世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう求道者たちが皆、ナーラーヤナ神が金剛で打つような強固な体や力を得るようにならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者はみな、どんな狭い心の持ち主をも、投げ飛ばし、目覚めさせる巨人のような力が発揮されなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
この願は、「自信成就の願」といってよいでしょう。しかしその自信は、常に諸仏を供養し、全人格を挙げて事に当って行く、絶えざる求道精神の外にはありませんから、その内面の徳からまた「道心堅固」とか、「道心不退の願」といってもよかろうと思います。
私が若い頃、広島の郊外の寺で、院代を勤めていたことがあります。門徒の人がなかなか寺へ参って法を聞きませんから、文書伝道を思い立ち、毎月ガリを切ってリーフレットを発行し、四百五十戸の全門徒へ配っていました。
<中略>寺を出る時、門徒から何の報酬も受けなかったですが、その間よい人生勉強をさせていただきました。したことは何も残らなかったか知れませんが、私はしたことによってかけ代えのない尊い宝を身に得ました。どこへ投げ出されても、裸一貫、どこででも生きてゆけるという、力強い自信がつきました。ちょうど書や絵を習うのと同じようなものです。書いた紙は破れてなくなっても、書いたことによって、身についたものが残る。人生はすべてこの通りだと、さとりました。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
国内の菩薩とは、先の第二十二の願のところでも述べましたが、お浄土に籍を置く信心の人のことであります。それは正[まさ]しく阿弥陀如来の変ることのない「まこと」をよりどころに生きるもののことであります。
<中略>
意志が弱く、見通しもきかず、自分中心にしか生きることのできない私たちは、本当の意味での自信をもつことができません。それで、どうしても、権威に弱く、権力に頭が上がらず、他人の目におびえ、迷信、俗信にさえビクビクせざるをえないのです。
本当の自信は、確固たるよりどころをもつことによってはじめてあたえられます。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
どんなものにも負けないような力を、ここにはわかりよいように身体力で顕してありますが、これは身だけのことではなしに、心のことでしょう。正しく大事なところは心でありまして、一切智を演説することが自由であるのみならず、それが他のいろいろの思想や説によって動揺をするということがなく、即ち傷つけられるということがなく、むしろ他の間違った思想というものをぶち砕いていって、その人を済度するということです。ちょうど力士の身に金剛力があるように、非常に強い精神力をもってやっていけるようにさせてやりたいということであります。親鸞聖人のあの深い広い思想といい、蓮如上人のあの活動といい、他のどんな間違った思想をも打ち破ってゆかれたればこその一宗が繁昌して、今日の人々までも化益されることができていると思うのでありますが、そういう力を与えずばおかぬ。これによって供仏の願いを果たさせたいがために、また度生の願いを果たさせたいがためにその二つの願をお誓いなされて、この四つの願で、菩薩のお仕事としての供仏度生ということを成就したのです。本人に力がなくても、願力としてこういう生活と、こういう能力を得させずんばおかぬということで、二十二願の普賢菩薩のように利他の念願をもって自分の喜びとされたわけです。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
自分で考えていること、学問で得たことを自信と申しますけれども、私はそういうものは自信ではないと思う。自信というものはすべての人に同感し、そうしてすべての人に道を開いていくところにある。そこにはじめて自信力というものが出てくる。すなわちそれは不退転の精神であります。自分の心の中にある煩悩、外から誘惑される障害、そういうものをすべて征服して、内外の誘惑というものにわれわれが動かされない。そういう一つの心の力というものを感じるのであります。
<中略>
普賢の精神は一面において非常に柔らかである。何物をも受け入れて、誰にもやさしく、先刻申しましたように、瞋[いか]らない心であります。けれどもその柔らかい心というのは柔弱な心ではない。その心は柔らかいと同時に金剛那羅延身である。そこには深い自信力がありまして、何物にもけっして征服されない。自分で行くところの道をあきらかにして、しっかりと踏みしめて一歩も退転しないところの金剛那羅延身というのが、往生人には与えられるのである。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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