世尊よ。もしもかのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが、すべて一色、すなわち金色でないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた世界では、人びとはすべて光り輝いている、もしそういう姿に見えなければ誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
第一願と第二願が一対になっていましたが、この第三願と第四願も一対になっています。
<中略>
この二つの願が発こされた事情について、昔の人は、この経が説かれたのがインドであったから、こういう願いが設けられたのである。インドは白色人種や黒色人種、それに黄色人種が入り混じっていて、いつも人種差別の争いが絶えなかった。そこで人種が一つであったらという願いが、当然おこる。
<中略>
発生動機はそうであったかも知れません。しかし動機には必ず事情と同時に理由というものがあります。そういう見方は、表面的な事情であって、常識的な世界に生きている政治家の考えることでしょう。少なくとも仏教的ではありません。
<中略>
仏の身はすべて金色と説かれています。金は仏教ではいつも真心を象徴する色ですから、仏は「まことのかたまり」ということを現わしているのでしょう。そう思うて見れば、ここにも「真金色」といっています。法蔵菩薩が世自在王仏の説法を聞いた、その感動の第一声は「光顔巍々として威神極まりなし」ということでした。この「光顔巍々」として、全身が喜びに輝いている姿を「真金色」と表現したのではないでしょうか。西洋の哲学者が、仏教の精神を「不断の智的快活」と訳しているそうですが、この「不断の智的快活」の人格こそ、まさに真金色の姿ではありませんか。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
私は「思いうちにあれば、色そとにあらわれる」という言葉もありますように、内面に「よろこび」がないから、顔が暗くなるのではないかと思います。
ある先生は、「現代はたのしみのみあり、よろこびのない時代である」といわれています。私もその通りだと思います。主体的、自主的、個性的等の生き方を願いながら、管理社会、情報社会、消費社会等といわれる社会の中で、しめつけられ、追いかけられ、流されながら苦悩しているのが現代の私たちではないでしょうか。思いに反してしか生きられない現代の私たちの苦悩が、朝夕の暗い顔となっているのではないでしょうか。
<中略>
「生れてきてよかったのか」と言わずにおれないほど悲しいことはありません。
「『生れてきてよかった』と、顔が輝やき、身が輝やく生き方、そんな生き方をさせてやりたい」というところに、第三の願に誓われる「如来の願い」があるのです。
この願いを聞くとき、私たちは、この現実を改めようという行動になるのです。そのことを親鸞聖人は「世を厭ふしるし」という言葉であきらかにしてくださいます。
<中略>
念仏者であると自認しながら、差別を平気で許しているようなら、その人は、にせ念仏者であり、「如来の願い」を全く聞いていない人といわなければなりません。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
悉皆金色の願成就は、上巻に、
阿難、かの仏国に、もろもろの往生するものは、かくのごときの清浄色身、諸妙音声、神通功徳を具足す(三六)※
とありまして、必ずしも金の色ということは書いてないのです。その国に往生し、その国の者となったものは、清浄の色身、清らかな非常に美しい身となる。声もきれいだ、そして神通ですから心のはたらき、功徳をちゃんと身に具えるようになっておるということが、悉皆金色の願の御成就の御文になっておりますから、必ずしも黄い金色ということではないことは、これでもわかるのです。唯清らかに感ずる、喋っておってもその声も美しく感ずる、その人の心の動きというものも非常に立派になる。そういう功徳をいただくようになることが、これが金色の願の成就した有様であると釈尊が解釈をしておられるのであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
始めの二つの願いによって、国土の禍が除かれたのであります。三悪道ということはくどいようでありますが、いろいろの状態でたがいに害し合う浅ましいところであります。そういう擾乱、禍が除かれたのでありますから、今度はそれにかわるべき幸福が与えられるのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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