還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 29

ホトケの語源

【浄土真宗の教え】

 ホトケの語源

 印度におけるブッダ(biuda/budha)――浮屠(古い表記)→→仏陀

@  日本における「ホトケ」の語源の問題

 *有力とされる語源:
浮屠[ホトケ]。「ケ」は形をあらわす?
 *気配・気としてのケ
人々の日常の生活の姿・状態を支配するエネルギーをケと考える。
 *エネルギーの枯渇
ケガレ=気枯れ
ケガレの発生
ケガレの復活儀礼にカミ・ホトケの関与
ケガレの原因
 穢(エ・ケガレ)黒穢=死穢、白穢=出産穢、赤穢=血穢
穢れをハラウ・キヨメルことでケが復活する

 天皇=(神) 神の住まい=都
 都から穢れを遠避けるはたらき→→ハライキヨメル

 *死(黒)穢の浄化:
もともと穢れの最たるものとして死穢が考えられていた。そしてそれは荒ぶるカミでもあった。このケガレをハライ、キヨメルことで死霊を先祖霊化しニギタマ(和霊)に転化するはたらきが「おはらい」儀式である。ニギタマへの転化には仏教思想が色濃く影響しているといわれる。

A  日本における仏教の浸透

 *八百万の神・先祖神と仏教思想の融合
神仏融合(混合)…本地(=仏) 垂迹(=神)
仏が神に形を変えて出現したという考え方

 明治維新では、国家神道が推し進められ、政府の神仏分離政策により神が復権し、異常なまで仏教が貶められ、廃仏毀釈のあらしが吹き荒れた。

 *仏教のなかの神々
インドの古来の神々は仏教の中で梵天・帝釈天・広目天・持国天・増長天・多聞天などの天神・天として仏教の守護神とされた。
 仏教の神=天
 あらゆる神々=諸天

B  親鸞聖人と神・神祇

 1、和讃のなかの神

かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす

『正像末和讃』101 悲歎述懐

かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す

『正像末和讃』104 悲歎述懐

南無阿弥陀仏をとなうれば 梵王・帝釈・帰敬す
諸天善神ことごとく よるひる常にまもるなり

『浄土和讃』100 現世利益讃

 2、経文に説かれている諸天への対し方

 余乗[よじょう]に向かわざれ (余乗=ここでは仏教以外の教え)
 余天[よてん]を礼せざれ
もし浄信の善男子・善女人等ありて、乃至尽形までに余天に事へざれ

『本願薬師経』

つぶさにまさしく帰依して、一切の妄執吉凶を遠離せんものは、つひに邪神・外道に帰依せざれ

『地蔵十輪経』

 3、念仏者弾圧の口実にならぬようご消息

 まづよろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつると申すこと、この事ゆめゆめなきことなり。
<中略>
仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。

『親鸞聖人御消息』27

まづもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべからず、

蓮如上人著『御文章』一帖13

[釈勝榮/門徒推進委員]

 編集註

 親鸞聖人は、「仏・如来」を「ほとけ」と言い習わされていることを和讃で批判されています。特に仏教者が用いることについては、厳しくいましめられてみえます。その訳は、「ほとけ」とは廃仏派の物部守屋が言い出した名で、伝染病の原因を三国伝来の一光三尊阿弥陀仏像に押付け、「この仏像が熱病の起るもとである」という邪説を広めたことからついた名だとされたからです。ただし、「ほとけ」が「浮屠」から来る説は有力なので、現在は仏教者が「ほとけ」を使用しても差支えないと言えるでしょう。

善光寺の如来の われらをあはれみましまして
なにはのうらにきたります 御名をもしらぬ守屋にて

そのときほとほりけとまうしける 疫癘あるいはこのゆゑと
守屋がたぐひはみなともに ほとほりけとぞまうしける

やすくすすめんためにとて ほとけと守屋がまうすゆゑ
ときの外道みなともに 如来をほとけとさだめたり

この世の仏法のひとはみな 守屋がことばをもととして
ほとけとまうすをたのみにて 僧ぞ法師はいやしめり

弓削の守屋の大連 邪見きはまりなきゆゑに
よろづのものをすすめんと やすくほとけとまうしけり

『正像末和讃』110〜114 善光寺讃

善光寺の如来:
長野市善光寺の一光三尊の阿弥陀如来。三国伝来と称す。
なにはのうら・・・:
百済から摂津の難波(現在の大阪)の浦へこられたことをいう。
守屋[もりや]:
物部守屋[もののべのもりや]のこと。仏教伝来当時の廃仏派の中心人物。五八七年、蘇我氏のために滅ぼされた。
ほとほりけ:
熱気。仏像が熱病の起るもとであるという邪説。
疫癘[えきれい]:
伝染病。
あるいはこのゆゑと:
もしや仏像が原因ではないかと。
弓削[ゆげ]:
現在の大阪府八尾市内。
大連:[おおむらじ]
大臣[おおおみ]と並んで、大和朝廷における最高の執政官職。

 なお、和讃にあります一光三尊の阿弥陀如来は、日本に渡っていただいた最初の仏像であると伝えられています。
 善光寺如来縁起によれば、一光三尊仏はインドと百済において衆生済度された後、欽明天皇の下に奉送(西暦552年10月13日午後2時頃)され(当時は「釈迦仏金銅仏」と呼ばれていた)、蘇我稲目が尊像を受けて向原寺を建立し、日本における仏教普及の第一歩となった。しかし十九年後、熱病流行を理由に廃仏派の物部遠許志大連の指図によって一光三尊仏は難波の堀江へ投げ捨てられてしまった(570年)。翌年四月欽明天皇は亡くなり、遠許志大臣も病死。やがて物部氏も滅亡(587年)。尊像は一度は聖徳太子の前に現れたが、しばらく時期を待つことになる。後に本多善光[ほんだよしみつ]と息子の善佐[よしすけ]が堀江から尊像をひきあげ(602年4月8日)、信濃の自宅で安置後、善光寺を建立して遷座し今に到っている――と伝えられています。ただしこのご本尊はやがて秘仏となり(654年)、代わりに全く同じお姿の分身仏「前立本尊仏」が造成され、七年に一度(現在は丑と未の年)ご開帳の法要が勤まります。ちなみに今年(平成15年)四月六日〜五月三十一日がそのご開帳の期間です。

 また、高田山専修寺の縁起によれば、親鸞聖人五十三歳の年(西暦1225年)四月十四日、一光三尊阿弥陀金銅仏が夢に現れて、“聖人の発願に満足している、衆生済度のため善光寺に行き分身仏を造るように”という夢告を受けられた。善光寺の僧十五名も同様の夢告を受けていたため、すぐに白金で分身仏が鋳造され、聖人は歓喜のうちに専修寺に帰り本尊として奉安された、とあります。この一光三尊佛は今も栃木県芳賀郡高田専修寺(下野本寺専修寺)に安置されていますが、やはり秘仏となり、江戸時代中期からは十七年に一度秘仏函を開きます。三十三年毎に天皇の親拝を得ることになっていますので「天拝一光三尊仏」とも言われています。

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