ご本願を味わう 第二十願

至心廻向の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏十方衆生聞我名号係念我国植諸徳本至心回向欲生我国不果遂者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数の仏国土にいる生ける者どもが、わたくしの名を聞き、その仏国土に生まれたいという心をおこし、いろいろな善根がそのために熟するようにふり向けたとして、そのかれらが、――無間業の罪を犯した者どもと、正法(正しい教え)を誹謗するという(煩悩の)障碍に蔽われている者どもを除いて――たとえ、心をおこすことが十返に過ぎなかったとしても、〔それによって〕その仏国土に生まれないようなことがあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
(前半部が漢文第二十願に相当)

 私の目覚めた眼の世界では、誰でも私の名を聞いて、いつも心を私の世界に向けて一生懸命、南無阿弥陀仏と称えて、その力によって、素直な心で私の世界に生まれようと願うであろう。その人はいろいろ回り道をしても、最後には私の国に導かれるであろう。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

それでこの願は、その行から「植諸徳本の願」、その信から「至心回向の願」、その利益から「不果遂者の願」と名づけられています。
 ここに「聞我名号」とあるのを、従来は「我が名号を聞いて」と読んでいますが、これは「我が名号を聞けば」でなければ、力がないと思います。わが名号とは、もちろん阿弥陀仏が自分のことをいわれるのですが、衆生はどうやって弥陀の名号を聞くのでしょうか。多くの学者は、善知識の教えか、念仏者が称える念仏を聞くことといっているのですが、これには疑問があります。
 ここでは「わが名号」とありますが、第三十四願以下では「わが名字」となっています。この違いは、呼びかけられた相手が、ここでは「十方衆生」、迷うている人々であり、第三十四願以下は「諸仏の国の中の衆生」や「他方国土の菩薩」で、心の眼が開けた人々です。その相違ですが、それにしても「名号」と「名字」は、どう違うのだろうか。漢文の学者に尋ねて見ましたら、「号」は雅号とか俳号というように、自分から名告ることだが、「字」はあざなで、他から呼ぶ時の名であるということです。親鸞聖人も「名はなのる。号はさけぶ」と、左訓しておられますね。そうすると、この「わが名号を聞く」は、一人ひとりに宿った仏の念仏のことでしょう。もちろんこれは念仏以前の念仏、声のない念仏、言葉にならない以前の念仏のことでしょうか。
<中略>
「念いを我が国に係ける」も、どこか死後にあるという夢のような世界へ、思いを馳せることではなく、『大無量寿経』の「往覲の偈」にいうように、「彼の阿弥陀如来の浄土の、微妙にして難思議なるを見て、因って無上心を発こして、我が国もまた阿弥陀仏の国のようにしたい」という願いを発こすことをいうのでしょう。第二十願も第十九願と同じように、第十八願を了因として、そこから展開する生因の願、形成の願であることを忘れてはならんでしょう。
「諸の徳本を植える」とは、従来は皆念仏することと解釈しているのですが、私はすべての人の人格を高め、すべての人が幸福になるために、あらゆる行為を挙げて、環境づくりをすることだと思います。もしこれを念仏することというなら、金子先生のいわれるように、「人生生活は、念仏の心において仏道となる」。この場合の念仏は、口に称える念仏ではなく、念仏の心根においてであることはもちろんでしょう。
「至心に回向して、我が国に生まれようと欲う」とは、どこかにある浄土のことではない。「浄土はどこにありますか。死んで向こうではありませんよ。あなた方一人ひとりの魂の根源にあります」。その全人類の魂の底深くに地下水のように行き渡っている浄土を自証し、自分の血の中に宿っている「不可称不可説不可思議の功徳」を、自分のあらゆる行為を挙げて、自分の国の浄土づくりに向けることでしょう。
「果し遂げずば」とは、衆生一人ひとりが、弥陀の浄土を自証し、自分じぶんの浄土を創造することができるようにということだと思います。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

これで受けとれなかったらこれを、これが行なえなかったらこれをと、私たちが自らに目覚め、如来の「まこと」の受けとれるまで、願を重ねてくださる阿弥陀如来のお心の深さと広さを、親鸞聖人は、

阿弥陀如来、本果遂之願[もとかすいのがん] 二十の願なり を発して 諸有の群生海[ぐんじょうかい]を悲引したまへり。 (教行信証・化土巻)

