世尊よ。もしも、わたくしがこの上ない正しい覚りを覚った後に、生ける者の誰かが、この(わたくしの)仏国土における<教えを聞くのみの修行者>の数を数えて知るようなことがあったら、たとえ、三千大千(の世界)に属する生ける者どもすべてが<独居する修行者>となって百千億・百万劫の間数えたのであったとしても、(とにかく、わたくしの仏国土における教えを聞くのみの修行者の数が知られるようであったら)その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、私の教えを聞く人びとが大勢いて、あらゆる世界の求道者たちが、常識では考えられないほどの時間をかけて、教えを聞く人の数を数えて、もしすべて教え終えるなどということがあったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
この願の成就文には、弥陀がさとりを開いて、初めての説法の座に集まった声聞の数は限りなく、また菩薩の数も限りないことを、願文と同じような手法で、もっとていねいに説いています。ここに説かれている声聞と菩薩は、いつも申しますように、二種類の人が居るのではなく、「声聞」は、法を聞こうとする聞法の態度を現わし、「菩薩」は、人間関係において、また社会人として、どう生きるかという求道精神を象徴しているのです。このことは親鸞聖人も、よほど感銘向かったのでしょう。「弥陀初会の聖衆は、算数の及ぶことぞなき、浄土を願わん人はみな、広大会を帰命せよ」と、和讃しておられます。
このことは第一に、自分の生きる道を、誰か師を求めて聞こうとする人もあり、また自分の道は自分で考えるという人もあろうが、そういう人たちはみな、「国中の声聞」に生れ変るように、それも現在の人だけでなく、この世のあらん限りの人々が、そうなってもらいたいということではないでしょうか。
<中略>
お釈迦さまが、十二月八日の夜明けの明星輝く頃にさとられた時には、誰一人いなかったし、鹿野苑での初転法輪には、わずか五人であったということです。弥陀がさとったことを、聴衆はどうして知って、集まったのでしょうか。ラジオもテレビもなければ、ジェット機もロケットもない時代に、行くことも問題です。実は聴衆が動いたのではなく、弥陀が衆生を見る眼が変ったのです。お釈迦さまがさとりを開かれた時、「奇なるかな、奇なるかな。われ成仏せば、一切衆生に悉く仏性が有った」といわれたのと同じことです。弥陀が心の眼を開いた時、どんな人も皆心の深い所では、真実の声を聞きたがっていることが見えたのです。弥陀の眼によって、一切衆生が「国中の声聞」として、見開かれたのです。この時法蔵菩薩は、恐らく喜びの余り、飛びあがったに違いない。衆生の自覚と浄土の建設を願いながらも、その可能性も見つからず、めどさえたたなかったものが、今一切衆生に仏性のあることを発見したのです。渾身の血はここに凝集され、願いはこれによって具体化されて誓いとなり、勇気は百倍したことでしょう。これが一切衆生が救われる根本原理です。
<中略>
仏教とは、自己本来の仏性に眼ざめる教えです。この第十四の願力が、やがて第十八願に誓われている、衆生の至心を呼び起こすことになるのだと思います。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
一つ一つの小さな事柄では、人間はそれぞれもち味がちがいますから選別されることはありましても、人生という大きな場では、みんながそれぞれのもっているいいところをだしあい、たすけあって生きていかなければ生きられません。そんな世界がなければ、人間が本当に人間として生きることができないことを、如来は私たちに教えてくださるのです。
同じような悲しみや淋しさを味わいながら、互いに手をとり合って、阿弥陀如来の真実の世界に歩みをすすめるところに、御同朋・御同行の世界があるのです。
たった一つの能力や経験だけで、人間を選別することのない世界、みんなが一つ場で、如来のみ教えを聞くことのできる世界がなければ、人間は人間にならないままで一生を終ってしまいます。
声聞とは、如来の声を聞く人です。「国内の声聞の数に限りがない」ということは、すべての人を選別することなしに受け入れる世界を実現しようという誓いなのです。
生まれてから死ぬまで、色々な形で選別されて苦悩する私たちのために、選別されることなく、すべてのものが一つ場で、み教えを聞ける世界をあたえてやりたいというのが、「如来の願い」なのです。
選別されることなく、一人ひとりがそのよさを認められる世界において、人間は、それぞれが、それぞれの光を精一ぱい放つことができるのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
仏、阿難にかたりたまはく、かの仏の初会の声聞衆のかず、称計すべからず。菩薩もまたしかなり。いまの大目ケン連のごとく、百千万億無量無数にして、阿僧祇那由他劫にをいて、乃至滅度まで、ことごとくともに計校すとも、多少のかずを究了することあたはじ。(三〇)※
この意味は、仏が阿難にお話になるのには、かの仏の初会の声聞衆の数は計ることができぬ、たくさんある。声聞だけではない。菩薩の数も知ることができないほどたくさんある。それを譬をもって言われまして、今ここにおる大木ケン蓮、釈迦のお弟子大木ケン蓮は神通第一という、非常に、智慧の力の強い方です。このような方が百千万億無量無数にして、数えられないたくさんあって、そうして阿僧祇那由他劫という、非常に数えきれないほどの長い時間、そして、乃至滅度まで、その人が死ぬまで、命のあらん限り悉く一緒に計り数えても、そのお弟子の数をはっきりと究めつくすことができぬ。これが釈尊の説明であります。そこまでを願成就の文と申されます。
<中略>
尽十方無碍光如来といいますように、東西南北、四維上下、十方を尽くして、はてしない光明無量の仏になりたいと仰せられたのでありますから、また絶対無限であるという仏になり寿命無量の仏になりたいということでありますから、その如来のお話を聞いて救われるものも、数限りないことであります。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
四十八願の中で国中声聞という字を使ってある本願は、ただこれ一つしかないのであります。国の中に声聞がある。そうしてその声聞というのは数が無量無辺にあって、三千大千世界の智者達が百千劫という長い間かかって阿弥陀仏国の声聞の数を数えても、数え尽すことができないというほどにあらしめたいという願いであります。
<中略>
仏の光明はさきほど申しましたように、おのおのの存在を認められるのであります。さればこそまたその仏の説法を聞かんとする声聞がかぎりないのではありませんか。あんあものは駄目というふうにはねのける人間には、聞く人間が少ないにちがいない。だから阿弥陀如来の光明が無量であって、そのおのおのの人の生活に意味を認める。みな一人も軽んじないで、みなを生かしていこうというその仏の光明が、まず浄土において無数の声聞を感得されたのではないでしょうか。だから光明無量ということと声聞無数ということとの関係は、仏の光明無量なる第一の報いとして、かぎりない声聞を感得さえるのであるということであると思われます。
まだわれわれ衆生が一人も往生しないうちに、すでに無数の声聞が浄土にあるということは、ほんとうにわれわれが彼の世へ行けるゆえんである。彼の浄土を願うものは、彼の浄土の人となることができるという暗示を、「声聞無数の願」がもっているようであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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