世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量の諸仏国土における無量・無数の世尊・目ざめた人たち(=諸仏)が、わたくしの名を称えたり、ほめ讃えたりせず、賞讃もせず、ほめことばを宣揚したり弘めたりもしないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、あらゆる世界の無数の目覚めた人びとが、みんな心から喜び、私の心の世界をほめたたえ、南無阿弥陀仏と称えるに違いない。もし称えないなどということがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
咨嗟とは讃めることですが、今までの学者は皆、「わが名」を称え讃えるようにと読んで、「わが名」を称えよということであると解釈しているようですが、第十七願の成就文を見ると、この願いに応えて、「十方の諸仏は無量寿仏の功徳を讃嘆する」と説かれています。そうすると仏の「名」を讃めるのではなく、仏の「徳」を讃める気持ちで、仏の名を称えることでしょう。親鸞聖人は「仏の六字を称えるは、即ち仏を讃めることになるなり」といっておられます。<中略>お母ちゃんは幼児言葉で、親を呼ぶのですが、お母さんはおとな言葉で、親を呼ぶのでなく、親の徳を讃めるのです。
<中略>
法然上人の『一枚起請文』を見ても、「念の心をさとって申す念仏でもなく、南無阿弥陀仏と申せば、疑いなく往生するぞと思いとって念仏せよ」とあります。これでは称名ではなく唱名でしょう。親鸞聖人は唯だ称えるだけではなく、いわれを聞き開けといっておられます。「わが名を称えよ」が仏の本願だから、すなおに本願に順って、念仏します。これでは幼児ですよ。わが名を称えよといわずにおられない、仏の胸の中に何があるのか、そこに眼がつかねばおとなではありませんよ。
<中略>
それでは何ぜここに、わが徳を讃めたたえてくれと願わなかったのか。それは第一に、徳はいくら尊いとか賢いといっても、一部分でしょう。名の中には、その人の全人格、すべての徳が、皆含まれています。名をいえば、その人のすべてが現われるからでしょう。ここで大事なことは、南無阿弥陀仏という名の中には、すべての徳がこもっているといっても、どんな徳がこもっているのか、その徳の内容を私たち衆生に、具体的に教えておかなかったら、衆生は自分勝手に、自分の都合のよいように受けとるでしょう。しかしそれは予め南無阿弥陀仏について、何らかの知識を有っていた人ですが、もし南無阿弥陀仏について、何らの知識も有たない人ならどうでしょうか。たとい南無阿弥陀仏という名を聞いても、何の感激も起こらないでしょう。
<中略>
予め南無阿弥陀仏について、正しい知識を有ち、知識だけでなく、南無阿弥陀仏と私とが血につながる、ぢぢと私とが、血につながり命につながっているような関係がなかったら、いくら南無阿弥陀仏という名を聞いても、空吹く風でしょう。
それどころか今日では、念仏に悪い垢がついて、念仏を聞けば胸くそ悪いとか、念仏を聞けば気が滅入るとかいう声を聞き、病院や結婚式場では念仏を忌み嫌うという社会現象は、念仏そのものが悪いのではなく、念仏者そのものが、永い歴史を通して、こんな泣いても泣ききれぬ、仏祖に対して申しわけない、まことに悲しいことにしてしまったのです。
<中略>
たとえば私は親ですが、名は親ですが、私自身は、お粗末で、親という値打がない。まことにお恥ずかしい、名ばかりの親です。村の人たちが、先生になったばかりの若い娘さんに対して、「先生、お早ようございます」と挨拶をする。村の人は、娘さんに対して頭を下げているのでしょうが、先生自身は、私はまだ先生になったばかりで、先生といわれる資格はない。村の人たちは、先生という名に対して頭を下げて下さるのである。先生という名に対して恥かしゅうない、りっぱな先生になりたいと願わずにおれぬ、それがまごころというものでしょう。
こういう時の名は、たんなる名前ではないでしょう。名前であると同時に、その人をして、名にふさわしい人になりたいという道心を発こさせるものです。
<中略>
