞく。(四七)※

となっております。浄土に生まるべき信心の人を菩薩衆と呼ばれまして、他方仏土の諸の菩薩衆、我が国に生まれた者は究竟して必ず一生補処に至らん。一生補処ということは、もう一転すれば、仏処を補うということでありますから、そういう菩薩にならしめようという御本願です。「除く」ということがわからぬとよく言われますが、これから下はいわゆる還相廻向の願文であります。昔からの見方は、この願は必至滅度の願というのであります。聖人は「また一生補処の願ともなづく」とありますが、最後に「また還相廻向の願ともなづくなり」とあります。これは全く親鸞聖人が名づけられた願文でありまして、つまり菩薩の極位の一生補処ということよりは、そのあとの「除」以下の還相廻向ということが、この願の主な目的であるとみられたのが、親鸞聖人が還相廻向の願となづくなりとおっしゃった意味であります。
<中略>
そのほか『正像末和讃』をお開きになると、一生補処の菩薩にならしめていただいたということを信心の喜びとして喜んでおられるのが聖人でありまして、一生補処に至らしめられることは当益ではなく、この世においていただく現益であると知らされているのです。真宗で六波羅蜜の行というものは自力の修行であるから関係ないもののようによく言いますが、そうではなくして、信心をいただけば自ずから、布施の行ができてきたり、持戒・忍辱・精進・禅定・智慧というものが自分に行なえるようになってくるのであって、そうならしめねばおかぬということが菩薩の行を修するということであるようであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 四七 =浄土真宗聖典註釈版 P48『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生果)

人がある考えを持っているのに対して、そんな馬鹿なことがあるものかと、その人の考えを打ち壊し、俺だけが賢いとする、それは普賢ではなく殊賢になるわけであります。また自分に対して害を加えるのは怪しからんというのは、自分だけよい者になっているのであり、独善ということになってくるのであります。何でもないことでありますが、これだけのことがわかってくると、普賢ということが非常に親しく考えられてくるのであります。誰に対しても、どんな考えを持っておいでになる人に対しても、どんなふうに自分にぶつかってくる人に対しても、自分の胸を開いてそうしてその人の考えを聞き、その人が怒るならばその怒る所以を聞き、その人が害を加えるならばその害を加える所以を考えてみる、そこに広々としたやわらかい一つの胸が開けてくるのであります。そこに普賢という文字の味があるのであります。
 だから普賢の行というのは何であるかといえば、すなわち供養諸仏・開化衆生であります。第一に普賢であるから供養諸仏にちがいない。たとえばさびしがっている人があるならば、そのさびしがっている人を尊敬するのであります。<中略> すなわち寂光如来が見出される。それがすなわち普賢であります。しかし殊賢の人には、そのさびしい心持ちは諒解されません。それで、さびしいなどというのは信仰がないからであると片づける。それでは普賢でなく殊賢になってしまうのであります。
<中略>
 そういうふうに、人生に随順していくということはどうしてできるか。それははじめから人生というものに引き廻されている者には、おそらくできることではないでしょう。それからまたいたずらに理想を追って、どこまでも悪を離れ善に進まなければならないというような、理想主義的な立場でも、おそらくほんとうのことはわからないでしょう。ここに理想の返照ということを思うのであります。<中略> 善に誇らず、悪にも染まらず、すべての人が、悪人は悪人ながら頭が下がり、善人は善の誇るに足らないことを懺悔するところに、善悪すべてがそのままに照らされ、差別のまま平等の光に照らされる。そういうような一つの天地に出て、はじめて人生随順ということが出てくるのであります。
<中略>
苦しいから助かりたいというならば、ただ仏の御慈悲を仰ぐということでよいかもしれない。また苦しいから助かりたいというのであれば、どうして浄土へ往生するということが出てくるか。われわれが助かりたいと思う心をひとつ反省してみると、われわれのこの助かりたいという心の底に、もうひとつ裏を返せば、そこに助けたいという深いものがあるのではないだろうか。<中略> 助かりたいという心の起るときに、助けたいという如来の本願をわれわれが感じていくのである。したがってその如来の本願を領受し、本願の浄土に生じて見れば、われわれもまた助けたいという如来の本願に参加しその如来の本願と一味になるのである。それがすなわち還相であります。
<中略>
自分が高い所へ立って多くの人を見下して、法を説いて聞かせるということが、一切衆生を助ける願いを満足する方法であるかというと、そうではない。その方法は「供養諸仏」ということである。さきほど申しましたように、十人あれば十人の仏が在します。百人あれば百人の仏が在します。その諸仏の国に遊んで菩薩の行を修して、十方の諸仏如来を供養するのでありますが、<中略> 供養諸仏こそほんとうに衆生を救うところの方法である。こういうことはわれわれのような僧侶とか、ことにみずからある信を得たと信じている信者というような人にとって、もっとも意味の多い教訓であると思うのであります。われわれは人にものを教えるということは到底できないのである。ただそこに供養諸仏という一つの道があるのであります。
<中略>
善をしていかれる人には善をして行かれる人の心持ちになる。欲のある人には欲のある人の心持ちになる。そうしておのおのの道、おのおのの問題を開いていくのであるから、開化衆生は己の道に入らしめるものではなくして、その人その人の道を開いていくものである。そういうところにほんとうに広大な天地が出てくるでありましょう。
<中略>
だから初めに法の発見、つぎに人の訓練、最後の三つは人法合一、または人法融一でありまして、自然の大道に合して、意の欲するとことに従って矩を踰えずという自然の大道が現われてくるのであります。<中略> 以下すなわち第二十三願以下の本願は、ある意味において、「必至補処の本願」を開いたものでありまして、もうすこしくわしく展開することで、第二十二の願が徹底するように、と誓われたのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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