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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』30

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生果3

 ここまで、浄土に生まれたいという願いが成就した菩薩、つまり信心獲得者は、どういう果報を得、回向された真実信心をどう生かしてゆくのかということを詳しく学んできましたが、今章はこうした衆生往生果の総仕上げとなります。
 今までの復習をしますと、{衆生往生果1}では「一生補処[いっしょうふしょ]究竟[くきょう]すべし」と、釈尊の跡継ぎとしての立場から還相回向の心構えが説かれ、そのために外相としては相好成就[そうこうじょうじゅ]、内徳としては諸仏供養が説かれ、{衆生往生果2}では諸仏の説法と無量寿仏の直説を聞く真の聞法≠ェ明かされました。そして今章では菩薩自身の説法を明らかにします。
 浄土の念仏者は必ず説法を行なう身になるのですが、どんな説法をするのでしょう。人々の前で教えを説くのでしょうか。家族や友人に仏教を説明することが説法でしょうか。しかしそれでは、口下手な人や、人前に出ることが苦手な人は成就できません。一切衆生の済度を願うこの『仏説無量寿経』には何と書いてあるのでしょう。結論から申しますと、自分の人生を誠実に生きること自体が最高の説法となるのです。

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 30

 仏、阿難に語りたまはく、「かの仏国に生るるもろもろの菩薩等は、講説すべきところにはつねに正法を宣べ、智慧に随順して違なく失なし。その国土のあらゆる万物において我所の心なく、染着の心なし。去くも来るも、進むも止まるも、情に係くるところなく、意に随ひて自在にして適莫するところなし。彼なく我なく、競なく訟なし。もろもろの衆生において大慈悲饒益の心を得たり。柔軟調伏にして忿恨の心なく、離蓋清浄にして厭怠の心なし。等心・勝心・深心・定心、愛法・楽法・喜法の心のみなり。もろもろの煩悩を滅して悪趣の心を離る。一切菩薩の所行を究竟して、無量の功徳を具足し成就せり。深き禅定ともろもろの通明慧を得て、志を七覚に遊ばしめ、心に仏法を修す。肉眼は清徹にして分了ならざることなし。天眼は通達して無量無限なり。法眼は観察して諸道を究竟す。慧眼は真を見てよく彼岸に度す。仏眼は具足して法性を覚了す。無礙の智をもつて人のために〔法を〕演説す。等しく三界の空・無所有なるを観じて仏法を志求し、もろもろの弁才を具して衆生の煩悩の患へを除滅す。如より来生して法の如々を解り、よく習滅の音声の方便を知りて世語を欣はず、楽ひ正論にあり。もろもろの善本を修して、志仏道を崇む。一切の法はみなことごとく寂滅なりと知りて、生身・煩悩、二余ともに尽せり。甚深の法を聞きて心に疑懼せず、つねによく修行す。その大悲は深遠微妙にして覆載せずといふことなし。一乗を究竟して〔衆生を〕彼岸に至らしむ。疑網を決断して、慧、心によりて出づ。仏の教法において該羅して外なし。〔浄土の菩薩の〕智慧は大海のごとく、三昧は山王のごとし。慧光は明浄にして日月に超踰せり。清白の法具足し円満すること、なほ雪山のごとし、もろもろの功徳を照らすこと等一にして浄きがゆゑに。なほ大地のごとし、浄穢・好悪、異心なきがゆゑに。なほ浄水のごとし、塵労もろもろの垢染を洗除するがゆゑに。なほ火王のごとし、一切の煩悩の薪を焼滅するがゆゑに。なほ大風のごとし、もろもろの世界に行ずるに障礙なきがゆゑに。なほ虚空のごとし、一切の有において所着なきがゆゑに。なほ蓮華のごとし、もろもろの世間において汚染なきがゆゑに。なほ大乗のごとし、群萌を運載して生死を出すがゆゑに。なほ重雲のごとし、大法の雷を震ひて未覚を覚せしむるがゆゑに。なほ大雨のごとし、甘露の法を雨らして衆生を潤すがゆゑに。金剛山のごとし、衆魔・外道、動かすことあたはざるがゆゑに。梵天王のごとし、もろもろの善法において最上首なるがゆゑに。尼拘類樹のごとし、あまねく一切を覆ふがゆゑに。優曇鉢華のごとし、希有にして遇ひがたきがゆゑに。金翅鳥のごとし、外道を威伏するがゆゑに。もろもろの遊禽のごとし、蔵積するところなきがゆゑに。なほ牛王のごとし、よく勝つものなきがゆゑに。なほ象王のごとし、よく調伏するがゆゑに。獅子王のごとし、畏るるところなきがゆゑに。曠きこと虚空のごとし、大慈、等しきがゆゑに。〔菩薩は〕嫉心を摧滅す、勝れるを忌まざるがゆゑに。もつぱら法を楽ひ求めて、心厭足なし。つねに広説を欲ひて、志疲倦なし。法鼓を撃ち、法幢を建て、慧日を曜かし、痴闇を除く。六和敬を修してつねに法施を行ず。志勇精進にして心退弱せず。世の灯明となりて最勝の福田なり。つねに導師となり、等しくして憎愛なし。ただ正道を楽ひて余の欣戚なし。もろもろの欲の刺を抜いてもつて群生を安んず。功慧、殊勝にして尊敬せられざることなし。三垢の障を滅し、もろもろの神通に遊ぶ。因力・縁力・意力・願力・方便の力・常力・善力・定力・慧力・多聞の力、施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の力、正念・正観・もろもろの通明の力、法のごとくもろもろの衆生を調伏する力、かくのごときらの力、一切具足せり。身色・相好・功徳・弁才を具足し荘厳して、ともに等しきものなし。無量の諸仏を恭敬し供養したてまつりて、つねに諸仏のためにともに称歎せらる。菩薩のもろもろの波羅蜜を究竟し、空・無相・無願三昧と、不生不滅〔等の〕もろもろの三昧門を修して、声聞・縁覚の地を遠離す。阿難、かのもろもろの菩薩、かくのごときの無量の功徳を成就せり。われただなんぢがために略してこれを説くのみ。もし広く説かば、百千万劫にも窮尽することあたはじ」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 30

 さらに釈尊[しゃくそん]阿難[あなん]に仰せになる。
無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れた菩薩[ぼさつ]たちは、教えを説く相手に対して常に正しい法を説き述べ、仏の智慧[ちえ]にかなって決して誤ることがない。
 その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それに執着[しゅうじゃく]する心もない。どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどまるのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何ものも[うと]んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競い争うこともない。あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益[りやく]を与えようとするのである。いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、煩悩[ぼんのう]を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜ぶ心ばかりで、すべての煩悩を[めっ]し迷いの心を離れているのである。
 またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳[くどく]をすべてその身にそなえ、深い禅定[ぜんじょう]とさまざまな智慧を得て、七菩提分[しちぼだいぶん]を修行し、仏のさとりを求める。その眼は五眼[ごげん]の徳をそなえており、清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、すべてのものの本性をさとり尽している。こうして、何ものにもさまたげられない智慧によって、人々のために法を説く。迷いの世界はみな[くう]であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏のさとりを求め、[たく]みな弁舌[べんぜつ]の智慧によって人々の煩悩のわずらいを除くのである。真如[しんにょ]の世界から現れ出た菩薩であるから、すべてのもののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除かせる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけを楽しむのである。
 これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い求め、すべては本来空[ほんらい くう]であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果はともに尽き、奥深い教えを聞いて疑いためらうことなく、常によく修行する。その大いなる慈悲は実に深くすぐれており、すべてをわけへだてることがない。大乗[だいじょう]の教えをきわめて、人々をさとりの世界に[いた]らせ、疑いの[あみ]をすべて断ち切り、智慧はその心からわき出て、仏の教えをすべて残すことなく知り尽している。その智慧は大海のように深く広く、その禅定[ぜんじょう]須弥山[しゅみせん]のように揺らぐことがない。智慧の光が清く明らかなことは太陽や月に越えすぐれており、清らかな功徳はすべて欠けることなくそなわっている。
 それはまた雪山[せっせん]のようである。すべての功徳[くどく]を等しく清らかに照らし輝かすから。また大地のようである。清らかなものも汚れたものも善いものも悪いものも、わけへだてなくその上に載せるから。また清らかな水のようである。さまざまな煩悩の汚れを洗い除くから。またさかんに燃える火のようである。煩悩の[たきぎ]をみな残らず焼き尽くすから。また激しく吹く風のようである。どの世界にあってもさまたげられることなく活動するから。また大空のようである。すべてのものにとらわれないから。また蓮の花のようである。世俗の中にあっても汚れに染まらないから。また大きな乗りもののようである。多くの人々を載せて迷いの世界から運び出すから。また厚い雲のようである。雷鳴[らいめい]をとどろかせるように法を説き、目覚めていない人々の目を覚すから。また大雨のようである。すぐれた教えを甘露[かんろ]のように降りそそいで人々を[うるお]すから。また鉄囲山[てっちせん]のようである。さまざまな悪魔や外道[げどう]のものも揺り動かすことができないから。また梵天[ぼんてん]のようである。さまざまな善い教えで人々を導くもっともすぐれたものであるから。また尼狗類樹[にくるいじゅ]のようである。すべてのものをおおってその木陰に入れるから。また優曇華[うどんげ]のようである。世に出ることがまれであって容易に出会うことはできないから。また金翅鳥[こんじちょう]のようである。すぐれた力により外道のものをひれ伏させるから。また小鳥のようである。決して余分にはたくわえないから。また牛の王のようである。何ものにも負かされないから。また象の王のようである。すべてを巧みに制御するから。また獅子の王のようである。何ものをも恐れることがないから。その慈悲の広いことは大空のようである。すべての人々を平等に慈しむから。
 また、菩薩たちは嫉妬心[しっとしん]を滅ぼして、人をねたむようなことがないから、ひたすら教えを願い求めて飽きることがなく、いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない。太鼓[たいこ]を打ち旗を立てて勇ましく進むように仏法をひろめ、智慧の光を輝かせて[おろ]かさの[やみ]を除き、互いに敬いあい、常に法を説き、雄々しく努め励んで、[こころざし]が中途でひるむようなことはない。菩薩たちは、世を照らす[ともしび]となり、また人々のもっともすぐれた功徳のもととなる。いつも人々のために指導者となり、すべてのものに対して等しくわけへだてをせず、ひたすら正しい法を説こうと願い、他に喜び[うれ]えることは何もない。さまざまな欲望の[とげ]を抜いて、多くの人々を心安らかにするのである。このようにその功徳や智慧が実にすぐれているから、だれひとりとしてこれらの菩薩を尊敬しないものはない。
 この菩薩[ぼさつ]たちは、煩悩[ぼんのう][けが]れを[めっ]し、さまざまな神通力[じんずうりき]を自由に使うことができる。因の力、縁の力、意思の力、誓願[せいがん]の力、方便[ほうべん]の力、不断に努める力、功徳を積む力、禅定[ぜんじょう]の力、智慧の力、聞法の力、六波羅蜜[ろっぱらみつ]を行ずる力、正しく念じ正しく観ずる不可思議な力、教えのままに人々を導く力など、このような力をすべてその身にそなえているのである。
 その国の菩薩[ぼさつ]たちは、すぐれた姿やさまざまな功徳[くどく]弁舌[べんぜつ]智慧[ちえ]などをそなえて世間[せけん]に並ぶものがない。また、数限りない仏がたを敬い供養したてまつり、そしてその仏がたもみな、いつもこの菩薩をほめたたえておいでになる。さらに菩薩が修める六波羅蜜[ろっぱらみつ]の行をきわめ、空・無相・無願三昧[むがんざんまい]や、不生不滅[ふしょうふめつ]をさとる三昧などのさまざまな三昧を修めて、声聞[しょうもん]縁覚[えんがく]の位をはるかに超えすぐれている。
 阿難よ、その国の菩薩たちはこのようなはかり知れない功徳をそなえているのである。今、わたしはそなたのためにそのほんの一部を説いたのであって、もし詳しく説けば、どれほど長い年月をかけても説き尽すことはできない」


