世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土において善根を積むこと極めて少ないいかなる求道者であっても、少なくとも高さが千六百ヨージャナある彩りすぐれた菩提樹を認め知るようなことがないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者や、人びとのために尽くそうとする者が、眼の前に高さ四百万里もある無限の輝きを放つ真実の樹が見えないなどということがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
この願と次の第二十九、第三十の三願は、一つのまとまったグループであることは解るのですが、これをどう見るかが、昔から問題になっています。
<中略>
また金子先生は、この三つの願は法師のための願であるといっておられます。それは次の第二十九の願に、お経を読むということがあり、この願に少功徳者とあることからでしょう。
<中略>
確かにそういう受け取り方もできますが、どうもそれだけではないように思われるものがあります。というのは、第二十八願は「国中の菩薩乃至少功徳の者」とあります。これは「国の中の菩薩は誰でも、たとい少功徳の者でも」という意のように思われます。一体この少功徳の者とは、誰がいうのでしょうか。第三者があれは大功徳者であるが、これは少功徳者であると、品定めをするのであるか、それとも本人が、何と私は取り柄のない、何の役にも立たない、微々たる存在であろうかと、自分自身に悲しみを持っての、慚愧の言葉ではないであろうか。
「その道場樹を見る」とは、自己の置かれた場所が、いつでもそこが修行の道場であったとさとることでしょう。「道場樹」というのは、修行の場所を象徴しているのです。<中略>お釈迦さまの菩提樹はピッパラ樹であり、さとりの座は、妻を捨て子を捨てて坐った、山の中の石の上ですが、私たちのさとりの座は、逃げようにも逃げられぬ、家庭や社会の、自己の置かれている宿業の真っ只中です。
これは出家仏教を打ち破って、在家仏教を強調した『維摩経』からきているのだと思います。
<中略>
その道場樹に「無量の光色あって」とは、私たちの生きている、この歴史的現実こそ、無量の問題をはらみ、尽きることのない深い光を放って、いろんな教を説いているのです。維摩居士のいうように、「無限大悲の薫じている」心の食べ物である。「限意を以て不消化に終らせてはならぬ」でしょう。
「高さ四百万里」という、数字の「四」は、浄土の四つの徳(※註:常・楽・我・浄)を象徴しているので、自己の置かれている歴史的現実の、宿業のそこが、そのまま浄土のさとりへまで、お育てが可能であることでしょう。そこを離れて、山の中に入ったり、社会から隔離された修道院へ行く必要はさらにない。「そこから」逃げた所には、解放もなければ自由もない。私たちに与えられている唯だ一つの道は、いつも「そこにおいて」です。
<中略>
こう見てきますと、第二十三願から第二十七願までは、私的生活における心根であるのに対して、この第二十八願、第二十九願、第三十願の三願は、社会人としての自己に課せられている仕事に対する心根を誓っているのではないかと思われます。<中略>「讃仏偈」に法蔵菩薩が、その浄土は「道場として超絶し」、そこに生まれるものは、「心の悦び清らかにして」、「快楽安穏である」ようにと願われていますが、それがここに具体的になっているのだと思います。
<中略>
親鸞聖人が、この願を方便の願といわれたのは、社会的に制約された自己の生きる場所が、自己の人格を完成する場所と見られたからかも知れません。真宗学者のいっている方便という意味と、親鸞聖人のいわれる意味と違っているのでしょうか。親鸞聖人のは、天親菩薩のいう方便かも知れません。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
仏教の寺院は、本来、全世界に開かれ、すべての人にわけへだてなく光をあたえる場所。すなわち、真実に遇う場であったのです。
ですから、「高さ四百万里の光かがやく菩提樹」とは、仏教寺院を指すのです。
<中略>
