世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸々の仏国土に属する生ける者どもの心の動きをすっかり知る超人的な読心力(他心通通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、人びとがまわりの人びとの本心がわからず、いつも誤解し偏見に苦しむなどということはない。もしそのようなことがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
たとい本人は自覚はなくても、心の中で、自分の欠点に気がついて、何とかして直したいと、心で泣いておりながら、身についた悪いくせがなかなか直らない。そういう我とわが根性を持て余して、泣いている相手の心が解るということだろうと思います。
<中略>
これも単に特定の人のことではなく、「百千億ナユタ」ですから、どんな人でも、人間としてこの地上に生を受けている限りは、表を見れば幸せげに見える人でも、その人の身になり、その人の肩を叩いて見れば、「唯聞こえるものは、愁歎の声のみ」で、皆んな一荷に背負いきれぬ苦しみ悩みを有っておらん人は、一人もありません。あの人はよいことよ、この人は幸せよと、人をうらやんでいた心が、他心智が開けて来れば、その心がひとりでにとれて、私もこのまんま生きて行きましょうと、素直な心が出て来ます。一人ひとりの上において、一切の人の心の底を流れている、人間としての悩み、人間としての共通のまごころの願いが知れて来るということだろうと思います。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
自分の思いだけを相手に押し付けて、他の人を正しく理解しようともしなかった私が、こんな悲しい自分に少しずつ気付きはじめたのは、如来のみ教えを聞きはじめてからのことであります。
自からの悲しみが本当に明らかになった人だけが、他の人の悲しみを受けとることができるのです。
他の人の心がわかるということは、自からの心がわからない人には不可能なことです。
如来が、他心通、即ち他の人の心が理解できる能力を与えてやろうと誓ってくださるのも、ただ超能力のようなものを与えて、他の気持ちが手にとるようにわかるようにしてやろうということではないのです。
自らの悲しみを知って、他の人の悲しみのわかるような人間にしてやろうということであります。自からを知ることなしに、他の人の心だけがわかるということは恐ろしいことです。そんな恐ろしい能力を与えようというのではありません。
「あなたも悲しみを背負って、一生懸命生きておられるのですね。私もそうなんです。」と、まわりの人と手をとりあって生きる人にしてやろう。誰も自分を理解してくれない、とまわりの人に当り散らし、皆んなつまらない人間ばかりだとまわりの人を責めながら生きる人にだけはなってほしくない。
こういうところに、第八の願で他心通を誓われる阿弥陀如来のお心があるのではないでしょうか。
<中略>
小さな自分の殻に閉じこもっているから、自からもわからなくなり、他もわからなくなるのです。如来の本願に遇って、この小さな殻が破られる時、自からが明らかになり、数限りない世界の人の心がわかるのです。すべての人が御同朋であったとわかるのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
人の心がわかればこそ、その人に適当な行いの話をして、その人を救うというようなことでもできるのでありますし、それがわからないものだから、私らはいつでも失敗ばかりして、わからんわからんと言っておるのです。それはおかしなことであって、段々わかってくればそういう利他の方面も便利になるのです。それも一つの味わいですが、これがまた願成就の御文は、下巻に、『大経』の流通分として、釈尊が弥勒菩薩に言われる言葉がありますが、初めの方は仏が御説法の終わりに臨んで、弥勒菩薩にお話なさる。初めには三難というものをお話になり、第二番目には四難というものをお話になる。
仏、弥勒にかたりたまはく、如来の興世まうあひがたく、みたてまつることかたし。諸仏の経道、えがたくききがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、きくことをうることまたかたし。善知識にあひ、法をきき、よく行ずること、これまたかたしとす。もしこの経をききて信楽受持すること、難のなかの難、これにすぎたる難はなし。(七八)※
これを昔から三難四難というのであります。弥勒におっしゃるのには、難であるから喜べよということなんですな。難いということは有難いとか喜べということに心得てよいと昔の人が言われますが、難しい難いことが得られたらそれこそ喜ばねばなりません。有難いというのは有難いことなんだ、あり得べからざるというか、ありにくいことがあったのだからして、喜べ、喜ばなければならん、「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」(『教行信証』総序)と申されます。難中之難無過此難のこの法を得さしてもらったということは慶びにたえないことです。
<中略>
この他心通という願をお立て下さったのは、よくよく考えるというと、自分が善知識に遇うて法を聞いて能く行ずるということができるようになるのが、他心通を得たというのであるということです。善知識が何ぼ自分のために一生懸命に話をして下さっても、その善知識の心がどうもわからない、法を聞いてもどうも行ずる気になれない。行ずるというのは真宗で言えば信心の上から念仏を申すということです。けれども昔から、そうでなしに、禅宗とか天台とか真言とかいうような自力の教えで仏法の話をして下さるという、そういう一般的な意味だといわれますが、本当の話をして下さっても、その人の心が得られないものです。だからしてその教えの如く行ずるということがどうしてもできない。その人の心をいただいて、そうして行ずるようになれるということはなかなか難しいことだからして、そういうことがわかるように、その教えて下さるお方が話がわかるようにさせてやりたいというのが、他心通という本願の真義であります。ただ人の心がわかって、どんな国の人の心も皆わかるということも否定しないでしょうが、それを押し詰めていけば、善知識に遇うて法を聞いて行ずるということが難しいのだが、なるほどと、わかるようにさせて下さるのであって、難を難とせずにできるようにさせて下さるということが、お誓いの願力というものだと、こういう具合に味わわれてく来るのであります。私は真宗の味わいから行きますと、能く行ずるというのは、自力聖道門の人の行ずるということでなしに、念仏を申すということではないのか、と思うのです。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
これはわれわれ社会の機微に徹するということではないでしょうか。
<中略>
われわれの感情をどこまでも高めていくものが天耳通である。そうして、また他人の心を知るということは、我と人との交渉をどうしたらよいかというような、道徳的要求を満たすものである。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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