 菩薩の身業説法

註釈版
 仏、阿難[あなん]に語りたまはく、「かの仏国に生るるもろもろの菩薩等[ぼさつとう]は、講説[こうせつ]すべきところにはつねに正法[しょうぼう][]べ、智慧[ちえ]随順[ずいじゅん]して[]なく[しつ]なし。その国土のあらゆる万物[まんもつ]において我所[がしょ]の心なく、染着[ぜんじゃく]の心なし。[]くも[かえ]るも、進むも[とど]まるも、[じょう][]くるところなく、[こころ][したが]ひて自在にして適莫[ちゃくまく]するところなし。[]なく[]なく、[きょう]なく[じゅ]なし。もろもろの衆生において大慈悲饒益[だいじひにょうやく][しん]を得たり。柔軟調伏[にゅうなんじょうぶく]にして忿恨[ふんごん]の心なく、離蓋清浄[りがいしょうじょう]にして厭怠[えんだい]の心なし。等心[とうしん]勝心[しょうしん]深心[じんしん]定心[じょうしん]、愛法・楽法[ぎょうほう]喜法[きほう]の心のみなり。もろもろの煩悩[ぼんのう][めっ]して悪趣[あくしゅ]の心を離る。
現代語版
 さらに釈尊[しゃくそん]阿難[あなん]に仰せになる。
無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れた菩薩[ぼさつ]たちは、教えを説く相手に対して常に正しい法を説き述べ、仏の智慧[ちえ]にかなって決して誤ることがない。
 その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それに執着[しゅうじゃく]する心もない。どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどまるのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何ものも[うと]んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競い争うこともない。あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益[りやく]を与えようとするのである。いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、煩悩[ぼんのう]を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜ぶ心ばかりで、すべての煩悩を[めっ]し迷いの心を離れているのである。
 ここでは菩薩が法を説いていくこと、それも言葉だけではなく日常生活における身業説法[しんごうせっぽう]を明らかにします。諺に「子は親の背中を見て育つ」とありますように、饒舌[じょうぜつ]だけが説法ではありません。生きる全体が説法となってはじめて正法[しょうぼう][]べたことになるのです。
<かの仏国に生るるもろもろの菩薩等[ぼさつとう]は、講説[こうせつ]すべきところにはつねに正法[しょうぼう][]べ、智慧[ちえ]随順[ずいじゅん]して[]なく[しつ]なし>
無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れた菩薩[ぼさつ]たちは、教えを説く相手に対して常に正しい法を説き述べ、仏の智慧[ちえ]にかなって決して誤ることがない)
 ここでは、浄土の菩薩は常に正しい法を説き述べている≠ニいうことと仏の智慧[ちえ]にかなって決して誤ることがない≠ニいう果報を挙げています。しかしどんなに勉強した人でも、修行を積んだ人でも、時として教えと違うを言ったり、仏の智慧に順じていなかったり、説き忘れや表現の仕方によっては誤解を受けたりすることはよくある話です。ではなぜ浄土の菩薩はこうした失敗がないのでしょう。
 それは、真の念仏者は教えを説いて相手を納得させよう≠ネどとは思っていないからです。菩薩の説法は虚心坦懐[きょしんたんかい]なる求道そのもので、相手は念仏者の誠実な人格や、全身全霊をかけて生きる姿勢に感動する、そのことが菩薩の説法となるのです。話す一字一句は記憶違いがあったり小さな誤解は発生するかも知れませんが、生きる総体として念仏者は常に正しい法に順じているのであり、これは仏の智慧と異なることはありません。
(参照:
{説一切智の願}
<その国土のあらゆる万物[まんもつ]において我所[がしょ]の心なく、染着[ぜんじゃく]の心なし>
(その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それに執着[しゅうじゃく]する心もない)
 先の「講説[こうせつ]すべきところにはつねに正法[しょうぼう][]べ」云々はこの章の総合的な内容であり、ここからしばらくは説法の際の心構えを明かにします。
「その国土」とありますが、これは安楽国だけではなく菩薩自身の国、つまり念仏者が周囲と関係をもって生きる内容全体≠煌ワめています(参照:{無三悪趣の願})。
万物[まんもつ]において我所[がしょ]の心なく」とは、あらゆるものを私物化しない≠ニいうことです。ただしこれは、私有財産を否定しているのではありません。私有財産であっても自分の欲望のみで使用しない。自分が縁あって一時的に所有しているだけで、全ては[おおやけ]のものであると心得ていることを言います。またこれは金品についてのみ我所[がしょ]の心がないのではなく、情報や思惟の内容や言葉や境地などについても自分のものだという思いはないのです。ただし、だからといって何でもかんでも洗いざらい皆に[しゃべ]ったり公開するのではなく、常に内容を吟味し、時と場合と相手を考えて語ります。
染着[ぜんじゃく]の心なし」とは、無染心[むぜんしん]で何ものにも執着しないことを言います。人は得たものや行いに執着し、考え出した思想にこだわってしまいますが、真の念仏者は物事にこだわらず、不要と解れば即座に捨てることができるので、常に日々新たな生き方が創造できるのです。これは布施においても三輪清浄(施者、受者、施物に執われがない)が説かれ、『金剛般若経』には「我が説法は筏喩[ばつゆ]のごとしと知るべし。法もなお捨つべし。いわんや非法をや」(あたかも向こうに渡るための[いかだ]が、人を渡し終わったら捨ておかれてしまうように、正しい教えを体得し終わったら、それも捨てるべきである。ましてや誤った見解を捨てるのは言うまでもない)とありますが、こうしたことを言うのでしょう。
[]くも[かえ]るも、進むも[とど]まるも、[じょう][]くるところなく、[こころ][したが]ひて自在にして適莫[ちゃくまく]するところなし。[]なく[]なく、[きょう]なく[じゅ]なし>
(どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどまるのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何ものも[うと]んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競い争うこともない)
[]くも[かえ]るも、進むも[とど]まるも」とは様々な人生の選択や道程≠言いますが、多くの人は選択の際「[じょう][]くる」、つまり喜怒哀楽の感情にとらわれてしまって正しい選択ができません。せっかく良い提案があったのに、提案した相手が嫌いだから採用しなかった≠ニか、悪いこととは知りながら相手に好意をもっていたので見逃してしまった≠ニいうことが頻繁におこります。せっかく苦言を[てい]されても、素直に聞き入れることができる人は[まれ]です。しかし浄土の菩薩は心にわだかまりが無く、つねに法に随っているのでいつも「[こころ][したが]ひて自在」、自由自在に本意に随って行動することができるのです。「我所・染着の心」がないことがこのように活きてくるのです。
適莫[ちゃくまく]するところなし」とは、「適」は[しん]、「莫」は[]ですから、あいつは好き、こいつは嫌い、この仕事は好き、この役割は嫌い、などということがないこと。相手や物事に親疎[しんそ]のへだたりがないことを言います。すると当然「[]なく[]なく、[きょう]なく[じゅ]なし」で、自分と他人とに隔たりがなくなり、人と競い争うこともなくなります。
 法を説く際に問題となるのは、自他を隔てる壁であり、競いあい争いあうことでありましょう。宗教論争が時として激しくも虚しい作業に終わってしまうのはこうした課題が果たされていないからなのです。
<もろもろの衆生において大慈悲饒益[だいじひにょうやく][しん]を得たり>
(あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益[りやく]を与えようとするのである)
 菩薩の身業説法における第一の課題は「我所[がしょ]の心なく、染着[ぜんじゃく]の心なし」でしたが、第二の課題は「大慈悲饒益[だいじひにょうやく][しん]」です。慈悲心なく説法することほど迷惑な話はありません。思いやりをもたずに法を説いたり実践すれば、どんな尊い教えも凶器に変わってしまいます。ところが多くの宗教者は、慈悲どころか相手を屈服させてやろう≠ニか自分の学んだ教えや境地を自慢してやろう≠ニいう高慢な心ばかりで、このことによっていかに人々が迷惑しているのかさえ気づいていません。
饒益[にょうやく]」は利益[りやく]を与えることですが、相手の人生そのものに利益を与えることを言います。どんなに「私は法を説いた、法を実践した」と言っても、自己満足で終わっては何にもなりません。医者は一定の医療を施した後は患者の経過を看るでしょう。同様に法話によって相手の人生に利益を与えねば本物の慈悲とは言えないのです。
 ところで、一般に慈悲と愛は同義語として用いられることも多いのですが、実践面としては慈悲の方が念が[]っていて、愛の様々な偏りや無智を排除した経験の智慧を下地に持っています。たとえば{証信序 八相化儀}には「もろもろの劇難[ぎゃくなん]と、もろもろの[げん]と不閑とを[すく]ひて」とあります。「劇難」は地獄・餓鬼・畜生の三悪趣であり、「閑」は「苦悩が薄くて仏道を求めるのに暇のある者」で、「不閑」は逆に「ひどく苦に迫られて仏道を求める暇のない者」、これらを共にすくうことが慈悲心と説かれています。
 一般的にはあの不幸な人を先に救ってあげよう≠ニいう心がけの方が尊ばれるのですが、これは完全な慈悲ではありません。なぜなら、差し迫った苦悩のないこと≠ヘ、人生成就に必ずしも有利とはならないからです。しかしまた苦悩することが良いのだ≠ネどという単純なものでもありません。自身の内容が真に充実していなければ、苦悩があればあったで人生は破綻し、苦悩が無ければ無いまま人生は成就せずに終わってしまいます。
 大乗仏教では慈悲を、「衆生縁」の小悲(世俗の立場に立った慈悲で、物品や友情・愛情を注ぐ慈悲)、「法縁」の中悲(因縁和合の道理を領解せしめ、物品や情に執われない慈悲)、「無縁」の大悲(あらゆるものを平等と観じ、空を認めるがゆえに対象をもたない絶対の慈悲)と三種に分けて説かれています。浄土の菩薩は「大慈悲饒益[だいじひにょうやく][しん]を得たり」ですから、無縁の大慈悲を得ていて、教えを理解させよう≠ニか覚らせよう≠ネどという押し付けがなく、相手の懐に飛び込み、相手の世界に遊んで、共に拝みあい歩んでいけることを前提としています(参照:{論註10:荘厳性功徳成就「#三種の慈悲」})。こうなれば、苦悩あれば苦悩が活き、苦悩無ければ無いことが活きて人間そのものが成就してくるのです。
柔軟調伏[にゅうなんじょうぶく]にして忿恨[ふんごん]の心なく、離蓋清浄[りがいしょうじょう]にして厭怠[えんだい]の心なし>
(いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、煩悩[ぼんのう]を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない)
 菩薩の身業説法における第三の課題は「柔軟調伏[にゅうなんじょうぶく]」です。柔軟心は八地以上の菩薩が身に即ける普賢の徳であり、静かに自分の心を観察すると、足元の宿業が見えると同時に宿業を照らす浄土が見える。すると自ずから柔軟心が出てくる=i止観相順して柔軟心を生ず)と言われています{触光柔軟の願}
調伏[じょうぶく]」は、身心をととのえ静めることをいいます。何を始めるにもまず落ち着くことが肝心で、身心が乱れたまま行動すれば遅かれ早かれ人生は破綻してしまいます。そこで仏教では、全てをありのままに見つめつつ、大慈悲心で全てを包み込んでいくのです。静かに自分の心を観察すると罪悪深重の我が身が見えるのですが、罪悪を攻撃して消すのではなく、一切衆生が背負っている宿業として自他を許し許されて、なお仏の願いが我が願いとして胸に刻まれ、人生成就のはるかな地平を歩むのです。
忿恨[ふんごん]の心なく」とありますが、罪悪深重の我が身は簡単には静まりません。無理に攻撃してかき乱せば、かえって心は濁りわだかまりが発生し、怒りや恨みで身心を傷つけることになってしまいます。そこで煩悩に対しては、煩悩であると見抜きつつも、自分に相応しくないような厳しい修行によって消し去ろうとはせず、そのまま煩悩を監視しておくのです。これが先の「柔軟調伏[にゅうなんじょうぶく]」で、その結果が「忿恨[ふんごん]の心なく」と現れるのです。ただし、忿恨[ふんごん]の心が実際に無くなるわけではありません。柔軟心をもって、忿恨があるならあるでそれを自分の性根として認め、性根を照らして下さる浄土を皆で共有し、悲しみを共有する、このことを「忿恨の心なく」言うのです。
離蓋清浄[りがいしょうじょう]にして厭怠[えんだい]の心なし」は、「煩悩[ぼんのう]を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない」と訳されています。常に真実心で生き煩悩を離れていれば、人生が厭になったり怠けることも次第になくなっていくのです。
等心[とうしん]勝心[しょうしん]深心[じんしん]定心[じょうしん]、愛法・楽法[ぎょうほう]喜法[きほう]の心のみなり>
(つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜ぶ心ばかりで)
 先の忿恨[ふんごん]厭怠[えんだい]の心が無いだけでは充分ではありません。浄土の菩薩は浄土の心を心として生きるのです。ここでは「等心[とうしん]勝心[しょうしん]深心[じんしん]定心[じょうしん]」という人間としての心構えや世間を見守る四つの心と、「愛法・楽法[ぎょうほう]喜法[きほう]の心」という三つの「仏法を愛楽[あいぎょう]し歓喜する心」が挙げられています。
等心[とうしん]」は人間や物事を平等にえこひいきなく見る心≠ナあります。現代語版には「すべてのものを平等に救おうという思い」とありますが、救おうという思い≠ヘ自分が上に立って相手を見下した目線でありますから諸仏供養の精神に反してしまいます。経の真意は、むしろ自分は等心を保てない≠ニいう菩薩自身の告白とともに、この懺悔ゆえに浄土回向の等心がはたらくのであり、悪差別の煩悩ははたらきを失ってくるのです。つまり自力の等心ではなく、如来の兆載永劫の修行によって私に回向された等心を言います。
勝心[しょうしん]」は「すぐれた志」と訳されていますが、これも自力の勝心ではなく浄土の勝心です。常に四十八願を成就し続けている法蔵精神が浄土の菩薩に至り届いているので勝心と言うのです。
深心[じんしん]」は「深い慈悲」と訳されていますが、これは慈悲に限定した内容ではありません。個人的な自力の計らいが浅い心(理性)で、そうではない深い次元の心、私の中にありながら私を超えた深い心が深心です。『仏説無量寿経』には菩薩の心として至心[ししん]信楽[しんぎょう]欲生[よくしょう]の三心が挙げられていますが(参照:{至心信楽の願})、『仏説観無量寿経』には「一つには至誠心[しじょうしん]、二つには深心[じんしん]、三つには回向発願心[えこうほつがんしん]なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず」と説かれています。各経典には編纂の意図があり単純に関連づけることはできないのですが、大経の至心は観経の至誠心、大経の信楽は観経の深心、大経の欲生は観経の回向発願心に当たると見てほぼ間違いないでしょう。すると深心は信楽に当たり、これは真実信心の要めとなる純粋他力であり仏力であります。この回向された深心が私の根性を照らし出し、呼び覚ますのです。
定心[じょうしん]」は「乱れることのない静かな心」と訳されていますが、動揺を静め、精神統一して集中する心≠ナあり「心を一つに対象にとどめて散乱させないこと」で三昧[さんまい]と同義です。勉強でも運動でも集中力が欠けては成果は上がりません。では浄土の菩薩はこの定心を得ているのかというと、「しかるに常没[じょうもつ]凡愚[ぼんぐ]、定心修しがたし、息慮凝心[そくりょぎょうしん]のゆゑに」(『顕浄土真実教行証文類』6-34)とありますように、念仏者自身が定心を得ているのではなく、浄土が念仏者を定心たらしめるのです。これはたとえば、勉学に集中できない子どもでも、遊びやゲームとなると驚くべき集中力を見せるようなもので、そうした潜在能力を浄土の土徳によって引き出させるのです。

