世尊よ。もしも、わたくしがこの上ない正しい覚りを覚った後に、このわたくしの仏国土において、誓願の力によって〔寿命を短縮する〕ものは別として、(とにかく)生ける者どもの寿命の量が、量り得られるようなものであるようであったら、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、永遠のいのちを生きる人しかいない。ただしその人が、迷いに沈む人に永遠のいのちを自覚させるために、私のいのちは短命であってもいい、と誓う場合は除くことにする。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
「眷属」とは、身うちとか、一族ということで、「国の中の人天」のことをいったのです。「寿命」とは、第十三願でも申しましたように、呼吸をするという生理的命のことではなく、菩提心のことですから、法蔵菩薩の願心が、国中の人天の一人ひとりの菩提心となって、その人を生かすようにということです。この願では、第十四願の「声聞」が、「人天」に変っていますが、これは法を聞きたいと願っていたものが、だんだん育って、仏の願心が受けとれて、その人の信心となったことを「人天」と現わしたものでしょう。成就文に信心決定したものは、「即ち往生を得て、不退転に住する」ということも、皆この願の力によるのでしょう。
これからさきも、その願によって、呼びかけられる相手の名が、あるいは諸仏とか、衆生とか、菩薩とか、いろいろに変りますが、これは相手の人が変るのでなく、相手の在り方が変るのです。それと同時に呼びかけている法蔵菩薩の立場も変って、その見方が変ってくるのです。たとえば今もありました「声聞」は、聞法者として。「人天」は、その人の果報を現わす場合。「諸仏」は、独立した一人格者として。「衆生」は、道に迷うている場合。「菩薩」は求道者としての場合ですが、それは人間関係において、また社会人としての場合です。また「国中菩薩」は、自己自身の道を内に深め明らかにしようとする場合。「他方菩薩」は、自らの徳を形をとって外に成就しようとする場合と、使い分けています。
<中略>
第十三願の時、寿はいのち長し、命は今生きているということであると、申しましたが、弥陀の場合は、弥陀自身のいのちは寿ですが、それが現実に働く時には、命という形をとるといた方がよいのではないかと思います。ネハンとか、真如とか、法性とかは、永遠的存在で、時間を超えた超時間的存在ですから、いのちとはいえません。いのちは常に死とか衰えるという、危機にさらされているもののことです。弥陀はたんなる真如ではない。歴史的存在ですから、弥陀自身は無量寿仏と寿であらわします。それが現実に働く時には、いつでも今、今、今と、非連続の点として、自らを現わします。しかし同じ今において働くといいましても、永遠は時間に対して、直角に時間を破って、一瞬その相を現わすといいますが、浄土はいつも時間と共にあって、過去から、背後から呼びさますという形で働きます。親鸞聖人は「弥陀成仏のこのかたは、今に十劫をへたまえり、法身の光輪きわもなく、世の盲冥を照らすなり」といっておられるでしょう。
それが衆生の場合では、「寿」は衆生に宿った法蔵菩薩の願心をいい、「命」は衆生の菩提心を現わしているようです。親鸞聖人は「憶念の心つねにして」のつねを、「常」と「恒」とに分けて解釈して、「常はいつもたえず、恒はときどきたえず」といい、『行巻』では「不退転の菩薩と、不退転の菩薩を念ずる菩薩が不退転である」といっておられます。不退転の菩薩とは法蔵菩薩のことですが、念ずる菩薩とは衆生のことです。それをさらに「卑しい男も、転輪聖王の伴をすれば、四天下に遊ぶことができるようなものである」とたとえられておられます。
<中略>
浄土のいのちが、長い短いが自在であるということは、宿業の世界へ還って来て、そこで菩薩行を修したいと願う人は、いつでも自在であるということのようです。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
死ほど悲しいことはありません。しかし、生もまた、時によっては死と同じぐらい悲しいものです。
この世には「なんとしても生きていたい」と願いながら死を迎えなければならない人もいれば、「こんなに苦しく、また、まわりの人にこんなにつらい思いをさせるのなら、早く死を迎えたい」と願いながら生き続けなければならない人もいます。
どちらの願いがよくて、どちらの願いが悪いと簡単にきめつけることはできません。どちらの願いも、それを願わずにはおれない人にとっては、何よりも真剣な願いなのです。
<中略>
阿弥陀如来にすべてをまかせて生きるものは、この世の生命が終る瞬間にお浄土に生まれ、何ものにもさまたげられることのない新しい生命が始まるのです。この新しい生命は、悩む人々のために生きつづける生命なのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
われ、いま、いまだ死せずしてすでに天の身をえたり。短命をすてて長命をえ、無常の身をすてて常身をえたり。(二六九)※
といって信心の喜びを述べておられますが、死というものが問題でなくなった、ということが如来の光に遇わしていただいた信心の徳というものであります。はじめは、死んでからそういう身の上になるのだと聞かされて、だんだん信を喜びますというと、死んでからでなくして今からもう死なないものにさせていただいたという喜びが、あの阿闍世王が飛び上るような喜びを持たれたように、命が切れるという「死」ということが問題でなくなってくる。「短命をすてて長命をえ、無常の身をすてて常身をえたり」(二六九)と言って喜ばれた、そういうものと致したいということが、この本願のお心であろうと思うのであります。
最後に本文とほとんど違うところはありませんが、願成就の御文を挙げておきましょう。
声聞・菩薩・天・人の衆の寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよくしるところにあらず。 (三〇)※
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
阿弥陀仏は自分の命だけが無量なのではなくして、国中の人天、すなわち彼岸の人間はみな自分と同じように命かぎりなからん、こういうのですから、「声聞無量の願」が「光明無量の願」の一つの顕現であるとするならば、「寿命無量の願」がもうひとつ具体的になったのが、この「眷属長寿の願」であります。本当の生命は波及するのである。だから仏だけが寿命無量ということはない。仏の世界にあるものはみな命かぎりないようにならねばならない。ということはその大悲がもうひとつ具体的になったということであります。
<中略>
・・・第十二・第十三の「光明無量・寿命の願」が、彼の土において具体的になって第十四・第十五願となったのでありましょう。一如法界から光明無量・寿命無量の御身が現われ、それがさらに声聞無数・眷属長寿という彼土の荘厳となったのであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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