心閉ざしている人にもはたらきかけ、門戸を開く寺院であってこそ、阿弥陀如来の願に生きる寺といえるでしょう。寺院の門を閉じ、真実に目覚めることを目指す仏教とほど遠い、慰霊のために経を読んで世を過す生活になっているならば、阿弥陀如来の願に背くものであり、正[まさ]しく謗法[ほうぼう]のものといわなければなりません。
阿弥陀如来の願に生きようとするならば、私たちの寺院を、常に門を開き、すべての人にわけへだてなく光をあたえる場所にしていかなければなりません。それは、寺院に住むものの責任であることはいうまでもありませんが、み教えをよろこぶ門信徒一人ひとりの責任でもあります。寺院に住むものも門信徒の人も、ひとつになって、寺院を本来の寺院にもどしていくことこそ、第二十八の願に遇ったものの責務だと思います。
話が、現在の寺院のあり方ということにそれてしまいましたが、親鸞聖人は、
七宝講堂道場樹 [しっぽう こうどう どうじょうじゅ]
方便化身の浄土なり
十方来生きはもなし
講堂道場礼すべし(浄土和讃)
と、讃じておられます。すなわち、道場樹、すなわち菩提樹で象徴される寺院は、方便の世界であり、真実ではないといわれながら、その「道場を礼すべし」といわれるのです。
一体これはどういうことでしょうか。
<中略>
本来なら、寺院がなくとも、道場がなくとも、法はすべての場に遍満[へんまん]しているのですから、遇おうと思えばどこででも遇えるはずであります。しかし、悲しい哉、わたしたちは、遍満しているはずの法に、よほどのことがないかぎり遇えません。いや、阿弥陀如来のお姿を拝し、私たちにわかる言葉で、例話まで入れて話して頂いても、法に遇い難い私たちです。
<中略>
仕事に、レジャーにと、毎日を「忙しい忙しい」と過している私たちは、心静かに聴聞する場がなければ、一生を空しく過してしまうことでしょう。菩提樹で象徴される寺院や道場が、たとえ方便の世界(真実の世界まで誘引する世界)のことでありましても、大切にしなければなりません。そこのところのお気持ちを、親鸞聖人は「講堂道場礼すべし」とうたわれたのでしょう。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
仏が仏となるというと、おかしいのですけれども、菩薩が願を起こして仏になられるときには必ず道場樹のもとにおいて仏になられるというのがきまりだそうであります。これは釈尊がそうなされたからそういうことがきまりということになったのだろうと思いますが、必ずあることになっておる、それを道場樹というのです。道場は道を修める場所です。阿弥陀如来にも道場樹があるわけでありますが、今は阿弥陀仏になられたときの道場樹を見ることができるように必ずさせてやろうという願いであります。
ちょっと聞きますと、そんなことはいらぬように思いますけれども、そこに約束があって、その道場樹を拝んだ者は、一つには音響忍という智慧が開け――これは後にお経に書いてあるのですが、忍は智慧であります――二つには柔順忍という智慧が開ける。三つには無生法忍という智慧が開ける。無生法忍は涅槃の智慧であります。道場に風があたると、その風にあたった枝なり葉の音を聞き、それが縁となって音響忍という一つの智慧が開けるのです。それからもう少し進んだ人になると柔順忍で、真理に柔順する智慧が開ける。それからもっと進んだ人は無生法忍という涅槃の智慧が開ける。ここでは言われないけれどもその極楽の道場を見ることができるかできないかということが一つの大事なことになるのであります。
<中略>
成就の文を申しておきますが、
また、無量寿仏のその道場、たかさ四百万里なり。そのもと、周囲五十由旬なり。枝葉よもにしきて、二十万里。(三二)
とあるのです。一由旬[ゆじゅん]は四里ほどとも言いますが、よほど太い木です。
一切の衆宝、自然に合成す。(三二)
これは道場機が七宝でできあがっておるということです。七宝というのはわれわれ凡夫に一番よいものだからそういう言葉で顕わしてあるのです。
これは梵本を見てみますと、道場樹というものは、このわれわれの世界における人天が見ておる植木よりも非常に勝れておって、そしてこの極楽の道場樹は、
一切の荘厳を以って飾り及び随意に有情の願の如くに荘厳せらるるなり。