「愛法・楽法[ぎょうほう]喜法[きほう]の心」については、正信偈にも「能発一念喜愛心」とありますように、浄土の徳によって法を愛し、法を楽しみ、法を喜ぶ心≠ェ生まれ、法を嫌悪する心がなくなることを言います。法縁をいただいても法を嫌悪する、そんなことがあるのか不思議に思う人が居るかも知れませんが、真面目に学べば学ぶほど、時として嫌悪感に襲われることがあるものです。これは「坊主憎けりゃ袈裟[けさ]まで憎い」という諺があるほどで、仏法を伝える側の人格が問われる問題なのです。いくら尊い法でも、法を行じ伝える者たちが周囲の人たちを馬鹿にし人格を否定するような行状ですと、法にまで嫌悪感が移ってしまいますから注意が必要です。

<もろもろの煩悩[ぼんのう][めっ]して悪趣[あくしゅ]の心を離る>
(すべての煩悩を[めっ]し迷いの心を離れているのである)
 以上のような七つの心によって、もろもろの煩悩が滅せられ、もろもろの悪趣(地獄・餓鬼・畜生)の状態を離れることができる、とあります。このように菩薩が生きる全体が周囲に感化を与え法が転じられてゆくのです。

 周囲の人たちとの関係

註釈版
一切菩薩の所行[しょぎょう]究竟[くきょう]して、無量の功徳[くどく]具足[ぐそく]成就[じょうじゅ]せり。深き禅定[ぜんじょう]ともろもろの通明慧[つうみょうえ]を得て、[こころざし]七覚[しちかく]に遊ばしめ、心に仏法を[しゅ]す。 肉眼[にくげん]清徹[しょうてつ]にして分了[ふんみょう]ならざることなし。天眼[てんげん]通達[つうだつ]して無量無限[むりょうむげん]なり。法眼[ほうげん]観察[かんざつ]して諸道[しょどう]究竟[くきょう]す。慧眼[えげん]は真を見てよく彼岸[ひがん][]す。仏眼[ぶつげん]具足[ぐそく]して法性[ほっしょう]覚了[かくりょう]す。 無礙[むげ][]をもつて人のために〔法を〕演説[えんぜつ]す。等しく三界の空・無所有[むしょう]なるを[かん]じて仏法を志求[しぐ]し、もろもろの弁才[べんざい]を具して衆生の煩悩の[うれ]へを除滅[じょめつ]す。如より来生して法の如々[にょにょ][さと]り、よく習滅[じゅうめつ]音声[おんじょう]方便[ほうべん]を知りて世語[せご][ねが]はず、[ねが]正論[しょうろん]にあり。
現代語版
 またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳[くどく]をすべてその身にそなえ、深い禅定[ぜんじょう]とさまざまな智慧を得て、七菩提分[しちぼだいぶん]を修行し、仏のさとりを求める。その眼は五眼[ごげん]の徳をそなえており、清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、すべてのものの本性をさとり尽している。こうして、何ものにもさまたげられない智慧によって、人々のために法を説く。迷いの世界はみな[くう]であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏のさとりを求め、[たく]みな弁舌[べんぜつ]の智慧によって人々の煩悩のわずらいを除くのである。真如[しんにょ]の世界から現れ出た菩薩であるから、すべてのもののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除かせる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけを楽しむのである。
 前節のように菩薩自身の課題が解決され徳を成就したならば、今度は実際に周囲の人たちとの関係を成就しなければなりません。ここからは願生の果報が人間関係の真っ只中でどのようにはたらいてくるのかを明らかにします。
<一切菩薩の所行[しょぎょう]究竟[くきょう]して、無量の功徳[くどく]具足[ぐそく]成就[じょうじゅ]せり>
(またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳[くどく]をすべてその身にそなえ)
 「一切菩薩の所行[しょぎょう]究竟[くきょう]して」とありますが、これは浄土の菩薩ひとり一人が、全ての菩薩の修行をきわめていくということ、「無量の功徳[くどく]具足[ぐそく]成就[じょうじゅ]せり」とは、修行の成果としてはかり知れない功徳が身にそなわる、ということです。これは浄土そのものに「すべての菩薩の修行」が「はかり知れない功徳[くどく]」となって込められていて、浄土に生まれた菩薩にその功徳が回向されることをいいます。良い環境を見出すことがこれほどの功徳を得ることになるのです。「すべての菩薩の修行」の具体例は以下に説かれます。
<深き禅定[ぜんじょう]ともろもろの通明慧[つうみょうえ]を得て、[こころざし]七覚[しちかく]に遊ばしめ、心に仏法を[しゅ]す>
(深い禅定[ぜんじょう]とさまざまな智慧を得て、七菩提分[しちぼだいぶん]を修行し、仏のさとりを求める)
「深き禅定[ぜんじょう]」とは、「心静かな内観」であり、心のはからいを静めて精神集中することをいいます。
「もろもろの通明慧[つうみょうえ]」とは、さまざまな通(六神通)と明(三明)と慧(智慧)の三種をいいます。
「六神通」とは宿命通・天眼通・天耳通・他心通・神足通・漏尽通ですが、「宿命通」によって現在只今の歴史的事実を覚ることができ、今の自分を引き受けることができるようになります。また「天眼通」は相手の尊さが解ることで、これによって一切衆生の仏性世界を拝み見て自利利他円満の菩薩道を歩むことが適います。「天耳通」は相手の本心の訴えを聞くことで、これによって一切衆生の本心の叫び声を聞き、心身深く刻んで憶えることができます。「他心通」は相手の悩みや本心を理解する真心で、これによって誰しも心の奥底に背負いきれない悲しみや悩みを宿して生きていることを知り尽くせるようになります。「神足通」は相手の身になり立場に立って自他を超えてゆく心の足を得ることで、これにより一切衆生と語り合い真心を通わせて自利利他の菩薩行を行じていくことができます。「漏尽通」は自利利他の菩薩行を行じる際に妄念・我執をおこさないことで、これによりお為ごかしの偽善と身の執着を離すことができます(参照:
{令識宿命の願}{不貪計心の願})。
「三明」とは「六神通」のうち宿命通・天眼通・漏尽通の三つを別出して言います。
「智慧」とは『真宗聖教全書』五拾遺部下2頁には――「智は、あれはあれこれはこれと分別しておもひはからふによりて思惟[しゆい]になづく、慧は、このおもひの定まりて兎も角もはたらかぬによりて不動になづく。不動三昧[ふどうざんまい]なり」とあります。 また「智」は、「一切の事象道理に対して、きっぱりと是非正邪を決定し断定し、よく弁別了知して、ひいては煩悩を断つ主因となる精神作用」であり「疑いなく明瞭に断定すること」ですから、分別し決断することを言います。「慧」は「空、無我に名づく、不動に名づく」ともありますから、「禅定や三昧によって静められた心によって真実の道理をありのままに見ぬくはたらき」をいいます。私の主観が先入観を離れ、自己本位の我執を離れ、全てをありのままに見ること。同時に、泰然自若[たいぜんじじゃく]とした態度を身につけ、何ものをも怖れず、執われず、あらゆる障害を越えてゆくまごころ智慧のことをいいます。さらに「智慧」は「忍」でもあり、{得三法忍の願}に照らして[かんが]みれば、仏・菩薩は「音響忍[おんこうにん]柔順忍[にゅうじゅんにん]無生法忍[むしょうぼうにん]」を得ることを願っていますが、これは夢の世に夢でない、永遠の世界が働く、それを知る智慧≠ナある音響忍と、降りかかって来るどんな運命にも順い、どんな苦難にも耐えてゆく金剛心を内に有っている心で、どこまでも人生の深みを知り、真実の人生を知るための智慧≠ナある柔順忍、そして一の中に無量の意味を有つ、それぞれの原理とか法則とか、また人の性格とか国柄とか、歴史とか社会という、行為的世界を知る智慧≠ナある無生法忍が菩薩に回向され、身に満ちてくることをいいます。
[こころざし]七覚[しちかく]に遊ばしめ、心に仏法を[しゅ]す」の七覚[しちかく]七菩提分[しちぼだいぶん]ともいい、覚りを得るために役立つ七つの事柄=A覚りに導く七項目・行法≠いいます。
(1)択法覚支[ちゃくほうかくし]
教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる。
(2)精進覚支[しょうじんかくし]
真の正法を択び取ったらそれに専念し精進する。一心に努力する。
(3)喜覚支[きかくし]
真実の教えを実行する喜びに住する。
(4)軽安覚支[きょうあんかくし]
身心を常にかろやかで快適な状態に保つ。
(5)捨覚支[しゃかくし]
対象へのとらわれを捨てる。なにごとにも執着しない。
(6)定覚支[じょうかくし]
心を集中して乱さない。
(7)念覚支[ねんかくし]
常に禅定と智慧を念じ、おもいを平らかに偏見をもたない。
 七覚に志を遊ばしめるのですから、いつもこうしたことを念頭に仏法に順じ、新たに人生を創造してゆくわけです。
(参照:{聞名得定の願} {十劫成道「#浄土の基本的な内容」}
肉眼[にくげん]清徹[しょうてつ]にして分了[ふんみょう]ならざることなし。天眼[てんげん]通達[つうだつ]して無量無限[むりょうむげん]なり。法眼[ほうげん]観察[かんざつ]して諸道[しょどう]究竟[くきょう]す。慧眼[えげん]は真を見てよく彼岸[ひがん][]す。仏眼[ぶつげん]具足[ぐそく]して法性[ほっしょう]覚了[かくりょう]す>
(その眼は五眼[ごげん]の徳をそなえており、清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、すべてのものの本性をさとり尽している)
 これらは「五眼[ごげん]」と言われるもので仏の智慧を表しています。注釈版の巻末註で五眼をひくと「五つの眼。@肉眼。現実の色形を見る眼。A天眼。三世十方を見とおす眼。B法眼。現象の差別を見わける眼。C慧眼。真理の平等を見ぬく眼。D仏眼。前四眼を具える仏の眼。仏はこの五眼を円かに具えて衆生を救う」とあります。これだけではよく解りませんので一つひとつ詳細を見ていきましょう。
 まず「肉眼[にくげん]清徹[しょうてつ]にして分了[ふんみょう]ならざることなし」とあります。「肉眼」は一般に言う「眼」という意味がまずありますが、そうすると「清徹[しょうてつ]にして分了[ふんみょう]ならざることなし」ということは、顔の中にあるこの眼そのものが、「清く澄みとおって、明らかでないものは何もない」ということになります。実際、この眼の機能は素晴らしいものがあり、普段そのことに気づかず過ごしているので、まずは頂いた眼の尊さに気づきましょう≠ニいう意味でも良いのですが、ここは浄土に生まれた菩薩の果報を言うわけです。そこにわざわざ「肉眼」を提示したということは、そこに以前と何らかの変化が見出されなくてはなりません。
 すると、「肉眼」を通して対象を見ることのうちに、見る対象が何であるか∞どういうふうに見ているのか≠ニいう「意識」が問題になってきます。「肉眼」はカメラとは違い、見たいと[おも]うことに気をとられ、かえって肝心要を見逃してしまうことがあります。憎いと思う相手だとその人の欠点ばかり追い、好きな相手だとあばたもえくぼ≠ナ重大な欠点に気づきません。これは意識的に眼を操ってそのように見てしまっているからです。この意識に間違った先入観や差別や偏りがなく、正しく分析し認識することができることを「清徹[しょうてつ]にして分了[ふんみょう]ならざることなし」というのでしょう。
 次に「天眼[てんげん]通達[つうだつ]して無量無限[むりょうむげん]なり」とあります。現代語版では「すべての世界を自由に見とおし」と訳してありますが、すべての世界の何を見通すのでしょう。{令得天眼の願}を読めば「下、百千億那由他[ひゃくせんおくなゆた]の諸仏の国」を見るとあります。これは、あらゆる人の上に仏国土が見える、どんな相手でも尊んで見るということでしょう。また、尊んで見るということは、相手を本当に理解するということでもあります。
法眼[ほうげん]観察[かんざつ]して諸道[しょどう]究竟[くきょう]す」は現代語版では「さまざまな道を見きわめ」と訳してあります。「さまざまな道」とは、政治には政治の道があり、芸術には芸術の道があり、農業には農業の道がありますが、自分に関係ない世界のことは知らなくてもいい≠ニ眼をそらしてしまうのではなく、自分は小さな世界しか知らないから、様々な道に生きる人たちにその真髄を教えて頂こう≠ニ尋ねてゆくのです。これは{法蔵発願 思惟摂取}には「広く二百一十億の諸仏の刹土[せつど]の天人の善悪、国土の粗妙[そみょう]を説きて、その心願[しんがん]に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ」とあり、『華厳経』には善哉童子[ぜんざいどうじ]が様々な道の人を訪ね歩く物語が説かれていますが、こうしたことを言うのでしょう。相手から物事の真髄を教えてもらえば、教えてもらって理解した分はそのまま自分のものになるのです。
慧眼[えげん]は真を見てよく彼岸[ひがん][]す」は現代語版では「平等の真理に到達し」と訳されていますが、慧眼は大乗仏教一般で言う智慧のことを言います。これを要約していえば先入観を離れ、自己本位の我執を離れ、全てをありのままに見ることによって浄土の土徳がはたらき出す≠ニいうことです。
 五眼の最後は「仏眼[ぶつげん]具足[ぐそく]して法性[ほっしょう]覚了[かくりょう]す」とあり、現代語版では「すべてのものの本性をさとり尽している」と訳し、巻末註では「前四眼を具える仏の眼」とあります。すると仏眼は、私たちが経験する一つひとつの物事、出あう相手の尊さ、様々な道の真髄など全てをありのままに見ることで浄土の徳がはたき、人間の心底を通り歴史を貫くものの正体が見開けることを言うのでしょう。すると、一切衆生を見る眼が本当に優しくなり尊くなり、そして実に悲しくもなるのです。
無礙[むげ][]をもつて人のために〔法を〕演説[えんぜつ]す>
(こうして、何ものにもさまたげられない智慧によって、人々のために法を説く)
無礙[むげ][]」は「四無礙智[しむげち]四無礙弁[しむげべん]」で、「仏・菩薩に具わる自由自在でさわりのない四種の理解表現能力」を言います。四種は、「@法無礙弁[ほうむげべん]。文字や文章に精通する。A義無礙弁[ぎむげべん]。文字や文章によって表された意味内容に精通する。B辞無礙弁[じむげべん]。すべての言語に精通する。C楽無礙弁[ぎょうむげべん]。衆生のために説法するのに自由自在であること」と言われています。
 ただ、四無礙智をもう少し深く見ますと、「法無礙弁[ほうむげべん]」は単に文字や文章に精通するだけではなく、物事の深みにある真実をよく理解して述べる≠アとでありましょう。また「義無礙弁[ぎむげべん]」も、単に文字や文章によって表された意味内容に精通するだけではなく、「義に[]りて語に依らざるべし」(大智度論)で文字解釈ばかりにとらわれず仏の真実を語る≠アとでしょう。『楞伽経[りょうがきょう]』には「痴者[ちしゃ]が、月を指すを見て、その指を観て月を観ざるがごとく、名字[みょうじ]計著[きょうじゃく]する者は、我の真実を見ず」とあります。すると「辞無礙弁[じむげべん]」も、単にすべての言語に精通するだけでは不充分で、言葉による表現の一々に細やかな仏の真意を汲み取って語る≠ニいうことでしょう。また「楽無礙弁[ぎょうむげべん]」は、衆生のために説法するのに自由自在であることは間違いないのですが、文字通り楽しい≠ニいうことが加わり一度法を聞いた人が、何度も自ら好んで法を聞きたいと願い出るような説法をする≠ニいうことでありましょう。
<等しく三界の空・無所有[むしょう]なるを[かん]じて仏法を志求[しぐ]し、もろもろの弁才[べんざい]を具して衆生の煩悩の[うれ]へを除滅[じょめつ]す。如より来生して法の如々[にょにょ][さと]り、よく習滅[じゅうめつ]音声[おんじょう]方便[ほうべん]を知りて世語[せご][ねが]はず、[ねが]正論[しょうろん]にあり>
(迷いの世界はみな[くう]であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏のさとりを求め、[たく]みな弁舌[べんぜつ]の智慧によって人々の煩悩のわずらいを除くのである。真如[しんにょ]の世界から現れ出た菩薩であるから、すべてのもののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除かせる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけを楽しむのである)
 これは抜苦与楽[ばっくよらく]大慈大悲[だいじだいひ]の説法≠ニいうことでしょう。「煩悩の[うれ]へを除滅[じょめつ]」することは「抜苦・大悲」で、そのためには欲界・色界・無色界の三界に執着せず、真実の法を求めること(参照:{論註・荘厳清浄功徳成就 #3})、そして「[ねが]正論[しょうろん]にあり」は「与楽・大慈」で、そのためには、尊い仏性の歴史が目の前の一々に顕現していることを知らせ、何を習得し何を滅するべきかを教え[いま]しめ、会得[えとく]させる必要があります。こうしたことに種々の手だてを持ち、理屈が先走った論争を避け、本当に人間を成就させる道理だけを楽しみ好むことが菩薩の説法なのです。

