ご本願を味わう 第一願

無三悪趣の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
現代語版
わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に、地獄や畜生(動物界)や、餓鬼の境遇におちいる者や、アスラ(阿修羅)の群れがあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

私の目覚めた眼の世界では、自分の都合の悪いことはすべてまわりのせいにして苦しむ地獄、何を手に入れても満足せずに幻の夢を追い続ける餓鬼、自分の権利だけを主張し、他への思いやりがない畜生などの迷いの姿はない。もしそのような姿が現れるならば誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 如来にはもともと自分の国土というものはないのである。ただ教化されることになる衆生の類をとりあげて、かれらのことを仏国土と呼んでいるのである。だから仏国土は浄と穢とを通じてあるのである。如来はいかなる者どもに対しても同じように教化を行なうのである。ゆえに浄と穢とに通じてすべて衆生のことを仏国土としているのである。

意訳『維摩経義疏』仏の国土

人類がまだ動物的に、食べては寝、寝ては食べて、その日その日を過ごしていた。それが生きることに疑問を抱き始めて、自分はこれでよいのか、何のために生きているのであろうか、自分とは何だろうか、人生とは何だろうかと、心の眼を輝かしながら、山に問い川に問い、ある時は星に語りかけ、ある時は花の声に耳をすましている中に、次第に心の眼が開けて、ついにそうだ、人間の求める最後のものはこれだと、自己の魂の根源から動かしている深い願いを発見した。それは一人ひとりが人間として成就し、この煩悩濁世の世を浄めて、りっぱな社会を造る外には、人間の救いはないとさとって、その道として四十八願を見出だし、自己を成就し浄土を造った。その歴史の底を貫いて、人間の魂の根源から動かしている、根源的主体を法蔵菩薩とといているのです。
<中略>
 法蔵菩薩という名は、宿業に宿った仏とか、また宿業を背負うた仏という意味で、地蔵菩薩も同じことです。ここでちょっと解り難いのは、法蔵菩薩とは、一人ひとりに宿った仏のことか、一切衆生を背負うた仏かという問題です。ここでもこの二つの概念が重なっているようです。五十四の光を感得したのは、経験的事実としては一個人であったに違いないのですから。この経典はお釈迦さまが、ご自身の信心の内容を説いておられるのですから、この五十四仏を直接感得したのは、お釈迦さまに違いない。しかし経典はそれを釈迦個人の体験としてではなく、釈迦を超えて、釈迦をして仏たらしめている、より根源的なる阿弥陀仏のこととして説いているのですから、説かれている法からいえば、一切衆生を背負うた、つまり浄土の王としての仏のことですが、説く人に立っていえば、一人ひとりに宿った仏といってもよいでしょう。だから私は法蔵菩薩という名によって現わされているものは、人類を根源から動かしている歴史的精神だと思っています。
 これは南無阿弥陀仏という法の有っている二面でしょう。南無阿弥陀仏という名は、南無と阿弥陀仏という二つの概念が一つになっているのですが、南無は、一人ひとりの上に働く仏であり、阿弥陀仏は、一切衆生全体を包んでいる仏のことです。南無の仏は、阿弥陀の仏によって支えられ生かされ、阿弥陀の仏は、南無の仏となって初めて、その徳を現実に現わすことができるのです。
<中略>
 法蔵菩薩は仏土として取ったこの穢土を浄める行として、四十八願を建てられたのです。さきに「清浄に無量の妙土を荘厳すべし」とあったのは、一人の衆生に一つの国がありますから、数限りない衆生の一つ一つの国をりっぱに成就して行くことです。阿弥陀仏の国は、衆生によって成り立っていますから、その中に住んでいる衆生の生活がりっぱになり、一人ひとりの国がりっぱにならねば、阿弥陀の浄土はりっぱになりません。阿弥陀の浄土は、死後の世界ではありません。皆この世です。経には法蔵菩薩は「我れ世において速かに正覚を成就したい」といっており、親鸞聖人も「法蔵菩薩はシャバの世界の王なり」といっておられます。ただこの世という意味が、私たちの使っているのと違っています。
<中略>
 一般にいわれている世界は、その人その人の、ものの見方とか、ものの感じ方という、主観的なものですが、私がいう世界は、そこにある客観的な事実です。具体的に申しますと、私が二十二の時、腸出血六回という、重い腸チフスをしたことがあります。その回復期に、私は第一の宗教体験をしたのですが、それから一週間位たって、この世は重々無尽の世界であることをさとりました。
 たとえば私を中心とすれば、そこに父があり、兄があり妹がある。父を中心とすれば、世界ががらっと変る。私が母と呼ぶ人は妻となり、私は八男となり、兄も妹も皆息子や娘となる。在り方の関係が変るだけではない。言葉使いから、生活態度から、すべてが変る。十人おれば十の世界があり、千人おれば千の世界がある。私を中心とする私の世界は、私が王で、他の人は皆私の国の住人である。父を中心とする世界は、父が王で、他はすべて父の国の住民である。私の国が清らかであれば、王である私の存在は安らかであり、その行動も無碍である。もし私の国が濁っておれば、私の存在は常におびやかされていて、私の行動は絶えず妨げられ、その道はいばらである。その人の世界が清らかであるか、濁っているかは、その人とその人を取りまく人々との関係によるのであるが、それはその人が、周囲の人の胸にどう映っているかという所に現われている。何とこの世は不思議な世界だなあ。しかし何と厳粛な世界であろうか。ははあ、仏教で一仏一土、一つの国に二仏並び出ずというがこのことか。この世はお釈迦さまの世界で、無勝国土という。このシャバ世界には、仏はお釈迦さまだけであるというが、解釈の間違いである。お釈迦さまを中心とすれば、この世はお釈迦さまの世界であるが、私を中心とすれば、この世は私の世界である。これは責任重大だぞと思いました。病気は奇跡的に治りました。これからの命は貰いものである。粗末にしてはならん。さあどう生きたらよいか。その時から私の求道は地についたものになったのです。私が一人の人には一つの世界があるというのは、そういうことです。この発見があったから、後にこの「修行して仏土を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし」という経が読めたのです。
