ご本願を味わう 第三十三願

触光柔軟の願

【浄土真宗の教え】

漢文
設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類蒙我光明触其身者身心柔軟超過人天若不爾者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明に照らされて、それを身に受けたなら身も心も和らいで、そのようすは天人や人々に超えすぐれるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比の諸世界にいる生ける者どもが(わたしくしの)光に照らされてはっきりと明らかに見えるようになったとして、かれらすべてが、神々と人間とを超えた幸せをそなえるようにならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、あらゆる世界の悩み苦しむ人びとが私の智慧の光に照らされ、私とめぐりあうならば、見も心も固さがほぐれ、この世の悩み苦しみから解放されるであろう。もしそうならなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 今までは仏法は「空無相無願の法」であるとか、「仏道に限りなし」といわれていましたが、私は若い頃、迷うている私たちからいえば、仏道に限りはないかも知れぬが、さとった仏からいえば、ここまで来いよという「ここ」があるはずだと思いましたが、小乗仏教ではアラカンがそれであり、大乗仏教では五十二段の仏が究竟位であり、浄土教では、世自在王仏になることが理想目的で、その内容を明らかにしたものが、今までお話ししました、第二十一の願から第三十二の願までです。これから終りの四十八願までが、その目的に向かって行く、一歩一歩の足元を照らす現実の光です。前申しました灯台と提灯です。その中、第三十三の願と第三十四の願は、総願で、念仏生活の大体の輪郭を誓っているのです。
<中略>
「十方衆生」は、そこらにいるという無自覚の衆生のことですが、「諸仏の世界の衆生の類」は、自覚している衆生で、「正定聚不退転の菩薩」のことですから、ことさら衆生の「類」といわれているのでしょう。
「わが光明」とは、言うまでもなく、弥陀の光明のことですが、成就文にはその内容を、無量光、無辺光、無碍光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光の十二に分析されています。この一一の光明の働きが大切なのですが、今は略します。「わが光明を蒙って、その身に触れる」とは、心の眼が開いて、念仏する身になることです。『歎異抄』では「念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち摂取不捨の利益に預けしめたもう」というのですが、それは反対です。光明のお照らしが先で、念仏する身になるのです。金子先生も「念仏は自我崩壊の音」といっておられるでしょう。これは光明のお照らしによって、邪見の角を振り立てている自分の浅ましい相が見えると、おのずと念仏が出ることです。足利先生は「光が闇につき当る音が南無阿弥陀仏」といっておられます。
 心の眼を開く光明なら、心を照らすと言えばよかろうに、何ぜここに「その身に触れる」とあるのかといいますと、経に心とある時は、いつでも自覚や覚醒に関する時で、日常の生活に関する時には、必ず身といっています。弥陀に心光といわれる「智慧の光明」と、色光といわれる「身放の光明」があります。第十八願の「十方衆生」の心を呼びさますのは、智慧の光明、この第三十三願は生活を照らすのですから、身光の光明です。この願以下はすべて生活に関する願ですから、「その身に触れる」といったのでしょう。
<中略>
「身心柔軟」とは、身も心も素直になることです。柔軟心は信心の有っている一つの徳ですが、仏教ではこの柔軟心は非常に大切なものとして、八地以上の菩薩の普賢の徳といわれて、天親菩薩も「止観相順して柔軟心を生ず」といわれています。「止観」とは、心が静まって、宿業が見え浄土が見えることです。光明のお照らしによって、私たちの足元の現実が見えると同時に、それを照らしている浄土が見える。「前と後が同時に見える眼」のことを、信心の智慧というのです。柔軟心は素直な心ですが、あっち向け、はい。こっち向け、はいという、そういう素直さではありません。腹底に何ものが来てもびくともせぬ、金剛心と一味になった心です。『観無量寿経』には、それを浄土の池の徳を説く時、上を流れる水は柔軟で、さらさら流れるが、底に色とりどりの金剛の砂が敷かれていると説かれています。表は柔軟ですが、腹底はしっかりした金剛心があることを譬えたのでしょう。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 お念仏申すとは、周りの人の中に仏さまを見い出すことのできる目を頂くということです。「どんな時でも私がいるよ。力まず、きばらず、素直な目で周りの人を見てごらん」と、私の肩をもみほぐし、私の心を開いてくださる呼び声が「南無阿弥陀仏」です。  自ら申すお念仏が、如来のお呼び声となってわが耳にとどくとき、私たちは周りの人を素直に見ることができます。  素直に見ると、今まで周りの人は私に意地悪ばかりすると思いこんでいたが、そうでなかった。すぐに有頂天になる危ない私を心配して、「押さえてくださっていたのだな」。私の邪魔ばかりすると思っていた人も、ほっておいたらどこに行くやらわからない私を案じて、「規制していてくださったのだな」。あの人も、この人も、この私を案じて、いろんな形で私を護っておってくださったのだなということが見えてきます。「周りの人は鬼ではなく、諸仏であった」と、念仏申す中で、しみじみと受けとれるのです。  念仏の声となって、この身にふりそそいでくださる阿弥陀如来の光明によって、頑[かたくな]な私の心が開き、固い固い私の身が和らぐのです。  『親鸞』という小説を書いてくださった吉川英治氏は、「我れ以外、皆な我が師なり」といわれました。念仏申すものは、「我れ以外、皆な我が諸仏なり」という世界の中で日暮しさせて頂くのです。
<中略>
 さらに第三十三の成就文には、地獄や餓鬼・畜生の世界で苦しみ悩むものも、阿弥陀如来の光明、すなわち「南無阿弥陀仏」のお念仏に遇うことによって、やすらぎを得、二度と地獄・餓鬼・畜生という三途の世界にもどることなく、必ず、迷いの世界を離れることができるとあかしてくださっています。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