 菩薩としての功徳を積む

註釈版
もろもろの善本[ぜんぽん]を修して、[こころざし]仏道を[あが]む。一切の法はみなことごとく寂滅[じゃくめつ]なりと知りて、生身[しょうじん]・煩悩、二余[によ]ともに[つく]せり。甚深[じんじん]の法を聞きて心に疑懼[ぎく]せず、つねによく修行す。その大悲は深遠微妙[じんのんみみょう]にして覆載[ふさい]せずといふことなし。一乗[いちじょう]究竟[くきょう]して〔衆生を〕彼岸に至らしむ。疑網[ぎもう]を決断して、[]、心によりて[]づ。仏の教法[きょうぼう]において該羅[かいら]して外なし。
現代語版
 これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い求め、すべては本来空[ほんらい くう]であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果はともに尽き、奥深い教えを聞いて疑いためらうことなく、常によく修行する。その大いなる慈悲は実に深くすぐれており、すべてをわけへだてることがない。大乗[だいじょう]の教えをきわめて、人々をさとりの世界に[いた]らせ、疑いの[あみ]をすべて断ち切り、智慧はその心からわき出て、仏の教えをすべて残すことなく知り尽している。
<もろもろの善本[ぜんぽん]を修して、[こころざし]仏道を[あが]む>
(これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い求め)
「もろもろの善本[ぜんぽん]を修して」とは、あらゆる行為をもって善根・徳本を植えることであり、自分たちの生活環境・社会環境に善の根本を植えて整備してゆくことです(参照:
{至心廻向の願})。
[こころざし]仏道を[あが]む」とは、仏法を本気で聞くようになることを言います。{往覲偈2#3}には「もし人善本[ぜんぽん]なければ、この経を聞くことを得ず」とあります通り、先人たちを含め過去に様々な善本が施されていたからこそ私も法を楽しみ求める身にならせて頂いたのでありますから、「劫初[ごうしょ]よりつくりいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」(与謝野晶子)で、今の私も全力で善本を積ませていただくのです。また裏から言えば、今まで迷いに迷った人生だったが、これは『仏説無量寿経』を聞くという一つの成果を得るための産みの苦しみだったということでもありましょう。なぜなら「真理の一言は悪業を転じて善業と成す」で、[こころざし]仏道を[あが]む」ことが適ったのですから、これは結果から言えば自分や先祖の罪や迷い一切は全て善本であった≠ニいう証明になるのです。迷いなきところには覚りもまたありません。
<一切の法はみなことごとく寂滅[じゃくめつ]なりと知りて、生身[しょうじん]・煩悩、二余[によ]ともに[つく]せり>
(すべては本来空[ほんらい くう]であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果はともに尽き)
 苦悩の原因は「煩悩」であり、その結果が「生身」の苦悩です。また「二余[によ]」は煩悩と生身の余蘊[ようん]習気[じっけ]を言います。心で煩悩を断ち切れてもまだ身や習慣が断ち切れていない、この問題を解決することを「二余[によ]ともに[つく]せり」と言うのでしょう。(参照:{百八煩悩}
甚深[じんじん]の法を聞きて心に疑懼[ぎく]せず、つねによく修行す>
(奥深い教えを聞いて疑いためらうことなく、常によく修行する)
 ここで「つねによく修行す」というのは、浄土に生まれるために修行するのではありません。浄土に生まれた(浄土に生まれようと願い続ける)菩薩が、浄土に生まれた本懐を果たすために修行をするのです。真実信心なき修行は迷いの修行、信心獲得後の修業こそが法にかなった本当の修行です。
<その大悲は深遠微妙[じんのんみみょう]にして覆載[ふさい]せずといふことなし>
(その大いなる慈悲は実に深くすぐれており、すべてをわけへだてることがない)
「覆載」とは、「天が一切万物を差別なく覆い、地が残すことなく載せるように、衆生に対してわけへだてしない」という意味ですから、浄土の菩薩は万物を収める天地のように分け隔てなく慈悲をおよぼし、深く遠く微細なところまで念を入れて手を施す≠ニいうことでしょう。
一乗[いちじょう]究竟[くきょう]して〔衆生を〕彼岸に至らしむ>
大乗[だいじょう]の教えをきわめて、人々をさとりの世界に[いた]らせ)
一乗[いちじょう]究竟[くきょう]して」とは、人の機縁・性質に応じて声聞[しょうもん]縁覚[えんがく]菩薩[ぼさつ]の三種の実践方法がある≠ニする「三乗」の見解を批判し、数々の川もやがて一つの海に収まるように、種々の教えや修行も究極として一つに帰す過程に過ぎない≠ニいう「本願一乗海[ほんがんいちじょうかい]」の真実を言います。
 三乗のうち、「声聞乗[しょうもんじょう]」は自分の利益のためだけに法を聞き修行する人たち≠竍聞いた修行しかできない人たち≠言います。曇鸞大師は「声聞は自利[じり]にして大慈悲を[]ふ」と批判されています(参照:{往生論註 1})。また「縁覚乗[えんがくじょう]」は独覚ともいい、天地自然の変化など外縁によって覚り、自己の救済だけを考え、師なく独悟する人≠言います。しかし師がなければ覚りも遅くなり、内容も歴史的な成果を包括できず、覚りが独りよがりになりがちです。「菩薩乗[ぼさつじょう]」は一切衆生のど真ん中で覚りを転じ、共に覚ろうとする大乗の教えです。最初に大乗仏教が興った頃は、菩薩乗のみを是とし、声聞乗や縁覚乗は非として退ける傾向もあったのですが、次第にこれら三乗は別々に独立しているのではなく本質として一つに帰する≠ニ見るようになりました。これを一乗といいます。一乗においては声聞乗や縁覚乗も生かし、菩薩乗を包括して世界観・人生観を確立してゆくのです。
 親鸞聖人は、「一乗海[いちじょうかい]」といふは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提[あのくたらさんみゃくさんぼだい]を得るなり。阿耨菩提[あのくぼだい]はすなはちこれ涅槃界[ねはんかい]なり。涅槃界はすなはちこれ究竟法身[くきょうほっしん]なり。究竟法身を得るはすなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず、異の法身ましまさず。如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するはすなはちこれ無辺不断[むへんふだん]なり。大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗[だいいちぎじょう]なり。ただこれ誓願一仏乗[せいがんいちぶつじょう]なり」(『顕浄土真実教行証文類』行文類二 84 一乗海釈)と示され、「しかるに本願一乗海[ほんがんいちじょうかい]を案ずるに、円融満足極速無礙絶対不二[えんにゅうまんぞくごくそくむげぜったいふに]の教なり」(『顕浄土真実教行証文類』行文類二 98・一乗海釈・二教二機対)と本願一乗海を勧めてみえます。
 この「本願一乗海」を現代に置き換えてみますと、あらゆる宗教、あらゆる宗旨・宗派、また全ての人々が本当に言いたいこと、本当に願っていること、本当に安んじていける道はこれではありませんか≠ニ提示できるものが本願一乗海なのでしょう。すると私たちは、浄土真宗は一乗海なのだ≠ニ威張ってはいられません。むしろ、果たして今の浄土真宗の教学が世界中のあらゆる人々や宗教に提示できる教えになっているのだろうか≠ニ自問し続けなければならないのでしょう。そうであってこそ「衆生を彼岸に至らしむ」ことが適います。
疑網[ぎもう]を決断して、[]、心によりて[]づ>
(疑いの[あみ]をすべて断ち切り、智慧はその心からわき出て)
「疑網」というのは「疑いの網」ですが、何を疑いとし、またなぜ疑ってはいけないのでしょうか。これはよく問題となるのですが、師の仰ることは全て真受けにせい≠ニ言われて反発することがあります。お経にはこう書いてあるではないか∞論釈にはこう書いてあるではないか≠ニ、書いてある言葉通りに受け取らせようとする人もいますが、これは洗脳に他なりません。本当は、このように書かねばならなかった仏・菩薩の胸には何があったのだろう≠ニ問いかけて初めて経論釈の意が受け取れるのです。
 たとえば 親鸞聖人は「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」(教文類一)と述べてみえますが、これは裏から言えば『大無量寿経』以外は真実の教ではない≠ニいうことに他なりません。当時は、経典は全て真実の教えだと言い伝えられていた時代ですが、聖人は真に自らに問い世間に問うてこのように断言されたわけです。また『顕浄土真実教行証文類』信文類三・別序には、「広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す」とあります。私たちが親鸞聖人に学ぶのはこうした徹底的な問いであって、書かれた文字跡ではありません
 では「問う」ということと「疑う」ということはどう違うのでしょう。それは、仏・菩薩の説かんとされた真心は疑うな≠ニいうことです。言葉や表現の間違いは多くの経論釈に見受けられるのですが、仏・菩薩は私たちに精一杯の功徳を施して覚らせようとなされてみえる、その真意を疑い、結局彼等は自分に有利な教えを述べているだけではないか≠ニか彼等の覚りなど自分には当てはまらず鬱陶[うっとう]しいだけだ≠ニ拒否してしまう、このように本意を疑って先に進めなくすることを疑網[ぎもう]というのでしょう。
『華厳経』賢首品には「[しん][どう][もと]とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養[ちょうよう]す。疑網[ぎもう]断除[だんじょ]して愛流[あいる]を出で、涅槃無上道[ねはんむじょうどう]開示[かいじ]せしむ」 とありますが、無上道を開示し心より智慧を出すには、「疑網[ぎもう]断除[だんじょ]」してこそ適います。
<仏の教法[きょうぼう]において該羅[かいら]して外なし>
(仏の教えをすべて残すことなく知り尽している)
「該」は「全体にいきわたって、じゅうぶん足りる。全体のわくがほぼそれにあたる」という意で、「羅」は「あみ。つらなること」ですから、先の「疑いの[あみ]」は断ち切り、真実仏法の大網にかかって外道にそれないことを言います。これは、あらゆる物事が仏法の大網によって信知される≠ニいうことと、自分は大悲護念のまごころに覆われている≠ニいう安心感があるために適うのでしょう(参照:{論註・荘厳虚空功徳成就#2」})。

