世尊よ。かのわたくしの仏国土において、ただ世俗の言いならわしで神々とか人間とかいう名称で呼んで仮に表示する場合を除いて、もしも神々たちと人間たちとを区別するようなことがあるならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、どんな境遇の人も同じようにキラキラ輝いている。もし美しい、醜いの違いがあるようでは、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
この第三と第四の願は、浄土に生まれたものの、果と報を現しているのではないかと思います。果は共通の報いのことですが、報は個別的な報いのことです。たとえば私とあなた方とは、人間という共通の報いを受けています。これを果というのです。しかし一人ひとり、顔も違えば性格も違います。それを報というのです。浄土に生まれれば、皆一様に心の眼が開け、真実の自己が誕生して、生きる喜びは全身に輝くようになる。それが第三願ですが、第四願は、浄土に生まれた人は、皆同じになって、弥陀も菩薩も、男も女も見分けがつかなくなるのではなく、その人その人の個性の美しさに輝くようになるということでしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
どうにかなることならば、本人の責任ですが、どうにもならないことで悩み、苦しまなければならないことほど悲しいことはありません。
姿形・美醜に悩む人に「心のもちようですよ」とつっぱねるのではなく、その人の悲しみを悲しみとしてくださる大悲の方が阿弥陀如来であります。それ故に、わざわざ第四の願において「姿形がまちまちで、美醜のちがいがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません」と誓ってくださったのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
『教行信証』にも出て来ます。往生してどんな身の上になるのだ、といえば、虚無の身無極の体になるのだ、とおっしゃることですが、涅槃といっておきましょうか。醜い見よいというものがなくなって、みんな同様に涅槃から出た人、本当に涅槃から現われておるものであるというならば、長かろうが短かろうが、円かろうが四角かろうが、みんな立派であって好醜というものはないはずであります。長いなり短いなり皆立派である。
<中略>
これは死んでから、極楽に行ったらしてやるというように話されておりますけれども、親鸞聖人がじっとお味わいになると、それは信ずるということによって、如来の光明の国に生れる身の上になれば、そういう功徳をいただかせていただくことになるのだ、とお喜びになるのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
人天は人民である。「形色不同にして好醜あらば」ということは、形の上や相好の上において、好しあしがないというのでありますが、それをさらに内容から申しますと、みな天人のような立派な相好をそなえていなければ正覚を取らない、こういうのであります。
<中略>
ここは禍は除かれ幸せを与えられたのであります。しかしその幸福はまだ外的なものである。まず外的なものを与えて、だんだん内面的幸福へと入っていくのである。それがそのつぎの宿命通から漏尽通までのいわゆる六神通であります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
[←back] | [next→] |