ご本願を味わう 第二十九願

得弁才智の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国中菩薩若受読経法諷誦持説而不得弁才智慧者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し諷誦持説して、弁才智慧を得ずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が教えを受け、口にとなえて心にたもち、人々に説き聞かせて、心のままに弁舌をふるう智慧を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
(弁才智慧:自由自在な理解力および言語表現能力。四無碍智のこと)

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる或る生ける者が、(法を)説示したり、(経文を)誦えたりせねばならぬことがあったとして、(そのときに)かれらすべてが、とどこおりの無い理解表現力を得ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者が、教えをひもとき、その教えに親しみ、広大な目覚めた心とめぐりあうことがなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 こう見てくると、願の当面は法師に対する願のように見えます。仏法を正しく伝えねばならぬ僧侶が、経典は読んでいても、経の意は今日なお解読されていない現状を見ても、この願を誓わねばおれなかった悲痛さも解ります。仏とは世間解のことであり、経は人生とは何かを説き明かしたものですから、経典を読むことによって、心の眼を開き、その開けた新しい眼を以て、人生を見直すことが大切なのですが、今日の仏教学者のほとんどが、経典のための学問に終って、大学の教室や寺院の本堂の中の仏教に閉じこめられて、生まな食うか食われるかの歴史的現実に立って、自己と人生を新しく開拓してゆく道を仏典に問う人がいない。たかだか「一切経の中の浄土の三部経を読むのではなく、浄土三部経の中の一切経を読まねばならぬ」という、象牙の塔の観念遊戯にふけっているのです。人類が滅びるか生き残るかという、今日の社会的危機を一身に背負うて、そこに生きる新しい道を創造しようとする、歴史的課題をひっさげて、経典の中から「時代教学」を学んで行こうとする「浄土の菩薩」は、一人もいないのでしょうか。
 しかし私はこの願は、法師といわれる僧侶とか大学教授だけのものではなく、人生道場の菩薩たちのことだろうと思います。ここにある「経法」は、出家仏教の原始経典のことではなく、大乗経典を指しているに違いありません。特にこの『大無量寿経』でしょう。大乗経典は正しい人生観を明らかにしようとし、そこに生きる人間の真実の道を説いたものです。今日でいう人生読本です。それは寺院の経蔵や大学の図書館に山と積まれた、文字化された書物だけのことではありません。三千大千世界の至る所に、「今現に説かれている」、声のない「無字の経」、「無説の法」でしょう。「論語読みの論語知らず」は、たんに机の前に坐って、経典の「お取次ぎ」をするもの知りだけではなく、生きた人生を旅しながら、人生を知らず、自己の孤独と虚しさをかこつ、人生大学の落第生の何と多いことでしょうか。
<中略>
嫁がこう言うたああ言うた。昔はこうじゃったああじゃったと、世間の噂さ話や小言なら、壁の向こうに蟻がほうたことも知っており、何十年昔に誰それが屁をひったことも憶えているのに、肝心な人生とは何か、自分はどういうものか、一向に解ってはいません。そういう「人生歩きの人生知らず」にならぬように、どんな事件が降りかかって来ようが、どんな相手にぶち当ろうが、人生の一番土俵の上で、堂々と相撲が取れる身になってくれということだろうと思います。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 頭で受けとめたのを理解といいます。上手に説明をしてもらいますと、私たちは教法を理解することができます。しかし、理解はどこまでも知の問題であり、頭だけの問題です。教法を頭のみで受けとめた人を、「もの知り同行」といいます。知識も大切ですから、必要がないとはいいませんが、本当に教法をいただくということにはなりません。
 心で受けとめたのを共感といいます。感情を交えた上手なお話にあいますと、私たちはお話に共感することができます。共感は、どちらかといいますと、教法をいただくというよりもお話に酔うという面が強いようです。それは情の問題であり、心だけの問題です。
<中略>
 身体で受けとめてこそ領解[りょうげ]であり、教法をいただいたということになるのです。領解とは領受解了[りょうじゅげりょう]ということで、全身で受けとめこの身がうなづくということです。それは、決して上手なお話によってあたえられるものではありません。それは、教法に遇った人のよろこびに遇うことによってのみ、実現するのです。すなわち、「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずる」人に遇うことによって、この身がうなづくのです。
<中略>
 教法をいただいて経典を読誦させて頂く、経典を幾度も読誦することによって、教法をこの身にいただくのです。そこに領解があり、信心があるのです。
 信心という言葉には、心という字が使われていますから、心の問題のように思っておられる人が多いようですが、信心はこの身の問題なのです。親鸞聖人は「愚身が信心」といわれ、蓮如上人は「わが身の一心」と、この身があきらかになることを信心といわれたのです。
 第二十九の願は、前半において、教法をしっかりと受けとめる人間にしてやりたいと誓い、後半において、身で受けとめた教法を自在に他の人に話す力をあたえてやろうと誓ってくださったのです。
 この第二十九の願によって、「自信教人信」が私のものとなるのです。
<中略>
 「聞いた所を、精いっぱい話してごらん。獲た所を力いっぱい身体で表現してごらん。誰が何といおうと、どんな結果が出ようが、私がここにいます何の心配もありません」と呼びかけてくださる阿弥陀如来の声にはげまされ、精いっぱい、力いっぱい生きる時、法を説くことに於ても、「自在の弁才智恵が得られ」るのです。
 聞いていないことを、獲ていないことを話そうと思えば、自在にとはいきませんし、また背のびしたり、体裁にとらわれては、自在にとはいきません。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より


