世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれた求道者たちが、希望する通りの仏国土のみごとな特徴や装飾や配置を、さまざまな宝石のあいだから気づき認めることができないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚るようなことがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、道を求める人が、無数の目覚めた人の心の世界を体験したいと思うであろう。そしてちょうど澄み切った鏡の中に自分の姿を映し出すように、整然と輝く教えの林の中で、思い通りに目覚めた世界を見ることができるであろう。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
第三十五願から第三十九願までは、私生活の願でしたが、この第四十願から第四十四願までは、社会生活の願だと思います。この願は、国の中の菩薩が、十方のりっぱな世界を見たいと思えば、意に随っていつでも見ることができるということですが、それは弥陀の浄土に生まれたものは、浄土の土徳によって、自然に自分の小さな殻の中に閉じこもらず、常に自己と自己の世界の成就を志し、絶えず広く知識を世界に求めるようにということですから、次の願の用意でしょう。
とかく宗教の世界では、自分の信じている宗教だけが真実であって、他の宗教は皆迷信か低級な宗教だと、軽べつしたり、また一つの信が開けると、その信が果して真実であるかどうかの、自己反省する謙虚な心を失っている人が多いようです。過去の有名な宗教家を見ても、片寄った信や独善のさとりに止まっている人がたくさんあります。『大無量寿経』には、そういう片寄った独善のさとりのことを、辺地懈慢とか、疑城胎宮といって、莟がまだ花と開かず、莟の中に包まれて、客観的世界が見えない、気の毒な人であるといっています。その人に開けた信やさとりは、その人がどういう動機で道を求めたかによって決まるものですから、自分の宗教を求める動機が特殊なものであるか、普遍的なものであるかを反省する必要があります。私の知っている範囲では、自分の信はこれでよいかと、自己に開けた信を反省して、引き破り引き破って、徹底的に真実の救いを尋ねて行かれた人は、恐らく親鸞聖人一人ではないかと思います。私は二十歳過ぎでしたが、一つの信境が開けると嬉しくて、「有難い、勿体ない」と、踊り上がるように喜んだものです。しかしその瞬間いつも「それが何になるか」と、それを根底からくつ返す心がありました。小学校五年生の時の例の自我のめざめからずっとです。「天才は永遠に救われない」と聞いていたが、自分は天才ではないが、この事だろうかと思いました。
<中略>
人生は問いを有たない人には、人だけではなく、社会も自然も、何一つ語りかけてはくれず、その深い心を打ち明けてはくれません。人生は果てしなく広く、限りなく深い世界です。
しかもこの願には、その十方の世界を見るのに、「宝樹の中において、皆悉く照らし見る」といい、それも「明らかな鏡にその顔かたちを見るように」見るといっています。「宝樹」とは、「宝とは道心をいう」。樹は前にも申しましたように、行為を象徴しているのですから、宝樹とは菩提樹のことでしょう。十方の無数のりっぱな世界は、菩提心の念仏生活を通さねば見えぬということでしょうか。それはこの世界は、「行為的世界」であり、「歴史的世界」ですから、行為を通さねば、やって見ねば見えぬ世界です。「厳浄の仏土」とは、行為的世界を現わしているのでしょう。坐わりこんで、理屈ばかり言うている人には、この世は見えません。その人たちの眼に見え、耳に聞こえるものは、唯だ容れものの形ばかりで、中身は全然解りません。だから宿業と聞いても、中身が解らぬものですから、前の生のこと位に考えて、この世は仮の世と、生活態度も逃げ腰です。宿業とは行為的世界とか、歴史的世界ということを現わしているのです。
行為的世界は、行為を通さねば見えない世界です。
<中略>