と、よろこばれるのです。そして、つづいて、

既にして悲願有[いま]す。「植諸徳本之願[じきしょとくほんのがん]」と名く、復「係念定生之願[けねんじょうしょうのがん]」と名く、復「不果遂者之願[ふかすいしゃのがん]」と名く、亦「至心廻向之願[ししんえこうのがん]」と名く可き也。

と、四つの名前をあげて第二十の願をたたえられます。
<中略>
 まず「最高のお徳とは何か」といいますと、徳とは、私たちを涅槃に向かわしめるもののことです。すなわち、私たちに本当のことを教え、真実の人生を歩ましめるものこそが、最高のお徳であります。
<中略>
 いつまでも、自分の進んでいく人生の方向が決まらず、ただ日々の生活に追われて走りまわっただけで一生を終るならば、あまりにもむなしい人生であります。
 念を係けるとことが定まらない人生は、結局、この世を何年間かさまよっただけの放浪の人生でしかありません。
 つらいことがあり、苦しいことにあうたびに、他人をうらやましいと思い、念を他人の上に係けながら、一生よそ見をして終る人生であります。
 念を阿弥陀如来の世界に係けるということは、つらいときも、苦しいときも、常に私を案じてくださる阿弥陀如来のあたたかい心を念い、やがて帰らせていただく浄土を念って生きることであります。
 阿弥陀如来のお心を念い、浄土を念うとき、くじけそうな心がなぐさめられ、勇気づけられ、苦難の人生にぶつかっていく力がわいてきます。
<中略>
 ここでどうしても注意しておかなければならないことがあります。それは、念仏申すことによって、必ず浄土に往生するといいましても、念仏そのもののはたらきによるのでありまして、私の念仏「申した」力によるのではないということであります。念仏申すとは、阿弥陀如来の「どんなことがあっても私がいます。勇気をだして力一ぱい生きなさい」と、はげましてくださる声を聞きながら生きるということであります。この阿弥陀如来の声に導かれ、ささえられ、勇気づけられて精一ぱい、この人生を生きるままが、浄土への人生となるのです。私の念仏「申す」力によって浄土への人生が開けてくるのではないのです。
<中略>
 また、廻向ということについて考えてみましても、曇鸞大師が、

凡[およ]そ「廻向」の名義を釈せば、謂[いわ]く己が所集[しょじゅう]の一切の功徳を以って、一切衆生に施与して、共に仏道に向かわしめたまふなり。 (教行信証・証巻)

と、あきらかにしてくださいますように「己が所集の功徳」をもたないものが廻向することなど、本当はできないのです。
 南無阿弥陀仏の名号は「阿弥陀如来所集の一切の功徳」であって、私の功徳ではありません。
<中略>
 親鸞聖人は、『大無量寿経』の「至心廻向[ししんえこう]」というお言葉を、先輩の人たちが「至心に廻向する」(まごころをもって私が廻向する)と読んだのを、「至心に廻向したまへり」(まごころをもって如来が廻向してくださる)と読み変えずにはおれなかったのです。  ですから、親鸞聖人は「至心廻向」というお言葉を、

「至心廻向」といふは 「至心」は真実という言葉なり 真実は阿弥陀如来の御心なり「廻向」は本願の名号をもて十方の衆生に与えたまふ御法[みのり]なり。 (一念多念証文)

