世尊よ。もしも、わたくしが<この上ない正しい覚り>を覚った後に、この(わたくしの)仏国土において、わたくしの光の量が限られたものであるようであったら、たとえ百千億・百万もある諸々の仏国土の量(というような無限に近い量)によって限られているのであったとしても、(とにかく、量で限られているようであったら)、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、必ずきびしく自分の姿を明らかにする光が備わるであろう。その光が届かないということがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
第一願から第十一願までは、即自的な願いですが、この第十二願と第十三願は、対自的な願いです。即自的とか対自的という言葉が解りますか。これは哲学用語ですが、眼がさめた時、まず向こうが見える。それを即自、自分に即してといい、向こうのものに照らされて自分が見える、それを対自というのです。
<中略>
第一願から第十一願までは、法蔵菩薩が心の目がさめて、これがわしの国か、何と荒れ果てた濁悪に満ちみちた国であろうか。国が乱れているのは、そこに住んでいる国民が無自覚であるからである。濁悪のない国にするためには、国民が自覚するより外に道はない。それはどんな人間でなければならぬか。これこれの徳を有つ人間でなければ、国はりっぱにはならない。これが第十一願までの意です。それに国が乱れているが、国民も無自覚である。さあどうすればよいか。国を責め民を咎めていても始まらない。問題は王である自分である。王としての自分はどう在らねばならぬか。法蔵菩薩はここで初めて自分が問題となったのです。これを対自的というのです。
<中略>
お前は何ものか。わたしは人間です。それで人間といえるか。人間らしい人間になれ。お前は何か。私は親です。それで親といえるか。親らしいまことの親になれ。法蔵菩薩は国の王です。王としての自分に眼がさめたのです。国に照らされ、民に照らされて、王としての自分が問われることになったのです。王としての自分は、どう在らねばならぬか。その対自的願いが、第十二願と第十三の願です。
<中略>
龍樹菩薩は、光明に二つある。一つは「智慧の光明」、一つは「身放の光明」といっています。この二つはまた「心光」と「色光」ともいわれています。
「光明」とは、光はぴかっと光ること、明は明るいことですが、仏の光明とは、月の光や日の光のように、肉眼に見えるもののことではありません。はたらきのことです。仏とは智慧と徳を現わす言葉で、私はまごころと智慧と言い現わしています。心光はその用きをいい、色光はまごころが徳となった、人格の用きのことです。仏像でいえば、頭の後ろに、円形か傘の骨のように放射されている、あれが智慧の光明で、肩から下にかけて、大きい円形かかっぱの甲羅の形の後光をつけています。あれが身放の光明で、人格の徳を象徴しているのです。智慧は自分自身が使用するものですから、自受用のものといい、徳は相手をして尊敬させ信頼させるものですから、他受用といっています。この智慧と徳は、人格を形成している大切な要素です。智慧がなければ、人生はもちろん、自分も相手も解りません。また徳がなければ、相手が信頼も尊敬もせず、こちらの言うことを受け入れてくれません。したがって「光明無量」ということは、この智慧と徳が至らぬ所のないようにということです。
<中略>
親鸞聖人は、泥田に蓮花が咲くように、この世が大事という在家の仏教です。その信は、仏を自己の内に見る、一切衆生悉有仏性という信心です。太陽でも向き合って、仰いで見れば唯だ一つの真紅の色ですが、三角のプリズムを通して見れば、虹のように、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色に分析されます。唯だ一つの仏の光も、生活のプリズムを通せば、それが十二の色の光に分析され、四十八の功徳となって、日常生活に働くのです。
第十二願には、「百千億ナユタの諸仏の国を照らす」ための光明が願われているのです。「百千億ナユタ」は、さっきも申しましたように、人間の頭数ですが、「諸仏」は、一人ひとりに宿っている仏のことであり、「国」とは、一人ひとりの世界のことです。
<中略>
どこかに諸仏の国があるのではない。あるものはわれわれ衆生の世界だけです。一人ひとりの衆生の上に、仏を見出だし、一人ひとりの世界を理解することです。『讃仏偈』には「ガンジス河の砂の数ほどの諸仏の世界と、無数の衆生の世界を遍く照らす」光明を成就したいとありますから、泥田の中に蓮の花の咲くように、宿業の世界と諸仏の世界を明らかに照らすことでしょう。
