ご本願を味わう 第二十七願

万物厳浄の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国中人天一切万物厳浄光麗形色殊特窮微極妙無能称量其諸衆生乃至逮得天眼有能明了弁其名数者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてすぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう。かりに多くの人々が天眼通を得たとして、そのありさまを明らかに知り尽すことができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

称量:思いはかること。
逮得:得ること。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生ける者どもの誰かが、飾りの美しさの限界をとらえていて、たとえ超人的な透視力(天眼)によってであったとしても、『この仏国土はこのような美しさである、このような壮麗さである。』と、種々の美しさを〔知ることはできないはずであるのに、〕もしもその美しさを知っているようなことがあるようであったら、そのはわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、世界中の人びとや物が、すべて美しく輝き、形や色も個性的で素晴らしく見え、とても常識では考えられないものに変身するであろう。もし人びとがたとい千里眼を得たとしても、そのすべてを見通すことは不可能であろう。もしすべてが見通せるようであったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

使用する品物が、りっぱであるかないかは、本人の受け取り方の問題でしょう。いくら高級な品でも、本人が好かねば、本人にとってはりっぱなものではないでしょう。あれが足らんとか、これが気に入らん、不足不満をいっていたものが、菩提心が生まれてくると、そこらにあるものが、皆尊いものに変ってくるということをいっているのではないかと思います。
<中略>
『維摩経』には、「無限大悲の薫習した食べ物である。限意を以て不消化に終らせてはならぬ」と誡めています。「限意」とは、たったこれだけかとか、こういうものだと、自分が勝手に決めることですから、病気だ不幸だと歎いていたが、よくよく噛みしめて見たら、ここにも尊いお育ての大悲があったと、すべてのものが、心の糧として受けとることができるというのです。ここの願文の後の半分に、諸の衆生がたとい天眼を得ても、その品がどんなものであるか、その数がどれほどであるかを、計り知ることができないとあるのは、そういうことをいっているのではないかと思います。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 人間は、自己主張なり、反抗することによって、相手のものの見方に抗議することはできますが、ものは人間のように自己主張や反抗をしませんから、私たちのものを見る目が開けないかぎり、そのもののもつ本当のよさを語りかけてくれません。
 比べたり、好みによってしかものを見ることのできない私たちの目が、もの自身の語りかけてくるところをきくことができる目に変えられないかぎり、沢山のものにかこまれていても貧しい生活しかできません。
 私たちに、もの自身が語りかけてくるところをきくことのできる目が開けたら、私のまわりにあるものが、それぞれ、他のものにはない、固有の色を輝かせ、独自の形をあらわしていることがあきらかになります。私たちが、他のものと比べたり、己の好みによって見るという色メガネをはずせば、それぞれのものがみな浄らかでうるわしい色や形をあらわし、他のものにない、そのもの自身の微妙な色や形を示します。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 この因願を願成就の文に合わせてみるとよくわかります。

その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・碼碯、合成して地とせり。 (二八)※

とありまして、自然というのは、われわれの作り出したものでえないというほどの意味で、仏のお力でできあがったということを知らされるのであります。そういう金・銀等の七宝というものが組み合い、一緒になってそうして浄土の一切万物になっておる。いわゆる七宝荘厳であります。
<中略>
信の人は、そういう一切の万物が、厳浄光麗であり、形色殊特であって、何ともかとも言えない、かかるものが数限りなく存在するということに味わい喜べるような生活をさせねばおかぬというのが、この二十七の所須厳浄の願であろうと味わわれるのであります。聖人が国中人天という言葉は、死んで極楽にまいってからということではなしに、国中人天とあるのは信の上から生まれ変わった一つの境地であるということを味わい知らせて下さったということに、非常に意味があるのであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 二八 =浄土真宗聖典註釈版 P28 『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 十劫成道)

 私はこの本願から、普賢というものの人格が、日常に用いるものの上に現われているということを味わうことができると思うのであります。普賢という一つの人格ができてきますと、その人格というものはただ三十二相という身相に現われるだけでなく、この普賢の徳がここへも映りあそこへも映る。普賢の徳はどこにでも現われるのであります。私に普賢の徳が与えられるとするならば、私の普賢の徳はいずれにあるか、普賢の徳はけっして体だけにあるのでない。コップにもあり、水差しの上にもある。
<中略>
たとえばこの水にしても、コップに感謝を捧げて一杯の水を飲むと、窮微極妙であります。十分に満足しているのであって、やむを得ず満足するのではありません。ここに十分意義を認め敬意を払って満足する時に、「厳浄光麗にして、形色殊特ならん」であります。一つ一つ自分の用いるものに敬意を払って、自分の用いるものに満足していくという、そういうところに還相の生活がある。われわれの還相の精神が所有物の上に見出されていくのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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