世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の仏国土の生ける者どもがわたくしの名を聞いて、それを聞くと同時に(聞くことによって積まれたことになる)善根によって、ついに(その時から)覚りを究めるに至るまでの間、皆、求道者の行ないを喜び、歓喜する善根に会い合する(=身につける)ことができないようであったならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
この願は、社会生活に対する最後の願ですが、「わが名を聞いただけで」、「他方国土の諸の菩薩たちが、喜び勇んで、菩薩の行を修して、徳本を具足する」という願です。弥陀からいえば、それだけ徳のある「わが名」を成就しようということでしょう。
「歓喜」を親鸞聖人は、「歓は身をよろこばしめ、喜は心をよろこばしめる」ことであるといっておられます。これは身も心も救われることでしょう。この解釈を文字だけ読んだのでは、別にどうということもないでしょうが、親鸞聖人がこう解釈なされたのは、胸に大きな感動があったからでしょう。といいますのは、親鸞聖人までの仏教は、即身成仏をとなえた弘法大師は別として、すべて体は借りもの、心が尊い、魂が大事といって、心の救い魂の救いだけを問題にしていたのです。それが親鸞聖人によって初めて、体が大事、この世が大事ということに気がつき、体の救い、そこに生きている自己の存在をあげての救い、ということに目覚められたからだと思います。このことは「無慚無愧のこの身にて」とか、「功徳は行者の身に満てり」と、身という言葉がたびたび出て来ます。これは矛盾が自覚されたからに違いありません。浅ましいのも自分だが、尊いのも自分です。魂の救いには個性は問題になりません。人間は皆つっこみで、番号か符牒で呼ぶより外に道がありません。それこそ記号的人間です。青色青光、白色白光とか、蓮華蔵世界はみな個性的自覚の世界です。
<中略>
「菩薩の行を修する」は、金子先生が「人生生活は、念仏の心において、仏道となる」といっておられることで十分でしょう。<中略> 他宗の人が「時に真宗には行がありますか」と聞かれたので、「真宗にも行はありますよ。行のない仏教はないでしょう」。
他の僧侶の人が「真宗には行はないと聞いていましたが」といわれたので、「他宗のように、座禅するとか、寒行するとか、そういう特別な行はありません。日常生活が行です。洗濯するのも、ご飯炊くのも、商売するのも、仕事するのも、念仏において行になるのです」。
すると前の僧が、「禅のような公案のようなものはありますか」。
「はい、あります。日常生活すべてが公案です。子供が怪我をした。さあどうするか。夫が外へ女をこしらえた。さあどうするか」。これは待ったも、やり直しも効かぬ厳粛な公案です」と、答えられたそうです。
<中略>
先生が生徒を教える場合、自分の知っている知識を、生徒に教えるだけなら、菩薩行とはいいません。それは授業です。先生の行は、生徒を育てることにおいて、先生自身が人間として成長することです。世間でも「子供を育てると思うなよ。子供を育てることによって、親自身が育てられる」というでしょう。
<中略>
最後に「徳本」は、善本徳本とか、また「善根を植える」「徳本を植える」といわれています。善は悪に対する言葉で、相手に対して善い行為をすることですが、徳は人格を形づくるもののことでしょう。親鸞聖人は「徳本」を名号と解釈しておられる所もあります。「具足」は、鎧甲のことを具足といい、煩悩具足などといわれていますから、身につけることでしょう。「徳本を具足する」とは、種として身に満ちている「不可称不可説不可思議の功徳」が、菩薩行を修することによって、それが形をとって、身について、その人の人格となり、人相となり、家庭や環境の上に、後光となって花と開くことでしょう。
<中略>
この第四十四の具足徳本の願で、私生活と社会生活の、それぞれの生活態度が終りましたから、あとの四願は、念仏生活の底を流れる、根本的態度を誓われているのでしょう。
それで適当な言葉が見つかりませんが、私はこの願を「人格成就の願」とか、また「天職満足の願」と呼んでいます。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
波羅蜜は、到彼岸、または、度と訳され、まわりの「いのち」を見失い、自分のことだけで、頭がいっぱいになっている人間の住む迷いの此岸から、自分を生かしてくださる他の「いのち」に目覚め、他の「いのち」を大切にして生きる悟りの彼岸に渡る実践法で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つです。
<中略>
私たちのように二言目には「私が」、「私のもの」という人間が、布施の行などできるはずがありません。
