世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもの中で、さらにそこから死没して地獄に堕ちる者や、畜生(動物界)に生まれる者や、餓鬼の境遇に陥る者や、アスラの群れとなる者があるようであったら、その間は、わたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた世界では、人びとがその一生を終えて、あの人は地獄、餓鬼、畜生などの迷いの世界へ行く人だなどと言われる姿はない。もしそのような姿が現れるならば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
住んでいる環境は「五濁悪世」であり、人間は我執にあやつられ、無明におおわれている。迷いの衆生である。この悪循環をどうして断ち切ることができるか。そこに住んでいる一人ひとりの人間が目覚める外に、この地獄から抜け出る道はない。そこで「国中人天」への呼びかけが始まったのです。個人の責任まことに重大です。吹けば飛ぶような、この私たち一人ひとりのことを言っているのですよ。それで私はこの願を「個人発見の願」と呼んでいます。
「寿終わって後」というのは、浄土の人天が、浄土の命が終わって、この世に生まれた時ということです。しかしこれも前に申しましたように、中世の人たちが考えたような、死んで魂が浄土へ生まれて、一晩泊まりでまたこの世に戻って来るという、おとぎ話ではありません。このことは、さっきの三世間の話を憶い出して頂けばよいのですが、別の言葉でいえば浄土はさとりの世界、如来世間のことですから、私たちからいえば三昧の世界と思えばいいでしょう。ただし三昧といっても、冥想のことではありませんよ。心の眼が開けた、そこに見えてくる世界のことです。お釈迦さまが「奇なるかな奇なるかな、我れ心の眼を開けば、山川草木悉くすでに成仏し、一切の衆生は皆仏性を有っていた」といわれた。そういう世界だと思っておって下さい。迷いの世界とは、この眼を開けた現実の五濁悪世のことです。お経の中によく「閉目開目」という言葉が出てくるでしょう。<中略>この姿は仏は、三昧の世界の浄土を見る閉じた目と、現実の迷いの世界を見る開いた目の、二つの眼を併せ有っていることを象徴しているのです。ですから、浄土の「寿終って後」というのは、目を閉じた三昧の世界から立って、目を開いた現実の生活に戻った時ということです。もっと解りやすくいえば、仏壇の前に坐っていたものが、茶の間へ来た時ということです。
<中略>
どんなに社会の改造を叫んでも、どんなに相手を育てようとしても、自分の手が我執と無明に汚れていたのでは、絶対にそれは不可能です。かえって事態を深刻にするだけのことでしょう。そこで「地獄・ガキ・畜生の満ちみちているこの世」を浄めるためには、どうしても「地獄・ガキ・畜生のない」浄土に生まれて自らを浄め、浄土の徳を身につけた人でなければ、できぬことです。それがためにはまず何よりも、「朱に交わっても赤くならん」人間にならねばならんでしょう。それが第二願の意です。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
私はどうだろうか。わかったような顔をし、わかったようなことを話していながら、常に鬼に、亡者に逆もどりし、また餓鬼に畜生に逆もどりしながら、それを環境のせいにし、他人のせいにして、何とかかんとか自分を正当化しながら日を送っています。
「悪性さらにやめがたい」私の底の底まで見抜いてくださった阿弥陀如来だからこそ、第一の願に重ねて、第二の願を誓い、念を入れてくださったのです。
また、逆もどりしないという誓いにおいて、阿弥陀如来の救いが、一時しのぎの救いでなく、永遠の救いであるということをお示しくださったのです。私は、そのことをなによりもありがたく頂くのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
不退転に住するということも死んでからのことではない、と本願をいただかれたのが、親鸞聖人の見方である。というところから見ますと、この十願の中に、国中人天とおっしゃることが、死んでから如来の国に生れてからの話ではなくして、此の世のことであり、信心の上のことであるということを推し測ることが十分できるわけであります。死んでから極楽へまいって、寿が終って三悪道へ更わるということはないと味わって喜んでおってもよいけれども、本当は信心の人ということでありまして、国の中の人天、これは後に国中声聞、国中菩薩という言葉も出ますけれども、それは此の世で言うておる、人間、天人、声聞、菩薩という言葉になぞらえてお使いになった御文であると見られたものであります。それは曇鸞大師以後、そういうことがはっきり言って下さっておるのです。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
なるほどわれわれは一遍浄土に生れたら命にかぎりがないからして、いつまでも浄土にあるということは、願わしいことにはちがいないけれども、しかしそれよりもその浄土の命が終っても、永遠に道を求めて仏になるまで三悪道に更らない。たとい浄土の命が終ってよそへ行っても、三悪道に更らないという、それだけの力をその浄土がもっているとすれば、そこに浄土というものの非常な価値があるのではないでしょうか。<中略>この浄土へ一度足を入れた以上は、どんなことがあっても、どんな世界へ入っても、われわれはもはや三悪道へ更ることはないのだということによって、かえってそこに力強い浄土の徳というものが現れていると思うのであります。それでなければ、浄土はたとい三悪道なしということを誓われても、また悪趣に更るということがあるならば、一時の休憩所であって、永遠に価値をもった世界ということはできないのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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