世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる生ける者どもが、生れると同時に、あたかも第三の心の安定(第三禅)を得て燃えさかる苦悩のなくなった敬われる人・修行僧のような安楽さを得ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、人びとが本物だと思い込んでいる見せかけの楽しみに疑いを持ち、永遠の幸せを求め、汚染された欲望がすべて漏れ尽くした求道者になれなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
楽しみというものは、人間にとって重要なもので、楽しみのない人生は、それこそ生きる甲斐のないものです。<中略> しかしその楽しみにも、いろいろの種類があり、けたの違った楽しみがあって、どんな楽しみを求めているかということによって、その人の教養も違い、品格も違って来るのです。仏教でも『華厳経』では善財童子に、人生の出発点に当って、「可楽国」を求めることを教えていますし、阿弥陀仏の国は「極楽」と呼ばれています。「極楽」は、最も勝れた楽しみ、最も純粋な楽しみ、人間の求める究極の楽しみということです。今日では極楽という言葉に垢がついて、その言葉を聞いただけで、一種の嫌悪感を感ずるようになっていますが、快楽と同じように、本来はよい言葉であったのです。
少し寄り道ですが、楽という言葉の意味から話して見ましょうか。楽(樂)という字は、白という字の両側に糸を書いて、その下に木が書いてあります。白のノは笛で、曰は太鼓だそうです。糸は琴を現わしているということです。つまり笛と太鼓と琴を、木の台の上に載せた形の、象形文字です。それで本は楽器からきているのです。楽器を鳴らすと音が出る、「歌」を「ガク」といったのです。音楽を聞くことは「楽しい」、それで「ラク」ともいい、もう一度聞きたいと「願う」ので、それを「ギョウ」といったのです。
<中略>
第三は法楽楽。これは「ほうがくらく」と読んで、法の音楽の楽しみということです。山を見れば、山が法を説き、川を見れば、川が法を説く。鳥のさえずりも、道行く人も、見るもの聞くもの法音でないものは一つとしてない。これは「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれは、ひとえに親鸞一人がためなりけり」、求道心の受信機があれば、すべてのものが、私一人のお育てと受けとれ、行住坐臥に、法の声を聞くことができる。求道の楽しみです。世にこの求道の楽しみ、人間成就という自己の花を咲かす楽しみに勝る楽しみは、外にはないでしょう。
第三十五の女人成仏の願から、この第三十九の受楽無染の願までは、清らかな楽しみと求道が、綾の如くに見えつ隠れつ説かれています。これは「讃仏偈」が、理想とする第一の国は、「道場」であることと、「快楽安穏」であることが願われていますが、それを具体的に事実として現したものでしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
親鸞聖人が、最も尊敬しておられた中のお一人であります中国の曇鸞大師は、楽に三種あり」といわれて、
一つには外楽、いはく五識所生の楽なり
二つには内楽、いはく初禅、二禅、三禅の意識所生の楽なり
三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり(往生論註)
とあかしてくださいました。
まず、外楽とは、五識所生の楽だと教えてくださったのです。五識とは、眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官のことです。これらを楽しませるのを外楽といわれるのです。
<中略>
眼・耳・鼻・舌・身を楽しませることは、私たちが生きていく上で大切なことですが、この外楽にのみ執着すると、かえって私たちの人生は外楽によって苦しめられます。
<中略>
それで次に、内楽が説かれるのです。
内楽とは、禅定によって精神を整え、いといろのとらわれの心から解放された楽しみです。私たちを苦しめるのは、「もの」ではありません。「もの」にとらわれる心が苦の種になるのです。ですから、とらわれの心(執着)から解放されることによって、私たちは大きな楽しみを得ることができるのです。
<中略>
なぜ「もの」があっても苦しみ、なくても苦しむのでしょうか。その理由は外にあるのではなく、私たちの内面にあるのです。とらわれの心(執着)こそ「もの」があってもなくても、私たちを苦しめる原因なのです。ですから、とらわれの心から解放されれば、あればあるで楽しみ、なければないで楽しむことができるのです。このように禅定によって、自らののとらわれの心から解放されたことによって味わうことのできる楽しみが、内楽なのです。
この内楽は、外楽のように健康でなければ楽しめない、人生が順境でなければ楽しめないというような楽しみではありませんから、外の条件にあまり左右されることのない楽しみです。しかし、何かさとりすまして、一人悦に入っているようなところがあります。一人悦に入って楽しみ、内楽を知らない人を、どこか冷ややかに見ているようなところが、そこにはあります。
確かに内楽はとらわれの心から解放され、「もの」のあるなしに左右されない素晴らしい楽しみには違いないのですが、何かそこには物足りないものがあります。私はその物足りなさが、「もの」のあるなしに左右されて苦しむ人のことが、視野に入っていないところからきていると思います。みんなの人と共に楽しむということがなければ、本当の楽しみとはいえないのではないかと思います。
そこには、どうしても三つ目の法楽楽がとかれねばならないのです。
法楽楽は、「智慧所生の楽なり」とありますが、智慧とは「不二をさとる」ことなのです。
