世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土の生ける者どもが、わたくしの名を聞いて、名を聞いただけで、覚りの本質の究極に至るまでの間、浄らかな行いを実行するようにならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳<チベット訳>)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、私たちの思いも及ばない世界中の人びとが私の名、南無阿弥陀仏を聞いて、いのち終るとき、その人は一生涯正しい道を歩んで目覚めた人になったと、称賛されるに違いない。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
この願は対告衆(呼びかけられた相手のこと)は、「諸仏の世界の諸の菩薩衆」です。「菩薩」とは、自己が置かれている歴史的現実を踏まえて、そこにおいての自己の生きる真実の道を求める求道者で、つまり自覚した正定聚不退転の菩薩のことです。「梵行」とは、清浄の行ということですが、それに二つの意味があって、一つは、我執のない、まごころから出る行為のことですが、もう一つは、男女間の性行為をしないことをいいます。ここでは前の女人成仏の願からの一連の流れで、性行為をしないことだろうと思います。
<中略>
仏教でも、妻を持たない宗派はたくさんあります。日本でも昔は神に仕えるものは、生娘でした。今日でも田植えをする女のことを早乙女といいますが、皆セックスはけがれたものという思想から来ているのです。
それでは何ぜここで、この世で常に梵行を修するようにといわずに、「わが名字を聞けば、寿終って後、常に梵行を修する」と誓っておるのでしょうか。出家者は性行為は禁じられていますが、「菩薩」は、家庭にあって、人間としての真実の生き方を求める、在家の求道者ですから、妻との性行為は当然であります。性行為をしなければ、子供も生まれず、子孫は絶えてしまいます。出家仏教と在家仏教では、価値観が変って来たのです。
<中略>
この「寿終って後」も、前の第三十五の願の時申しましたように、死んで後のことではなく、生きている間の深い懺悔の言葉です。性行為は人間にとって、大切なものです。それは唯だ種族保存の本能からだけでなく、夫婦和合の秘訣でもあるのです。「夫婦げんかは一晩寝れば治る」というでしょう。性行為はスキンシップの最大のもので、肌を許すことは、最も親しさをあらわすことです。『華厳経』にも、バスミッタ女が善財童子に、そのことを教えています。私の側に坐ってみなさい。こういうさとりが開けますよ。私の手に触ってみなさい。こういうさとりが開けますよ。私とキッスしてみなさい。私を抱いてみなさい。こういうさとりが開けますよと、次第に善財童子を導いて、性の有っている意味を教えています。それはまた「この世は酒と女」といわれているように、人間に与えられた最大の楽しみでもあります。
しかし動物や小児族ならいざ知らず、理性を有つ人間には、性行為には、満足と同時に、何ともいえぬ淋しさがあります。一体この淋しさは何でしょう。<中略>それは人間に与えられた貴重な楽しみではあるが、心からすべてを挙げて、それに耽溺することを許さぬものが、内心深くにあります。それは仏性の声です。
<中略>
「寿終って後」には、「常に梵行を修し」たいという悲痛は、そのまま現在の願いの深さですが、それによって修せぬままに修している、「不断煩悩得涅槃」の徳が与えられるのでしょう。「愛欲即是道」ともいわれていますが、こういう境地をいうのでしょうか。
<中略>
貝原益軒は『養生訓』の中に、自分はりっぱな子供を産むために、夜は疲れているから、元気な昼の日なかに、玄関に「面会謝絶」の札を下げて、妻と一しょに寝るといっています。
「仏道を成ずるに至る」とは、仏になったら、性行為は用事がなくなるということではなく、常にその遊戯性を自覚すれば、「寿終って後」でなく、常にその時性行為において、仏道が現成することをいうのでしょう。「愛欲即是道」ということをいうのではないでしょうか。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
信心とは、私が阿弥陀如来を信じた心ではなく、阿弥陀如来の「いつでもあなたを案じている私がいます」と、私たちのために名のりつづけてくださるみ名を聞いて、阿弥陀如来に遇った相です。言葉をかえれば、阿弥陀如来のお心に目が覚めたということです。信心とは目覚めであり、正しく智慧なのです。
<中略>
次に「命終って」ということですが、私たちは、命終るというと、すぐにこの身が亡んでいくこと、すなわち死を考えますが、親鸞聖人は、ただこの身の終わる死だけを命終とは考えられませんでした。親鸞聖人は本願信受の時、すなわち「わたし(阿弥陀如来)の名を聞いた」時こそ、命終であると、『愚禿鈔』に、
本願を信受するは、前念命終なり
即得往生は、後念即生なり
とあかしてくださいました。ここでいう命終とは、この身の終わりということではなく、この心の命の終わりということなのです。この心とは、どういう心かといいますと「我が身をたのみ我が心をたのみ、我が力をはげみ我がさまざまな善根をたのむ」(一念多念証文)心なのです。すなわち、「儂[わし]が儂[わし]がの自力心です。