とありまして、有情ですから、われわれ人間が、自分で願っておるようなあんばいに、思う存分、心のままに立派に荘厳せられておるということを願わしてあります。だからわれわれが考え、われわれが見ておるこの世のものでない立派さをつくしておって、一切の宝をもってできあがっておるのがこの道場樹である、と書いてあります。 親鸞聖人はこの願を「化の巻」に引いておられまして、これを浄土の真実の荘厳、即ち真実報土の荘厳といわないで、これは方便化土の相であるということを知れといわれているのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
それでここでは、道場樹を知見したいという要求はどこからくるかということを吟味しなければなりません。私が思いますに、その要求というものは、おそらく発菩提心修諸功徳からきているのでしょう。すなわち特別なる仏道修行の志が道場樹を知見しようとするのであります。すでに第十九願のとことでも申しましたように、念仏往生という大功徳に対すれば、修諸功徳は少功徳であります。ですから念仏往生による普賢の菩薩は、申すまでもなく道場樹を知見するのでありますが、今はその念仏往生の菩薩と同様に、諸行往生の少功徳者にも道場樹を知見せしめようということでありましょう。しかるに親鸞聖人がとくにこれを方便の願とされたのは、道場樹の知見を要求するものは、聖道の行人だからであります。
<中略>
そうしますとこの道場樹の願というものは、普賢の行の特殊化されたものであるということができると思います。普賢の行というのは、浄土の徳として自然に現われるものである。還相廻向で自由自在に衆生を済度するといっても、必ずしもあそこここへと説法し廻ることではない。あそこここと説法し廻るということがごときは、むしろ少功徳であると申さねばなりません。ところがその少功徳というものも、また要求されるのであります。少功徳の説法者、すなわち法師になりたいということもあるのであります。われわれ僧侶はこの少功徳者であるといって、あえて卑下するのではありません。少功徳も少功徳者であることを自覚すれば、つねに大功徳を念じずにはおれず、大功徳を念ずれば少功徳というのは、かえって大功徳を具体化したものとなるのでありましょう。そこに親鸞聖人が「小慈小悲もなき身にて、有情利益は思うまじ」と反省されながら、依然として非僧非俗をもっておられた意味があるのでしょう。
<中略>
一般信者としては、言葉に現わすよりは生活に現わすべきである。すなわち僧侶は言葉であり、信者は生活である。その有難さかたじけなさの感じを言葉に現わさないで、だまってその生活に現わす。その台所の仕事において、そのお座敷の仕事において、その家庭における親子兄弟の接触において、だまって沈黙の間に生活の上に現わす。生活の上に現わすというと非常にむずかしくなりますが、生活の上からなにか味わっていく。自分の生活の上に受け取っていく。自分の子供を眺めて受け取っていき、台所の仕事をしながら何か受け取っていく。こういうふうに生活の上から何か受け取っていく。裏から申しますと、生活の上に現わしていく。そういうふうに生活に現わすのが、大功徳であります。
これに対しまして言葉に現わす方を少功徳であるということができましょう。それはすなわち特殊なものであるからです。生活に現わしていくということは一般的であり、普遍的ですから、大功徳である。しかし言葉に現わすということは一般的なものではなくして、特殊な人の願いであるから少功徳であります。しかるにその少功徳の要求に応ずるものが、すなわち知見道場樹であります。道場樹を知見して、見仏聞法し法師の徳を増進せんとするのであります。それゆえに真実の少功徳は大功徳の上に立つものでなければなりません。信者は必ずしも説法者でなくても説法者は必ず信者でなければならないでしょう。ほんとうの説法者ならば、生活体験の大功徳をもたねばならないのであります。しかしてまたその大功徳を知るものならば、いつでも自分の説法くらいは少功徳に過ぎないということを感知し得るのでありましょう。そうならば少功徳も大功徳も無碍一如であります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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