世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万劫の過去の生涯を思い出すほどの前世の記憶(宿命通)がないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた世界では、人びとがこの世に生まれた意味を知らず、自分の歩むべき方向がわからないなどということはない。もしそのような姿が現れれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
仏教でいう「宿命」とは、前世があるかないか、そういうこととは一切関係なしに、頭で考えるのではない。まごころの智慧をもって、現在只今の事実をさとるのです。あきらめるのではない。引き受けるのです。<中略>今までの一切は、今の自分を産み出す用意であった。これからどう生きるかと、明るい自由な立場に立って、新たに自分の運命を切り開いてゆく、前向きの態度のことをいうのです。
<中略>
私たちは三世ということを聞きなれていまして、過去と現在と未来と、三つの世界があるということが、常識になっていますが、仏教ではそういう考えは、正しい世界観ではないというのです。たとえば「時に別体なし。法に依って立つ」といって、時というものが別にあるのではない。有るのは現にそこに在る「もの」だけである。ものの過ぎてきた足跡を過去といい、これから行こうとする前途を未来というのであるというのです。
<中略>
今というものは、無限の過去と無限の未来をはらんでいるものです。現在というものの構造を分析して、過去から形成された面と、これから将来へと展開してゆく、二面性を有つものであるということをいっているのです。過去的なものとは、現に今そうなっているという事実をいったものです。
<中略>
ひとりの人の一挙手一投足が、全世界を動かすとか、三千大千世界が、わずか芥子粒の中に宿っているといっています。個々の人の言動によって社会は創られ、社会の土壌によって個人は造られるのです。阿弥陀仏の印が、右手の指は、母指と人さし指で、円を造り、あとの三指を立てています。これは自分と相手と国を現わしていると思われるのですが、浄土教は常にこの三つを問題にしています。この願は「宿命を識る」とは、たんに自分一人の宿命だけでなく、相手の宿命と、さらに自己が置かれているわが家とか、わが故郷とか、わが国とか、世界全体の宿命が識られるように、ということだと思われます。
<中略>
もう一つ。六神通の順序ですが、普通ではこの宿命願は後ろの方へ並べられているのですが、この経では、それが六神通の最初に出されていることです。このことがいかに大事なことか。これはこの経を一貫してる「宗眼」の一つの現われだと思っていますが、これは何をするにしても、まず足元をしっかり固めなければならんということでしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
自分の過去があらいざらい知られたら、自分自身から逃げようという卑屈な根性もなくなるでしょうし、また、うぬぼれるというような高慢さもなくなるでしょうし、自意識に閉じこもるような窮屈さもなくなるでしょう。そして、そこに本当のやすらぎが与えられるでしょう。
ではどのようにして私を、過去を知る身にしてくださるのでしょうか。それは、阿弥陀如来の本願を聞くことによって開けてくる信心の智慧によってあきらかにしてくださるのです。
<中略>
ややもすると、とりかえしのつかない過去にしばられ、後悔し、苦しみ悩む私たちです。しかし、過去はもうやり直しがききません。その意味では、私たちは過去から逃げることができません。その過去から逃げ回っていてはいつまでたっても苦悩の解決はつきません。過去から救われる道はただ一つです。自分の過去を明らかに知り、反省すべきは反省し、どうにもならないことはどうにもならないと如来におまかせすることです。私たちは、如来におまかせすることによって、はじめて過去から本当に自由になるのです。
<中略>
過去にしばられやすい私たちのあり方を見抜いて、「かぎりない過去世のことまで、自在に知りつくすことができぬようなら、わたしは決してさとりを開きません」と、阿弥陀如来は第五の願を誓っておってくださるのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
まずこの成就の文と申しますところのお経の下巻に、釈尊が示されておるのを見ますと、
神通自在にしてつねに宿命をさとる。他方の五濁悪世に生じて、示現してかれに同ずること、わがくにのごとくなるをばのぞく(四八)※これだけの御文が宿命通という願の成就しておる有様を知らして下さっておるのだと、こういうように申されておるのであります。即ち彼の国に生まれた菩薩は、心の働きの勝れた、神通自在になって、常に昔の生活というものをああだった、こうだったとはっきりと識らしめよう。そのあとがちょっとわかりにくいようです。けれども、その菩薩が五濁悪世に生れて、そうして悪世の人間と同じようなことをして、その人間を救うためにいっしょに暮して如来の国のようにしようと、こういうことでそういうところに出張しているのは除外例である。即ち自分の自然のなりゆきでないところの、すなわち人を救うために、その生活が変った生活になっておる場合、それは除外例である。自分の本来持っている性質なり行いの結果、経てきたその生活は一切知られるようになる。これが宿命通の御成就の御文になっておるのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
宿命とは過去世のことを知るということであります。つまり自分の生の約束を知るということであろうと思います。自分が今日こういうふうになってきているいわれを知るのである。われわれのさまざまな煩悩はどこからくるかといえば、自分の本当の生の約束を知らないところからくる。しかるべき因があってしかるべき果が生じてこうなったのである。
<中略>
われわれはただ、自分はこういう目に遭うわけはない、と目の前のことで考えるから、煩悩が起こるのであります。こういうふうにならなければならないいわれがあってこうなったのである、と、内感することができるようになれば、われわれは煩悩を除くことができるのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
なお、これは『「運命」と「宿命」・「宿業」について』 にも関連している願いです。
[←back] | [next→] |