ご本願を味わう 第三十四願

聞名得忍の願

【浄土真宗の教え】

漢文
設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類聞我名字不得菩薩無生法忍諸深総持者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの名を聞いて菩薩の無生法忍と、教えを記憶して決して忘れない力を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる求道者たちがわたくしの名を聞いて、それを聞いたことにともなう善根によって、迷いの生存を除いているから、以後、覚りの座に至るまで、神秘な保持能力(記憶して忘れない力)を得ないようであったら、その間はわたくしは<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、あらゆる世界の迷いに沈む人びとが、私の名、南無阿弥陀仏の声を聞いて、道を求める心を発し、その人生を実り豊かなものにできなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 ここに「わが名字」が初めて出て来ました。第十七願では「わが名」とあり、第二十願では「わが名号」となっていました。名号と名字はどう違うか。「号」は泣くとか、叫ぶという字で、自分で名告る名のことですが、「字」はあざなとか呼び名という字で、他人が呼ぶ名のことです。ここでは一人ひとりの衆生に宿っている、諸仏となった仏が、衆生を「おいおい眼をさませ。念仏せよ。弥陀の浄土を願えよ」と呼びさます、声のない声のことでしょう。これは第十七願に誓われている「諸仏称讃」の「わが名」であろうと思います。
 名号が成就するとは、その名を聞いただけで、聞いた人の上に「菩薩の無生法忍、諸の深総持が得られる」ということです。きのうも申しましたように、いくら人の徳が名の上に成就し、名の中に徳が成就していても、それを聞く人が、その人や名に就いて何一つ知っておらなければ、それこそ「馬の耳に念仏」に終ってしまうでしょう。名を聞いただけで、それだけの智慧が開けるということは、すでに聞く人の機が熟しておらなければならんでしょう。それが第十八願において、第一願から第十七願までの弥陀の願意に触れ、法蔵の願いがその人の信心となっているから、弥陀の名を聞いただけで、仏の徳が自分のものとなるのです。これから後の願は、念仏者に対しては、「わが名字」を聞いただけで、これこれのことを得ることができるようにということですが、弥陀自身にとっては、聞いただけで、これこれのことを得ることができるような徳を有った「わが名」を成就したいということです。
<中略>
 ここに「無生法忍」というのは、表に表れた事象ではないが、そうかといって、不生不滅という涅槃のことでもない。一つのこの世で形造られたものではあるが、形のないもの、つまり世とか性格とか、歴史とか社会とか、慣習とか国柄とか、また法則とか原理というものではないかと思っています。そのことは次ぎの「諸の深総持」でもいえると思うのです。「深総持」は、ダラニの訳ですが、それは一つの言葉の中にたくさんな意味を有っている言葉のことで、南無阿弥陀仏というのも、一つのダラニです。一語の中に無量の義を有っているダラニは、無数にあります。それで「諸の深総持」といっているのでしょう。
 私は「無生法忍」とは、今の言葉でいえば「勘」ではないかと思っています。仏教では智慧は無分別智であるといって、無分別といっても、それは分別がないのではない、「無分別の分別」であるといわれています。鈴木大拙博士は、それは「妙なもの」といっておられますが、先生は禅宗で、さとったものが「霊性的自覚」だからでしょう。念仏の智慧は、第三十三の触光柔軟の願によって、人生のいろんな経験を通してさとった「世間解」で、しかもそれが「無分別智」というのですから、私は熟練者の「勘」であろうと思うのです。勘は直観の働きで、それ自体は無分別のものですが、その中には無数の分別が内容となっています。
 たとえば碁打の勘ですが、プロの高段者は、一と眼ぱっと見ただけで、五十手先、七十手先が見えるそうです。「アマの人は三手先を考えて打ちなさい」といわれます。私たちは二手先が見えません。相手が打った段になって、やれしまったです。私は子供の時、先生から、二手先が見えないものは、碁をやめなさい、と叱られたことがあります。しかしプロの高段者でも、初めから何十手先が読めていたのではないでしょう。何遍も失敗して失敗して、鼻血が出るほど試行錯誤を重ねて、漸く見えるようになったのでしょう。正宗の名刀やりっぱな名刀は、何ぜ刃こぼれしないのか。その秘密は、一枚の鋼鉄のように見える刀は、実は鍛える時、折っては重ね、伸しては重ねて、何十枚何百枚に重ねられているからだと、聞きましたが、無分別智の中には、無数の分別が含まれている。それを無分別の分別といったのではないでしょうか。その人生そのものから学んだ無分別の分別を、無生法忍といったのだと思います。
 その無生法忍の智慧を身につけた人は、まさに人生修行の達人でしょう。「一を聞いて十を知る」、「表を見て裏が解る」、この無分別智こそ、日々を生きる智慧でしょう。向こうから自動車が暴走して来た。さあどうするか。子供がけがをした。さあどうするか。そこに役立つものは突差の智慧、勘の外はありません。それは唯だその時その折りに出遇った事件に対処するだけではない。日々新たに自己の運命を開拓し、新しい時代を創造するものも、また新しい機械を発明し、新しい技術を開発するのも、皆人生そのものから得た勝れた勘によるのでしょう。日々の人間関係や、家庭の在り方、社会の在り方、そこに働く智慧こそ、「菩薩の無生法忍 諸の深総持を得る」ことに外ならないでしょう。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 まず「涅槃」ということですが、涅槃とは、迷いの火を吹き消した状態ということで、迷いのなくなった境地、すなわち、さとりの境地のことであり、何ものにも束縛されない完全な自由の境地、すなわち解脱を得たすがたであります。
 ですから「涅槃を得る」とは、涅槃の境地である浄土に生まれるということであり、完全な自由の境地に生きる仏になるということであります。それで、先ほどから「涅槃を得る」ということを、「浄土に生まれる」とか、「仏になる」という言葉に置き変えて使ってきたのです。
 次に「無生法忍」とは、中村元先生の『仏教語大辞典』に、

