世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者(菩薩)たちが、黄金や、銀や、宝石や、真珠や、瑠璃や、螺貝や、石や、珊瑚や、水晶や、琥珀や、赤真珠や、瑪瑙[めのう]などのうちどれか一つを以てでも、あるいはあらゆる宝をもってでも、あるいはまた一切の花や、薫香や、花かずらや、塗香[ずこう]や、抹香や、衣服や、傘や、幢や、幡や、燈明や、あるいはまた、あらゆる踊りや、花や、音楽などの、どのような形のものを以てしてでも、(仏を供養して)善根を植えようと願った時に、このような形のものが、かれらがその心をおこすと同時にあらわれて来ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた世界では、道を求めようとする者はみな、目覚めた人の導きを受けて、その素晴らしい働きを身につけ、その日常生活がすべて目覚めた人と同じにならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
問題はものではなく、まごころです。「搗[つ]いた餅より心持」というでしょう。要は相手に喜んでもらい、相手が満足することです。
有名な話ですから、皆さん聞いておいでるでしょうが、ツルゲネーフが散歩に出た時、年老いた乞食が、寒い風に吹かれながら、道端に坐って、ものを乞うていた。ツルゲネーフはポケットをさぐったが、生憎お金を持っていなかった。つかつかっと歩み寄って、老乞食の手を執って、「おい兄弟よ、生憎お金を持っていないんだ。気の毒だな。風邪を引かぬように」といったら、老乞食は「旦那、何よりの施しを頂きました」と、涙を流して喜んだということです。お金をくれても、まるで犬や猫に投げ与えるようにしてくれたのでは、心は救われません。人はまごころに飢えているのです。「おい兄弟よ」と、人間として扱い、温かい言葉をかけてくれたことが、老乞食を満足させたのでしょう。
そのことは裏からいえば、いつも私たちは生活を通して問われているのです。「さあ、この問題をどう答えるのか」、「さあ、ここでお前はどう生きるのか」。私たちの生活の場は、いつも試験場です。高校や大学の試験は、再試験が効きますが、人生の試験はまったなしです。子供が怪我をした。さあどうするか。夫が外へ女をこしらえた。さあどうするか。そこはいつも、私の一生ではない。過去幾千万年の祖先より承けついだ全ゆるものが問われる場所です。私はこれを「今ここに生きる、久遠のいのち」といっています。ここではそれを「その徳本を現わさんに」といっているのではないかと思います。それでまた私は「行為創現の願」とも呼んでいます。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
諸仏(私を生かし、育んでくださる人びと)をおうやまいすることにおいて、自らの身心はより豊かに育てられていくのです。
周りの人を馬鹿にしたり、見下すことによって、自らの心はやせ細り、身は荒れはてていきます。
<中略>
周りの人を差別することなく平等に尊敬し、ほめたたえるといっても、周りの人にすべて同じことをし、同じ言葉をかけることではありません。私たち一人ひとり、顔が違うように、思いも違います。また、同じ人でも、若い時と年老いてからは、その思いも変ってきます。差別することなく平等にといっても、同じようにして接すればということではありません。おうやまいの心をあらわす品にしても、相手の人によって変ってくるのが当然でしょう。また、ほめたたえる言葉にしましても、相手によって、自[おのずか]ら違ってくるでしょう。
相手の思いを無視して、自分の思いのおしつけでは、それがどれほど高価な品であろうと、また丁重な言葉であろうと、供養、すなわちおうやまいにはなりません。
供養は、相手の思いを大切にすることによって成り立つのです。
ですから、供養をしようとするとき、私たちは、相手の思いをしっかり受けとめ、相手の望む品をささげて、おうやまいの心をあらわすことが本当の供養です。
「望みの品を意のままに得」させてやりたいと誓ってくださった阿弥陀如来のお心は、私たちに、相手の心を無視したやり方でなく、相手の心にそうような供養のできる身にしてやりたいというところにあるのです。
相手の心を精一杯くみとり、相手の心にそうように、精一杯努力するとき、どれほど粗末な品でも、相手をおうやまいするに最もふさわしい品となって現前することでしょう。