『大無量寿経』には、法蔵菩薩は世自在王仏のような仏になりたい。自分の国を立派にしたいといっています。それがさっきの第十二の光明無量、第十三の寿命無量の願として現わされているのです。そこで親鸞聖人も「超世無上に摂取し、選択五劫思惟して、光明無量の誓願を、大悲の本としたまえり」といわれ、さっきも申しましたように、『正信偈』には、弥陀の徳を「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と二つに分けて、帰命無量寿如来とはどういうことか、その内容を「法蔵菩薩の因位の時」から「重誓名声聞十方」までに説き、南無不可思議光の内容を「普く無量無辺光」と、十二の光を放って「塵刹を照らす。一切の群生は光照を蒙る」と現わし、その寿命無量、光明無量の徳を受けて、「本願の名号は正定の業なり」といっておられるのですが、これは第十二、第十三の願を本願といっておられるに違いありません。
・・・第十七願の「わが名」とは、第十二、第十三の願の成就した名であることを言いたかったのでしょう。これが解れば、親鸞聖人が「名はなのる、号はさけぶ」とか、「因位の時のなを名という、果位の時のなを号という」といわれるお意も頷けるでしょう。「なのる、さけぶ」とは、弥陀が自己を現わす働きのことです。弥陀の名号は、名詞であると同時に動詞である。動詞と名詞が一つになっているのが、南無阿弥陀仏であるということでしょう。
<中略>
弥陀の名号は、十方の世界の諸仏が、弥陀を称め讃えて、その名を称える時、初めて成就するのですが、弥陀を讃めるとは、どういう事実をいうのでしょうか。
<中略>
仏を讃めるのは、身を以て讃めるのです。口先で念仏するのはまだ本真ものではない。本当の念仏は、ものの見方、考え方、することなすこと、生活全体が念仏になっていることです。口の称名は、生活の一つの現われです。親鸞聖人も、「仏の六字を称えるは、仏を讃めるになるなり。一切の善根あって、浄土を荘厳するになるなり」といっておられましょう。光明無量、寿命無量の仏の徳は、唯だ、念仏の衆生の上に現われるのです。裏からいえば、念仏の衆生を通してだけ、仏の徳は知られるのです。この第十二、第十三の光明無量、寿命無量の願から、第十七の名号成就の願までの流れで、弥陀の徳がどうして名号として成就するか、また名号の中に弥陀の徳が宿っているとは、どういうことかが、解るでしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
どこのお医者さんが信用できるかどうかを一番よく知っているのは、仲間の医師でしょう。お店にしましても、信用できる店、信用できない店を一番よく知っているのは、同業者でしょう。同じ立場にいるものが、一番きびしい目で仲間を見ていますから、いいも、悪いも、一番よく知っているのです。
「私の店の製品は、どこのものより安くていい」といわれても、私たちは信用できません。しかし、同業の人から「あの店の製品は優秀で安い」とすすめられれば信用するものです。
こんな私たちの性根を見抜いて、阿弥陀如来は自ら名のらず、諸仏を通して名のらせるのです。
私たちならば、疑うのは疑う方が悪いのだから、ほっておけばいいと考えます。しかし、阿弥陀如来はそんな冷たい方ではないのです。どうしても、私たちを見捨てることができないという大悲の心が、諸仏を総動員して、南無阿弥陀仏を私たちに受けとらせようとしてくださるのです。私たちのことを思ってくださる阿弥陀如来の大悲の深さがしみじみと知らされます。
<中略>
あれもあった方がいい、これもあった法がいい、というのが私たちです。
腹の底から信頼できるものをもたない私たちは、もしかの時のことを考えると、あれも離すことができない、これも捨てることができないということになります。しかし、私たちが離すことも、捨てることもできなくてにぎっているものは、本当に最後の最後まであてたよりになるものでしょうか。
<中略>
何がなくても、これがあるから、私はこの人生を精一ぱい生きることができる。どのような苦難にであっても、これがあるから私はへこたれずに、この人生をのり超えていける。ただ、これ一つあれば、私の人生は大丈夫といえるもの、それが南無阿弥陀仏なのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
昔から、芝居でも役者が何ともかともいえず上手にやると、「成田家」とか何とか言うより讃めようがない、ということを聞いております。われわれが讃めるときにも、最後に名を呼ぶということであるから、終いに称名ということになるのでありましょう。とにかく、我が名が讃められ、そうして称えられるようにならずばおかんという願であります。かかる大自信をもたれておるのです。
