世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、〔かの(仏国土以外の)他の仏国土にいる〕生き者どもがわたくしの名を聞いて、聞くと同時に<よく言葉を分別する>と名づける心の安定――その心の安定に住してながら求道者たちが、一刹那の間に無量・無数・不可思議・無比・無際限の目ざめた人たち・世尊たちを見ることができるのであるが、――を得ることができず、また、その心の安定が中間で消えてしまうようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚るようなことがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
ここに「一発意の間」とありますが、これは何か心に思い立つ、その僅かな短い時間にということですが、さっきも申しましたように、仏教の約束で、菩提心に関係のある時には、いつも「一発意の間」といい、生活に関係する時には、「一食の間」といっています。ですから第二十三の供養諸仏の願では供養することが主ですから、「一食の間」といっていますが、ここでは三昧が主ですから「一発意の間」といっているのでしょう。
「無量不可思議の諸仏世尊」とは、『阿弥陀経』には「他方の十万億の仏」とありますから、これは一切衆生の一人ひとりに宿っている仏のことでしょう。「供養」とは、供え養うという字ですが、一般では、死んだ人にものを供えたり、お経を読んでもらったり、また死んだ人の命日などに、有縁の人々にものを施したり、法供養することなどをいっていますが、本来の意味は、自分の真心を相手に供えて、相手から喜んでもらい、それによって相手の真心と自分の真心が触れ合い、共に人間として成長することをいうのです。ですからこちらが相手に真心を尽すだけが供養ではなく、相手の真心を喜んで受けとることも、供養になるのです。
しかしここでは前の諸根具足の願の、精神的な不具者でないようにということを承けての、諸仏を供養することですから、浄土に生まれた菩薩の法式といわれる、菩薩のしなければならぬおきてのことではないかと思われます。それは供養はくわしくは恭敬供養といわれていて、「恭敬」は、恭は自らをへりくだり、敬は相手を敬うことで、「供養」は相手から教えを請うことです。供養の最も大きいものは、相手にものを施すことではなく、その人の人生体験を、謙虚な心を以て聞かせてもらうことでしょう。「無量不可思議の諸仏世尊を供養する」とは、出会うどんな人からも、その人の人格を通し、言葉を通し、生活を通して、教えを受けることではないかと思われます。
<中略>
ここに「一発意の間に、無量の諸仏を供養して、定意を失わぬように」とは、世のため人のためという、社会奉仕の精神も大切ですが、それがために肝心な自己を失い、自己の立場を忘れて、自己犠牲に走ることのないように、ということではないかと思います。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
内と外のあらゆる束縛から、阿弥陀如来のよび声を聞くことによって、離れさせていただくと、そこに自から「浄らかなる三昧を得」とのです。
「浄らかな」ということは、他の「いのち」を大切にし、他の「いのち」と共にあるということです。それは、多くの「いのち」に生かされ、多くの「いのち」と共にありながら、自分中心にものを見、考え、語り、行動することを「穢」というのに対します。
ですから、「浄らかな三昧を得」とは、他の「いのち」を大切に、他の「いのち」と共に生きるという身心の状況が実現するということです。
この生き方は、同時に「無数の諸仏がたを供養」する生き方になります。諸仏とは、私を私として今、ここに生かしてくださる方のことであります。作家の吉川栄治氏は、「我れ以外、皆な我が師なり」といわれたそうですが、阿弥陀如来のお心に遇って、自分の「いのち」に目覚めたら、「我れ以外、皆な我が諸仏なり」ということになるのではないでしょうか。このように味わえば、「無数の諸仏がたを供養」するとは、私以外の数限りない「いのち」を敬い、大切にするということです。
供養といいますと、現代では、亡くなった人にお経をあげたり、ものを供えることのようになっていますが、供養の本来の意味は、相手を敬い、大切にすることなのです。