十方無量不可思議の諸仏世界とは、あらゆる世界ということです。そのあらゆる世界における衆生の類ですから、一切の菩薩より下である人間、さらに犬や猫という畜生の類まであらゆる生きとし生けるもの皆が幸せを受けるように致したいということであります。そんならそれが何によって幸せを得るのかといったら、極楽に生まれたらとおっしゃらないのです。信心を得たならばとおっしゃるのであります。そこに立ってはっきり眺めないと、この御本願の長い願文が子供だましの紙芝居を見ておるような感じになってくるのでありますが、極楽に生まれた衆生でなく、現在のわれわれということであります。十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類いとおっしゃるから、今のお前を除きはせぬ、ということであります。それをはっきり知っておかねばなりません。死んでからのことだと思うてはなりません。その衆生の類、我が光明を蒙りて、その身に触れん者、人はみな光明を蒙っておることはあってもその身に触れておらないのです。<中略>身に触れるということは心だけの幸せでなくして、身の幸せということであります。
<中略>
 そこで例の如くこの願成就の文ですが、この願成就の文はよく知られておる御文であって、またかと思われるほど毎度お話する御文でありますが、上巻にあります。

それ衆生ありて、このひかりにまふあふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心生ず。もし三塗勤苦のところにありても、この光明をみれば、みな休息するをえて、また苦悩無し。寿終之後に、みな解脱をかうぶる。 (二九)

こういう御文でありますが、これはこの願はたて放しでなしに、この本願が成就して実際人々の上に現われて、こうなっておるということを示されたのであります。ここに衆生があって、この光に遇えば(一)三垢消滅し、(二)身意柔軟にして。(三)歓喜踊躍し、(四)善心生ず、私はこの四つの事柄があると思う。これは嘘と思うなら、信心を得てみればよくわかることである。信ずる身の上になるならば必ずそうなる、釈尊が証明しておられるところであります。この光に遇えばということは、信じた人はこの御光に遇うということであるからして、願文でいえばその身に触れん者ということです。
<中略>
自分の幸せを喜び如来のお徳を喜んで、手の舞い足の踏むところを知らずという。そうしてその信の結果は善心が生ずると申されているのです。ところが真宗のお話を聞いて、皆都合のよいようにばかり解釈して、悪逆の凡夫は死ぬまで悪逆の凡夫だから、善心なんて起こそうと思うのが間違いである。しようと思ってもなりはせぬ。それが信の幸せである、法の幸せである、というたりして喜んでおる人が多くありますけれども、現に「善心生ず」とあります。
<中略>
 何も念仏を申してさえおれば、人が可愛がってくれて幸せになる。そういう簡単なことではなくて、幸せは天から降ってくるものでも地から涌いてくるものでもない。身意柔軟にして歓喜踊躍し善心生ずというようなことになってくるからして、やはり人も憎まない、可愛がる。喜んでおる顔を見て憎む者はない。この貪欲瞋恚に反対したことを善と思っておったらよろしいが、どれだけずつでも善意がそこから出てくる。草が生えてくるように思わぬところから善心が出てくる。
<中略>
かつては板敷山に親鸞聖人を殺害せんとまで企てた弁円が御弟子となった後、