途々の田も畑も、道路も橋も、初めからあったものは一つもない。皆先祖が一くわ一くわ開拓し、こつこつと造りあげたものばかりです。山のだんだん畑の、積みあげた一つ一つの小石には、皆先祖の手垢がついている。昔むかしの永い歴史を物語っていないものは一つもない。今までも毎日それを見、その上を歩いていたのですが、問題意識がなかったから、すべてが閉ざされた世界であったのです。「感あれば、応きわまりなし」(聖徳太子)。半日シャベルを持って見て、初めてその行為的世界が見えてきたのです。私のした小さな行為が鏡となって、広い深い世界が見えてきたのです。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
阿弥陀如来のお心に遇うということは、他の一切の教えに耳を塞ぎ、目を閉じるということではありません。それどころか、阿弥陀如来のお心に遇うことによって、他の教えも独断や偏見なしに耳にし、目にすることができるようになるのです。
<中略>
個性と個性がぶつかって、お互いの個性を殺しあっている世界、もっといいますと、均一、画一でないと安心できず、個性そのものを許さない世界、それが私たちの住む世界です。個性豊かな人がどうにも住みづらいのがこの世です。また、お互いの色や輝きを認めるよりも、非難しあう方に力が入いるのがこの世です。
個性が本当に生かされ、それぞれの色や輝きが最大限に許容され、いや許容されるだけでなく、他の色や輝きを増すはたらきをする世界がお浄土です。自らの個性、また自らの色や輝きを増すはたらきをする世界がお浄土です。自らの個性、また自らの色や輝きが他のお役に立つ、これほどのよろこびが他にあるでしょうか。このような「いのち」の本当のあり方が実現している世界がお浄土です。そのことが「宝樹」において語られているのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
まず成就の文というところをみましょう。
よくたなごころのうちにをいて、一切世界を持せり。(※三〇)
掌の中においてというのは、明らかに見るというような意味もあるのでしょう。おいてというのは自分の手のひらのうちに一切の世界というものを乗せて持っておる、そういう説明がしてあるのであります。
<中略>
「よく掌の中において一切世界を持せり」人生すべては、何が幸せ、これが幸せ、ああなったらよい、こうなったらよいと言っておるけれども、どんなそういうけっこうな世界というものを持ってきてもそれが皆自分の掌の中に見える。お経では、極楽の中で風が吹くと、その風で宝樹がゆれて音楽が出る。その音楽を聞いて自分が幸せを感ずる。感ずるというと一切の世界がずっと見えてくる。こういうことではありますまいか。だから信仰の喜びというものにはいると、ほかの人の世界というものが見えてくる。どんな世界というものもみんな法の中に見えてきて、それよりも自分が幸せ者で、一切の世界を持ちあげてたもっておるというのです。これがあらゆる諸仏国土を見せてやるということであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
この国中の菩薩は他方の菩薩を出す一つの手ほどきといいますか、着手であると思うのであります。まず他方菩薩というものを出すためには、国中の菩薩が他方菩薩を諒解しなければならない。国中の菩薩がどこまでも他方菩薩を侮辱したり、軽蔑したり、他方菩薩は駄目だという心持ちであっては、弥陀の精神はとどかない。そこで他方菩薩ということをいうために、まず国中の菩薩を出してきて、そうしてその国中の菩薩が他方菩薩を諒解するようにと願われる、それが第四十願の意であると、ひとつひとつこう見ていきましょう。
<中略>
前の「国土清浄の願」は教界の理想、教団の理想というものを現わすということをこの前申しました。ここではそうではなくて、国中の菩薩だけが、すなわち真実の念仏往生人ならば、道徳というものはどういうものだということがわかる。哲学はどういうものだということもわかる。したがって哲学は駄目だ、道徳は駄目だ、というようなことはいわない。天台宗はどういうものであるか、華厳宗はどういうものであるか、自力の修行はどういうものであるか、それぞれの道に敬意を払い尊敬をすることができる。それが「見諸仏土の願」の心ではないかと思うのであります。だからまず国中菩薩、すなわち念仏者、願往生の人が、願往生以外の人を諒解せよということを出発点としているのです。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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