世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土の生ける者どもの間に、<悪い者>という名称だけでもあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、すべての人びとがこの世に悪者はいないことを自覚するであろう。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
・・・肉眼では見えないが、永年によって造ってきた人間関係、社会関係の世界を行為的世界といいます。仏教では業異熟といっています。これを無視しては、私たちは生きられないのです。
『華厳経』には、「文殊菩薩の行く所、いばらからたちの野原が、たちまち花咲き匂う花園に変り、石ころ路や、木の根のわだかまっている坂路が、たちまち坦々たる大道に変って行く」、菩提心の有っている転成の徳を説いていますが、それでなければ、私たちの生活の事実は救われません。『大無量寿経』には、「風が吹いて華を散らすに、華は遍く仏土に満ち、色の次第に随って乱れず、足がその華の上を履んで行くに、くぼみ下がること四寸、足を挙げればまたもとの如し」、浄土の菩薩が行こうとして、風が起こると、真心の華が散って、その人の喜びをもって迎えてくれる。しかも恩に着せることもなく、着ることもないことを象徴的に説いています。
さっき第十四願は聞の成就、第十五願は信の成就を誓われたものであろうと、申しましたが、この第十六願は証の成就を誓っておられるのでしょう。「証」は、仏教ではさとりと読んでいますが、本来はあかしという字です。その人がりっぱであるかどうかを証明するのは誰か。それはその人の生活が無碍になる。周囲の人が喜んで順うてくれることです。それが第十六願の意だろうと思います。この願力によって、第十八願の「欲生心」を発こすのだと思います。したがって「欲生」とは、たんに弥陀の浄土へ生れようと願う心だけではなく、親鸞聖人もいっておられるように、浄土の徳が念仏者の上に事実として廻向されることでしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
善をなさねばと思いながら、気がつくと不善しかしていない私、不善を行い、あとで後悔しながらまた同じことをくり返して、身を焼きつづけて苦しんでいる私。
こんな悲しい私の姿を見たとき、阿弥陀如来は「不善の者」をなくそうと誓わずにはおれなかったのではないかと味わわせて頂くのです。
さらに「その名さえあるようなら」、と誓ってくださるお心を頂くとき、私は、いいようのないお慈悲の深さを感じるのです。
私たちの世界では、「不善の者」という名前によって、どれだけ、悲しい思いをし、また、他人を苦しめていることでしょうか、いや、苦しめるだけではすまず、まわりの人を文字通り「不善の者」にしてしまっているのです。
大阪大学の大村英昭先生は、「現代の社会と宗教」という文の中で、
算数ができない(あるいは算数教師と馬が合わなかったといってもいい)といった、ささいな出来事で、「落ちこぼれ」のレッテルを貼られたために、多くの生徒は本当に“駄目な人間”であるかのように自ら思い込み、周囲のものもそういう目でかれを扱ったことが、例えばかれを非行にはしらせる最大の原因ではあるまいか
と、述べられています。すなわち、私たちは「落ちこぼれ」という名によって、「落ちこぼれ」をつくっているのです。
それと同じことで、「不善の者」という名によって「不善の者」をつくっていくのが私たちなのです。そんな私たちのあり方を見抜いてくださった如来だからこそ、「不善の者は勿論のこと、その名さえあるようなら、わたしは決してさとりを開きません」と、第十六の願で誓ってくださったのだと、私はうなずかせて頂いているのです。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
乃至ということがちょっとわからなかったのですが、願成就の文から見ると、人間だけではなし、その国の中の一切の国土というものも、ということでしょうね。
この願の成就の文は次のように記されています。
三塗苦難の名、あることなし。ただただ自然快楽のこゑあり。このゆへにその国をなづけて安楽といふ。(三六)※
これだけが釈尊がご説明になった願成就の文というものだと教えられております。「三途」というのは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道であります。無論、三悪道の名など極楽にあるわけはない。そのほか苦しいとか困難とかいうような名前はあることがない。人の上にも物の上にもそういう名前はなくして、あるものは但「自然快楽の音」、「自然」は他力自然、「快楽」は快く楽しいという、これは名の代わりに音ですな。そういう名や音ばかりがあるからして、その国を安楽と名づけるのであると説かれています。
<中略>
信心が得られて落着くことができ、喜びの身の上となられた、というのであって、その結果としての安楽な所へちっとでも早く行きたいとは申されず、此処が嫌いだ、と言っておられた韋提希夫人が、自分の足元から、広々とした世界が開けて、そこへ、遠いと思っておった阿弥陀仏と観音勢至のお働きを身近に見られて大いに喜ぶ身の上になられたのであります。
<中略>
親鸞聖人のみ教えは、方便から真実に達することを忠実にお示し下さっておるように、信心の人になれば、死んでからあの世においていただけるという幸せが、只今から開かれて来るということを知らせたい、得させたいというお心であります。如来御本願もそういうおぼしめしにほかならぬのです。こういうことをお知らせ下さっておるのでありますから、国中人天、国中声聞とあれば、死んでから極楽に行って得ることだと一応お聞きになっても差支えはないのです。けれども、聖人が、そうではなくして、信心のところから、そういう幸せが開くのであるということをお教えくださっているのです・・・
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
阿弥陀仏の国土の名前において不善の名なからんということは、『浄土論』で申せば、妙声功徳といって、阿弥陀仏の国は評判がよいということである。その妙声功徳にも、この第十六願が相当するのであろうと思います。それはこのつぎに第十七願へいくと、十方の諸仏にわが名を称えられたいということが出てきますが、阿弥陀仏が十方の諸仏に称えられる前に、阿弥陀仏の国がよい名前をもっているということは自然のことではないかと思うからであります。いったい、国家の評判が悪いのに、その国家に住んでいる人間の評判がよいということは非常に恥ずべきことであります。
<中略>
そこへいきますと、個人よりはまず個人の背景たる全体の評判がよい方がよい。それで阿弥陀仏は自分の名を称される前に、「国中人天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ」と願われたのである。こういうふうに見てはじめて私は、第十七願の前に第十六願がどうしても要るのではないかと思うのであります。まず国の名を立てて、しかして後自分の名が立つのであります。そうでなければいくら十方諸仏が阿弥陀仏の名を称揚されても、衆生を往生せしめることができないかもしれません。われわれは第十七願のおかげでお浄土へ行くというけれども、その第十七願の背景に第十六願がある。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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