無生の法理の意。空であり、実相であるという真理を認め、安住すること。一切のものが不生不滅であると認めること。ものはすべて不生であるという確信。忍は忍可、認知の意で、確かにそうだと認めること。真実の理をさとった心の安らぎ。不生不滅の理に徹底したさとり。無生忍ともいう

と解説されていますが、これを読んで、すぐにわかる人は少ないでしょう。そこで、私の味わいをも含めて「無生法忍」ということについて述べさせて頂きます。すなわち、私たちの苦しみや悩みは、一つ一つのものや事柄に執着することから起こります。これは私のもの、これは私がやったことと一つ一つのものや事柄に執着しますから、自分のものだと思っているものを失うことは何よりもつらく悲しいことであり、自分がなしとげたと思う事柄が消えていくことは何よりもさびしく耐えられないことなのであります。私たちの苦しみ悩みは、このように私のもの、私のしたことが消えていく、滅していくと思うところから起ってくるのです。
 本当は、すべてのものは、その時その時の因と縁の組み合わせによって成り立っているのであって、私のものと執着すべきものでもなければ、私のしたことと執着できるものでもないのです。また逆に、私のものが消えていく、私のしたことが滅していくということもないのです。それはただ、因と縁の組み合わせが変わっただけのことなのです。
 すべてのものや事柄は因と縁の組み合わせによってできているのに、一つ一つのものや事柄を実体のあるものと誤認して、生じた、滅したと一喜一憂して苦しみ、悩んでいるのが私たちなのです。
 ですから、すべてのものが因と縁の組み合わせで成り立っていて、一つ一つのものや事柄に実体があるのでもなければ(実体がないということが空ということ)いわゆる、生じた滅したと執着するようなものは何もありません。そのことがあきらかになれば、私のものが消えていく、私のしたことが滅していくと苦しみ悩むことがなくなります。このように、この世の中の本当のあり方を認知し、さとるとき、本当の安らぎを得るのです。
 すべてのものは不生不滅であるという真実の理をさとった境地が「無生法忍」なのです。
 このように素晴らしい境地を「わたしの名を聞く」ものにあたえてやろうというのが、第三十四の願であり、そのことを身にかけて証明してくださったのがイダイケ夫人です。
<中略>
 三忍とは、喜忍・悟忍・信忍のことで、中国の善導大師が「無生法忍」の内容を三つにわけてお示しくださったのです。
 喜忍とは、阿弥陀如来の金剛心(どんなことがあっても変わることのない心)に遇った信心によって与えられる、消えることのないよろこびであります。
 悟忍とは、阿弥陀如来の、どんなことがあっても間違うことのない確かなお心があきらかになることです。この確かなお心ひとつをよりどころに、精いっぱい生きるだけで、私たちはお浄土に生まれることができるのです。
 信忍とは、阿弥陀如来の確かな本願に、露塵ほどの疑いもなくなることです。私たちはお浄土に生まれさせて頂く身に安んじて、再び動転することのない日暮らしをさせて頂くのです。
 南無阿弥陀仏のみ名を聞くことによって、私たちも、イダイケ夫人と同じように、三忍、すなわち無生法忍を得ることを、親鸞聖人はあきらかにお示しくださったのです。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