とよろこばれているのです。
 「至心に廻向する」第二十願は、「至心に廻向したまへる」第十八の願に、必ず至らせるという願でありました。
 「至心信楽」・「至心発願」・「至心廻向」と誓われた第十八・第十九・第二十の願は、最後には必ず「至心信楽」の第十八願の世界に至るようにと誓われていたのです。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 一般的教化だけでなくして、最後には韋提希夫人は牢屋において阿弥陀如来の救済を説かれたことを、聖人は『正信偈』に「如来世に興出したまふゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり」(一九〇)と申されております。仏たる方は、釈尊のみならず諸仏の心のドン底は、弥陀の本願を説き知らそうとさられるにほかならぬ、と仰せられてあります。諸仏の本意は、諸仏の道を知らされるのでなしに、念仏によって助かる道、この道一つを知らそうとしたのであることが釈尊一生涯の本意である。それで釈尊の自力の教えで助かろうとする往生を、雙樹林下往生という名を付けられたのでありましょう。
 『阿弥陀経』は、ちょっと付け加えますが、親鸞聖人は『観経』と『阿弥陀経』と別けられますけれども、『観経』と『阿弥陀経』は方便の経として一つの流れのお経です。相手は韋提希と舎利弗と変っておりますけれども、『観経』下々品において韋提希にお話になった、若し心に念ずること能わずば口に南無阿弥陀仏を称すべし、仏の願力なるが故に必ず助かるぞと教えられて、韋提希夫人はよくよくそれをきいて、未曾有なりと喜び廓然大悟して無生忍を得るとありますが、そこに仏になるべき信心の智慧が開けた。韋提希夫人のように純粋に、信の眼が開くということもあるけれども多くは開かないということです。自分のことはさておきまして、人様のお話を聞いておると、助かるような善いことも随分しておるのだけれども、どうも少々たよりないからして念仏を申しておこうというのは、先ほど申しました助正間雑の心で、いろいろの不純粋な思いがはいっておるのであります。また私共は助かるようなことはできないからといっても、さて名号を聞いて助かる道をそこに見極めるということもなかなかできないのであります。二十の願の念仏を申しておる人々というのは、そのもとは自力心からでありまして、その自力心というものはなかなかなくならないものです。
 親鸞聖人は『阿弥陀経』という釈尊が舎利弗を相手としてお説きになったのは、一切の善というものは小善根小福徳であって、自分が真に助かるというような立派なことができるものじゃない。小善根小福徳の因縁によっては弥陀の国に生まれること能わずといわれたのです。
<中略>
現在に正定聚の身とならしめらるる、ということが本願を信ずるという御利益であって、第十八の本願によって助かったということは、現在において正定聚の身の上にならしめられることで、これを難思議往生とお示しになっておるようであります。そこまでにして育てていただけばこそ根機相応であります。何も助かるような能力のないものが、念仏を利用する、あるいは善根を利用するということは、本願に対する侮辱でありまして、煩悩のやまないありのまま、助かるようなことの何にもできないという私を、あなたのお力ばかりで助けてやろうということは、根機と本願とがここに相応して、正定聚の身の上にしていただくのです。正定聚にしていただいてこそ涅槃の、成仏の幸せというものにも、あなたのお力によってして下さるという、安心と喜びを、現在にさせていただくことができる。それが如来の本願の正意というものであります。その第十八願のおこころを、あくまでも知らせたいということが、『大無量寿経』上、下巻の説かれている所以であります。その人は現在に正定聚となって助かるのであって難思議往生という身の上になる。そこで十八が真実であって、十九、二十が方便である。その御方便は、第十八願のおこころから流れ出た方便であって、十九、二十の御方便の願があればこそ私どもが今日まで養われてお育てにあずかって、第十八の真実の願の根機とならしめられ、正定聚の身にならしめられるのである。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

『観無量寿経』を開いてみても、修諸功徳の往生人は、華に包まれて多くの時を経ると説いてありますから、浄土へ往生しても、ただちに如来の願心荘厳の世界を見ることはできません。すなわちこれは真実の報土へ往生していないのであります。それで修諸功徳では、如来はじっと衆生の心のとけてくるのを待っておいでになるよりほかないのであります。そてはしばらく子の心のままにまかせて、時期を待つ親の心であります。されど植諸徳本の根機に対しては、じっと待つというよりも、果遂の願力を加えて、真実広大の報土を知らしめようという思召しが見えています。念仏するものは、「教えざれども自然に、真如の門に転入する」とはこのことであります。
 これによってわれわれは、第十八願では、如来の智慧によってただちに衆生の眼を開き、第十九願では、如来の慈悲によって静かに衆生の自覚を育て、第二十願では、如来の念力によってすみやかに衆生の無明を破らんとされることを思わしめられます。これすなわち、はじめには如来の御胸にある十方衆生を呼び、中では衆生のおのがじしの心に順い、後にはついに三願があることも、ときに明瞭となったわけであります。如来の願心においては、ただ第十八願よりほかに何ものもありません。しかし第十八願のみであっては、十方衆生にその願意はおそらく永遠に徹らないでありましょう。如来はここをもって大悲方便して第十九願を建て、さらに第二十願を建てられたのであります。しかしてそれによって初めて第十八願の願意が真実に衆生に正受されることとなるのであります。
 それゆえに第十九願も、第二十願も、その本願を如実に領受すれば、そこに止まっていることができず、必ず第十八願に入らねばなりません。したがって第十九願というも、第二十願というも、畢竟これ第十八願心より流れ出たものであり、第十八願より展開されたものであるがゆえに、第十八願の動的内容といってよいでありましょう。すなわち十方衆生に対して如来の願いは、ただ一つ念仏往生あるのみであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

[←back] [next→]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)