ご本願を味わう 第四十八願

得三法忍の願

【浄土真宗の教え】

漢文
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至第一第二第三法忍於諸仏法不能即得不退転者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者たちがわたくしの名を聞くであろうが、名を聞くと同時に第一、第二、第三の認知(忍)を得ることができず、目ざめた人の法から退かない者になれないようであったならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 諸師がたの味わい

昔から「得三法忍の願」と呼ばれています。
 そう呼んだのは、この願を前の「聞名不退の願」の内容を開いたものと見たからでしょうが、どうもそういう見方は、この願の意と違うように思われるのです。第一、第三十四願の時にもちょっと申しましたように、無生法忍の意味の解釈が違うこと、第二に、「諸仏の法において不退転を得る」とあるのを、見落しているからです。
 「第一、第二、第三法忍」とは、『大無量寿経』の四十八願の成就文に「一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍」と説かれている。そのことと言われています。もう一度繰り返しましが、「忍」は智慧のことですが、経験智とか体験智といわれるものだと思います。
「慧」は、「空、無我に名づく、不動に名づく」といわれていますから、からっぽの智慧です。見えた向こうの客観がからっぽではなく、見ている主観が、先入観念の色眼鏡や、自己本位の我執を離れたことで、主観の眼が澄んで鏡のようになって、客観の世界があるがままに見える智慧のことであり、またどんなことに出遇っても泰然自若として、何ものにも執われない、何ものをも超えることのできるまごころの智慧のことです。
「智」は、「あれはあれ、これはこれと分別すること、また決断に名づく」とありますから、先の智慧に立って、客観の相をあるがままに見分けて、これは白、これは黒と、決めることができる智慧のことです。
それに対して「忍」は、「推求に名づく」といわれていますから、こうでもあろうか、ああでもあろうかと、人生を学び自分を知ってゆく智慧であり、またそれによって得た、人生経験を通して得た経験智、またこれが人生かこれが自分というものかと、人生そのもの自己そこものを達観することのできる体験智のことでしょうか。忍はどこまでも真実の人生を追究して行こうとする智慧のことだろうと思います。

 第一の「音響忍」は、昔の人は、人生は音の如く響きの如く、何一つとして、これと執えることのできるものはないと、さとる智慧のことだるといっています。しかしそれは「人生は無常である」という、人生観に立った原始仏教の見方です。人生は無常である、夢であると見ている智慧も、無常でしょうか。人生を夢と照らしている、それは人生を超えた永遠の世界からの呼びさましであります。夢の世に夢でない、永遠の世界が働く、それを知る智慧を音響忍といったのではないかと、私は思います。
 それは今日の言葉では矛盾智でしょう。そうすれば、それが具体的に現実に働けば、音と響を聞き分ける智慧ではないかと思います。<中略>人の挨拶でも、「こんにちは」という言葉は同じでも、口先だけの言葉と、真心のこもった言葉では、響が違います。それだけではない。「こんにちは」という、唯だ一ことの言葉の上に、その人の生い立ちや、人となりの教養や性格のすべてが、響となって現われています。<中略>とかく私たちは現われた結果にだけ目をつけて、そう言わずにおれなかった心に、なかなか目がつきません。そういう人生の矛盾、人間の心の複雑さを、見分け聞き分ける智慧のことではないかと思います。

 第二の「柔順忍」は、音響忍から出て来る人生随順の智慧でしょう。それでは何のために与えられた自分の運命に順うのか。昔は「前の生の業で仕方がない」と、借った覚えのない借金を払うようなつもりで、自分に言い聞かせては、あきらめていたようですが、『阿弥陀経』には、「舎利弗よ実にこれ罪の報いと思うなよ」と念を押しています。柔順忍は第三十三願の柔軟心ですから、降りかかって来るどんな運命にも順い、どんな苦難にも耐えてゆく金剛心を内に有っている心で、どこまでも人生の深みを知り、真実の人生を知るための智慧でしょうl

 第三の「無生法忍」は、第三十四願の時申しましたように、今までは不生不滅の涅槃法をさとる智慧と解釈していますが、「菩薩の無生法忍、諸の深総持」ですから、一の中に無量の意味を有つ、それぞれの原理とか法則とか、また人の性格とか国柄とか、歴史とか社会という、行為的世界を知る智慧であろうと思います。