<中略>
 我執は自分が可愛いという、自我愛のことです。私たちの生活は、善であれ悪であれ、すべて我執に汚されています。行動はすべて自己中心です。自分は横着に坐りこんでいて、何ものといえども、決して他人は自分の城には入れない、立ち入り禁止。私の家内はこれを不可侵条約と呼んでいます。自分の欠点を指摘されたり、自分の領分が犯されると、忽ち戦闘開始です。一切のことは自分から始める。自分はそのままおいて、自分の都合がよいように、自分の便利がよいように、周囲のものを動かして、自分の思うようにしようとする。周囲のものはすべて道具か、奴隷に見えるんでしょう。思うようになれば可愛がり、思うようにならぬと腹を立て、相手を憎む。たてまえは、世のため人のためと、自分では思っているのでしょうが、本音はわが身のためです。<中略>「我見」は、一つの自分の考えを有って、それに固執することです。一つの主義を有つことが、なぜいけないのか。それは人生そのものは多種多様で、一面だけからはとらえなれないものです。それを一方的に、資本主義とか共産主義とか、個人主義、社会主義と決めるから、無理が出てくるのです。最近では人間主義という考えも出てきましたが、これも我執でしょう。
<中略>
畜生は家畜のことです。世間では「鳥やとんぼが畜生だ」と、動物のことを畜生といっていますが、これは誤りです。鳥やとんぼは野生で、自由の生き方をしていますが、家畜は自由を奪われています。馬は口輪をはめられているし、牛は鼻ぐるを通されて、共に畜舎につながれています。生れたままの人間は、本能的に無自覚に生きているので、畜生にたとえたのでしょう。家畜は自由を奪われていても、そのことに気がつかない。まるで世の中とはこんなもんだと、そのことを悲しいとも思わない。その愚かさをたとえたのでしょう。
<中略>
 地獄は人間悪とか社会悪を象徴的に言い現したものである。その地獄はどうしてできたか。その由って来たる原因は何か。我執と無明である。原因の我執と無明がなくなれば、結果である地獄はおのずからなくなる。その我執と無明を象徴したものが、ガキと畜生である。私はこのことを発見した時、何ともいえぬ喜びと、この『大無量寿経』の著者が、心の眼を開いていることはもちろんですが、いかに勝れた仏教学者であるか、仏教の根本精神を把握していて、その宗眼を以て、それまでの永い仏教の歴史の、原始仏教、大乗仏教の全仏教を完全に消化しマスターして、さらにそれを歴史的現実に立って、再構成、再組織した、何と驚くべき天才であろうかと、思わず感嘆の声をあげました。古人の中に第一願を「五劫の宿欝を晴らす」、法蔵菩薩はこの願を見つけて初めて、五劫の間のもやもやが解けたというのですが、まことそうでしょう。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 私たちは、人間に生まれ、人間の世界に住み、人間として生きているということに何の疑問ももっていません。しかし、本当に私たちは人間なのでしょうか。本当に私たちは人間の世界に住んでいるのでしょうか。
 急に、おかしなことをいいだしたと思われるかも知れませんが、縁起をとく仏教では、地獄・餓鬼・畜生にしましても、そして人間にしましても不変のもの、固定したものとは考えないのです。それらは生き方によりいつでも変ると考えているのです。
 ですから、人間に生れても、鬼のような生き方をすれば、姿は人間のままであっても、その人は間違いなく鬼なのです。普通はそういう場合、「人間が鬼のようなことをしている」といって、人間であるという前提は変らないように思っています。しかし、仏教では「鬼が人間の姿をしているだけのこと」と受けとるのです。
 他人を責めつづけるとき、その人は、姿は人間であっても間違いなく鬼であり、自己をかえりみることのないものはすでに地獄の亡者であり、共に人間の世界に住んでいるつもりであっても、本当は地獄に住んでいるのです。
<中略>
「如来の願い」が第一の願で、地獄・餓鬼・畜生を問題にしてくださるのは、せっかく人間の姿をしてこの世に生まれながら、人間でなくなっていく私たちを名実ともに本当の人間にしてやりたいということではないでしょうか。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 天台の学問なんかでは、十界といいますが、十界は、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人・声聞・縁覚・菩薩・仏でありますが、地獄にも十界あり、餓鬼にも十界あり、したがって人間にもその十界があるということを教えられますから、人間以外にそういうものがあるのでなくして、われわれ人間の中にも地獄もあり餓鬼もあり畜生もあり、天人のような人間以上の幸せな人もあり仏のような人もあり、菩薩のような人もあって、これを十界互具というのですが、阿弥陀如来の御本願は十方衆生ですから犬、畜生にも皆慈悲が及んでおるのですけれども、われわれとしては人間中心、凡夫中心で、悩んでおる私共を助けたいというのが御本願です。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