確かな阿弥陀如来のお心、本願との出遇いは、私たちの自力心の終わるときなのです。そのことを、親鸞聖人は、「命終なり」といわれたのです。
<中略>
浄の反対は不浄であり、穢です。日本にはこの浄・不浄といいますか、浄・穢というものの見方が古来より強く根づいているようです。しかし、三十六の願に誓われている「浄らか」という概念は仏教でいう浄で、日本の古来からの考え方である不浄や穢に対する浄ではありません。どういうことかといいますと、日本古来から考えられてきた代表的な不浄・穢の考え方は、女性の生理である血が不浄である(赤不浄・血穢)とか、「いのち」の誕生であるお産が不浄である(白不浄・産不浄)とか、死が不浄である(黒不浄・死穢)という三不浄・三穢という考え方です。このような三不浄・三穢という考え方が部落差別・女性差別を温存し、助長する基盤になってきました。日本古来のこのような考え方からいいますと、浄は、不浄の状態にあるものが喪に服し、喪がはれた状態のことですし、また大祓[おおはらい]、禊[みそぎ]、清め等をして穢から浄に帰るという考え方です。この不浄なり、穢から浄にもどる儀式が、儀礼の中心にすえられているのが日本古来からの宗教です。
仏教でも、浄・穢ということはいいます。浄土・穢土というのがそれですが、仏教でいう穢は決して三不浄でもなければ、三穢でもありません。ですから、御祓いをし、禊をし、清めをして浄になるというようなことでは決してないのです。
<中略>
朋と、共に、倶に、同じくということが、仏教でいう浄なのです。ですから「浄らかな行を修めて」とは、「名を聞いた」信心の人は「自分さえよければいい」という行動ではなく、つねに、朋と、共に、倶に、同じというところに立って行動していくということなのです。
そのような行動といいますか、生き方が正しく「仏道を成しとげる」という人生なのです。仏とは、縁起の法に目覚めた人ということです。
<中略>
仏教ではそのような生き方を自利利他円満というのです。それは「つねに浄らかな行を修め」るということと別にある道ではありません。
「つねに浄らかな行を修め」るままが、「仏道を成しとげる」ことなのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
梵という字はインドの字を訳したのですが、清浄ということでありまして、梵行は清浄の行ということであります。そこで二十二願の別益であるとしますと、梵行というのはあの普賢の行であります。自ら仏を供養してますます自分の法徳増長してゆく。そうして同時に他の者に本願を信ぜしめて助けるということに力をつくすということが普賢の行ということであります。言い換えれば自利の行をいよいよ勉強するようになり、人を助けるという化他の行を修めて行くようにならしめたい、そうならしねばおかぬということであります。信を得た者は、埒[らち]あいたというので左団扇[ひだりうちわ]で遊んでおるかというと、決してそうでない。本当の「聞我名字」の人ならば、いよいよ自利のために尽し、利他のために尽してあの普賢の行願を一生懸命に行うように、是非ともならしめたいというのです。信心の御利益としてそういうようにならしめたいという願であります。
<中略>
・・・この願成就の文は、下巻に、
つねによくその大悲を修行するものなり。深遠微妙[じんおんみみょう]にして覆載[ふさい]せずということなし。一乗を究竟[くきょう]して彼岸にいたり。(五〇)※
とある所であります。それでなおよくはっきりします。信の人は常にこの願力によって、よく大悲を行ずるものとなり、利他の大悲心を実行していく人である。その心の愚というものが深遠微妙にして覆載せざることなし、ほかの人の上にその慈悲が至り届いておる。覆載は人の上を覆いまた乗せるという字ですから、こういうようにしてその人を助けようとせられる心持ちです。一乗を究竟して彼岸に至る。自分も人もただ助かる道はこれ一つ、こういうことがはっきりして、そうして仏果涅槃に至るまで、そういうことを仕事としていく。そういうようになられるということは、この願の力というものであることを示しておられるのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
「梵行」というのは清浄の行でありまして、男女の間の美しいことであります。つまりそこにいわゆる汚らわしいものが入ってこない。それが常修梵行であります。なぜここでとくに断ってあるかというと、どうも私は第三十五の願に「女人成仏の願」が出たものですから、それについてきている自然の順序ではなかろうかと思うのであります。
<中略>
むろん必ずしもそういうふうに解釈しないでも「常修梵行」ということとは、単に常に純粋の行をするというだけでよいのでありますけれども、この願の聨絡[れんみゃく]というものを考えますというと、女子求道者もあり、男子求道者もあって、しかもともに法を愛楽し法をたのしんで、そうしてその間に何らの穢れがないのである。それで常修梵行ということがここへ現われてきたように思われるのであります。かくのごとくして男性は自己の内部にある女性を自覚し、女性は自分の中に男性の光を見出していくのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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