世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、その仏国土に生まれるであろう菩薩たちが皆、偉大な人物に具わる三十二の特徴を身に具えるようにならないのであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、どんな人でも、みんな目覚めた人と同じ尊い意味を持つ人生を送るであろう。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
今の十方衆生を呼んでの自覚の三願で、心の眼が開けましたから、いよいよこれから何をするのか、念仏生活とはどんなことをするのか、経の言葉でいえば、正定聚不退転の菩薩の生活です。今日求められている宗教的人間像とは、どんな人かということが明らかにされるのです。今日までは何宗に限らず、この問題が不明瞭なままに終っています。・・・だからさとったあとは、何をしようと勝手だということになり勝ちでしょう。
<中略>
人生は一寸先も解らぬ闇夜でしょう。どうなってもよいというのは、やけくそか、歴史的現実に目をつぶった世捨て人です。この真っ暗な闇夜の人生を過ちなく旅するのには、灯がなければならぬ。それも一つではいけない。二つ必要です。一つは行く手を照らす灯台、一つは足元を照らす提灯。提灯が古くさければ懐中電灯でも、ヘッド・ライトでもよいでしょう。提灯がなければ、足元が見えぬから、何につまづくか、どんな所へ転げ落ちるか解りません。しかし行く手を照らす理想の光がなければ、方角を見失い、道に迷うてしまいます。第二十一願から第三十二願までは、願の有っている目標、つまり理想を明らかにしています。ここまで来いよと。第三十三願からあとの願は、自分の立っているここからの一歩の歩み出し、日々の生活の具体的内容を明らかにしています。その中第二十一願と第二十二願は、総願といって、一口で念仏生活はこれだと、輪廓を示したのです。第二十三願からあとは、その具体的内容です。その中で第二十一願から第三十願までが、第十九願の人間成就とは、こういう人間になることだと、その内容を、また第三十一願と第三十二願が、第二十願の自分じぶんの国を創造するというが、どんな国を造ったらよいのか。それに答えた願なのです。
<中略>
仏教も初めの頃は、人相は問題になりませんでした。出家仏教ですから。妻を捨て、世間を捨てて、一人山の中で修行している人には、人相が良かろうが悪かろうが問題ではありません。
<中略>
私たちの生活は、この顔と声でほとんど占められているのと違いますか。そこで大乗仏教では、三大アソーギ劫という永い間修行して、善根功徳を積まねばならぬが、最後の仏になる一歩手前で、百大劫の間かかって、相好を成就するといわれているのです。・・・それをこの『大無量寿経』では、さとった立場から自覚的に、大局観に立って、一生何をしてもよろしいが、自分の顔と声が美しく、人から親しまれるような人間になるように生きなさいと、一番あとにあった相好成就ということを最初に持って来て、人生生活の羅針盤にしておるのです。何をしてもよいといいましても、朝から晩まで、この婆が、この爺がと、心でにらんでおれば、どんな美しい人でも、いつの間にか恐ろしい鬼のような人相になっており、声や言葉もとげとげして来ますよ。どんな難解な仏教哲学も、どんな難しい仏道の修行も、この相好成就というかんたん明瞭なことにこもっていることを見出だしたのです。どうですか、素晴らしい発見、素晴らしいさとりでしょう。これは絶対間違いのない事実でしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
如来のお心に遇ったよろこびは、内面にとどまらず、顔をはじめ全身にあらわれるのです。逆にいいますと、内面にとどまらず全身にあらわれて、はじめて、本当のよろこびであるということです。
親鸞聖人は、
「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」は心によろこばしむるなり (一念多念証文)
と、阿弥陀如来のお心に遇った「信心」のよろこびをあきらかにしてくださっています。
「信心」のよろこびが姿の上には、「三十二相の仏のすがた」となってあらわれるのです。「もし、そのようにならなかったら、わたしは決してさとりを開きません」とまで、阿弥陀如来はいいきられているのです。
<中略>
眼は紺碧にして眼睫は牝牛の如し(目紺青相・牛王睫相)
といわれる相を味わってみますと、これは、如来の眼は紺碧の海のように澄み、まつ毛は牝牛のように長し、そして乱れていないということです。・・・阿弥陀如来のあたたかい心をよろこんで生きるものは、常に、自らのあり方を恥じ、ご恩をよろこんで生きますから、眼も紺碧の海のように澄み、まつ毛も乱れないのです。また、眼が澄むことによって、ものごとが素直に見ることができるようになり、他人のことを思いやる心も自然にでてきます。
<中略>
最良の味感を有すること(得最上味相)