 こうした菩薩の行動内容を、以下様々な比喩を用いて明かにします。

 本願一乗海を様々に譬える

註釈版
〔浄土の菩薩の〕智慧は大海のごとく、三昧[ざんまい]山王[せんのう]のごとし。慧光[えこう]明浄[みょうじょう]にして日月に超踰[ちょうゆ]せり。清白[しょうびゃく]の法具足[ぐそく]し円満すること、 なほ雪山[せつせん]のごとし、もろもろの功徳を照らすこと等一[とういつ]にして[きよ]きがゆゑに。なほ大地[だいじ]のごとし、浄穢[じょうえ]好悪[こうあく]異心[いしん]なきがゆゑに。なほ浄水のごとし、塵労[じんろう]もろもろの垢染[くぜん]洗除[せんじょ]するがゆゑに。なほ火王[かおう]のごとし、一切の煩悩の[たきぎ]を焼滅するがゆゑに。なほ大風[だいふう]のごとし、もろもろの世界に行ずるに障礙[しょうげ]なきがゆゑに。なほ虚空[こくう]のごとし、一切の[]において所着[しょじゃく]なきがゆゑに。なほ蓮華[れんげ]のごとし、もろもろの世間において汚染[わぜん]なきがゆゑに。なほ大乗のごとし、群萌[ぐんもう]運載[うんさい]して生死[しょうじ][いだ]すがゆゑに。なほ重雲[じゅううん]のごとし、大法[だいほう][いかずち][ふる]ひて未覚[みかく][かく]せしむるがゆゑに。なほ大雨[だいう]のごとし、甘露[かんろ]の法を[あめふ]らして衆生を[うるお]すがゆゑに。金剛山[こんごうせん]のごとし、衆魔[しゅま]外道[げどう]、動かすことあたはざるがゆゑに。梵天王[ぼんてんのう]のごとし、もろもろの善法において最上首[さいじょうしゅ]なるがゆゑに。尼拘類樹[にくるいじゅ]のごとし、あまねく一切を[おお]ふがゆゑに。優曇鉢華[うどんばけ]のごとし、希有[けう]にして[もうあ]ひがたきがゆゑに。金翅鳥[こんじちよう]のごとし、外道を威伏[いぶく]するがゆゑに。もろもろの遊禽[ゆきん]のごとし、蔵積[ぞうしゃく]するところなきがゆゑに。なほ牛王[ごおう]のごとし、よく勝つものなきがゆゑに。なほ象王[ぞうおう]のごとし、よく調伏[じょうぶく]するがゆゑに。獅子王[ししおう]のごとし、[おそ]るるところなきがゆゑに。[ひろ]きこと虚空[こくう]のごとし、大慈[だいじ]、等しきがゆゑに。
現代語版
その智慧は大海のように深く広く、その禅定[ぜんじょう]須弥山[しゅみせん]のように揺らぐことがない。智慧の光が清く明らかなことは太陽や月に越えすぐれており、清らかな功徳はすべて欠けることなくそなわっている。
 それはまた雪山[せっせん]のようである。すべての功徳[くどく]を等しく清らかに照らし輝かすから。また大地のようである。清らかなものも汚れたものも善いものも悪いものも、わけへだてなくその上に載せるから。また清らかな水のようである。さまざまな煩悩の汚れを洗い除くから。またさかんに燃える火のようである。煩悩の[たきぎ]をみな残らず焼き尽くすから。また激しく吹く風のようである。どの世界にあってもさまたげられることなく活動するから。また大空のようである。すべてのものにとらわれないから。また蓮の花のようである。世俗の中にあっても汚れに染まらないから。また大きな乗りもののようである。多くの人々を載せて迷いの世界から運び出すから。また厚い雲のようである。雷鳴[らいめい]をとどろかせるように法を説き、目覚めていない人々の目を覚すから。また大雨のようである。すぐれた教えを甘露[かんろ]のように降りそそいで人々を[うるお]すから。また鉄囲山[てっちせん]のようである。さまざまな悪魔や外道[げどう]のものも揺り動かすことができないから。また梵天[ぼんてん]のようである。さまざまな善い教えで人々を導くもっともすぐれたものであるから。また尼狗類樹[にくるいじゅ]のようである。すべてのものをおおってその木陰に入れるから。また優曇華[うどんげ]のようである。世に出ることがまれであって容易に出会うことはできないから。また金翅鳥[こんじちょう]のようである。すぐれた力により外道のものをひれ伏させるから。また小鳥のようである。決して余分にはたくわえないから。また牛の王のようである。何ものにも負かされないから。また象の王のようである。すべてを巧みに制御するから。また獅子の王のようである。何ものをも恐れることがないから。その慈悲の広いことは大空のようである。すべての人々を平等に慈しむから。
 先に浄土の菩薩として功徳を積むことの詳細を尋ねてみましたが、今節ではこの本願一乗海を様々に譬え、内容を吟味し、様々な疑いを晴らしていきます。その際、名ばかりの念仏者である自分の姿と比較し、本来あるべき菩薩の姿を明かしたいと思います。
<〔浄土の菩薩の〕智慧は大海のごとく、三昧[ざんまい]山王[せんのう]のごとし>
(その智慧は大海のように深く広く、その禅定[ぜんじょう]須弥山[しゅみせん]のように揺らぐことがない)
 先の「本願一乗海[ほんがんいちじょうかい]」のように、一切衆生は畢竟[ひっきょう]として仏の本願海を依りどころとするのであり、その結果、浄土の菩薩は大きな智慧と安心と集中を得ることができるわけです。しかしこうした菩薩本来の姿は、振り返ってみれば「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(正像末和讃94)と、悲歎すべき現実の自分の姿を浮かび上がらせます。しかし悲歎が悲歎で終わらず、宿業の嘆きの奥底から、我本来の菩薩と成らん≠ニの願いが足元の蓮華座から湧き出るところが浄土の素晴らしさでしょう。
願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」(高僧和讃20 天親讃)。このように浄土は願土でもあります。
慧光[えこう]明浄[みょうじょう]にして日月に超踰[ちょうゆ]せり>
(智慧の光が清く明らかなことは太陽や月に越えすぐれており)
「光」は「はたらき」を言います。菩薩の智慧のはたらきが「太陽や月に越えすぐれて」いるというのは決して大げさな比較ではありません。智慧がなければたとえ昼でも心は暗く、闇につつまれたまま不安で一杯になります。しかし智慧がひらけた菩薩は、たとえ月の出ていない晩でも心は明るく、温かいまごころに包まれたまま安心感で一杯になります。ただしここも、完全に不安や無明が破れたわけではありません。願いとして成就しているのであります。
清白[しょうびゃく]の法具足[ぐそく]し円満すること>
(清らかな功徳はすべて欠けることなくそなわっている)
清白[しょうびゃく]の法」とは、煩悩のない状態であり、「清浄潔白な無漏[むろ]の善法」です。「具足」は「欠けたもののないこと。満たしていること」ですから、浄土の菩薩は清浄なる善法で満ち足りているということを、願いの成就として言うのでしょう。
<なほ雪山[せつせん]のごとし、もろもろの功徳を照らすこと等一[とういつ]にして[きよ]きがゆゑに>
(それはまた雪山[せっせん]のようである。すべての功徳[くどく]を等しく清らかに照らし輝かすから)
 ここで文法解釈をしなくてはならないのですが、「何」が「なほ雪山[せつせん]のごとし」なのでしょう。また以下にも「なお○○のごとし」と譬えが続いていきますが、これら全ての譬えはどの文に係っているのでしょう。注釈本を読むと「清白[しょうびゃく]の法具足[ぐそく]し円満すること」だけに係っている印象がありますが、文全体をよく読むと、浄土の菩薩の智慧・三昧[ざんまい]慧光[えこう]≠ニそして「清白[しょうびゃく]の法具足[ぐそく]し円満すること」の四つに係っていることが解ります。これをふまえて領解させていただきましょう。
 最初は、浄土の菩薩が諸の功徳を照らす≠アとを雪山に譬えています。功徳というのは徳の巧みなはたらき≠ナあり、「徳」は真心の智慧を行じた果報≠ナす。菩薩が智慧を行じた結果、菩薩の身心や周囲との関係に善い影響を与え信を得さしめた、このことを徳というのです。
 すると「もろもろの功徳を照らす」というのは、浄土の菩薩は一切衆生や存在するあらゆるものには等しく尊い歴史の積み重ねがある≠ニいうことを雪山のように明白にすることでしょう。
<なほ大地[だいじ]のごとし、浄穢[じょうえ]好悪[こうあく]異心[いしん]なきがゆゑに>
(また大地のようである。清らかなものも汚れたものも善いものも悪いものも、わけへだてなくその上に載せるから)
 ここは先にも「覆載[ふさい]せずといふことなし」とあり、菩薩の大悲は天が一切万物を差別なく覆い、地が残すことなく載せるように、衆生に対してわけへだてしない≠アとの譬えとしました。しかし私たちは、自分の都合によって人や物事を分け隔てしてし、さらに身勝手な理屈をつけてこの差別を正当化しようと計ります。まさに真実の心はありがたし≠ナありますが、この深い闇に気づくことが浄土の功徳が私に至り届いた証拠でもあります。浄土の菩薩だからこそ本当の菩薩に成ろうと願う、この願いが事実としては成就しなくても、願いそのものが成就することを、一例として「なほ大地[だいじ]のごとし」と言うのです。
<なほ浄水のごとし、塵労[じんろう]もろもろの垢染[くぜん]洗除[せんじょ]するがゆゑに>
(また清らかな水のようである。さまざまな煩悩の汚れを洗い除くから)
塵労[じんろう]」というのは「心を疲れさせるもの」という意で「煩悩の異名」でもあります。浄土の菩薩は「応法[おうほう]妙服[みょうぶく]」が身についていて、生活に倦怠[けんたい]を感じたり、心の垢がついたり、不平不満や取り繕いがない(参照:
{取り繕いの無い懺悔を})といいますが、こうしたことを言うのでしょう。
<なほ火王[かおう]のごとし、一切の煩悩の[たきぎ]を焼滅するがゆゑに>
(またさかんに燃える火のようである。煩悩の[たきぎ]をみな残らず焼き尽くすから)
 仏教では、煩悩を草木に譬え、煩悩を御することを燃焼に譬えることはよくあります。ただ、一切の煩悩を燃焼する≠ニいうのは大げさに思われますが、これも願いとして成就していることを言っているのです。これは曇鸞大師も『往生論註』105に、「たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便[ぎょうほうべん]と名づく」(たとえば木の火ばしをもって、草木を[]んで焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便[ぎょうほうべん]と名づける)と仰る通りで、法蔵菩薩は願いそのものが成就したことをもって成就と言われているごとく、浄土の菩薩の願いも同様に、事実の成就を待つのではなく願成就を成就とするのです。これを見ても浄土は願土であることが解るでしょう。
<なほ大風[だいふう]のごとし、もろもろの世界に行ずるに障礙[しょうげ]なきがゆゑに>
(また激しく吹く風のようである。どの世界にあってもさまたげられることなく活動するから)
 現代人の多くは人間は基本的に自由なる存在である≠烽オくは本来的に自由を与えられている≠ニ思い込んでいるのですが、これは大いなる妄想に過ぎません。自由は自分で獲得するものであり、そのためには他者との信頼関係を結ぶ必要があります。現代社会は法律や条約が整い、身分証明さえできれば行動範囲はある程度自由ですが、本当に自分が自由自在に活動するためには周囲の賛同が不可欠です。普段の行いが悪ければ周囲は警戒し、事あるごとに制止の声がかかるでしょう。
 浄土の菩薩は先に申しましたとおり、釈尊の跡継ぎとしての立場から還相回向の心構えを得、外相としては「相好成就」、内徳としては「諸仏供養」と真の「聞法」、そして菩薩自身の「説法」を成就しますので、おのずと周囲はその徳に感化され、大風のように「どの世界にあってもさまたげられることなく活動する」ことができるのです。
<なほ虚空[こくう]のごとし、一切の[]において所着[しょじゃく]なきがゆゑに>
