世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、限りなくすぐれた智慧と限りない表現力(弁説)とを得ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者はみな、物事を正しく見る眼を身につけるに違いない。もし狭いものの見方しかできないなら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
二つの願はどちらも、法を説くことを主眼としているのですが、二つの願では、弁才と智慧が上下に入れ替っています。これは第二十九願は智慧に重きをおき、第三十願は弁才が主になっているようです。
<中略>
ここに「智慧弁才が限りない」というのですが、その源泉はどこにあるのでしょう。第二十九願には「経法を読んで」とありますが、経法は月を指さす指で、経に説いているものは、人生そのものです。ともすると指さしている指にとらわれて、月の人生そのものを見ることを忘れていることが多いのですが、いくら記憶力がよくて、万巻の書を読破してそれを憶えていても、説かれていることには限りがあります。しかし私たちの生きている歴史的現実はそれこそ「無尽の宝庫」で、限りがありません。経には三千大千世界が、山が説法し川が説法する。無尽の経蔵であり、こちらの眼が開きさえすれば、「一塵を開いて大千の経巻を出だす」ことができると説いています。
<中略>
金子先生も「相手の問いに答えてはいけない。問いの中に答はある。相手の問いを深めてゆけ」といわれる。相手の問うたことに対して、問いの起こった動機を確かめずに、早合点して、長々と悦に入って、独り言をしゃべって見たり、また問う人の気持ちに入り、相手の身になって見たり、相手の反応を見ながら話すこともせず、くせになった指導者意識で、高飛車に相手を叩いて見たり、失敗のケースが多いです。相手の気持ちと一つになり、的確に問うていることに的を当てて、相手を開導することは、至難の芸です。それがどんな問題でも、どんな人にでも無碍に、限りなく説くことができるようにということではないかと思います。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
阿弥陀如来は、この第三十願で、念仏に生きる人たちが話すことがなくなったり、話に詰まることがあったら、「わたしは決してさとりを開きません」といいきられるのです。
自分で学んだ知識をもとに話すのならば、自分の知っていることをひと通り話せば、話は尽きてしまいます。また、なにがなんでも自分の思いを通そうというような気持ちで話すのならば、相手に横を向かれて、話に詰まってしまうでしょう。 しかし、自らが聞かせていただいたところを話すのなら、み教えを聞きつづける限り、話がなくなることはありませんし、自らが獲たよろこびを語るのなら、よろこびのある限り、話に詰まることもありません。
念仏に生きた私たちの先輩の生き方を学ぶとき、どうしてあんなに次々と素晴らしい言葉がでてくるのだろうと思うのは私だけでしょうか。
<中略>
念仏申すとき、すなわち南無阿弥陀仏の呼び声が聞えてくるとき、弁才は限りなく広がり、話は自在に展開していきます。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
信心を獲たら、植木を大地に培う如く、周囲の人々なり世界の人々を助ける弁才智慧というものが無限に生れてきて、働いてきて、限りなくそれができるということであるから利他の念願は必ず成就するという自信も得られてくるのだと思うのです。
例によって願成就の文を開きますと、下巻にはたくさんのたとえが書いてありますが、
なをし重雲のごとし、大法の雷をふるふて未覚を覚せしむるがゆへに。(五二)
弁才智慧限りないということを得させてもらうおかげには重なった雲のようなものであって、大きな雷のように法を話すことができて、未だ覚らざる者を覚らしめる、とい力が出てくる。
なほ大雨のごとし、甘露の法を雨らして、衆生を潤すがゆゑに。(五二)
甘露の法雨を降らして衆生を潤してみんなが助かっていくというようになる。限りなくその働きができるようになる。こういうのが智弁無窮の願の成就したる相というのであります。事柄は味わいよい願だと思います。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
今度は説法になります。見仏・聞経・説法という三つの願は、三つとも方便化身の願である、つまり法師の徳であると見ていったらよかろうかと思うのであります。まず仏を拝みお経を読んで、はじめて弁才智慧無窮の法師道というものが、そこへ現われてくるのであります。かくのごとくして一般的なる普賢道と特殊の法師の徳をそこへうち出し、一般と特殊と相まって浄土を荘厳されるのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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