こう見てきますと「照らす」とは、智慧の光明では、一切衆生の上に諸仏を見出して、一人ひとりの世界を理解し、身放の光明では、一切衆生に働きかけて、その徳に帰依させ、その徳に感化することでしょう。これこそ王者が王者としての自らの在るべき相を自覚した願いでしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
私が、今ここに生きているということは、地球上の、いや全宇宙のすべてのものに、直接、間接にささえられていきているということです。これだけの人ともののおかげと限定することはできません。すなわち、「無辺際」、ほとりがわからないぐらいの人と、もののおかげを蒙って生きているのです。それらの、私たちを生かし、育て、はぐくんでくださるものをひかりと仰ぐとき、私が今、ここに生きているのは、「かぎりない光明」によって生かされているといってもいいでしょう。
このように味わっていきますと、私が、今ここに生きている因縁は、「かぎりない寿命」とかぎりない光明」であるとあきらかになります。
<中略>
広い広い「阿弥陀」の世界の中に生かされていながら、小さな殻にとじこもり、すこし人生が思うようになると、うぬぼれて自己を忘れ、思うようにいかないと腹を立て、まわりにあたり散らして自己を見失い、一人できばり、一人で力んで自からを一人ぼっちの孤独の世界に追い込んで苦しみ、悲しんでいるのが私たちです。
そんな私たちに、広い広い「阿弥陀」の世界を知らせんがために、はたらきつづけてくださる方が、阿弥陀如来なのです。
阿弥陀如来は第十二の願で、自から「かぎりない光明」となって、私たちを照し、はぐくみ、私たちに「阿弥陀」の世界を知らせて「小さな殻」からすくいだしてやろうと誓ってくださったのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
超世無上に摂取し 選択五劫思惟して
光明寿命の誓願を 大悲の本としたまへり
<中略>
光明無量 寿命無量という誓願を立てた、これが衆生を救うという大慈悲の救済の根本であり本源である。光明無量の願、寿命無量の願を起こされたばこそ、われわれのようなものが、どこにおってもまたいつの世に生まれても、十方衆生漏れなく助かるということになったのだからして、この大悲救済の根本は光寿二無量の御誓願にあるのです。この御誓願をお立て下されて、こういう光寿二無量の仏になられるということは、こういう五劫思惟の結果である。これでこそわれわれは助かるのである。したがってこれでこそこの親鸞が助かるのであるとお喜びになったのがこの御和讃であります。
さて、これは因縁でありますが、この願成就の御文というものを見ると、因縁のおこころがもう一つ明らかになって来ます。
仏、阿難につげたまはく、無量寿仏は、威神光明、最尊第一なり。諸仏の光明、をよぶことあたはざるところなり。(二八)※
こういうお言葉が願成就の御文であります。それに引き続いて、光明のことがずっと出ておるのであります。
あるひは仏光の百仏世界をてらすあり。あるひは千仏世界なり。要をとりてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹 をてらす。南西北方・四維・上下、またまたかくのごとし。(二八)※
如来光明の無量なることをお説きになっておるのであります。
<中略>
この御光に触れた者は、これは話だけのように思うかもしれんが、そうではない。その功徳としてこの世において三垢が消滅し、貪欲、瞋恚、愚癡という三つの煩悩が消えて、そうして身も意も柔らかくなる、苦しむ者は硬ばっておる。腹痛が起こると硬くなる、歓喜踊躍し、身も心も踊るほどに喜ぶ、そういう幸せになる。そうしてこういう凡夫の中からでも善心が出るようになって身も安楽になるし世も安楽になる。若し三途勤苦の処、地獄・餓鬼・畜生というような三途の苦しみのひどいところにおっても一たびこの光明にあいたてまつれば苦しみはやんでしまう。腹痛がやむようにやんでしまって再び苦しむようことがない。それは持病のある人がおっても、持薬を持っておれば、病が起こってもすぐ直る、こういうことで安心と喜びを持つようなものであります。そうして寿終ってのち皆解脱を蒙る、仏になるということであります。この光に接すれば、十二の光明の徳を受けるがために、この光明の御利益というものに生きながら遇わしれもらうということができるようになるのです。これは釈尊自らもそう味わい、本願は立てっぱなしでなしに、この本願が現に成就して、現にその用きをなしてござるのであるということを知らして下さっておるのがこの成就の御文というものであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
