世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の仏国土に生まれた求道者たちがわたしの名を聞いて、しかも、いずれかの感官の能力を欠いているようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚るようなことがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
編集註: いよいよ「他方国土の諸菩薩衆」が登場しますが、この「他の国の菩薩」を「迷いの求道者」や「他宗旨の求道者」と理解するのか、「阿弥陀の浄土から還り、自立して、自らの国を造り始めた正定聚・不退転の求道者」と理解するのかによって、意味が大きく異なります。この点について、ご紹介させていただく諸師がたの理解も異なっていていますが、四十願までの方向性と、これから説かれる願や、大無量寿経の後半部との関係を見ていけば、皆さま方には自ずと答えがみつかるでしょう。『大無量寿経』は仏教の総決算であり、個々のいのちに新たな道程を創造する力を与えるお経なのですから。
十人おれば十人の国があり、百人おれは百の国があります。一人ひとりの国に一切の人が住み、この世は互いに入り交じって、重々無尽の国からできあがっているのです。<中略>阿弥陀仏の国へ生れようと願うのは、命のあらん限り、阿弥陀さまの厄介ものになるためではなく、自分じぶんの国を成就するためです。そのことは、この経の「下巻」に出てくる「往覲の偈」に、阿弥陀仏の浄土へ生まれた菩薩は、彼のりっぱな浄土の、すばらしく美しい荘厳を見て、無上心を発こして、自分の国もこのように、りっぱにしたいと願うことを説いています。今までこの重要な経文が見えなかったのは、まだ自分の国が見つからず、したがって国を成就しようという願いがなかったからでしょう。願いがものを見さすのです。ここでいう「菩薩」とは、信心決定した正定聚不退転の菩薩のことです。不退転の菩薩は弥陀の浄土を踏まえて、自分の国を成就するのです。それを天親菩薩は、弥陀の浄土を「動かずして至る」といっておられます。
これからあとの「他方国土の菩薩」に対しては、前の「十方世界」の人々を呼んでの願と同じように、すべて「我が名字を聞けば」と誓われています。「国の中」の人々は、人天も菩薩も、皆浄土の土徳によって、自然に身につくのですが、「十方世界」や「他方国土」の人々は、すべて弥陀の名字が働きをするのです。それを曇鸞大師は「国土と名字が仏事を作す」といっておられます。弥陀の浄土では、浄土が人を育て、他方世界では、弥陀の名字が人を育てるのです。今まではみな、「国土の名字が仏事を作す」と読んでいましたが、それは浄土が人を育てるとか、浄土が働くということが解らなかったからでしょう。
<中略>
「我が名字を聞けば」、その人の上に浄土の徳が働き出すとは、どういうことと思われますか。近頃は真宗の学者の中に「無限の仏は、われわれ有限のものには受けとれない。そこで色も形もない仏が、色をとり形をとって、われわれに解るようになったのが六字の名号である。名号はこの世に現われた生きた仏で、これを方便法身という」という人がいますが、どうでしょうか。南無阿弥陀仏という名前が、仏でしょうか。私はそういう学者たちは、どうかしているのではないかと思います。
名前は象徴であって、名前そのものが仏ではありません。だからきのうも申しましたように、南無阿弥陀仏とはどういうものか、南無阿弥陀仏とは何を現わす言葉か、そういう名号のいわれの解らん人には、何の値打ちもありません。「我が名字」を聞いただけで、浄土の徳がその人の上に働き出すのは、すでにその人の上に感動するだけのものが、熟しているからです。不退転の菩薩とは、すでに浄土に生まれて、浄土がどんな世界か、浄土の徳がどんなものか、弥陀の願いがどういうものかが解っている人のことです。
<中略>
とかく私たちは、あんなものは見るのも嫌いとか、そういうことは聞きたくないと、眼をそむけ、耳をふさいで、狭い世界に独り閉じこもり勝ちです。しかしそれでは、食事の好き嫌いと同じように、精神的な栄養失調になるのは、請け合いでしょう。<中略> 空吹く風の声を聞いても、苔むした庭石の相を見ても、仏の説法が聞こえ、病気の中にも、貧乏の中にも、自己を育てる尊い教えを見だしてゆくことができる眼や耳を具えるようにという願でしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