山は山 川は川とてかはらねど
かはりはてたるわが心かな

我が身を振りかえって喜んだと申しつたえられています。これは善心が生じてきたことに驚いて自分が喜んだ歌だろうと思うのですが、如来の願によって三垢を消滅させて下さるし、その結果として身意が柔軟になるし、歓喜踊躍するようになるし、善心が生ずるようになる。この世において、信心のそのときから一生涯、そういう幸せをいただかsねばおかぬということが三十三の願力というものである。
<中略>
昔から摂取不捨ということをいうが、摂取不捨の御利益はどの願から出てくるのであろうか。こういうことが問題で、私どもも大学におる時分から書物を見たり人の議論で問題があるのですが、摂取不捨ということは光明だから十二の御本願であるとか、あるいは、摂取さられるのは、信ずる身の上になればこそであるから第十八願であるとか、また摂取せられて正定聚の位になるから十一願であろうというような説もある。もっと早くからわかっておる方もあったかも知らんが、私自身はわからないでおったのですが、『四十八誓願』というお書き物の中で三十三願は摂取不捨の願であるぞとお示し下されています。このことは、聖人独特の見方であり、いかにもと初めて落ち着くことができたのであります。
<中略>
聖徳太子の憲法の第一条に「和を以て貴しとす」とあります。「和」ということは何でもないことのように思っておりますが、口では和らぐとか平和とかいいますけれども、平和が得たいといって喧嘩をしておるのです。<中略>仏教の所詮は、我身一身の和を得、一家互いの和を得るということであります。われわれの心は、慈悲を起こすという心と欲を起こすという心と二つある。この二つが一つに融けあわないということから煩悶苦悩というものが起こってくるのです。しかし和ということは、二つもしくは二つ以上のものが融けて一つになってしまうことではなく、二つありながら戦いにならず、不和にならずということが和ということであります。和を以て貴しとするということは、本当に貴い宝とすべきものは「和」一つであるということを示しておるのです。しかもこれは自力努力によってできるものではないのですから、ちゃんとそれを御存知になって、憲法の第二条には、篤敬三宝章というものがあって、篤く三宝を敬え、仏と法と僧を敬え。この三宝というものを篤く敬うということによってのみ、この和というものが得られるのであると知らして下さっているのが憲法第二条であります。
<中略>
非常に怒りっぽかった人がだんだん怒らんようになる。欲深かった人が欲深くないようになる。慈悲心のなかったものが自分にも驚くように慈悲心が起こってくる。こういうように信心は仏心でありますから、知らず識らずの間に善心が起こる、変らぬ変らぬといっておるけれどもいつの間にか変わる。蓮如上人が、「別に仔御仕立候ことはなく候」とおっしゃる。お茶でも入れて濁った水が、信心喜ぶようになったら、ポンと心が真水のようにきれいになるというのではない。真水をぽちぽち注いで下さるように知らん間にその番茶の色が白くなってしまうというような風に、善き心に変えて下さるのである。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 二九=浄土真宗聖典註釈版 P29 『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 光明無量)

柔軟ということについて、インドの論家は水を喩えに出しています。水というものはいかなるものでも受け容れて、それを融解するものである。
<中略>
剛直の意志は必ず論理にしたがい筋にしたがっていかなければならない。善を容れ悪を弾くところの意志、それがすなわち剛直であります。それに対して柔軟の方は善悪あわせ容れて、それを純一にする感情である。感情というと悪く聞こえるかもしれませんが、いわゆる感情的なのではなくして、われわれの内面的なるやさしい感情が柔軟という心であります。それではわれわれの上に剛直の心というのはどうして出るか、ちょっとでも一分でも不正なことはしないという、その剛直の精神はどこから出てくるかといえば、道を念ずる道念が高く、そうして利害を忘れていくという、そういう修行の力で剛直ということが出てくる。利害に支配されるようでは、けっしてまっすぐにいくことはできない。利害を忘れてはじめて筋の正しいところの道を行くことができるのであります。ところが柔軟の心はどうも少しおもむきが違うようであります。柔軟の心は道を念じて利害を忘れるということよりも、むしろ自分の我慢の心を砕くのであります。道を念じて進むというところには、それは、まっすぐなところはありますけれども、柔軟というのはそのまっすぐなところにある一つの我慢の心が砕けて敬虔な感情が出てくる。
「止観相順、柔軟の心を成ず」と曇鸞の『論註』に出ていますが、「止」はすなわち浄土を念じ、「観」はすなわちこの世を見るといってよいでしょう。『論註』をこまかく申すといろいろのことがありますが、旨意はそういうことになります。平等を見るのが「止」であり、差別を見るのが「観」である。であるから、われわれが心を彼岸の浄土において、種々にこの世の相をあきらかに見ていく、そういうところに柔軟の心を成ずるといってあります。ですからわれわれは浄土を念ずるおちうことによって、ほんとうに人の世というものを見ていく。人間の生活というものをほんとうに眼を開いて見ていく。そうするとそこに柔軟の心を成ずる。我慢というものが砕けて、そこに柔らかなつつましい謙遜な感情というものが出てくるのであります。
<中略>
自分は正しい、人は間違っている、そういうことは人間としてどうしてもまぬがれぬようであります。しかし、柔軟心というのはそれが譲れて、そうではない、この世にはいろいろの人がありますから、いろいろの人のあるかぎり、虚偽の相を見ればその虚偽の中に自分を発見し、自分が真理であるならば、その真理を人の中にも見ていくというところに、さきほど申しました水のような心が出てくる。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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