<中略>
十方に世界があるが、その世界の諸仏が、皆一人残らず如来の御名を讃めるようになり、そうして遂に名を称えるようにならずばおかん、という願であります。願成就の文を見ますと、
十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃歎したまふ。(一二九)※
とあります。十方世界、ガンジス河の砂の如くたくさんありますから、十方恒沙の諸仏なり如来といわれる方は、みんな一緒に、一人残らず無量寿仏の威神功徳不可思議なることを讃歎しておられる、と釈尊が申されておられます。如来の願は立てっぱなしではなくして、それが成就して、願の如く皆如来の威神功徳の不可思議なることを讃めておられると、こう申しておられるのであります。
これは何でもないことのようでありますが、親鸞聖人は衆生救済のために、大悲のお心からこの願を立てて下されたとたいへん喜んでおられるのです。これを名号成就の願ともいいます。一般に南無阿弥陀仏という名号がこのときに願としてできあがっておる、これは御自身の名を誓われた願であります。
<中略>
親鸞聖人のお言葉で、『正信偈』には、「重誓名声聞十方」とあります。即ち、重ねて誓うらくは、名声十方に聞えん、自分の名前が十方に聞えるようになって、その御名に接するようになることによって衆生を救おうという御本願なのであります。それでこの願を、大悲の願と仰せられ、諸仏称名の願とも申されておるわけであります。
しかし親鸞聖人の思召しはもう一つ進んで、十方世界の無量の諸仏ということは、お互い信心の行者というものである。信を得たる念仏者というものを無量の諸仏と申されておるようであります。だから悉く讃めて我名を称えられるようになりたいということは、御名によって、すべての人を救わねばおかぬということでありますから、救われたすべての人が十方世界の無量の諸仏であって、それが我名を称えるようにならねば、ということでありますから、信心を得た人を指しておられるのであると、こういうようにお味わいになっておるようであります。このように味わいますと非常に意義深いのであります。諸仏といって、代表的に言えば釈尊のような方が十方にましまして讃めたり称えておられることだけでなしに、信を得て喜んだもの、即ち、すべての人が諸仏と称せられるものとなって我名を称えるようにせずばおかぬ、こういう意味にお味わいになっておるようであります。
<中略>
第十七の本願の十方世界の無量の諸仏悉くに称名されるようにならずば、ということは、十方衆生を悉く助けずばおかんということであって、これは信心喜ぶ人のことであります。十方衆生を諸仏とならしめて、ほめられ、称えられんということを知らさんとして下さったのが、親鸞聖人の晩年の御味わいだということです。このことを思いますと、この十七願が非常に尊い意味をもつものであると考えられるのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
光明無量のゆえに阿弥陀と名づけ、寿命無量のゆえに阿弥陀と名づくというときに、弥陀の名は成就されてありますが、しかしそれは弥陀の徳についた名であって、名それ自体の徳ではありません。それゆえにこそそこではわれらは弥陀の徳を仰ぐことはできても、弥陀の名によって救われるということを知ることはできないのであります。されば弥陀の名号の功徳は、ただこの「諸仏称名の願」によって彰われるのであります。このことをさらに進めて申しますと、われらが弥陀の名号を称して救われるということは、これすなわち、「諸仏称名の願」によってその名号をわれらに廻向されるのであります。これによって親鸞聖人は、この諸仏称名をもって、ただちにこれ「往相廻向の願」であると領受されました。
<中略>
われわれの称名は真実心でなくても、諸仏の称名に護念されて真実ならしめられるということもできるでしょう。これによって、念仏して歓喜信心するものは諸仏と等しいとも申されるのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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