・・・そうしてこの前にも一言申したように、この十一願文を順に見ていきますと、直接出てくるところの願を、しだいに高め純化していくという形になっている。その純化された最後は必至滅度で、涅槃というところまで極まるのであります。しかし必至滅度にいたってふたたび降り返って前の十の本願を見ると、それはすべて第十一願の内容となり、第十一願の功徳を現わすような形になってくるのである。
<中略>
この本願が一番先に出てくるということは、すなわち弥陀の本願というものは、地獄・餓鬼・畜生ある国を大悲矜哀して現れたものである、ということを意味するのである。浄土の経にはないことですが、他の経典の中には、法蔵菩薩というお方はもとわれわれと同じこの娑婆世界におられたものだ、ということがいわれているのであります。そういう物語があるということによっても、この地獄・餓鬼・畜生ある国ということは、すなわちわれわれのこの世界でなくてはならないのであります。
<中略>
だから瞋恚の炎を燃やす怒りは地獄を作り、欲は餓鬼であり、愚痴は畜生である。三毒の煩悩それ自体ではありません。三毒の煩悩によって構成されているこの世界の相を地獄・餓鬼・畜生と、こういうにちがいないのであります。それゆえこの第一願では、われわれ現実にさまざまに悩み苦しんでいる人間が、大悲の本願のほんとうの出発点であるということを、まず第一に知るのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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