「他方の国の菩薩たち」とは、道(宗教)を求めながらも、まだお念仏のご縁がないくて、お浄土に生まれることを願うということがない人たちのことです。それは、浄土を「いのち」のよりどころとし、浄土に還ることをよろこんでこの世を生きる人を「国内の菩薩」というのに対して言われるよび名です。
ですから、「他方の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまで、からだが不完全で、十分そろわぬようなら」とは、今まで道(宗教)を求めながら、お念仏にご縁がなかった人も、このたび、「南無阿弥陀仏」のよび声に遇って、小さな「儂が、俺が」の「我」の世界に生きてきたことの間違いに目覚め、自分と他の人という垣根を越えて生きながら、「からだが不完全で、十分そろわぬなら」ということです。
<中略>
私が、「ああ、そういうことだったな」と、特にうなづかせていただいたのは、釈尊は、「人間の個性をそのまま見抜いて」というところと、「仏弟子には智慧第一、多聞第一などという方はおられるが、第二、第三、という弟子はない」という言葉です
多くの「いのち」によって恵まれた「からだ」であり、この世に二つとない「からだ」を、他の「からだ」とくらべて、とやかくいうのはお門違いもはなはだしいのです。私は私であり、この「からだ」は、この「からだ」の個性を活かして力いっぱい生きるしかないのです。自らが自らの個性を活かして精いっぱいいきるとき、私のこの「からだ」は、はからずして他の「いのち」のお役に立つのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
「他方国土の諸菩薩衆」という言葉がその次にも出てきます。それが出てこぬのが四十六番目に一つあるだけであります。それは如来の浄土以外の他方ですから、古来この願は兼為聖人の願である、と申されます。こういうように弥陀仏の国でなしに他の国の諸々の勝れた菩薩方、兼ねては聖人の為という願をなさったのがこれから以後であるというのも一応御尤もであります。しかし、私はやはり他方国土の諸々の菩薩衆ということも、信心の人のことであると思います。この人が名字を聞いてあり、聞という文字は信心をあらわす言葉なりと聖人は申されますから名号を聞いて信ずる身の上になるならば、諸根闕陋して具足せずば、仏とならない。
<中略>
上巻に、成就の文がありますが、
成仏道にいたるまで、六根清徹にしてもろもろの悩患なし。(※三三)
と書いてあります。成仏道にいたるまで、成仏は成道であります。願文には諸根とありますが、そのを六根とあげて、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が、清らかさに徹して、一生涯、六根の諸々の悩みなり患いがないようにしてやりたいという願であります。
それでもわかりますが、もう一つ梵本を拝見しますと、すべて極楽の幸せとして書いてありますが、
又次に阿難陀、彼の覚樹の風に吹き動かさるる時、出づるとことの音声は無量の世界に達す。
極楽はすべて風が吹いても木が動いてもその雑音が皆音楽になり、何が故に極楽というかといったら音も声も、みな音楽ばかりとなって、悪い音がないと、書いてあります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
先の願では国中の菩薩が他方菩薩の道を諒解された。それでこの願では他方の菩薩が浄土の法を諒解することによって、さらにひろくすべての道を諒解するにいたるのであります。これを反面から申しますと、念仏こそ十方衆生の道であり普遍の法である、ということを知ることができないようでは、諸根闕陋であることをまぬがれないということであります。それで私は四十八願に引きずられていくのであります。私の一面の心では哲学も道徳もみな駄目である。念仏でないと駄目だといいたいのでありますが、四十八願に引きずられ、ここまできますと、他方仏国の菩薩の道も諒解されて、同時にまた他方の菩薩からも諒解されるようになるのであります。我はどうしても罪悪深重にて煩悩興盛なるがゆえに念仏往生する。そこにゆるぎもなければ僻みもない。ちゃんと落ちついて我は念仏の大道を行っている。それと同時に聖道の修行者も念仏往生の道の大なることを知りつつ、しかも自分の道を徹底せしめようとするのであります。弥陀の名号を聞き仏の大道を聞いて、そういう広い道があることを念じ、その道に励まされて、それぞれの道を徹底するとき、それぞれの道がまた一切の他の道を諒解する基となる。それはこの第四十一願の誓いによるのではないでしょうか。
金子大榮著『四十八願講義』 より
[←back] | [next→] |