ご本願を味わう 第二十五願

説一切智の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国中菩薩不能演説一切智者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智を演説することあたはずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がこの上ない智慧について自由に説法することができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
一切智: 完全なさとりの智慧。一切の存在について平等と差別、空と有を不二一体に悟りつくす仏の智慧。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう生ける者どもが皆、<一切を知る智>(=仏の智)をともなった法話を話し得ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者はみな、自分の迷う姿を明らかに映し出す目覚めた眼によって、人びとを教え導くということがなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

第二十二願からの流れを見ると、ずっと「諸仏を供養する」ことが貫かれています。それは「衆生を開化する」ことと、同時に自己を完成する道です。
<中略>
 経には「一切智」のことを、「一切種智」ともいっています。私はこれは血の中に宿された、過去幾千万年の一歩一歩の日暮しの経験を通して、人生そのものをさとった、体験としての智慧のことではないかと思っています。
<中略>
 ここに「演説する」とありますが、これは覚えたり知っておることを、口の先、頭の先でしゃべるのではなく、身業説法、体当たりの身を以ての説法、いわゆる捨て身の体当たりで事に当ってゆく。自己の全人格を生きることではないでしょうか。
<中略>
禅宗に「全機現」という言葉がありますが、まさにこのことと思います。
 しかも自己は虚心で、「我生きるにあらず、如来、我れに来たって、我れを生きるなり」。「仏の神力を承けて」の菩薩行です。この生活態度が出てくれば、出遇う人ごとから法を聞くことができるでしょう。大工さんに遇えば、大工の道を、画家に遇えば、絵の道を、碁打ちに遇えば、碁の道を、学者に遇えば、学問の道を。相手はこちらの命がけの求道精神に打たれて、その道の奥義を何でも、惜しみなく説いてくれるでしょう。もちろん、絵描きになるのでも、碁打ちになるのでもない。人生を聞くのです。「全ゆる道はローマに通ずる」で、どんな道でも、その根底は皆仏道につながっているのです。「説くは聞くなり」で、全身全霊を打ちこんで生きれば、山も説法し、川も説法し、日々人生勉強ができます。私はこの願を「人格全現の願」と呼んでいます。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 「無上の智慧」は、自らの思いや都合、すなわち、自分の色を全くつけないことによって恵まれるのです。すべての人も、ものも、自らの生命を精一ぱい表現し、私たちに語りかけています。それをそのまま受けとめることによって「無上の智慧」は開かれるのです。
<中略>
 上手に話そう、偉い人だと思われたい、何が何でもウンといわせてみせよう等の思いに執われているようでは「自在の説法」など、出来るはずがありません。
 自らの経験や学習したことを絶対視して、相手に御しつける知識の世界では、「自在の説法」は成立しません。
 相手が目で、態度で語りかけてくるところを、そのまま受けとめ、自らが法に遇ったよろこびを、自らの人生を通し、自らの言葉で語っていくとき、「自在の説法」が実現するのです。
 「無上の智慧」が「自在の説法」を開くのです。この「無上の智慧」をあたえ、「自在の説法」をする身にしてやろうと誓ってくださったのが第二十五の願です。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

仏の思召しを、仏の心の智慧を得て他の者に演説をして、他の者を教化してそうして他の者を助けるということをする。だからこれも死後の問題ではなくして、ここへくると大分わかってくるのです。一切智という仏の智慧を自分にいただいて、そうしてそれを説くことができなかったら我は仏にはならぬ。必ず一切智を持ちながら、仏の心を十分に話すことができるようにさせてやりたい。即ち下化衆生の念願が自在に果たせるようにならしめたいということであります。それを願成就の文には、

仏、阿難にかたりたまはく、かの仏国に生ずる諸菩薩等、講説すべきところにはつねに正法をのべ、智慧に随順して違[い]なく失[しつ]なし。 (四九)※

とあります。  ただ物質的に幸せになるというだけで喜んでおるのは人間でありますが、他の者を化することを目的にするのは菩薩であります。それは話さなければならぬときには常に正しき法を宣べ、こういうときにはこういう話をしたらよい、こういうときには話はしない方がよいということがわかって、自分の智慧に随ってしかも違うことがなく失錯[しっさく]がない。仏が人間の根機相応にお説きになるように、仏のなされ方に順じてこの菩薩方も一切智を話していかれる。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 四九 =浄土真宗聖典註釈版 P50『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生果)

われわれは外国からきた物理学や数学を学んでいるのですが、そういう自然科学というものにも、仏教精神をもって見開いていくべき点があるはずであります。
<中略>
行学解学ということは善導大師の言葉ですが、往相の行学、すなわちわれわれは願往生のためには、「本願を信じ念仏申せば仏になる」その道理を学ぶ。念仏申すほか何もいらないのであります。けれども、環相の解学としては、花を活ける人の話を聞けばその花を活ける道があります。茶の湯をする人の話を聞けばその道があります。そこに一切智があるのでありまして、そうすれば茶の湯をする人には茶の湯の道から願往生の道が開けてくるにちがいない。そういうことで、われわれはもうすこし胸をひろくして考えることはできないでしょうか。一切智は何でも知っているというけれども、そうではない。おのずからそこへ何でも現われてくるのである。何でも領解されてくるのである。つまり聞くのです。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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