ご本願を味わう 第十願

不貪計心の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国中人天若起想念貪計身者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、もし想念を起して、身を貪計せば、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、いろいろと思いはからい、その身に執着することがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも自分の身体についてでも少しでも執着する想いを起こすようであったなら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、人びとが見せかけの幸不幸にとらわれて欲望のとりこになり、自分のことしか考えられない、などという姿はない。もしそのようなことがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

「漏尽」とは煩悩が尽きるということですが、どうもこの名は、この願にはしっくりしない、気がするのです。というのがこの願では、たんに執着がないとか、煩悩がないという消極的なものでなく、積極的に進んで何かする、その行為につきまとう我執がないようにということのようですから。
<中略>
 前の五つの神通は、迷うている人にも修得できて、ひとをだますのに悪用することができる。しかしこの第六の漏尽通だけは、さとった聖者だけに開けるものといわれています。五神通が悪に使われるか、仏法のために使われるか、その鍵となるものが、この漏尽通です。お釈迦様は六神通をすべて身につけておられたが、ダイバダッタは前の五つは修得していたが、最後の漏尽通が開けていなかったから、自己の欲望を遂げるために、五神通を悪用して、アジャセ太子を誘惑して、王舎城の悲劇を巻き起こしたと伝えられています。
「想念を起こす」とは、妄念を起こすとか、欲心を起こすことでしょう。「身を貪計する」とは、わが身可愛いことで、自分の都合や、自分のためにすることですから、浄土の人にもそういうことがあるようなら、自分は正覚をとらないというのです。この『大無量寿経』は、出家仏教と違って、積極的に自己を完成し、社会をりっぱにしてゆく、人生を創造し歴史を創造してゆく、建設的立場に立った宗教ですから、建設的行為にはとかく、ひとのため世のためといいながら、知らず識らず、わが身のためになっていることが往々です。そのための願だと思います。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 詳細にいえば、きりがありませんが、これらの数かぎりないいやなものをもらしているあり方が「漏」ということです。これらの「漏」は自己中心の考えが強くて、ありのままにものが見えないこと(愚痴)によっておこるのです。
 「漏れる」ことも問題ですが、もれたことに気づき、もれたものを素直に反省すれば、「漏」はそれ以上に広がりません。しかし、私たちは、たとえもれたことに気づいても、それを正当化したり、上手に始末しようと、いろいろと思いはならい、ますます「漏」を広げ、もらしたものの中に身を沈め、身を滅ぼしていくのです。また「漏」に気づいたら、それから遠ざかるようにすればいいのですが、面子があるとか、意地がどうのといって、もらしたことに執着するものですから、ぬきさしできないところに自らをおいこんでいくのです。
<中略>
 私たちは、自分のうらみをうらみと認めたがりません。あきらかにうらみの心であっても、なんだかんだと理屈づけして正当化し、その正当化した理屈に執着して、知らず知らずのうちに道をふみあやまっていきます。嫉妬にしても同じことです。他の人からみればあきらかに嫉妬とわかることでも、自身は嫉妬と認めず、正当化して執着し、人生を狂わせていきます。
 このように、自ら墓穴を掘る私たちに、阿弥陀如来は第十の願を誓わずにはおれなかったのでしょう。
 漏尽通、すなわち煩悩をすべて滅尽する力をあたえてやりたいと願い、さらに煩悩によって思いはからい、煩悩の身に執着しないようにしてやりたいと誓ってくださったのです。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 例によって成就の文を見ますというと、下巻ですが、『大経』では極楽とおっしゃらず、安楽とあるのですが、

その国土の所有の万物にをいて我所の心なく染着の心なし。去来進止に情にかくるところなし。随意自在にして、(四九)※

これだけがこの願成就の文であると示されてあります。それは無論、浄土を構成された仏のこと、この国土のあらゆる物柄に対して我所の心なし、所有欲と翻訳すればよくわかるのです。所有欲というものがない、我、我所といいまして、我及び我所なしということです。染着心なし、染は染まる、着は引っ着くのですから、執着が深い、それを持って離さないという、そういう心がない。去来進止、去るも来るも歩むも止るも、つねに心に係る所なし、自分の貪心に引っかからない。意に随いて自在なり、あってもよしなくてもよし。といっても何も持たんでよいわけでない。持ってもよろしいが、そういう心が一つないといけないのです。
<中略>
人が貪欲の煩悩そのままならば、自分を大事に、自身の身だけ供養して、自分は尊いものでえらいものであるという、そういう心をやめて、一切衆生を愍[あわれ]む心が起こって来る。こういう心になると申されておりますが、聖人の御一生九十年の御生活というものが、自楽を求めず、又我が身に貪着するということを離れられたればこそ、一生涯は勝れた素質を持ちながら、いわゆる名誉・利益を得る者にならずして、どうか衆生を救いたい、末代の衆生まで救いたいという御心で一貫された、それが尊い所以であります。自分は貪欲のやまない人間であり、自身の欲張りがやまん人間である、身が可愛いばかりだ。と言ってござるけれども、いつの間にか、それが仏力である漏尽通力を与えていただき、その本願力によって自ら自分の身を供養する、自分を救うて、俺はえらいものであるとか、天下を救うというような、自惚れた根性から離れて、一生涯謙虚なお心でおられました。そういうことが、この漏尽通の願力が信のある聖人の上に現れてござった相だと思うのであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 四九 =浄土真宗聖典註釈版 P50『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生果)

人の心の機微もわかるし知識感情が発達していても、根本に自我愛というものが強いときは、その自我愛に利用されるということも考えられるのであります。そこで今度はもうひとつ高めて、自我愛や自分勝手でない、世間というものを超えて自我を否定するところの道へ進んでいくのであります。
<中略>
宿命通・天眼通は自他の運命を知り、天耳通・他心通は環境の機微に徹し、神足通はそれによって行動の自由を得る。それからさらにもうすこし道徳的に高められ、世間を越えて出世間に入り得るまでになったものが「漏尽通の願」である。こういうふうに本願が展開しているのであります。その展開の順序は、さきほど申しましたように、『観無量寿経』では、韋提希夫人が一番はじめに、地獄・餓鬼・畜生なきところを願うといっておられるのでありますから、そうすれば韋提希夫人の要求は、無三悪趣ということが出発点であります。したがってわれわれの要求もしだいに純化していけば、こういうふうにいくべきはずでありましょう。そのいくべきはずのものをいかしめるものが如来の願力である。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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