「あらゆる束縛から離れ」ることは、同時に「浄らかな三昧を得」ることであり、それはまた「無数の諸仏がたを供養」するという素晴らしい生き方が、実現することでもあります。
第四十二の願で阿弥陀如来は、今までお念仏にご縁がなかった方も、ひとたび「わたしの名を聞けば」、こんな素晴らしい「いのち」のあり方を実現してあげましょう、と誓ってくださったのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
深禅定・諸通明慧をえて、こころざしを七覚にあそばしめ、心に仏法を修す。(※五〇)
深禅定は三昧です。禅定を得るから諸通は明慧です。智慧が明らかになる。智慧は心の働きです。諸通は天眼通・天耳通・神足通・他心通・宿命通・漏尽通であって、四十八願の初めの方にありましたが、六神通を得させねばおかぬというのです。深禅定を得るから六神通といって、明らかなる智慧を得るようになって、志を七覚に遊ばしめ、七覚というのは、『阿弥陀経』に「七菩提分・八聖道分」(※一一二)とあります。その七菩提分ということです。七菩提分とは、拓法・精神・軽安・念・捨・定・喜ということです。
「拓法」というのは、法を聞き法を修行するときには法の善悪を択ぶということを誤らないことです。
「精進」は仏道に向かって道を怠らないことです。
それから「軽安」、これは軽く安らかなる、自分の身も心も丈夫になること。丈夫でなくては仏法を求めてゆくことができないし、人も救うことができませんから軽々とした身と心になるようにすることです。
それから、「念」は聞いた道理を忘れないこと。
「捨」は八纏の七番目ですが、掉挙という煩悩を捨てること、浮々した心にならない、のぼせた心にならない、それでは自分の身も救えず人を助けることもできないのです。
六番目が「定」定は心を散らさざること。
七番目が「喜」喜は喜びで法を喜び善を行なってゆく。こういうことが仏道を修行するときの大事なことですから、これを七覚といいます。志を七覚にあそばしめですから、断えず択法ということを誤らず、精進をし、軽安に気をつけ、道理を知り覚えて忘れず、煩悩で心が浮々して上調子にならず、心は静かであって法を喜び、善を修してゆくということを習う、ということです。こういうことを終始心に思っておるということが志を七覚にあそなしめということであります。そうして、そういうことに常に注意して心に仏法を修してゆく、これが成就の文であるということであります。
だからこの願の願力によってどうなるかというと、禅定を得る心になり、六神通の心の働きがだんだん盛んになる。そうして志は七覚に遊んで、心に仏法を修していくようにする。こういうことになさずんばあかぬということであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
ここに「清浄解脱三昧」というものが出てきています。いやしくも仏教であるかぎりにおいては、みな解脱を願わない者はない。広く申しますならば、人間の形而上の学問、人間の精神的学問はすべて清浄解脱を求めている。それはほんとうに純粋な救いの道であります。ただ三昧といってあり、ただ解脱といってある。そこに願生の道と違う点がある。国中の菩薩はどこまでも彼岸の世界、安養の浄土というものを願って、そこを清浄解脱三昧の境地とするのであります。すなわち弥陀の仏国というものでなければ、ほんとうに安んずることができないのでありますけれども、一般の求道者、一般の仏教者は必ずしも浄土だの彼岸の世界だのというものは望まない。ただ清浄解脱三昧ということをいっています。そこで名号の感化、念仏の感化が、どこにどういうふうに及ぶのかというと、それらの人も「清浄解脱三昧を逮得せん」みな純粋なる解脱を得るであろう、それぞれの宗旨におけるそれぞれの道に到達することができるであろうというのであります。そうしてそれぞれの立場において、十方の「無量不可思議の諸仏世尊を供養して定意を失は」ないであろう。こういうふうに諸根闕陋せずという基礎の上から、さらに定慧自在の供養諸仏もできるという仏道修行の満足へと進んでいくのではないでしょうか。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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