念仏によって往生ができるということを聞いて、自力では何一つ駄目であった。自分にも他力によって助かる道があったということがわかりまして、『観無量寿経』ではどうなっておるのかといいますと、

韋提希[いだいけ]、五百の侍女と仏の所説[しょせつ]を聞く。ときにに応じて、すなはち極楽世界の広長[こうちょう]の相をみたてまつる。仏身および二菩薩をみたてまつることをえて心に歓喜を生じて未曾有[みぞう]なりと歎[たん]ず。廓然[かくねん]として大悟して無生忍[むしょうにん]をう。(一〇七)

と書いてあります。これが『観経』の最後の注意すべき言葉でありまして、仏の所説を聞いて、これはただぽやっと聞いたのでなくして、念仏申せば助かるぞという他力至極の言葉を聞いてそうして信ぜられたのである。私のようなものでも助けて下さるべき道があったのか、こういうことを知って、早速に、即ち極楽世界の広々として尊い相が見えたというのであります。これは定善十三観に説かれた極楽のすぐれた相を心にありありと見ることができたというのです。そうすると同時に一番大事な阿弥陀仏の御身及び観音・勢至という二菩薩を心に見たてまつることができたのです。これはありがたいことであります。阿弥陀如来の御本願によって私のようなものが助けていただけるのだ。それが定善十三観に説かれておった観世音菩薩、大勢至菩薩、阿弥陀仏もこの私の上に働いておって下さったということが見えるようになったのです。目の前に拝むことができるようになったものですから、ああ嬉しやと心に歓喜が生じた。獄中にあって今晩殺されるかも知れない悩みの中にありながら心に歓喜が生じたのです。びっくりして、「未曾有なりと歎ず」まだ生まれてからこんなしあわせなことは一度も知らなかったと喜ばれたのです。ただ掛物の仏像でなく木や金でつくった仏でなくして、本当に弥陀・観音・大勢至が私の上に来て下さっておるのだな、と心に歓喜を生じて、これは今日までに私には一生涯知らなかったことであった。未曾有なりと歎じて、廓然として大いに悟って無生忍という涅槃の入口といいますか、涅槃の智慧が開けたとあるのです。
<中略>
『文類正信偈』には、

信を発[ほっ]して称名すれば、ひかり摂護[しょうご]したまふ。また現生無量[げんしょうむりょう]の徳をう。(四六二)

死んでからでなしにこの世から無量の徳を得ると申しておられますが、そういうことが信の徳だということであります。

仏の本願力を観ずるに、まうあふてむなしくすぐるものなし、よくすみやかに、功徳の大宝海を満足せしむ。(観仏本願力、遇無空過者、能令速満足、功徳大宝海)(行巻・一四三、尊号真像銘文・六〇〇に引用)