(また大空のようである。すべてのものにとらわれないから)
 先の大風の譬えは主に周囲との関係でしたが、ここでは自分の行動範囲を狭めているのは自分自身のとらわれの心にある≠ニいうことを言うのでしょう。人間は自分で自分の首を絞め、自分で自分の足かせをはめているのです。たとえば過去の成功にとらわれ、失敗にとらわれ、先入観にとらわれ、理論にとらわれ、他人の賞賛や[あざけ]りにとらわれて、自分が今ここで為すべきことに集中できなくなってしまいます。これが人生を窮屈[きゅうくつ]にし先細らせるのです。浄土の菩薩は、とらわれのない心でものごとに当たることが願いにおいて成就しているので、虚空[こくう]のごとき身心の活動が適ってくるのです。
<なほ蓮華[れんげ]のごとし、もろもろの世間において汚染[わぜん]なきがゆゑに>
(また蓮の花のようである。世俗の中にあっても汚れに染まらないから)
 蓮華は仏教を象徴する華です。『維摩経』には「高原の陸地[ろくじ]には蓮華を生ぜず。卑湿[ひしゅう]淤泥[おでい]に蓮華を生ず」とある通り、煩悩の泥田に根を張ってそれを養分としながら、泥田に染まらぬ美しい人生の華を咲かせることを勧めています。このことについて鳩摩羅什は、「たとえば臭泥[しゅうでい]の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華を[]りて、臭泥を取ることなかれ」『出三蔵記集』と苦言を呈していますが、これは、「卑湿[ひしゅう]淤泥[おでい]に蓮華を生ず」とだけ聞いて誤解し、煩悩の汚泥に飲み込まれて恥じない人も多いからでしょう。「汚染[わぜん]なき」が尊いのです。
<なほ大乗のごとし、群萌[ぐんもう]運載[うんさい]して生死[しょうじ][いだ]すがゆゑに>
(また大きな乗りもののようである。多くの人々を載せて迷いの世界から運び出すから)
「大乗」は文字通り大きな乗り物≠ニいう意味で、自利のみではなく広く衆生を済度[さいど]する教えと実践法を編み出しました。親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』の総序に「難思[なんじ]弘誓[ぐぜい]難度海[なんどかい][]する大船[だいせん]」と述べ、龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』3に「陸道[ろくどう]歩行[ぶぎょう]はすなはち苦しく、水道[すいどう]乗船[じょうせん]はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし」と記されました。
<なほ重雲[じゅううん]のごとし、大法[だいほう][いかずち][ふる]ひて未覚[みかく][かく]せしむるがゆゑに>
(また厚い雲のようである。雷鳴[らいめい]をとどろかせるように法を説き、目覚めていない人々の目を覚すから)
[いかずち][ふる]ひて」というのは、大声を張りあげることではありません。宗教組織によっては、顔をいからせ、マイクの音量を上げ、身振り手振りを激しく、がなり立て怒号するように主張する集団もあるのですが、大勢の勢いに圧されて同調するような態度では道を得ることはできません。
 ここで「[いかずち][ふる]ひて」というのは、聞いた相手が心の底から震えることをいうのです。今まで自分は何をしていたのか。人生の肝心要[かんじんかな]めを問わず、その時その時をただ誤魔化し、やり過ごしてきただけではなかったのか≠ニ震え自分自身の人生成就を後回しにはできない≠ニ立ち上がらせ、仏の本願を私の願いとして生きてゆこう≠ニ、衆生が目ざめてゆくのです。
<なほ大雨[だいう]のごとし、甘露[かんろ]の法を[あめふ]らして衆生を[うるお]すがゆゑに>
(また大雨のようである。すぐれた教えを甘露[かんろ]のように降りそそいで人々を[うるお]すから)
 衆生は別名「群萌[ぐんもう]」とも「群生[ぐんじょう]」とも言いますが、これは機会があれば人々のうちより仏性の芽が萌え生まれることを称しているのでしょう。しかし衆生は真実道理を好まず、むしろ法縁を避けて暮らしていますので、ことごとく良き機会を逃し、仏性の芽の出る人は[まれ]です。そこで仏・菩薩は、こうした縁なき衆生に無縁の大慈悲≠注ぎ、善悪正邪あらゆる機会を逃さず、道理を超えた道理によって人々に法の雨を注ぐのです。解りやすく言えば、理屈や教学を懇々[こんこん]と言い含めて覚らせるのではなく、仏教に関わりの無いような生活の一々の上にも仏の大慈悲がはたらいている、そのことを「甘露[かんろ]の法を[あめふ]らして」と見つけ、共感すると、互いの胸のうちで仏性が目覚め、我執・無明の殻が破れて仏性の芽がすくすくと伸び育つのです。このことは例えば『報恩講私記』4では「今師(親鸞)、法雨[ほうう]四輩[しはい][そそ]ぎ、遠く常没濁乱[じょうもつじょくらん]遺弟[ゆいてい]湿[うるお]」とあり、また『御伝鈔』8では「あきらかに無漏[むろ]慧灯[えとう]をかかげて、とほく濁世[じょくせ]迷闇[めいあん]を晴らし、あまねく甘露[かんろ]法雨[ほうう]をそそぎて、はるかに枯渇[こかつ]凡惑[ぼんわく][うるお]さんがためなりと」と称えています。
金剛山[こんごうせん]のごとし、衆魔[しゅま]外道[げどう]、動かすことあたはざるがゆゑに>
(また鉄囲山[てっちせん]のようである。さまざまな悪魔や外道[げどう]のものも揺り動かすことができないから)
金剛山[こんごうせん]」とは、古代インドに考えられた宇宙論に出てくるもので、須弥山を中心にした七つの金山・八海・四洲全てを囲む山を金剛山とも鉄囲山[てっちせん]とも言います。鉄囲山の下には金輪があり、「金輪際[こんりんざい]」という言葉もここからきています。このように金剛山は須弥世界の外廊をなすものですから、ここより外は絶対にない、というところから、動揺のない境地を譬えているのでしょう(参照:{弥陀果徳 眷属荘厳3 #2})。
 しかし自分自身の有様を見ると、真実を知らない人々の嘲笑[ちょうしょう]に惑い、動揺を抑えられないことも起こってきます。親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本)別序で、「まことに仏恩[ぶっとん]深重[じんじゅう]なるを念じて、人倫[じんりん]哢言[ろうげん][]ぢず。浄邦[じょうほう][ねが]徒衆[しゅと]穢域[えいき][いと]庶類[しょるい]取捨[しゅしゃ]を加ふといへども毀謗[きほう]を生ずることなかれとなり」と記されていますが、これはそうした「人倫[じんりん]哢言[ろうげん][]ぢ」とする人が多いことの裏返しでしょう。そうした動揺が起きた時は、「まことに仏恩[ぶっとん]深重[じんじゅう]なるを念じて」いくこと。忘れたら何度も弥陀の直説を聞きなおしてゆくことで「金剛山[こんごうせん]のごとし」という心を不動なるものにしていくのです。
梵天王[ぼんてんのう]のごとし、もろもろの善法において最上首[さいじょうしゅ]なるがゆゑに。
(また梵天[ぼんてん]のようである。さまざまな善い教えで人々を導くもっともすぐれたものであるから)
梵天王[ぼんてんのう]」(マハーブラフマン)は、ヒンズー教においては、ヴィシュヌ神、シバ神とならぶ三主神の一つで世界創造の神≠ニされてきましたが、仏教に取り入れられてからは色界初禅の天に位置づけられました。釈尊に説法を勧請した話は有名ですが、教化後は仏教を護持する存在になりました。そこで浄土の菩薩の智徳を、天の主≠ニいう地位に譬えて讃じているのです。
尼拘類樹[にくるいじゅ]のごとし、あまねく一切を[おお]ふがゆゑに>
(また尼狗類樹[にくるいじゅ]のようである。すべてのものをおおってその木陰に入れるから)
尼拘類樹[にくるいじゅ]」は「バニヤン樹」で、梵語「ニヤグローダ」を音写したものです。「縦広樹」「縦横樹」などと漢訳されるように、「炎日を避けるのに適した樹陰をつくる」ことから、浄土の菩薩は「あまねく一切を[おお]ふ」ことを譬えます。「一切」とは、世渡りの際に人々を襲う甘言や暴言、道に外れた言動や誘惑、恐怖、怠け心、心の垢や不正なる行為など、いわゆる悪魔の誘惑や攻撃から皆を守り励ますことで、これを浄土の菩薩は自分の人生を誠実に生きること≠ノよって適えるのです。
優曇鉢華[うどんばけ]のごとし、希有[けう]にして[もうあ]ひがたきがゆゑに>
(また優曇華[うどんげ]のようである。世に出ることがまれであって容易に出会うことはできないから)
優曇鉢華[うどんばけ]」は三千年に一度しか開花しないと言われ、浄土の菩薩と生まれることが極めて[まれ]であることを譬えます。ただしこれは三千年に一人くらいしか浄土に生まれる人はいない≠ニいう意味ではありません。{往覲偈(序)}には「東方恒沙仏国[とうぼうごうじゃぶっこく]無量無数[むりょうむしゅ]諸菩薩衆[しょぼさつしゅ]、みなことごとく無量寿仏の[みもと]往詣[おうげい]して…」等とありますように、数限りない人々が無量寿仏の浄土を訪れます。実際、如来の本願が私に至り届いて信心となることで誰でも浄土に生まれることは適うのですが、内容としては極めて[まれ]なこと。実行の安易さに比べ、得られる功徳は極めて優れているのです。人々は、易しくできることは低級、難しいことは内容が高度≠ニの思い込みがあるのですが、誰でも生まれ得て内容は高度≠ネのが浄土の菩薩です。
金翅鳥[こんじちよう]のごとし、外道を威伏[いぶく]するがゆゑに>
(また金翅鳥[こんじちょう]のようである。すぐれた力により外道のものをひれ伏させるから)
金翅鳥[こんじちよう]」は「迦楼羅[かるら]」(ガルダ)とも言い、竜を食べる怪鳥、またヴィシュヌ神の乗り物である聖鳥としても有名で、インドネシアでは国章や航空会社の名にも採用されています。またガルダは太陽の高熱を神話化したもので、いざとなれば並み居る神々を蹴散[けち]らすことができ、神々の仕掛けた様々な武器や罠をかいくぐり、ヴィシュヌ神と互角の強さを持っていて、その姿は神よりも気高く、羽根一枚で全宇宙を支える≠ニ豪語します。こうした武勇が伝わっているため、外道を威伏[いぶく]する菩薩の力量をガルダに譬えているのでしょう。
<もろもろの遊禽[ゆきん]のごとし、蔵積[ぞうしゃく]するところなきがゆゑに。なほ牛王[ごおう]のごとし、よく勝つものなきがゆゑに。なほ象王[ぞうおう]のごとし、よく調伏[じょうぶく]するがゆゑに。獅子王[ししおう]のごとし、[おそ]るるところなきがゆゑに>
(また小鳥のようである。決して余分にはたくわえないから。また牛の王のようである。何ものにも負かされないから。また象の王のようである。すべてを巧みに制御するから。また獅子の王のようである。何ものをも恐れることがないから)
 これらは非常に解りやすい動物の譬えとなっています。私たちは心の底では善を為そうと願っているのですが、足ることを知らず、煩悩に負け、身心を制御できずに悪心をのさばらせ、恐怖に畏れおののいている有様で、こうした障りがあるため菩薩としての大善は行なうことができません。これを様々な譬えを用いて菩薩としての本来≠願わしめ、本質を顕現させるのです。
[ひろ]きこと虚空[こくう]のごとし、大慈[だいじ]、等しきがゆゑに>
(その慈悲の広いことは大空のようである。すべての人々を平等に慈しむから)
 先にも大慈悲を大雨に譬えてありましたが、菩薩は縁なき衆生に無縁の大慈悲≠注ぎ、善悪正邪あらゆる機会を逃さず、道理を超えた道理によって人々に法の雨を注ぎます。これは言うは易し行なうは難しで、人間は相手に対する先入観や悪差別、身びいきや好き嫌いが絡みがちで、とても「[ひろ]きこと虚空[こくう]のごとし」とはいきません。しかし、そうした虚空の譬えを願いとして受け入れれば、かくあらん≠ニの如来の本願が私の身に満ち、やがて行動や周囲との関係にも影響が現れてくるものです。

