世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸々の仏国土からでも同時に正しいい理法を聞くだけの超人的な聴覚(天耳通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、人びとが見せかけの言葉の快不快にとらわれて、目覚めた人の言葉が聞こえてこないなどということはない。もしそのようなことがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
「悉く受持する」とは、相手の本心の無言の訴えが聞こえるだけでなく、それを心に刻んで、「法を聞いて能く忘れず」、いつも心に憶念して、身に受けて、いつかは、実行できるようになることです。その時は憶えていても、「のど元過ぎれば、熱さを忘れ」たでは困ります。相手の本心といっても、それは個人的なわがままの心ではありませんよ。だだをこねているその心の奥にある、本心の無言の訴えが聞こえることです。それはもちろん自分の中に、宿業の自分と、宿業を背負うている諸仏といわれる自分が、生まれていなければ、天眼も天耳も開けません。
<中略>
「百千億ナユタの諸仏の説く所」が聞こえる耳です。それは個人を超えた全人類の深い魂の訴えが聞こえる耳でしょう。それは唯だ世界史を背負うた人生創造の菩薩にして初めて聞こえる声です。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
結局、私たちは疑いによって心を閉じ、耳を塞いでいるのです。即ち、疑いによって闇の世界に住むのです。
しかし、長く闇の世界に住んでいると、自分が闇の世界にいることがわからなくなり、どうせこの世は食うか
食われるか、騙すか騙されるしかない世界だと割り切り、その中で一喜一憂しながら疲れ果てて淋しく生命終っていくのです。
どうしたら闇の世界からでることができるかということが、闇の世界に住むものの一番大事な課題、即ち一大事なのです。
<中略>
では、どうすれば疑いが晴れるでしょうか。疑いようのない真実に遇わない限り、疑いは晴れません。どんなことがあっても裏切ることも、あざむくこともない真実に遇う以外、疑いの晴れる道はありません。
<中略>
今まで、私たちは自分をとりまく人々が諸仏であるなどと思ったことはありません。諸仏と思うどころか、皆敵だと思って、油断はできない、気は許せない、とかたくなって生きてきました。そうでなかったのです。わたしをとりまく一切が諸仏であったのです。やさしい諸仏も、厳しい諸仏も、あたたかく見護ってくださる諸仏も、重い試練をあたえてくださる諸仏もいてくださいます。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
自然の妙声、その所応にしたがひて、きこえざるものなし。あるひは仏声をきき、あるひは法声をきき、あるいは僧声をきく。あるひは寂静のこゑ、空無我のこゑ、大慈悲のこゑ、波羅蜜のこゑ、あるいは十力・無畏・不共法のこゑ、諸通慧のこゑ、無所作のこゑ、不起滅のこゑ、無生忍のこゑ、乃至、甘露潅頂、もろもろの妙法のこゑ、かくのごときらのこゑ、その所聞にかなひて。(三五)※そこまでが願成就の文で、あとには、
歓喜無量なり。
と書いてあります。そういう願成就の文のお指図からこの願文をいただくというと、国中人天は天耳智通を得る、勝れたる耳に関する心の通力を得る。
<中略>
例えば水の声でも風の声でも又人の声でも、いろいろの境遇からでも、いろいろ尊い法を聞く力をいただくということになるのであります。この成就の文から見ますと、「自然の妙声、その所応にしたがひて、きこえざるものなし」国中の人天は、皆水のみならず風のみならずそのいろいろのものから尊い仏の声を聞き、法の声を聞き、僧の声を聞き、三宝の声を聞く。仏法者の喜びというものはそういうものだろうと思うのです。
<中略>
法を聞いてわかるようになるからして、すべてのところから涅槃寂静の声が聞こえて来る。あるいは空無我、世界は空であり、無我であるという声が聞こえるようになったり、あるいは水の声を聞き、人の声を聞き、風の声を聞いておるところに、仏の大慈悲の声が聞こえて来たり、布施・持戒・忍辱・精進。禅定・智慧という六波羅蜜の声が来たりするのです。あるいは仏の十力、無畏というようなこと、不共法というような尊い法の声が聞こえて来る。
<中略>
「かくのごときらのこゑ、その所聞にかなひて。歓喜無量なり」聞けば聞くほどそうなれるのが信心の徳、それは自分がえらいのでなしに、願力の徳として此の世におる間から、風なり水なり人の声なり、いろいろの境遇の者からいろいろの声がして、それを仏の声を聞かしてもらえ、味わわせて貰えるような幸せをいただくようにしてやらねばおかん。こういうことであるということに味わわせていただいておるのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
ここではとくに「諸仏の所説を聞いて、悉く受持せざるに」とありますから天耳通はとくに聞法せしめんとの願と申すべきでしょうか。これをもって推すに、六神通の願は六神通をすべて仏法の智慧を増進することのために誓われてあるもののようであります。これは別して意をとどめるべきことでなければなりません。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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