世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、わたくしの寿命の量が、たとえ百千億・百万劫(というような無限に近い数まで)数えたとしても、(とにかく)限界のあるものとされるようであったら、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、どんな境遇にある人も、必ず素晴らしいいのちを生きる喜びに包まれる。もしそのいのちを感じられない人がいれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
さてこの光明と寿命をどう見るか。今までの学者の説は、大体四通りに分けられます。第一は、光明は智慧であり、寿命は慈悲である。阿弥陀仏は、智慧限りない、慈悲限りない仏であるといっています。第二は、仏は光明である。寿命は、その光明が時間的にいつまでも連続してゆくことで、寿命という実体があるのではないという。これは「光明主義」といわれる、ほとんどの宗教が、こういう考え方です。第三は、光明は宇宙の大真理を象徴し、寿命は宇宙の大生命のことであるという。これは最近のインテリがよくいっているでしょう。植物も動物も、人間も、その根元は一つで、万物同根であるという思想ですが、こういう考えの人は、真言宗の大日如来も、キリスト教の神も、真宗の阿弥陀如来も、皆同じものである。民族感情が違うので、表現の仕方が異なっているだけであるといっています。しかしこれらの考え方は、『大無量寿経』が読めず、親鸞聖人の言われることを無視して、自分勝手なことをいっているのです。宇宙の大真理とか、宇宙の大生命といわれるものは、誰が造ったものでもありません。始めからあるものです。「まず、神ありき」で、神を造ったものはありません。しかし阿弥陀如来は、始めなかったものが、新たに仏になったものです。また弥陀の浄土も、新たに成就された世界です。親鸞聖人は「色もない形もない、一如の世界から、色を現わし形を示して、法蔵菩薩と名告って、不可思議の四十八の大誓願を発こしましまして」、今から十劫の昔に新たに仏になった、「本願成就の報仏」であり、弥陀の浄土は「真実報土」であり、「青色青光、白色白光」に輝く「無量光明土」であり、「蓮華蔵世界」であるといっておられるのです。第四は、寿命は主体を現わし、光明はその働き、仏教では用といっています。寿命が体で、光明は寿命の用きを現わしているというのです。私はこれが『大無量寿経』の正しい見方だと思います。この経の名も『無量寿経』でしょう。
<中略>
ここでいう「寿命」とは、仏のいのちのことで、まことそのもののことです。まとことはどういうもののことでしょうか。「まこととは、まことよ」と、日本人はとかく「こと挙げせぬ国」といわれているように、直観力は勝れているのですが、「理屈をいうな」「文句はいらぬ」と、どうも言葉に対する反省や理解に欠けていて、分析力が足りないようです。その点中国人は非常に分析力が発達しています。まことを真とか実とか誠とか、いろいろに使い分けて、その意味をはっきりさせています。仏教では、まことはそこにじっとしてあるものではなく、常に自己を現わし、自己を創造して止まぬものであるといっています。仏が仏であることの意義をあらしめるものは、常に仏らしいまことの仏でありたい、仏らしいまことの仏になりたいという菩提心です。この菩提心こそ仏のいのちです。
<中略>
真宗ではよく「生きる生きると思っていたが、生きるのではない。生かされているのである。勿体ない」といっていますが、それは偉大な力に遇うた一念の感情で、間違いではありませんが、そこに止まることが悪いのです。事実の凝視が足りません。生かされるだけで、生きているものは、何一つありません。「自然は親しまねばなりませんが、自然は恐ろしいものでもあります」といって聞かせた、篤農家がありました。「そして大地はあらゆるものを育てますが、また あらゆるものを腐らすのも大地です」とつけ加えました。自ら生きようとする生命力のないものは、皆滅ぼされてしまいます。
<中略>
自己が誕生して、我ありと自覚したとたんに、自己に背くものが見える。それは我なしという悲しみです。その悲しみの涙の底から、我とならんと、本来の自己が起ち上がる。その心を仏性とも菩提心ともいうのです。菩提心の外に自己はありません。天親菩薩は、人とはどういうものをいうのか。手足があれば人間か。たとい手足があっても、仏性がなければ人間とはいわぬといっておられます。この願はまさに、弥陀が弥陀自身を発見した、喜びの願であると同時に、自己に背いている自己を見出した悲しみの願でもあります。私は四十八願中の絶唱だと思っています。
<中略>
この願の成就の文を読んで見ると、無量寿仏の寿命が長いことと、浄土の聖衆の寿命の長いことと、聖衆が無数であることと、無量寿仏のいのちが一切の世界を持っていると説いています。結論から先に、かんたんに申しますと、「無量寿国」とは創造的世界ということであり、「無量寿仏」とは、創造的世界の創造的主体のことであると、私は思っています。したがって「無量寿」とは、第一の寿命が長いとは、弥陀の浄土は歴史的世界であり、しかもそれは真実そのものが、歴史となって限りなく自己を具体化するものであることを現わしているのだと思います。このことについても説明が要りますが、今は結論だけに止めておきます。第二は、無数の命。これは歴史を創造する正定聚不退転の菩薩が、数限りがないこと。第三は、無数の菩薩を産み出す唯だ一つの寿という、三つの意味があるようです。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
釈尊が問題にされたのは、過去でも、未来でもなく、正[まさ]しく現在です。過去・未来の存在の有無を議論しても、それは議論のための議論であり、今、ここにいる私の苦悩の解決には何の力にもなりません。力にならないだけではなく、そのような議論をしている間にも苦悩は深まるばかりです。そのような、議論のための議論を戯論といい、釈尊の一番遠ざけられたことです。
このように、釈尊の基本姿勢を学びますと、前生・後生をさかんにいう浄土真宗のみ教えは、一体どうなっているのかと思われる人もあるでしょう。
確かに、浄土真宗のお話の中には、「後生の一大事」という言葉がよくでてきますし、時には、前生がどうのこうのという話もあります。