 共に居て楽しく励みとなる菩薩

註釈版
〔菩薩は〕嫉心[しっしん]摧滅[さいめつ]す、[まさ]れるを[そね]まざるがゆゑに。もつぱら法を[ねが]ひ求めて、心厭足[えんそく]なし。つねに広説[こうせつ][おも]ひて、志疲倦[ひけん]なし。法鼓[ほうく][]ち、法幢[ほうどう]を建て、慧日[えにち][かがや]かし、痴闇[ちあん][のぞ]く。六和敬[ろくわきょう]を修してつねに法施[ほうせ][ぎょう]ず。志勇精進[しゆうしょうじん]にして心退弱[しんたいにゃく]せず。世の灯明となりて最勝の福田[ふくでん]なり。つねに導師[どうし]となり、等しくして憎愛[ぞうあい]なし。ただ正道[しょうどう][ねが]ひて[]欣戚[ごんしゃく]なし。もろもろの欲の[とげ]を抜いてもつて群生[ぐんじょう][やす]んず。功慧[くえ]殊勝[しゅしょう]にして尊敬[そんきょう]せられざることなし。
現代語版
 また、菩薩たちは嫉妬心[しっとしん]を滅ぼして、人をねたむようなことがないから、ひたすら教えを願い求めて飽きることがなく、いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない。太鼓[たいこ]を打ち旗を立てて勇ましく進むように仏法をひろめ、智慧の光を輝かせて[おろ]かさの[やみ]を除き、互いに敬いあい、常に法を説き、雄々しく努め励んで、[こころざし]が中途でひるむようなことはない。菩薩たちは、世を照らす[ともしび]となり、また人々のもっともすぐれた功徳のもととなる。いつも人々のために指導者となり、すべてのものに対して等しくわけへだてをせず、ひたすら正しい法を説こうと願い、他に喜び[うれ]えることは何もない。さまざまな欲望の[とげ]を抜いて、多くの人々を心安らかにするのである。このようにその功徳や智慧が実にすぐれているから、だれひとりとしてこれらの菩薩を尊敬しないものはない。
<〔菩薩は〕嫉心[しっしん]摧滅[さいめつ]す、[まさ]れるを[そね]まざるがゆゑに>
(また、菩薩たちは嫉妬心[しっとしん]を滅ぼして、人をねたむようなことがないから)
 人間社会において、人生において、何が一番の課題となるかと言えば「嫉妬心[しっとしん]」を置いて他にありません。ニーチェも「嫉妬の炎につつまれた者は、最後には、さそりと同様に、自分自身に毒針を向けるのだ」と警告しています。無上菩提心[むじょうぼだいしん]は求道の歩みに他ならず、そのためには他者の「[まさ]れる」ことは讃め称え、自らの熱意としなければなりません。他人を素直に褒め称えることができる人こそ賞賛に値する人なのです。しかし嫉妬はこの真逆の行動で、[ひが]んで相手を引きずり降ろそうとするため、かえって自分が奈落[ならく]の底に沈んでしまいます。
<もつぱら法を[ねが]ひ求めて、心厭足[えんそく]なし>
(ひたすら教えを願い求めて飽きることがなく)
厭足[えんそく]」は「飽き足りる」ということです。人生は無限に新しいものを生み出す機会と要素に満ちていて、真に願えば常に新鮮な驚きと発見を見出すことができます。たとえ同じ場所でも、同じ人と会っても、同じスケジュールを過ごしても、そこに真実を見出す求めがあれば、いつでも新鮮な法の響きを楽しく聞き開くことができるのです。
<つねに広説[こうせつ][おも]ひて、志疲倦[ひけん]なし>
(いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない)
広説[こうせつ]」は、広く衆生に説法することですが、最初に述べましたように、自分の人生を誠実に生きること自体が最高の説法となる≠けで、座を設けて説教を垂れるのみが説法ではありません。ちなみに説教と説法、仏教と仏法は似て非なるもので、「教」は理論や知識など言葉として授けるものですが、「法」は人生観として確立させてゆくものです。ですから、勉強が苦手な人は仏教として学ぶと疲れて飽きがくるかも知れませんが、仏法・人生観として求めれば、どこまでも楽しく求めることができ、その確立は何よりもの喜びとなります
法鼓[ほうく][]ち、法幢[ほうどう]を建て、慧日[えにち][かがや]かし、痴闇[ちあん][のぞ]く>
太鼓[たいこ]を打ち旗を立てて勇ましく進むように仏法をひろめ、智慧の光を輝かせて[おろ]かさの[やみ]を除き)
法鼓[ほうく][]ち、法幢[ほうどう]を建て」というのは、「太鼓[たいこ]を打ち旗を立てて勇ましく進む」という法要儀礼や示威運動的な意味もありますが、組織的な威力を見せるというより、菩薩個人の生き様が周囲の人々にとって示威的であることの方が重要です。「慧日[えにち][かがや]かし、痴闇[ちあん][のぞ]く」という智慧のはたらきは、わざわざ菩薩が喧伝するまでもなく大衆に影響を与えます。
六和敬[ろくわきょう]を修してつねに法施[ほうせ][ぎょう]ず>
(互いに敬いあい、常に法を説き)
六和敬[ろくわきょう]」は「六慰労法」「六可ニ法」とも言いますが、菩薩が衆生と和同し愛敬する六種――「身業同[しんごうどう]口業同[くごうどう]意業同[いごうどう]同戒[どうかい]同施[どうせ]同見[どうけん]」もしくは同じ意味で「同戒和敬[どうかいわきょう]同見和敬[どうけんわきょう]同行和敬[どうぎょうわきょう]身慈和敬[しんじわきょう]口慈和敬[くじわきょう]意慈和敬[いじわきょう]」をいいます。これは、「身口意[しんくい]の行為においてあわれみ慈しみをもって諸々の行者に向かい、かれらに同じくその法を敬って行なわせること」と「自己が得た清らかな戒と飲食などと聖智によって得た見解とを施すこと」という意味です。
法施[ほうせ]」は、例えば『十住毘婆沙論』に「在家の人は、まさに財施を行ずべし。出家の人は、まさに法施を行ずべし」とありますように、一般的には僧侶の説教を指しますが、浄土教では僧侶に限らず全ての念仏者が法施を行じることができます。なぜなら浄土の菩薩の法施は、教学や仏教理論を説明することではなく、如来の本願を自らの願いとして誠実に生きることそのものから発せられるものだからです。そしてこれは、互いに敬い励ましあう≠ニいう六和敬を行じる環境において適うことは言うまでもありません。
志勇精進[しゆうしょうじん]にして心退弱[しんたいにゃく]せず>
(雄々しく努め励んで、[こころざし]が中途でひるむようなことはない)
心退弱[しんたいにゃく]せず」とありますが、実際の人生においては、幾度となく[こころざし]が中途でひるむことがあるものです。この退弱がおこった時、これは一時の迷いで本質的なものではない≠ニ楽観的に考える人もいるでしょう。また退弱してしまった自分は浄土の菩薩ではない≠ニ悲観的に考える人もいるでしょう。これらはともに間違いで、退弱がおこったのは信心の本質的な問題であり、なおかつ、退弱は信心を深める如来の呼び声なのです。
 ですから心退弱がおこった時は、その度ごとにこれが今の自分のありのままの姿だ≠ニ如来の呼び声として聞き入れ、眼をそらさずじっくり観察し、あらためてわれ浄土に生まれん≠ニの願いをおこしなおすのです。日々[にちにち]に死んで日々に生きる。過去の願いを引きずるのではなく、今は今の願いにおいて浄土に生まれることを果たすのです。これが「勇精進[ゆうしょうじん]」たる菩薩の志です。
<世の灯明となりて最勝の福田[ふくでん]なり>
(菩薩たちは、世を照らす[ともしび]となり、また人々のもっともすぐれた功徳のもととなる)
 親鸞聖人は、如来の光明が世を照らす有様を「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪[こうりん]きはもなく 世の盲冥[もうみょう]をてらすなり」(浄土和讃3)と讃えましたが、菩薩が「世の灯明」となるのは「世の盲冥」があるからで、もし盲冥がなければ光明もまたありません。
「福田」とあるのは、菩薩は限りなく福徳を生み出す器だからです。如来と菩薩の関係で言えば、聖徳太子が「人はよく法をひろむ、法は人によってひろまる」(『勝鬘経義疏』巻一)と仰る通りで、如来の光明は菩薩の徳を通してはじめて世に顕現するのです。
<つねに導師[どうし]となり、等しくして憎愛[ぞうあい]なし>
(いつも人々のために指導者となり、すべてのものに対して等しくわけへだてをせず)
導師[どうし]」は「導首」ともいい、法要の際は儀式の主導者をさしますが、本来は「衆生を導いて仏道に入らせる師」という意味です。これは組織の先頭に立って大衆を導く指導者≠ニいう意味もありますが、そういう地位や立場に立つというより、浄土の菩薩の生きる内容が、大衆の指導者としても適っていて、組織的な地位や立場を得なくても導師としての役割を果たすことができる≠ニいうことを言うのでしょう。なぜならば、浄土の菩薩は無量寿仏の願いを我が願いとして信知し、「等しくして憎愛[ぞうあい]なし」と一人ひとりの尊さを忘れず、悪差別しないからです。
<ただ正道[しょうどう][ねが]ひて[]欣戚[ごんしゃく]なし>
(ひたすら正しい法を説こうと願い、他に喜び[うれ]えることは何もない)
 浄土の菩薩はひたすら正道(正しい法を説こう)と[ねが]う、ということですが、「楽」は文字通り「楽しい」ということですから、正しい法を行じ説くことが楽しいので飽くことなく、いつでも何度でも正法を行じ、それが衆生への説法となる≠ニいう意味です。
 「余」というのは正しい法ではないもの≠ニいう意味で、「欣」は「ひいひいと息をはずませてよろこぶ」こと、「戚」は「心細く思いわずらう」ということ(ここは親戚の意ではない)ですから、正しい法以外のことで喜んだり憂いたりしない≠ニいう意味になります。
<もろもろの欲の[とげ]を抜いてもつて群生[ぐんじょう][やす]んず>
(さまざまな欲望の[とげ]を抜いて、多くの人々を心安らかにするのである)
「もろもろの欲の[とげ]」とは「貪欲[とんよく]」のことです。実は欲そのものは煩悩ではないのですが、我執によって欲に引きずられ、無明によって道理にかなわぬものを欲しがるために煩悩になってしまうのです。『四十二章経』には「財や色をむさぼることは、子どもが刃に塗られた蜜をなめるように、甘さを味わっているうちに、舌を切る憂いを残す」とあります。衆生は我執と無明を解決していないため、欲が身心を切り滅ぼす要素になってしまうのです。そこで衆生の煩悩の刺や刃を抜き、蜜のみを残して多くの人々を心安らかにするのです。『アングッタラ・ニカーヤ』には「修行者たちよ、どのような人が蜜のような言葉を語る人であるか。修行者たちよ、世の中に、ある種の人がいて、悪口をやめ、悪口を避けている。かれがいかなる言葉を語っても、誤りがなく、聞いて楽しく、ほれぼれとし、心に響き、上品で、多くの人たちが好み、多くの人たちが受け容れる。そのような言葉を語る。修行者たちよ、これが蜜のような言葉を語る人といわれている」とあります。
功慧[くえ]殊勝[しゅしょう]にして尊敬[そんきょう]せられざることなし>
(このようにその功徳や智慧が実にすぐれているから、だれひとりとしてこれらの菩薩を尊敬しないものはない)
 以上のように浄土の菩薩は功徳と智慧が勝れている≠ニ讃えていますが、仏とは智慧と功徳が成就した人(自覚覚他 覚行円満)のことを言いますから、浄土の菩薩は本来的には仏と同じです。ただし、本来的な仏が実際に仏と成る場所が安楽浄土でありますから、浄土の菩薩は自らの本来を願い顕現させる者である≠ニも言えるでしょう。
安楽仏国に生ずるは 畢竟成仏の道路にて
無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり
『高僧和讃』43
信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり
自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず
『高僧和讃』82
罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき
『正像末和讃』107