 「諸仏の法において不退転を得る」。この「諸仏の法」とは、科学とか哲学とか、音楽とか芸能という、それぞれの文化のことではないかと思います。人間は誰でも、人間としてのりっぱな人格を高めて行かねばなりませんが、また私たちは社会人ですから、何か社会的に職業を有たねばなりません。そういう自分自分の職業の道に不退転であるように、ということではないかと思います。
 しかしこの願は、自分の職業以外のことでも、いろんな文化的教養を身につけることかも知れません。
<中略>
前の第四十七願が人間としての人格不退であれば、この願は、社会人として、自分じぶんの職業に不退転であるようにということのようですが、それだけでなく、もっと広く一般教養を、その人の許す限りにおいて、身につけてゆくようにということではないかと思います。それで私は「諸法不退の願」とか、「各道不退の願」、または「教養不退の願」と呼んではどうだろうかと思っています。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 ただ今、この身に「名号のいわれを聞」くことの大切さ、この身が、ただ今、「不退転の位に入る」、すなわち、「すくい」の身にしていただくことの大切さは、どれほど強調しても、強調しすぎることはないのです。それが、本願の最後の二願に、「不退転の位に至ること」を誓ってくださった阿弥陀如来のお心なのです。  ややもすると、阿弥陀如来の「すくい」の中心が未来にあるように説く人や、そう思い込んでいる人が多い私たちの教団においては、特に、この第四十七の願・第四十八の願は、第十一の願・第十八の願のお心を、間違いなく信受させていただくためにも、大切に味あわせていただきたいものです。このことを繰り返し強調しておきたいと思います。
<中略>
「智慧の念仏」をいただき、「信心の智慧」に生きられた源左同行のお言葉に、「確かにそうだと認めること」、すなわち、「忍」とはこういうことというの、はっきり教えてくださるものがあります。それは、

御法義を聞かせて貰らやあ、たった一つ変ることがあるがやあ。世界中のことが皆本当になっただいなあ

というお言葉です。「世界中のことが皆本当になっただいなあ」というのが、「確かにそうだと認めること」、すなわち、「智慧の目」をいただき、「信心の智慧」に生きる相です。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

極楽の風の音を聞いて法の徳として第一は音なり響なりを聞くというと一つの智慧が開けてくる。菩薩には初地、二地、三地という位がありまして、これは菩薩初地の位、あるいは二地、三地という位の智慧が開いてくるというのが音響忍というのだそうであります。第二の柔順忍とは、だんだん矛盾がなくなって真如の道理と一つになってくるというようなすがたが柔順忍という智慧で、菩薩の四地、五地、六地の人の得るところの智慧であるというのです。第三の無生法忍というのは、それがだんだん進んで、七地、八地、九地、十地の位に入った人の智慧でありまして、それが本当の智慧というわけであります。
<中略>
第四十八の本願は、あの尊い音響忍というようあ智慧が開け、柔順忍というような智慧がいただけ、進んでは無生法忍を得るというような智慧までひらかせていただけるようになさしめてやらずんばおかぬとあるのです。そうして無上覚という仏の智慧にまで進むばかりという、不退転というものにさせねばおかぬというのであります。我が名号を聞いて信を起こすということになれば、そういう徳を得させたいのです。「十地の願行自然に彰はる」と善導大師は言われまして、ただ信ずるということは何でもないことのように思っておるけれども、それは仏の御廻向によるのであるから、初地から十地までの願行というものが、死後極楽にまいってからでなく、信のところに自然に彰われるとおっしゃっている。このように、この信の味わいの喜を得るということは全く第四十八願の願力のはたらきと申すものである、ということを知るべきであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

一切の法は音響のごとし、みな言葉である。固持すべきものは何ものもない。聞けば流れるがごとく、万法みな言葉にすぎない、それが音響忍であります。忍は理解知識である。おのおの道においてその音を聞き、響お聞いて理解する。まだ第一に理解の知識を得よ。そしてその理解した言葉にしたがっていく、それが柔順忍であります。つまりそれを実行して随順していくところの実行の智慧を得る。それから無生法忍はそれによって体験の証りを得ることである。だから音響忍の解、柔順忍の行、無生法忍の証という知識を得て、諸仏の法において、おのおのの道において不退転を得ずんば正覚を取らない。わが名字を聞けば聞くほどおのおのの道にいそしんでいくようにならずば正覚を取らない。これが第四十八願であります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

[←back] [next→]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)