今生しか語られなかった釈尊の教えと、前生・後生を語る浄土真宗は違う教えなのでしょうか。決して、そうではありません。釈尊がいわれた今生は、決して一過性の今ではありません。前生・後生をつつんだ今生なのです。逆にいいますと、今生は前生・後生にまでひろがることによって、完結するのです。
今生しか説かなかった釈尊に本生話(ジャータカ)があります。本生話とは、釈尊がこの世にお生まれいなる以前のことが語られた物語です。
なにかおかしいような気もしますが、釈尊の素晴らしさを語るためには、今生だけでは語りつくせないのです。すなわち釈尊の素晴らしさの奥底まで語ろうとするとき、どうしても前生から語らねば語りつくせないのです。釈尊の本生話は、ただ物語として前生でこんなことをした人が、この世にお生まれになって釈尊という素晴らしい人になったという物語ではなく、今生の釈尊の素晴らしさを語るためのものであります。
ですから、前生があって今生があるというのではなく、今生の内容として前生が語られるのです。後生についても同じことです。今生があって後生があるというのではなく、今生の内容として後生が語られるのです。
私たちは単純に、前生があって、今生があって、後生があると考えたり、あるのは近視眼的に今生だけで、前生や後生はないと考えています。本当は、前生と後生を内容としてつつんだ今生を行きつづけているのです。
<中略>
今生の私を本当に知るためには、前生・後生をぬきにしては考えられません。いつのころからか身についたかわからないほど深い深い根をもった私の罪悪、いつ尽きるかもわからないほど、自分ではどうにもならない私。どこまでさかのぼればいいのかわからない私の罪悪、どこまでいけば尽きるかわからない私の執念。これらを、いやな顔一つせずに担ってやろうといってくださる方があります。いつはじまったかもわからない前生から、いつ果てるかもわからない後生まで一貫して私を見護り、抱きしめつづけてくださる方、それが阿弥陀如来であります。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
仏、阿難にかたりたまはく、また無量寿仏は、寿命長久にして、称計すべからず。なんぢ、むしろしれりや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身をえて、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべてともに集会し、おもひをもはらにし、心をひとつにし、その智力をつくして、百千万劫にをいて、ことごとくともに推算して、その寿命長遠のかずをはからん。窮尽してその限極をしることあたはじ。(三〇)※
釈尊は寿命無量の本願の通りに成就して、寿命無量の仏になられておるということを紹介せられるのに、こういったたとえを出して、お前わかるかどうか、たとえて言うならば、十方世界の無量の衆生ですから、一つの世界でない、あらゆる衆生が、衆生でありますから凡夫でしょう。あるいはもっと広くあるいはもっともっと広く、蚤でも虱でも、馬でも牛でもといいましょうか、そういうまあ生きとし生けるもの、それがみんな人生の身になり、それが悉く声聞、縁覚のような智慧を得て、それが又一緒に集まって――大分話しが大きい――ぼんやりしておるのでない、思を禅かにし、あれを思い、これを思う心をやめて、心を一つにして、熱心にその智力をつくして、智慧の一切を尽くして百千万劫という長い間、悉く皆が一緒にこの如来の御寿命を計算しようとしても、その御寿命の長さの限りというものを知ることができない。このように言えば無量寿の無量ということの意味がわかるのですね。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
・・・人間の純粋の精神は生まれたときは何の働きもないから、何も一向にわからない。人間の精神がだんだん覚醒してだんだん歳月がたつにしたがって若くなってくる。若くなっていかないのはそれが寿命でないからであります。体は生きていても寿命はない。死んでいるのであります。あの人は寿命があるというのは、つまり歳をとればとるほど若くなるということだと、こういうふうに考えたらどうでしょう。つまり精神が発達するのである。敏感になり物の感じがよくなれば、それだけ歳がたつにしたがってだんだん若くなるのだ。こういうふうにますます若くなっていくことを寿命無量というのだ。こういったらはっきりわかるのであります。そうしますと、すべての人の悩みを見てわが悩みと感じるということは、子供にはできないことでしょう。人間の精神がほんとうに伸びていきますと、他の悩みはわが悩みである。他の喜びはわが喜びである、という若々しい生命が出てくる。その若々しい精神になって、それがいつまでたっても退転しないことを寿命無量というのである。
<中略>
・・・事実としてあるものは現在の刹那よりほかないのでありますが、その刹那の現在の生命は際の知らない底から湧き出ている。泉のように湧き出ています。その泉の湧き出ているときはいつでも現在でありましょう。されどその泉は、常に未来から過去へと流れ流れて止まらないものであります。それゆえに過去と未来とをもたない現在というものはないのであります。私共の意識はそれを知っています。すなわち現在の意識は、常に現在の意識内容として過去と未来とをもっているのであります。この意識があってわれわれは生命があるといわれるのであります。
だから過去といっても未来といっても、いつでも現在の感じである。その現在が無限の過去をもち無限の未来をもっている。それがすなわち寿命無量なのであります。まことにそうであってほしい。そうでなければ寿命無量は張合いがない。ただ無暗に長く生きていて、私は長生きをしましたというのは、単なる過去の時間の生命であって、自証の命ではない。そういうようにいいますと、幾分わかったように思うのであります。つまりわれわれが内にみずから感じるところにほんとうの命というものがある。その命のあるところに過去があって未来がある。そうしてまたそこに同体の大慈悲というものがある。そこにほんとうにすべての人がみな命を感じ、一つとなっていうところの寿命無量というものがあるのであります。その光とその命とは、さきほど申しましたように、われわれがついに帰すべきところ、最後の魂の郷里であるべき涅槃界から現れたものであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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