ところが、「わたしの名を聞けば」、布施の行のできるはずのない人間が、布施の行にいそしむようになると、第四十四の願には誓われているのです。「わたしの名を聞けば」、不可能が可能になるのです。
<中略>
持戒などというと、戒律でがんじがらめに縛られた窮屈なあり方を、想像される方もあるかも知れませんが、その精神は、自らの「いのち」を大切にすることによって、他の「いのち」を本当に生かそうということなのです。
<中略>
私たちは自分の思いが通らないとき、また人生が思いに反した展開をするとき、自分をおさえることができなくなります。すなわち、瞋恚[しんに](いかり)の心が大火となって燃えあがります。この瞋恚の炎はそのままにしておくと、我が身だけでなく、あたりにあるものすべてを焼き尽くします。他の「いのち」を思うことによって、この瞋恚の心をおさえていくのが忍辱なのです。
<中略>
四番目の精進ですが、一つのことをコツコツとやりぬいていくことです。<中略> どうして私たちは懈怠になるのかということを、利井鮮明という明治の高僧は、「法の深信かけたるが故に懈怠となる」(正信偈補影記)と教えてくださいました。
<中略>
五番目の禅定とは、動揺・散乱する心を平静にすることです。
<中略>
私たちのように、何かにつけて「儂が、俺が」、「アイツが、こいつが」という人間には、自他不二をさとる智慧など無縁のものであります。ところが、その智慧に無縁の私たちに智慧がめぐまれるのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
徳本というのは、本は因なりとありまして、根本のたねになるのであります。こういうことをすることが自分の徳を積む種になって、そういう種が悉く具わるようになってくるということであります。それは聖道門ですることで、他力真宗ではせぬことだときめてはならないのであります。『教行信証』の上からでも、信心を獲てからは、菩薩の行を修めるようになると仰せられてありますから、今でもそうであります。本来の自分の持ち前から言うならば、布施行どころでない。貪欲充満の凡夫であります。貪欲一まきでありますから今まででも苦しみはなくならないのです。幸福にならぬのでありますが、信心の結果としては菩薩の行を修めるようにならしめられるのです。そうして自分に徳、則ち幸せがくる本、因というものが具わるようにならしめてやりたい、ということが具足徳本という願いであります。
<中略>
なおまた、菩薩の行には、六波羅蜜の上に十波羅蜜ということがあります。それは六波羅蜜に、方便・願・力・智という四つが加わります。六波羅蜜は自分の自利として、自己を幸せにする根本行であります。あとの四つは利他であります。方便というのは幸せを自分だけにとどめずして他を幸せにしようという心が起こり、そういう願いをだんだん強くして、もってそこから他を救う方法が考えられてくるのです。それから他の者をどうしたら救われるようになるであろうかというようなことをいろいろ考えていくことがあとの智でありまして、自利に対して化他といいいます。菩薩としては自分が修めてこういうことをやってゆけるようになって、その結果他の者に対して働きかけていくようになるとそういう四つの行をまたつとめてゆくようになる。だから死んでからのことでなしに、この幸せがこの世から始まって徳本が具わるようになってくるからますます協同生活をしておっても幸せになっていくのであります。これは人柄にもより本性にもよるのでしょう。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
・・・聞其名号が菩薩の行となるのであります。そなわち念仏と菩薩行との関係が、四十八願において三通りになっているのであります。それはどういうことであるかといえば、第一には、十方衆生に対して、菩薩行というのは念仏に入る方便道であると示されているもので、それはすなわち第十九願に現われているものであります。
<中略>
第二は、第二十二の願に現われるもので、それは国中の菩薩に対して、菩薩行というものは念仏の生活であると示されるものであります。
<中略>
ところが第三に、いまや四十四願においては逆に念仏が菩薩行のためになっている。仏の御名を聞くがゆえに、他方国土の菩薩達はその菩薩行を励むのである。念仏しながら道徳家は道徳ということを念じ、念仏しながら学者は学問を念じ、念仏しながらその念仏を縁としておのおの菩薩行を修行していこうというのであります。そういうように、菩薩行と念仏の関係が三つになっているということは、意をとどめるべきことであると思うのであります。これは念仏に励まされて、そうして、菩薩行を修行していくのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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