もし、たとえ何一つとして供養の品がなくとも、南無阿弥陀仏を称えることによって、どのような品をささげるよりも素晴らしい供養ができるのです。
すなわち、「望みの品」以上の素晴らしいものが、南無阿弥陀仏によってあたえられるのです。親鸞聖人は、
阿弥陀の三字に一切善根をおさめためへる故に、名号を称ふれば浄土を荘厳するになると知るべしとなり (尊号真像銘文)
と、南無阿弥陀仏を称えることをたたえられています。すなわち、名号を称えることは、一人ひとりを尊敬し、ほめたたえるだけにとどまらず、諸仏の住む世界(浄土)を最高に飾りたてることになるといわれるのです。
第二十四の願において、阿弥陀如来は、一人ひとりの心を大切にしていくことによってのみ、本当の供養のできることを明らかにし、念仏申すものを、その実践者にしてやりたいと誓ってくださったのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
今何もないけれども死んだらある。こういってそれで済むようなら非常に簡単ですけれども、それでは全く何の意味もない。それが現在の上からあるのだ。ありがたいということで、現在においてそうなるのだから、進んで行けば進んで行くほどそうなるに違いないのであります。
それから前にもお話したことがありますように、真宗は不二の法門です。これは「証の巻」にありますように、生死即涅槃という。涅槃というは死んでから仏の国へ至って煩悩がなくなって涅槃の月を見る。こういうけれども、死んでからばかり喜んでおるのでなくして、結果というものと原因というものとが不二、二つでありますけれどもそれは一つであるというのを、因果不二というのであります。不二の徳にいろいろありますが、因果不二、染浄不二、生死即涅槃・煩悩即菩提というようなことで、そういう不二という味わいを得させてもらうということが、仏の御教えであり、法の徳というものであります。そういうことを聖人がちゃんと味わわれているのであります。
<中略>
そこで、経文の上をみますと、下巻に、
心の所念にしたがひて、華香・伎楽・ゾウ蓋・幢幡、無数無量の供養の具、自然化生して念に応じてすなはちいたる。 (四八)※
欲しいと思うと直ぐにそこへ出てくる。こういうことを書いてあるのですが、どうもこの意味もはっきり言うことが難しいのですが、梵本にはもう少し詳しく出ています。
是の如き華、焼香、燈、香(沈香、白檀等)、鬘(髪飾り)、塗油(仏を供養するときに用いるもの)、香粉(香ばしい粉)、衣服、傘蓋[さんがい](華傘[けさい])、幢[どう](はたぼこ)、旛[ばん]、旗、楽器、合奏、音楽を以て、供養せんと発念[ほつねん]せば、其[それ]発念と倶[とも]に、其一切供養の諸具は手中に出現し(手の中に現われてきて)彼等は其華乃至音楽を以て其諸覚者世尊を供養し無量無数の善根を集むるなり。
仏を敬って御供養申し上げることが善根でありますから、その善根によって自分の心に法が聞えてきて、だんだん自分がふとっていくというわけです。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
前のはすべての人を平等に尊敬するということでありましたが、この第二十四願では平等に尊敬すると同時に、感情としては一人一人ちがう。十把一束ではない。女の人に対しては女の人、若い人に対しては若い人、お年寄りに対してはお年寄り、一人一人みんなちがう。言葉だけでははっきり言い現わせないけれども、それだけ申せば、私の心持ちを受け取ってくださると思うのであります。さきほど申しましたように、自分でちゃんと型を造って、みな自分のところへ手繰りよせというのでは、十把一束になってしまう。われわれは体を別にしてこの世の中に生れている。だから一人一人の人の心持ちは同じではない。甲の人は、死ぬと思うとどうも切ないという。乙の人も、死ぬと思うと切ないという。けれども甲の人が切ないというのと、乙の人が切ないというのとでは、あきらかに内容がちがうにちがいない。それはけっして同じものではない。その同じものでないところに相応していく、そこに供具如意の意味があるのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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