 この成就の文は、

無礙智をもて人のために演説す。ひとしく三界の空無所有なるを観じて。(五〇)

とあります。三界というのは欲界・色界・無色界でありますが、我々の住むこの世界です。この世界の人々の悩んでおり助かりたいと思っておる者に対して、自由に話せる無礙智を与えてやりたいのであり、そうしてその無礙智で自由自在にそれを演説するようにならしめたいのであり、しかも空にして所有なし。その人の心を見て話をするけれども、自分の手柄にするとか欲とかいうものがないということでありましょう。所有は所有欲で、これだけやったという自分の手柄、あるいは執着する欲というようなものがないようにならしめたい、ということであります。  次には、

仏法を志求し、もろもろの弁才を具して衆生の煩悩のうれへを除滅す。(五〇)

とあります。だから信ずるということはそういうことにならしめて下さるということであります。
 弁才智慧ということについて、四無礙ということがあります。法無礙弁・義無礙弁・辞無礙弁・楽説無礙弁・でありますが、この弁才と智慧というものを与えてやりたいのです。
一つには法無礙弁というのは、経法を読誦してそれがわかるようにならしめたいということ。無礙は行きあたることなしに自由にわかる。話すべき法というものが自在に自分のものになり、その法を自由に言い顕わすようになる。これから考えますと、わかってはいるが言えないとよくいうことだけれども、それは信がないあら言えないということになります。
<中略>
 それから義無礙弁は、そこに顕わされておるその意味、その義理、その筋合というものを自由に話せるようにさせてやりたいというのであります。義に関する無礙弁を与えてやりたいということであります。
 第三は辞無礙弁といいまして、昔の人はどこの国の言葉でも知っているといって、外国語でも知っているように説明しておったのでありますが、蓮如上人が、信心安心といっても愚かな人にわからぬから、「弥陀たのめ」といったら誰にでもわかると申されて、あんなにわかり易く法を説かれたのはこの願力から出てくる智慧でありましょう。どういう人にもわかる言葉で自由に話しうるように、ことばが自由につかえるようになるということが辞無礙弁であります。しかるにそれがうまくいかないんで私どもも困るのです。けれども、学者なら学者、婦人なら婦人、子供なら子供、寒いところなら寒いところ、暑いところなら暑いところの人々にわかりやすい言葉をもって話をすることが自由にできるようにならしめたいということが辞無礙弁というのであります。
 第四番目は、楽説無礙弁、「楽」は「至心信楽」の「楽」で「願う」とか「欲する」tかいう言葉であります。その人がどんな苦しみを持ち、どういう願いをもっておるかということが自分にわかって、その人の願いに即応するように弁才を働かすというような智慧にさせてやりたいということであります。だから自分が無理から勉強しなくても信心を得れば、必ず如来の願力によって、信心の智慧によってそういう身にならしめてくださるところであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 五〇=浄土真宗聖典註釈版 P51 『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生果)

これはすなわち聞経であります。あるいは読経でもよろしい。さいほど申しましたように、法師はことに聖典を聞き、お聖教を開いてその中に流れているところの何かを感じ受け取っていかねばならない。仏を見ると同時に、経法を読誦し、お経を開きお経を読んで、そうしてそれを諷誦持説、すなわち人に説いていく、その弁才智慧を得られなかったならば正覚は取らないといってあるのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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