というのがあります。如来は舌相が清浄で、それぞれのものの味を最高に味わうことができるというのです。私たちの場合はそれぞれのものの味を素直に味わうというよりも、それぞれの好みや、その時の気分で、うまいとか、まずいとかと、文句をいいながら頂きますから、結局、そのものの味をよく味わわないままでいることが多いのです。・・・どのようなものを頂いても、それらの一つ一つの味を味わっていくとき、人生は豊かにふくらみます。信心よろこぶ人は、「最良の味感を有する」人となるのです。
<中略>
肩先が甚だ円いこと(肩膊円満相)
というのがあります。如来の肩先は大変円いということです。・・・私たちが、すぐに目をつり上げたり、腹を立てるのは、弱さをかくそうとする姿です。阿弥陀如来の大きなお心にであうとき、畏れるものがなくなり、私たちの肩先も円くなるのです。肩をいからせてつかれる人生が、肩先の円いやさしい人生に転じられるのです。
<中略>
半身獅子の如し(獅子上身相)
というのがあります。これは獅子が何ものをも畏れないように、如来に畏れるものがないので、如来の上半身は獅子の如く威風堂々としているというのです。私たちは自ら敵をつくり、うしろめたいものをつくって身を縮めて生きています。
<中略>
皮膚は細滑にして黄金の如し(身真金色相・皮膚細滑相)
という相について味わってみますと、如来の身体は金色に輝き、膚はきわめて細やかであり滑らかであるといわれるのです。・・・膚の細やかさは、感覚の繊細さをあらわし、膚の滑らかさは、人あたりのよさをあらわしているのでしょう。共に、信心よろこぶ人のあり方であります。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
おおよそ、二十願までで衆生が如来の御国に往生する因、即ち原因をお誓いになったのでありますが、二十一の三十二相を具えるという願からは、その生まれたものの利益、即ち原因に対しての結果をお述べになるのでありまして、三十二相を具える利益、次に環相廻向をたまわるという利益、そうして供養諸仏、諸仏を供養することが自由にできるようにさせてやりたい、こういう願であります。
<中略>
これその人のたうときにあらず、仏智をえらるるが故なれば、いよいよ仏智のありがたきほどを存ずべきことなり。(一〇六八)※
信心の人を見ると、誰でもとおっしゃるのですから、鬼瓦のような顔をした人でも、非常に不別嬪で顔がゆがんでおるような人であっても、まず見ればすなわちとうとくなり候、蓮如上人は、又それに自惚れぬように、誰が見てもそう見えるのは、これはその人が尊いのではないのだ、仏智を得られるが故なればそうなるのであって、仏智の尊さというものを知らねばならぬ。人を見ずしてそのもとの仏智を尊べよ、本願のお力を尊ばねばならんぞ、ということをおっしゃったのであります。又非常に、可愛がられないようなものが可愛がられたり、尊ばれないようなものが尊ばれるようになれば、それは自分がえらくなったからだと思うなよ。仏智がお働き下さったがためだから、自惚れてはならぬ。即ち三十二大人相を具せずんばおかんとおっしゃったが、それは仏智、願力のお力であるということを忘れるな。こういうようなことを暗示しておられるのではないかと思うのであります。
・・・土のついたようなお婆さんであっても、お念仏を喜ぶ信心の人を見ると、それは非常な美人を見ているよりももっと立派ですな。是人名分陀利華で、善導大師が上々人、希有人、最勝人、好人、妙好人とおっしゃるように、非常にうるわしい立派な人であるとおっしゃることは、この三十二大人相を具せねばおかぬとおっしゃる願力のおかげであろうと思うのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
だから念仏往生ということは、われわれの人生においてもっとも正しい生活態度であるということになりましょう。その正しい生活態度から造られた肉体相好は、すなわち三十二大人相でなくてはならないのであります。もう一つほかの言葉で申しますと、われわれの心が救われたならば、たとい蒼い顔をしている人でも、だんだん法の話がわかってきて、魂が救われてきますと、その蒼い顔に色が出てきて美しい顔色になってくるのであります。どういう関係が精神と肉体の間にあるか、学問上のことにはいろいろ千差万別の説があってわかりませんけれども、とにかくわれわれの精神が救われますと、それがすぐ肉体に影響して、そうして色艶のない者にも色艶が出てくる。こういうことであります。ほんとうに仏の道がわかるならば相好が変るということは、当然すぎるほど当然なことであろうと思うのであります。人相の悪い人でも人相がよくなり、貧相な人でも福々した人になるのであります。申すまでもなく肉体にも運命があって、弱い人が強くなるとか、やせた者が肥えるとかいうことにはならないでしょうが、しかしやせたなりで、何かしら肥えたように見える、病んでいても病んだなりに、どこかしら健康が恢復したようになるということは、これは当然なことであります。そこで十方衆生を呼んでの三つの本願についで、相好の本願が出てきたということは、そこに自然の移りゆきが見られるのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
三十二相を『大智度論』より列挙し、諸師の領解も同時に示します。
[←back] | [next→] |