「不二」とは、すべての「いのち」は決して分断されることなく一つにつながっているという「いのち」の本当のあり方をいうのです。私の「いのち」に関係ない「いのち」など過去にも、現在にも、未来にも、また宇宙のどこにも存在しないというのが「不二」なのです。
<中略>
曇鸞大師は、阿弥陀如来のお心に遇う「南無阿弥陀仏」の聞こえること(信心)によって、私たちの身に芽ばえてくる心を「遠離我心[おんりがしん]」「遠離無安衆生心[おんりむあんしゅじょうしん]」「遠離自供養心[おんりじくようしん]」と、三種の心をあげてお示しくださいます。
「遠離我心」とは、「儂が、俺が」という「我」にとらわれている心から離れるということです。これは他の「いのち」によって、自分の「いのち」があったという「不二をさとる」(智慧)ことによって開けてくる心です。
「遠離無安衆生心」とは、「衆生を安[やす]んじない心を離れる」ということです。「衆生を安んじない心を離れる」とは、他の「いのち」の苦悩をやわらげ、他の「いのち」に生きる「よろこび」を味わってもらおうという心です。 <中略> この心は「不二をさとる」(智慧)ことによって起ってくる「不二の実践」なのです。
<中略>
「遠離自供養心」とは、他の「いのち」を大切にすることを忘れて、自分だけを大切にする心を離れるということです。自分を粗末にすることはいけないことですが、他の「いのち」を粗末にして、自分だけを大切にするあり方も間違っています。自分のことは少し後になっても、他の「いのち」を大切にすることを先にしようということです。この心は「不二をさとる」智慧と、「不二の実践」である慈悲によって開ける「方便」の生き方なのです。
<中略>
「遠離我心」・「遠離無安衆生心」・「遠離自供養心」によってなされる楽しみが、法楽楽です。この法楽楽こそ、第三十九の願で誓ってくださった「煩悩のけがれを除き尽くした聖者のよう」な「楽しみ」なのです。
お念仏をよろこぶものに、このような素晴らしい「楽しみ」を与えてやろうと誓ってくださったのが第三十九の願なのです。
これが第三十九の願についての私の味わいでありますが、実は、この法楽楽は、還相の菩薩の「智慧・慈悲・方便」による「遠離我心」・「遠離無安衆生心」・「遠離自供養心」によって実現する楽なのです。ですから、還相の菩薩を、この身終ってお浄土に生まれ、仏になってから、復びこの世に還って衆生利益のおはたらきをしてくださる方と受けとりますと、この第三十九の願は、この身終ってから「受ける楽しみ」ということになります。
これまで本書を続けて読んでくださっている方は、すでにお気付きのことと思いますが、私は阿弥陀如来のお誓を、「この身終ったら、こんな素晴らしいことにしてやろう」と、未来の楽しみを約束してくださったものとはいただいていません。それはすべて、今、ここに生きている私たちの、今のあり方を問題にして誓ってくださったものだとありがたく頂戴しています。
ですから、この第三十九の願においても、そのように頂きました。ということは、私は今、阿弥陀如来のご本願をよりどころに、この世を力いっぱい生きる人、すなわち、「心を弘誓の仏地に樹て」(顕浄土真実教行証文類)この世を精いっぱい生きる信心の行者の上に、必定の菩薩、還相の菩薩を仰いでいるのです。
確かに、私たちはこの身のある限り、どこどこまでも煩悩具足の凡夫でしかありませんが、その私たちが、南無阿弥陀仏のおはたらきにより、本当の楽しみを知らせていただくのです。そこに、私は「誓願の不思議」を感佩し、本願他力の確かさをよろこばせていただいているのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
楽しみはいつまでも引っ着いてくれたらよいように考えて、離れたら大騒動だと思うかもしれないのですが、実はそうあってはならぬのであって、それでは幸福ではないからそういう執着をしないということが漏尽比丘の徳であります。願成就の御文は上巻に、
かぜ、その身にふるるに、みな快楽をう。たとへば、比丘の滅尽三昧をうるがごとし。(三八※)
如来の御国に風が吹くと、その風にあたればみんな苦しみがなくなって快楽を得るようになるのが浄土の幸せというものである。その模様はたとえば比丘の滅尽三昧を得たるが如く、煩悩がすっかりなくなった三昧ですから、心が寂かであって、すべてのものにとらわれない。そのとらわれない楽しみというものを受けるようになるのだ、ということであります。
<中略>
「国中人天」とありますが、それはずっと前からお話しますように、死んでから極楽へ参って、というように一応みえます。またそうしておいても差支えありませぬけれども、親鸞聖人の心をうかがっていくと、国中人天ということは信心を得た人である、こういうように味わうべきであると思うのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
快楽という字は非常に悪く使われていますけれども、本来はよい字でありましょう。「こころよい」という字ですから、ほんとうに快く、ほんとうに楽しい。そうしてそこに煩悩の穢れがない。そういうことをなぜいってきたか。その根本はみな触光柔軟、柔軟心ということがもとである。具体的な例としては女といものが出てきて、本願の中に流れているように思うのであります。だから漏尽比丘の快楽は、すなわち触光柔軟の楽しみであります。われわれの心が柔らかくなるという、そこから来たところの楽しみがすなわち漏尽比丘の楽しみてある。乃至女人がほんとうに成仏したとき、不合理性がそのまま救われたときの快楽が漏尽比丘の快楽であります。そうすれば今夜読みました七つの本願は、すべて他方国土の衆生というものに集注する。その内容としては柔軟心というものでつらぬいて読んでいくことができようかと思うのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
[←back] | [next→] |