「法界の準備」と申しますのは、如来が十方を摂化するために、まずもって十分にご自身の上にその力を成就されることであります。光明寿命の誓願は大悲の本で、衆生を救うためには仏御自身が光寿無量でなくてはならないのであります。「諸仏称名の願」も十方衆生を救わんとの仏のご用意であります。そこへ着眼してますと、第十二の本願から第十七の本願まで、みなこれ十方摂化のご用意ではなかろうかと思うのであります。
<中略>
生の意味を見つけさせるために死が我々に恵まれている。そういってさしつかえないのであります。だから人間世界に死ということがないならば、真の意味において生ということもないにちがいない。いかに死が来て脅そうとしても、死んでもさしつかえないという生を見つけさえすれば、死は生に征服されたわけであります。だから人間は死というものに当面して、ますます意義ある生を発見しようとするのであります。そこに生死の問題があるのであります。ところが死の方もまた生に負けない。しかして生の意味をなくそうとする。そこに生死の問題があるのであります。そういうふうに死が来て、われわれが得意になっている生を、そんなものはないというふうに消そうとする。生の方もその死にうち消されないように、その意味を見つけ出そうとする。その問題は、結局生死を越えた境地を見い出さなければ解決されない。しかし生死を越えた境地を発見するときに、死と生と手を取り合うとでもいいましょうか、死と生とはほんとうの仲よしになって、生死一如というようなところが出てくるのであります。その生死を越えた境地は、すなわち生死の彼岸なる涅槃である。しかるにその涅槃界からこそ、命というものが滾々として湧き出るのではないだろうか。まことに生死を越えての一如の涅槃界からのみ、かぎりない命というものは出てくるのである。そこに「光明無量の願」、「寿命無量の願」というものが、涅槃の本願のつぎに出てきた意味があるのでしょう。
<中略>
世間では自分はあの人の存在を認めないとか、あるいは存在を認められない人とかいう言葉があります。これに対して仏の智慧はいかなるものの存在をも認め、またその存在の意味を認められるものであります。されば空間無限なるがゆえに仏の光無限ではなくして、仏の光無限なるがゆえに空間無限である。だから仏の光がどこかへ行って薄くなるということを案じないでもよいのであります。時間もやはりその通りである。いったい、木や石には時間というものはない。これは今日の学者がみなゆるすところである。
<中略>
内感することのできるものだけ、意識の生活をして、自分というものを内にみずから感じることのできるものだけが現在をもっている。われわれの意識はいつも現在である。しかるにそのわれわれの意識の現在に、ちゃんと過去をふくみ、未来を孕んで、そうして過去と未来とをもっている。だから過去と未来とがあって、そこへずっと命が伸びているのではなくして、ほんとうの生命観はかぎりない過去とかぎりない未来とを内感していくのである。だから人間においてはじめて時間というものがあるのであります。されば自覚の究極である仏において、はじめて無限の命というものが出てくるのであるということも当然でありましょう。そうしますと、光明のないもの智慧のないものには空間がない、内感のないものには時間はないのである。その覚醒した自覚の極にある仏においては、光かぎりなく生命かぎりないものである。
<中略>
それがどういう意味をもつかと申しますと、これはすでに申しましたように、光明無量ということはどこまでも ものを尊敬していく働きである。第十二の願を読んでみれば、「諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚をとらじ」とあります。「諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚をとらじ」ということは諸仏の国を見出さずんば正覚を取らないということである。それはすなわち十方衆生のあるところを諸仏の国として観照するということであります。さればこの光明こそは、やがて衆生の存在を認められる智慧であります。いかなる衆生をも、存在の価値なしとして見捨てられるようなことがなく、究極において御自身と同一味の証を開くべきものとして、尊重されるものであります。まことに十方衆生を助けたいという本願は、一方からいえば十方衆生の存在を認め、それを尊重されることに根拠するのでありましょう。ただやみくもに十方衆生を気の毒だというだけでなしに、その裏には十方衆生のほんとうの存在を認めて、その存在を認めている以上は、どこまでもほんとうの存在にしてやらなければならない。そういうことがそこにあるにちがいないのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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