と数えられぬ程の幸せというものが充ち満ちて、そうせずばおかんという御本願であると天親菩薩が喜んでござる。あの偈文を親鸞聖人御自身の絵像にはいるでも銘文として書いておられるのであります。海のようなたくさんの宝があるということになっておりますが、それはこの身が死んでからではなく、この世において満足せしめて下さるのであると申しておられます。それは無生法忍を得、諸深総持を得させずばおかんというこの願のお力であります。親鸞聖人は付け加えて、「知らず、求めざるに、功徳の大宝この身に充ち満つるなり」と喜んでござるのでありまして、死んでからでない、現在に諸々の幸せが得られて、しかもその幸せがずっと未来につづいて涅槃に達するまでということが信力であり本願力と申すものであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 一〇七=浄土真宗聖典註釈版 P116 『仏説観無量寿経』 得益分 / 四六二=浄土真宗聖典註釈版 P486 『浄土文類聚鈔』 念仏正信偈 / 一四三=浄土真宗聖典註釈版P154 『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文 / 六〇〇=浄土真宗聖典註釈版P651 『尊号真像銘文』6)

だいたい、無生法忍というのは涅槃のことであります。そして忍は「しのび」「たえる」ということでありますから、ほんとうの涅槃寂静の境地を認め、涅槃寂静の境地に随順し涅槃と相応する。それが無生法忍であります。その無生法忍を説くのに、「菩薩の」といったのはどういうわけであるか。無生法忍には、菩薩の無生法忍と声聞の無生法忍がある。声聞の無生法忍というのは、生死すなわち現実の世界を超え、動乱の世をのがれて涅槃の境地に安住する。それがすなわち声聞の無生法忍であります。菩薩の無生法忍はそうではなくして、生死の世界にありながら、煩悩のこの世にありながら、善悪・苦楽・是非の動乱の中にありながら、そこにある無生法忍であります。だから菩薩の無生法忍は、ほんとうの意味において自然にしたがう。あるいは運命に対する親しみというようなことではないかと思うのであります。 <中略> それは柔軟心が光を放ち、柔軟な感情が知識になってきたもので、それが菩薩の無生法忍というものではないでしょうか。だからその菩薩の無生法忍というものは、深甚無量の意味をもっている。その相においてはただ白い一筋の流れのようであります。きわめて単純である。自然に流れている。運命に親しんでいるから非常に単純である。単純ではあるけれどもその単純さはさらに無量無辺の意味をもっている。
<中略>
 「深総持」ということは深い総持ということで、「総持」というのは陀羅尼ということであります。すなわち陀羅尼ということの翻訳を総持というのでありますが、陀羅尼といいますと、呪文ということであります。その呪ということはどういう意味であるか。呪ということの元来の意味は、意味多含にして、一つや二つの言葉をもって、その言葉の意味を言い現わすことのできないことをいうのでありましょう。だから呪というのは、多くの意味をもっている一つの言葉ということであります。 <中略> だからここでいいますと、弥陀の名号念仏というものは総持陀羅尼のもとなのでしょう。多くの意味をもっている一つの言葉であります。多くの経験を統一した一つの行である。ただ一つの南無阿弥陀仏であるけれども、その南無阿弥陀仏は、人間のあらゆる経験を総持したあらゆる経験を陀羅尼したところの一つの言葉である、一つの行である。
<中略>
 今『仏座』の方では、曇鸞大師のところを読んでいるのでありますが、そこにこういうことがいってあります。

「彼の無碍光如来の名号は、能く衆生一切の無明を破し、能く衆生一切の志願を満たす。」

この「一切」という言葉はいったいどういう言葉であるか。
<中略>
すこしあかりがさしてそのあかりによって、さらに一層暗い方面に着眼するのである。だから一切の無明を破るという言葉は、無明を破られていよいよ切に無明を知るのである。志願を満たすということはその志願を満たすところの名号を聞いて、志願がいよいよ身につくということである。志願があきらかになるということであります。そういうふうにいつでもわれわれが気のついていることはわずかの部分であります。大なる円の小なる弧に過ぎません。その気のついたところだけに着眼したときに、普通の道徳とか修養ということが出てくるのであります。それだけのことに気がつくことによって、そのいまだ知られないものに恐れを抱く。その知られない方面に恐れおののき、その深淵に感動していくところに宗教の生活がある。そこに触光柔軟が出てくる。諸の深総持、無生法忍という気持ちがそこへ出てくるのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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