世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう求道者(菩薩)たちが皆、朝飯前の(僅から)時間に他の諸々の仏国土に行って、数百の多くの仏たち(諸仏)、数千の目ざめた人たち、数百千の多くの目ざめた人たち、数億の多くの目ざめた人たち、さらに、数百千億・百万の多くの目ざめた人たちに至るまで、楽しみを生ずるために必要なあらゆる種類のものを以て供養すること――それはすなわち仏の威力によってそうするのであるが――ができないようであったなら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者はみな、目覚めた心とのめぐりあいによって、目覚めた世界に生きようと願い、食事をするような短い時間にも、あらゆる目覚めた世界を味わえなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
同じ短い間にということを現わすのに、精神的な菩提心とか信心という時には、必ず「一念」とか「一発意」といい、生活を現わす時には「一食」といっていますから、ここでは日常生活のことをいっているのでしょう。天親菩薩はこれを「一念に遍く至る」とか、しかも「動かずして至る」と解釈しておられます。したがってこれは一人ひとりの前に行って供養することではなく、心に念ずることでしょう。「無数無量ナユタ」とは、『阿弥陀経』には、「十万億」とあり、前の願には「百千億ナユタ」とありましたが、これは全人類ということでしょうから、自分の日常の生活が、全人類を念じて行なわれることだろうと思われます。龍樹菩薩は、浄土の菩薩は、「衆生のために、手を動かし足を動かさず。十衆生のためにせず、千衆生のためにせず、唯だ一切衆生のためにだけ、手を動かし足を動かす」といっています。それで私はこれを「行心普遍の願」と呼んでいます。
<中略>
「三界はわが有なり。その中の衆生は皆わが子なり」という、仏の心を念じて生活をすれば、いつの間にか、顔が仏の人相に似てくるに違いないでしょう。反対に坐っているポストは大臣や市長であっても、その心根がわが身のためにしているのなら、顔もそういう顔になるに違いありません。法蔵菩薩は「十方の世尊は智慧碍りましまさず。常に我が心行を知ろしめして下さい」といっておられます。
この願は、生活の心根は、常に全人類を念じ、歴史を背負うことでしょうが、一人ひとりの人に対しては、誰に対してもえこひいきがない。どんな人をも尊敬できるようにということでしょうか。そうすればこの願は、「人格平等の願」とか、「歴史荷負の願」ということにもなります。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
阿弥陀如来のみ教えに遇って、ものの見方が正されてくるとき、私たちは、自らの周りに「何と多くの仏さまがおってくださったことよ」と驚かずにはおれません。
親鸞聖人は、信心の行者が、この世で頂くご利益(現生十種の益)の四番目に「諸仏に護られる生活」(諸仏護念の益)をあげてくださっています。聖人がよろこばれた、この「諸仏に護られる生活」の具体的なあり方が、この第二十三の願に誓われた諸仏のご恩をよろこび、諸仏をおうやまいする諸仏供養の日暮らしであります。
周りの人に、不平不満・不足の思いで交り、周りの人に、ややもすると馬鹿にしたような態度で接してきた私たちが、阿弥陀如来の威神力、すなわち、私たちの悪業煩悩をこっぱみじんに打ち砕いてくださる南無阿弥陀仏のおはたらきによって、周りの人を諸仏とあがめ、尊敬して日暮ししていく身に仕上げられるのです。それも、きわめて短時間のうちに、無数の国国の人たちのご恩をよろこび、おうやまいする諸仏供養の生活のできる身にしてやりたいと、この第二十三の願は誓ってくださっているのです。
<中略>
「きわめて短時間のうちに」は、漢文で、「一食之頃[いちじきしきょう]」と書かれています。「一食之頃」とは、食事をする間にということです。日本では、いとも簡単なことを「朝飯前[あさめしまえ]」といいますが、「一食之頃」とは、この「朝飯前」ということです。
諸仏のご恩をよろこび、諸仏をおうやまいするという至難のことが、仏の威神力、すなわち南無阿弥陀仏のおはたらきによって、いとも簡単に、文字通り「朝飯前」にできるといわれるのです。
また、すぐに人を選別したり、好き嫌いのはげしい私たちが、仏の威神力によって、すべての人びとを平等に尊敬する身になるといわれるのです。すなわち、人間を差別しない人間、一人ひとりの生命の尊さに目ざめる人間にしてあげようと誓ってくださったのが、第二十三願なのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
供仏(供養諸仏)は度生(済度衆生)のためであり、度生することはまた供仏することになるのです。この供養諸仏の願成就の文は『大経』の下巻にあるのですが、
仏、阿難につげたまはく、かのくにの菩薩、仏の威神をうけて一食のあひだに、十方無量の世界に往詣して、諸仏世尊を供養したてまつらん。(四八)※
と書いてあります。御飯を食べる暫くの間に、あらゆる諸仏の世界へ行ってその仏を敬うて供養することができる。
<中略>
少なくとも六十年間親鸞聖人は知らず識らずに諸仏供養をすることが自由にできて聞法しておられるのです。諸仏といっても、絵に書いてあるような仏でなくして、七高僧の教えを蒙られるということも、さらに、あらゆる見たり聞いたりすることもはいるだろうと思うのです。聖人が六十年間、仏の神力によって諸仏を供養してますます聞法をし、だんだん自分というものの徳をふやしておいでになったのは、気張られたのではありません。信心の者には、それを自由にやらせずばおかぬという願力によって、御信心の喜びが深まり、供仏の心から法がだんだんわかってきて、それが深くなり広くなって自分の徳がいよいよ向上してゆかれたのでしょう。これが死んでからでなくして、親鸞聖人でも蓮如上人でもその御一生の上にみることができるのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
供養諸仏という心持ちが、私にはかなりわかってはきました。こうやって皆さんにお話しするのも供養諸仏でありますが、しかしその一念偏至すなわち一念の間に平等に尊敬することができるかできないか、こういうことになると、これまた問題である。どうも私は真面目な人は尊敬することができるけれども、不真面目な人は尊敬することができないというような癖がある。ちょうど学校の先生にしても、優等生は敬意を払って導くけれども、低能児は放って置くというような心持ちと同じようなことが、われわれの上にいつでも働く。どんな人にも、どんな人の心の中にも真面目なものがある。どんな人の心にも仏が在しますということはわかっていながら、実際その人に接すると、つい軽蔑するというような心持ちが出てくる。すなわちこの供養諸仏の精神が平等であるということは、事実上容易なことでない。それが仏の神力を承けて、われわれはその人の差別を見ないで、ただ一心に仏を念ずることによって、一念の間に十方無量無辺の諸仏を供養する。われわれは仏を念じ合掌念仏することによってのみ、ほんとうに平等に諸仏を供養することができるのである。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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