世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の諸々の仏国土においてわたしの名を聞くであろう求道者たちが、名を聞くと同時に(この上ない正しい覚り>から退かない者になれないようであったならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
「不退転に至る」とは、大乗仏教の理想であります。原始仏教の目的は、転迷開悟といって、内なる一切の執着を断ち切って、外からのどんな誘惑にもまけず、またどんな事件に出遇うても、泰然自若としてびくともしない、そういう生死を解脱した自己をさとることでしたが、大乗仏教では、人間としてりっぱな人格を成就することを目的として、それを仏といったのですが、仏は永遠の理想ですから、結果としての仏になるよりも、必ず仏になれるという自信がつく位を、不退転地といって、どうしたならば、その不退転地に至ることができるか、これが最大の関心事であったのです。それは菩薩の位でいえば、四十一段以上の「地」の位の菩薩のことです。それは今まで十信、十住、十行、十廻向と、人間成就を願って、仏を理想として彼方に見て、背のびをしながら求めて来たのですが、仏智が開けて、自己の内に仏と、自己を支えている浄土を見出だすことができた位です。
それがこの願では、聖道の修行によって開けるのでなく、「わが名を聞いた」だけで、「不退転に至ることができる」のです。曽我先生はその感動を「仏さまはどこにおられますか。仏さまは私になり切っておられます。けれども私は仏ではございません」といい、浅原才市同行は、「才市が仏になるじゃない。阿弥陀の方からわしになる」といっています。親鸞聖人はこの境地を、「五濁悪世の衆生の、選択本願信ずれば、不可称不可説不可思議の、功徳は行者の身に満てり」とも歌っておられます。退転の位の時には、心を引きしめ引きしめて、油断ができなかったのですが、もう大丈夫、光明摂取のご利益によって、呼びさまされ呼びさまされてゆくからです。昔の妙好人は「私は居眠りしていても、眠って下さらん仏さまが見つかった」といい、親鸞聖人は「睡眠懶堕なれども、二十九有に至らず」と、その感激を聖者の第一の位である預流果にたとえておられます。
不退転というのは、退転せずで、退転がないことではありません。不の字はいつでも、矛盾を現わす言葉で、退転しながら退転しないということです。退転するとは、煩悩に巻きこまれたり、言うたから言い返した、叩いたから叩き返したというように、衝動的な生活になることをいうのです。そういう時いつでも、「おいおい」と、魂の底から、声のない声で、呼びさまして下さることを、不退転というのでしょう。「才市がうっかりぼんやりしていると、ナンマンダ仏が、向こうさまから、才市の心につき当る」。不退転は、今までの衝動的な生活に巻きこまれないことですが、それを前向きにいえば、正定聚です。正定聚は、必ず仏になれるという自信が生まれたことです。第十一願の正定聚は、「わが名を聞く」ことによって、この世で与えられるのです。私はこの願を「人格不退の願」と呼んでいます。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
すべての人が、阿弥陀如来のみ名を聞くひとつで、「ただちに不退の位に至ること」を誓ってくださった願は、第十八の願であります。第十八の願が成就したことをあかしてくださる本願成就の文をいただきますと、そのことがあきらかです。本願成就文は『仏説無量寿経』の下巻のはじめに、
すべての人人は、その名号のいわれを聞いて信心歓喜する一念のとき、それは、仏の至心から与えられたものであるから、浄土を願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退の位に入るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正法を謗ったりするものだけは除かれる。
とあります。この第十八の願が、成就したことをあきらかにされたご文に間違いのないことが、この第四十七の願をいただくことによって、より一層あきらかになります。 また、「名を聞いてただちに不退の位に至る」ことをあかしてくださるご文は、本願成就文、第四十七の願、そしてつぎの第四十八の願以外にも、『仏説無量寿経』には八文あります。その二・三文を紹介しますと、
その声が流れ流れて、あまねくもろもろの世界に響きわたる。その音声を聞くものは、深い法忍を得て不退転の位に入る。(道樹楽音荘厳)
かのみ仏の本願力は
名号を聞いて往生を願うもの
みなことごとくかの国に至らせ
おのずから不退の位に入らしめる(往観偈)
もし人人の中で、この経(本願の名号をあきらかにしてくださった無量寿経)を聞くものがあれば、無上のさとりを開くまで、決して退くことがないであろう。それゆえおんみらは、一心に信受してこれを読誦し、人にも説いて行ずるがよい
(弥勒付属)
とあります。これらのご文からもあきらかなように『仏説無量寿経』をお説きくださった釈尊のお心といいますか、阿弥陀如来のお心は「本願のみ名を聞くひとつで、すべての人を不退の位に至らしめ仏に成す」ということなのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
仏国と書いてあってもなくても同じことでありますが、他方の国土の菩薩衆、この前にも一二度お断りをしたように古来の学者は、これは凡夫でない。聖道門の菩薩と称せられる人々を誘引するために立てられた願じゃと言っておられます。けれども何べん読んでみてもどうも私には納得がいきにくいので、やはり諸々の菩薩衆ということは、まさに信心を得て幸せになるべき人々をさして菩薩衆と呼ばれたものであると思うのであります。
「わが名字をききて」則ち南無阿弥陀仏という仏の御名を聞いて、聖人のお指示に従いますと、「聞く」というは信心を顕わす言葉なりときめてあります。ただ普通の音のように聞いただけでそんな効果があるわけではありませんから、如来の名号の由来を聞き開いて信じた人ということに違いないと思うのですが、是非そうさせたいとい願であります。
成就の文は上巻の浄土の荘厳を説いてありますところに、浄土の尊さは、木に風があたったり音がする、その響きを聞くと、その衆生は深法忍を得ると、こういうことが書いてあります。そしてその次に「不退転に住す。成仏道にいたるまで、耳根清徹にして、苦患にあはず。」(三三)とあります。これが願成就の文であると指示をいただいているのであります。
<中略>
別願としてのこの願があってこそ、この願の結果が第十八の本願成就の文のように、その名号を聞いて信心歓喜するようになったものは即得往生して不退転に住せしめられることであると、わかるのであります。つまり十八願の成就として説いておられるその不退転が、この四十七願の結果であるということがここでわかるのであります。だからこの四十七の本願というものは、なくてはならぬ本願であるとこう思われるのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
また他方菩薩に対して願うところはすなわち不退転である。道を聞く人はおのおのの道において退転しないようにと、第四十七「得不退転の願」がそこに出ているのであります。
第四十八の願には、この願の内容をより具体的に示してあります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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