世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の諸々の世界にいる求道者たちが、(わたくしの)名を聞くと同時に、<あまねく至る>と名づけられる心の安定――求道者たちがその心の安定に住して、一刹那の経過の間に無量・無数・不可思議・無比・無際限なる(多くの)目ざめた人たち・世尊たちを恭敬することができるのであるが、――を得ることができなくて、また、かれらのその心の安定が、覚りを究めるに至るまでの間に中間で消えてしまうようであったならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
人格平等とか、人権尊重ということは、法律上や教室の中でいうことではなく、日常の生活で、誰に対しても、あなたもそうですか、私もそうですよといえることです。それは世間的なことだけではなく、宗教の世界においても同じことです。ところが肝心な宗教の世界では、なかなかそれが行われていないのです。キリスト教でも、神に対してはすなおな羊であるものが、一たび隣人に向かえば、たちまち「神の使途」に早変わりし、真宗でも、仏に向かえば愚かな凡夫が、一変して「如来のご代官」になったり、いついつご信心をもらったとか、わしは独立者になったとかいって、「自信」を以て「人に教えて信ぜしめる」という、高飛車な態度になる。これらは昔「虎の居を借りる狐」の類で、宗教の世界に入ったすぐそこにある、法執という大きな深い落とし穴に落ちているのです。親鸞聖人はこれを「邪見驕慢の悪衆生」と誡めておられます。これは上に対してはぺこぺこし、下に対しては威張る、役人根性と一つも変らんでしょう。
こういう、自分はさとったから、これからは衆生済度とか、わしはご信心もらったから、あとはご恩報謝という、我執の破れた心の底に巣くうている法執を見つけたのです。ここまで自己を掘り下げた人は、世界の歴史においても、数少ないのですが、親鸞聖人は、その数少ない宗教家の一人なんです。名利の心の強い弁円に向かっても、あなたもそうですか、私もそうですよ。「さるべき業縁がもよおせば」、どんな振舞いをし出かすか解らん自分です。お釈迦さまに向かっても、あなたも如来廻向の南無阿弥陀仏ですか、私も如来廻向の南無阿弥陀仏ですよ。だから「他力の信心うる人を、敬い大きに喜べば、すなわちわが親友ぞと、教主世尊はほめたもう」。お釈迦さまが手を差し出して下されば、お釈迦さまと握手ができる。どうです。あなた方、お釈迦さまと握手ができますか。
<中略>
同じ親鸞の教えを聞きながら、何ぜこんなに一人ひとり違うのだろうか。ははあ、その人の宗教的動機が違うからだ。「世界の体は願いである」。その人の求道的動機が違うから、そこに開けた世界が違うのである。真実の宗教は、求道の動機が純粋でなければならぬことをさとったのです。
そういうことが解って見ると、その人その人に皆違った世界があり、その人でなければ有っていない尊いものが見えて来ます。長所はそのまま欠点であり、欠点は裏返せば、そのまま長所です。青い泥田には青い花、赤い泥田には赤い花と、この世界は、泣いても泣き切れぬ悲しい宿業の中に、美しい蓮華蔵世界が宿っている、矛盾の世界であることが知られて来ました。『観無量寿経』には、「無量の諸仏を見ることができるから、諸仏は現前に、あなたは必ず仏になることができます」と、予言をして力づけてくれると説かれています。これは諸仏が口でそう言うのではないでしょう。『華厳経』の善財童子が、どんな人からも自分の道を聞いて行ったように、出遇う人から道を聞いて行こうとする態度ができれば、態度そのものが、相手の中から、無言の予言を聞き当て、また自分の信心そのものが、そのことを自証できるのです。形をかえてそのことを『阿弥陀経』には、「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽という」と説いています。生活態度の方向が決定すれば、その一歩一歩の生活の中に、浄土を自証し、成仏の自信が得られるのです。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
「わたしの名を聞けば」とは、今までに何度もお話しましたが、阿弥陀如来の広く大きなお心に遇うことです。み名となって私をつつみ、いだきしめてくださる阿弥陀如来のお心に遇って、自らの一人よがりのというか、自分勝手な小さな「我」の姿が思い知らされることによって、私たちの人を見る目、ものを見る目が変えられるのです。
今まで「鬼」だと思っていた人が、本当は私の身を案じてくださっている「仏」であったということがあきらかになるのです。私の身を案じて、厳しい言葉を投げかけ、身をもって私をいさめてくださった「仏」を、「鬼」と思い込んでいたことが恥かしく、悲しくなるのです。この恥しさ、悲しさは、今、はじめて諸仏に遇えた「よろいこび」と、表裏するものです。
普等三昧の普は、普遍ということ、あまねくということです。等は斉等、ひとしいということです。ですから、普等三昧とは、すべての人を、ひとしく諸仏と見ることのできる精神の境地ということです。
私たちは、「そういわれてみるとそうだけれども、あの人だけはどうしても仏と思えない」ということになりがちです。「みんないい人だけれど、あの人は鬼だ」というのでは、普等三昧ではありません。
すべての人が、いろんな言葉で、いろんな行為で私の身を案じてくださる。その言葉も行為も、全部違うけれども、その時その時、何をいうか、何をやるかわからない私のために「いろんな仏」がいてくださって、いろんな形で私を護っていてくださるのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
阿弥陀仏、阿弥陀仏と言ってあるけれども、その阿弥陀仏の御光があらゆる物の上に、また人の上に輝いて見える。本身の阿弥陀仏を拝むということは同時に、一切の物となり一切の人となってそこにもここにも一切のところにまします諸仏を拝みたてまつるという、そういう喜びに入ることができる。そういうことが信仰生活ということであります。不幸なことがあっても、そこに阿弥陀仏の恵みを知ることができる。そこにもおっこにも仏を見ることができる。こういうことを無辺光、無碍光と聖人がいつも喜ばれたのであります。
<中略>
諸仏は、諸仏阿弥陀といいまして、一つに言えば阿弥陀、わけて言えば諸仏、諸仏ということは阿弥陀の変え名だと申されますが、『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』というお経もあります。どこにも仏がありますけれども、それは皆阿弥陀如来のお心を心として、諸仏が到る処にこの人を護らしめたまうということでありますから、こういうことを心の奥で見ることができる。それを普等三昧と呼ぶのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
ここに「普等三昧」ということが出てきました。「普」はあまねく、「等」は平等であります。あまねく平等に一切の仏を見るということであります。たしかに菩薩は、みなあまねく十方三世の仏を見て、あまねく十方三世の仏を念ずるところのそういう天地にいたるであろう。つまり一即一切でありまして、一つの道に徹底さえするならば、それによって一切の道を知ることができるのである。われわれ念仏者は念仏の道に徹底すれば、全仏教の精神に到達するであろう。真言の人ならばほんとうに真言の修行をしたならば、全仏教の精神に到達するであろう。こういうのが普等三昧でありますから、あまねく一切の諸仏をみなそれぞれの道において見るようにならなければ正覚は取らないというのであります。
<中略>
他のお経には本願も説いてあるけれども、ついでに説いてある。ついでに説いてあるのでは、真実の教にならない。本願を説くをもって経の宗到となす。中心であり、眼である。それよりほかにないというところに、この四十八願を説いた『大無量寿経』が真実の教という意味をもつのであります。如来の本願名号を説くがゆえに真実の教である。真実の教なるがゆえに如来の本願を宗到として説くのである。それを中心にして説くということであって、四十八願を説いてあればこそ真実の経典である。それによってわれわれは仏の願いを聞き、自分の願いを満足し、われわれの人生に光を投じられていくのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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