 二十力によって

註釈版
三垢[さんく][さわり]を滅し、もろもろの神通[じんずう]に遊ぶ。因力[いんりき]・縁力・意力・願力・方便の力・常力・善力・定力・慧力・多聞[たもん]の力、施・戒・忍辱[にんにく]精進[しょうじん]禅定[ぜんじょう]・智慧の力、正念・正観・もろもろの通明[つうみょう]の力、法のごとくもろもろの衆生を調伏[じょうぶく]する力、かくのごときらの力、一切具足[いっさいぐそく]せり。
現代語版
 この菩薩[ぼさつ]たちは、煩悩[ぼんのう][けが]れを[めっ]し、さまざまな神通力[じんずうりき]を自由に使うことができる。因の力、縁の力、意思の力、誓願[せいがん]の力、方便[ほうべん]の力、不断に努める力、功徳を積む力、禅定[ぜんじょう]の力、智慧の力、聞法の力、六波羅蜜[ろっぱらみつ]を行ずる力、正しく念じ正しく観ずる不可思議な力、教えのままに人々を導く力など、このような力をすべてその身にそなえているのである。
 ここでは、浄土の菩薩は三垢煩悩を滅し、六神通の無礙自在な境地に遊び、二十種の勝れた力を得ることが説かれます。
三垢[さんく][さわり]を滅し、もろもろの神通[じんずう]に遊ぶ>
(この菩薩[ぼさつ]たちは、煩悩[ぼんのう][けが]れを[めっ]し、さまざまな神通力[じんずうりき]を自由に使うことができる)
三垢[さんく]」とは「貪(貪欲[とんよく]/むさぼり)瞋(瞋恚[しんに]/いかり)癡(愚癡[ぐち]/おろか)で、「三毒煩悩[さんどくぼんのう]」とも「三惑[さんわく]」「三火」ともいい、衆生を害する悪の根源でありますから「三不善根」ともいいます(参照:
{百八煩悩})。三垢を滅することは、仏道修行において中心課題の一つであり、浄土の菩薩はこの課題を成し遂げているのです。なぜなら、浄土は三垢を発生させる必要のない環境でありますから、ここに生まれた菩薩はおのずと煩悩を滅することができるわけです。
「もろもろの神通[じんずう]」とは、先にも挙げました「宿命通・天眼通・天耳通・他心通・神足通・漏尽通」の「六神通」のことで、現在只今の歴史的事実を覚ることができ、相手の尊さが解り、相手の本心の訴えを聞くことでき、相手の悩みや本心を理解し、相手の身になり立場に立って自他を超えてゆく心の足を得、自利利他の菩薩行を行じる際に妄念・我執をおこさないことを言います。これによって、今の自分を引き受けられ、一切衆生の仏性世界を拝み見て自利利他円満の菩薩道を歩むことが適い、一切衆生の本心の叫び声を聞き心身深く刻んで憶えることができ、誰しも心の奥底に背負いきれない悲しみや悩みを宿して生きていることを知り尽くせ、一切衆生と語り合い真心を通わせて自利利他の菩薩行を行じていくことができ、お為ごかしの偽善と身の執着を離すことができます。
「遊ぶ」は「遊戯[ゆげ]」で、物事に執着がなく、「仏の境地に徹して、それを喜び楽しむこと」、「心のままに無礙自在であること」を言います。「勤行」は本心からではなく無理もあるのですが、「遊戯」は勤めて行なう必要はなく、楽しみで行ないますから修行が止むことがありません。
因力[いんりき]・縁力・意力・願力・方便の力・常力・善力・定力・慧力・多聞[たもん]の力>
(因の力、縁の力、意思の力、誓願[せいがん]の力、方便[ほうべん]の力、不断に努める力、功徳を積む力、禅定[ぜんじょう]の力、智慧の力、聞法の力)
 ここからは菩薩が具える二十種の力(二十力[にじゅうりき])が説かれます。
  1. 因力[いんりき]」は「直接の原因となる業の力」「宿業の力」であり、ここでは「過去に修めた善根力」「過去の善業の力」「無上の仏果をえる因となる力」です。
  2. 「縁力」は「因を育てて果を結ばせる間接的な力」であり、ここでは「諸仏・善知識の教導の力」を指します。
  3. 「意力」は「さとりを求める意志力」であり「思惟の力」、
  4. 「願力」は「衆生救済を願う力」であり「菩提を求める力」、
  5. 「方便の力」(方便之力)は「願を成就するための方便として修行する力」と「衆生救済の手段としての力」、
  6. 「常力」は「怠らず不断に修行する力」、
  7. 「善力」は「悪をなさず善を勧める力」、
  8. 「定力」は「精神統一によって得る力」、
  9. 「慧力」は「智慧の力」、
  10. 多聞[たもん]の力」(多聞之力)は「多くの教えを聞いて領解する力」です。
<施・戒・忍辱[にんにく]精進[しょうじん]禅定[ぜんじょう]・智慧の力>
六波羅蜜[ろっぱらみつ]を行ずる力)
 ここは、二十力のうち「六波羅蜜[ろっぱらみつ]」を修める力が紹介されています。「波羅蜜」は彼岸に至る=E願いを成就する≠ニいう意味で、「六波羅蜜」は大乗仏教の菩薩の実践すべき六種の行業[ぎょうごう]・六つの徳目(六度万行)をあらわしています。元々は世自在王仏や法蔵菩薩の修めた行業ですが、弥陀の本願を自らの願いとして生きる菩薩は、浄土の土徳と信心の裏づけを得た上で六度にのぞみます。
  1. 「施力」(施)は、施しをすることによる力「布施の力」でありますが、「布施」には「私財を惜しげなく与える(財施)、真理を語り教える(法施)、恐怖をとりのぞき安心をあたえる(無畏施)」の三種があります。布施によって「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」と我執が砕かれるのです。退転の菩薩は自我そのものを力としますので無駄な力みが出、自ら限界をつくってしまいますが、浄土に生まれた不退転の菩薩は我執を砕く布施を力にしますので、余分な力みはなく限界がありません
  2. 「戒力」は、自省し戒律を守ることによる力「持戒[じかい]の力」です。仏教には「五戒」「八戒」「十戒」「具足戒」などの「声聞戒」や「菩薩戒・大乗戒」など多種の戒律があります(参照:{戒律について})が、総じて言えば、自他の人生成就に反したり邪魔となる行為を自発的に戒め、互いに律する内容≠ェ戒律です。凡夫は破戒を喜びとし力としますが、浄土の菩薩は持戒を喜びとし力とするのです。
  3. 忍辱力[にんにくりき]」は、苦難や迫害を耐え忍ぶことによる力です。これは暴力的な苦難迫害も含みますが、むしろ「まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫[じんりん]哢言[ろうげん]を恥ぢず」(『顕浄土真実教行証文類』信文類三 別序)と親鸞聖人が仰るような人々の[あざけ]りに耐えることが主でしょう。信念なき人々の嘲笑は多くの善を腐らせてきましたが、忍辱力によって耐え忍べば、かつて嘲笑した人もやがて菩薩に讃意を表します
  4. 精進力[しょうじんりき]は、徳目をたゆまず実践し続けることによる力です。どんな善行も三日坊主では成果を得ません。継続は力なり≠ナ、たえず自ら求めて行うことによって智慧と功徳が身につくのです。
  5. 禅定力[ぜんじょうりき]は、精神を統一し、安定させることによって得る力です。勉強も仕事もスポーツも、何事も精神集中なしでは立派に成し遂げることはできません。常に禅定力を発揮することは難しいかも知れませんが、菩薩は浄土の功徳によって禅定力を身に即けることがかなうのです。
  6. 「智慧の力」(智慧之力)は、真実の智慧を得ることによる力で、「前五波羅蜜の根拠となる無分別智[むふんべつち]」と言われていますが、無分別とは分別が無いことを言うのではなく、無数の分別が重々無尽に重なった無分別智・世間解のことです。また、社会のあらゆる分野における形のない法則や原理や歴史的背景などの真髄を達意的に知る智慧と言えるでしょう。「仏教は智慧の宗教」と言われるくらいで、こうした智慧は磨かなければならないのです。ところが人々は凡夫には智慧があるのか無いのか≠ネどと論争ばかりしている。そんな暇があれば、その間にいくらでも世の中をことを学び、様々な種類の道の真髄を会得し、智慧を磨くことができます。また社会が悪い。政治が悪い≠ネどと悪口を言う人も多いのですが、その原因を探れば、今の人間に本物の智慧者がないことに尽きるでしょう。長年、このままでは人類存亡の危機だ≠ニか地球全生命の危機≠ニ言われているのに、人々の間には争いが絶えず、暴走した我執に翻弄されているのが現代社会のありさまです。ですから人々は、できてもできなくても世間を理解し智慧を得ようと願い求めることが、社会の安寧にとっても、人生成就にとっても必須[ひっす]なのです。
 以前も述べましたが、六波羅蜜[ろっぱらみつ]は大乗仏教の実践というのみならず、社会において人間として生きる基本であることが解るでしょう。ですから、社会人として生きるためには、できてもできなくても、どうしても身に即けなければならない徳目なのです。
 しかし同時に、「私は六波羅蜜を完成しました」と言ったら嘘になってしまいます。自省すればするほど「今の私はとても六波羅蜜を完成できておりません」と懺悔が出ます。これが大事で、『大乗起信論』には、「本覚によるがゆえに不覚あり。不覚によるがゆえに始覚あり。始覚にきわまって本覚に同ずる。これを成就という」という道程を踏んで成就するのです。もちろん、完成を願いつつも完成は永遠の彼方。しかし願いの中に成就あり≠ナ、願いのこもった法蔵菩薩の修行が「人を教へて行ぜしむ」と浄土の菩薩に回向され、ここにおいて現実の力となるのです。
<正念・正観・もろもろの通明[つうみょう]の力法のごとくもろもろの衆生を調伏[じょうぶく]する力、かくのごときらの力、一切具足[いっさいぐそく]せり>
(正しく念じ正しく観ずる不可思議な力、教えのままに人々を導く力など、このような力をすべてその身にそなえているのである)
  1. 「正念力」は「教えを正しく念ずる力」で、「念」は「忘れない」ということです。
  2. 「正観力」は「真実の道理を正しく観る力」で、浄土と穢土の関係を正しく観察するということです。
  3. 「もろもろの通明[つうみょう]の力」(諸通明力)は「六神通と三明の力」のことで、先にも説明しましたが「六神通」は「宿命通・天眼通・天耳通・他心通・神足通・漏尽通」、「三明」は「六神通」のうち「宿命通・天眼通・漏尽通」の三つを別出したものです。
  4. 「法のごとくもろもろの衆生を調伏[じょうぶく]する力」(如法調伏諸衆生力)は「正しく衆生を教え導く力」をいいます。「調伏」は、個人的には「自らの身心を制御して悪を排すること」をいいますが、対外的には「敵意ある者を教化して悪心を捨てさせ、障害をもたらすものを降伏させること」と、衆生を導く面も発揮します。
「かくのごときらの力、一切具足[いっさいぐそく]せり」とは、以上の二十力全てを浄土の菩薩は身にそなえている≠ニいうことを明かしています。

 衆生往生果のまとめ

註釈版
身色[しんじき]相好[そうごう]・功徳・弁才を具足し荘厳[しょうごん]して、ともに等しきものなし。無量の諸仏を恭敬[くぎょう]供養[くよう]したてまつりて、つねに諸仏のためにともに称歎[しょうたん]せらる。菩薩のもろもろの波羅蜜[はらみつ]究竟[くきょう]し、空・無相・無願三昧[むがんざんまい]と、不生不滅[ふしょうふめつ]〔等の〕もろもろの三昧門[ざんまいもん]を修して、声聞[しょうもん]縁覚[えんがく][]遠離[おんり]す。阿難、かのもろもろの菩薩、かくのごときの無量の功徳を成就せり。われただなんぢがために略してこれを説くのみ。もし広く説かば、百千万劫[ひゃくせんまんごう]にも窮尽[ぐじん]することあたはじ」と。
現代語版
 その国の菩薩[ぼさつ]たちは、すぐれた姿やさまざまな功徳[くどく]弁舌[べんぜつ]智慧[ちえ]などをそなえて世間[せけん]に並ぶものがない。また、数限りない仏がたを敬い供養したてまつり、そしてその仏がたもみな、いつもこの菩薩をほめたたえておいでになる。さらに菩薩が修める六波羅蜜[ろっぱらみつ]の行をきわめ、空・無相・無願三昧[むがんざんまい]や、不生不滅[ふしょうふめつ]をさとる三昧などのさまざまな三昧を修めて、声聞[しょうもん]縁覚[えんがく]の位をはるかに超えすぐれている。
 阿難よ、その国の菩薩たちはこのようなはかり知れない功徳をそなえているのである。今、わたしはそなたのためにそのほんの一部を説いたのであって、もし詳しく説けば、どれほど長い年月をかけても説き尽すことはできない」
 ここは「衆生往生果」についての総論、つまり三章にわたって説かれてきた浄土に生まれた菩薩はどのような果報を得ているか≠ノついてのまとめです。
身色[しんじき]相好[そうごう]・功徳・弁才を具足し荘厳[しょうごん]して、ともに等しきものなし>
(その国の菩薩[ぼさつ]たちは、すぐれた姿やさまざまな功徳[くどく]弁舌[べんぜつ]智慧[ちえ]などをそなえて世間[せけん]に並ぶものがない)
「信心すでにえんひと」である浄土の菩薩は、釈尊の跡継ぎとしての立場に立っていますので、外相として「身色[しんじき]相好[そうごう]・功徳・弁才を具足し」とありますが、ここは身色相好[しんじきそうごう]の功徳と弁才を具足し≠ニ読むところでしょう。還相の菩薩として相好成就[そうこうじょうじゅ]と「菩薩の説法」を適えているのです。
<無量の諸仏を恭敬[くぎょう]供養[くよう]したてまつりて、つねに諸仏のためにともに称歎[しょうたん]せらる>
(また、数限りない仏がたを敬い供養したてまつり、そしてその仏がたもみな、いつもこの菩薩をほめたたえておいでになる)
 浄土の菩薩は、
{往覲偈}にありますように、まず無量寿仏に[つつし]んでまみえ、「供養したてまつる」ことが適います。
「つねに諸仏のためにともに称歎[しょうたん]せらる」は「諸仏供養」のことで、浄土の菩薩は「一度食事をするほどの短い時間のうちにすべての数限りない世界に行き、さまざまな仏がたを敬い供養する」。具体的には、まず十方の諸仏世尊を念じてその願いや求道精神を訪ね、私の無始以来の罪悪を懺悔させていただき、そして全ての人々の御前において我が身を慎み、へりくだり、相手を尊敬し、物心を奉げる≠ニいうことです(参照:{衆生往生果1#3})。すると諸仏も浄土の菩薩を称歎し、互いに相い念じあうので「ともに称歎[しょうたん]せらる」とあるのです。
 では何のために諸仏供養を行なうのかというと、諸仏の説法と無量寿仏の直説を聞く真の聞法≠フためです。敬い尋ねる者には諸仏の功徳が全て与えられるのです
(参照:{衆生往生果2})。
<菩薩のもろもろの波羅蜜[はらみつ]究竟[くきょう]し、空・無相・無願三昧[むがんざんまい]と、不生不滅[ふしょうふめつ]〔等の〕もろもろの三昧門[ざんまいもん]を修して、声聞[しょうもん]縁覚[えんがく][]遠離[おんり]す>
(さらに菩薩が修める六波羅蜜[ろっぱらみつ]の行をきわめ、空・無相・無願三昧[むがんざんまい]や、不生不滅[ふしょうふめつ]をさとる三昧などのさまざまな三昧を修めて、声聞[しょうもん]縁覚[えんがく]の位をはるかに超えすぐれている)
 「相好成就[そうこうじょうじゅ]」と「菩薩の説法]をかなえるため「諸仏供養」と「真の聞法」を適えた浄土の菩薩は、浄土の菩薩としての真の修行をおさめます。
「菩薩のもろもろの波羅蜜[はらみつ]」は、「二十力」のところで説明しましたが、布施[ふせ](物品や法や安心を相手に与える)・持戒[じかい](自省し戒律を守る)・忍辱[にんにく](苦難や迫害を耐え忍ぶ)・精進[しょうじん](徳目をたゆまず実践し続ける)・禅定[ぜんじょう](精神を統一し安定させる)・智慧[ちえ](真実の智慧、無分別智・世間解)の六波羅蜜[ろっぱらみつ]を言い、これを「究竟[くきょう]し」ということですから、六波羅蜜をひたすら[きわ]めてゆく≠ニいうことです。
「空」は「もろもろの事象は因縁によって生じたものであって、固定的実体がない」という「縁起の法」を明らかにし、「一切の相対的・限定的・固定的なわくの取払われた、真に絶対・無限定な真理の世界」を言います。なおここは「空三昧[くうざんまい]」ですから、菩薩が「万有において個人存在または諸法(諸事象)は空であると観ずるために入る禅定」を修することをいいます。
無相[むそう]」とは、「物事には固定的・実体的なすがたというものはなく、それゆえ実相(真理・真相)は無相であり、無相は実相である」ということですから、「無相三昧」は、「差別の相を離れた三昧(禅定)」という意味です。また「無相」は「形のないことではなく、感覚以前の本来の面目の実体をいう」のであり、「本来の面目を実証し、修行すること」をいいます。
「無願」は「特別の願(欲求・目的)をもたないこと」であり「欲望を離脱した状態」をいいます。「無願三昧[むがんざんまい]」は「実相は無相なるがゆえに願求[がんぐ]することなし」と観ずる禅定です。
 まとめてみますと、「空」は、一切の存在や事象は因縁によって生じたもので固定的実体はない、つまり空であると観察すること。「無相」は、一切は空であるから差別の相はないと観察すること。「無願」は、差別の相はないのだから願い求めるものは何もないと観察すること≠ナあり、これら「空・無相・無願三昧」は三解脱門とも三三昧[さんざんまい]などとも言います。なお、法蔵菩薩の兆載永劫の修行においても<空・無相・無願の法に住して作なく起なく>とありますから、法蔵菩薩の修行が浄土の菩薩に回向されて三三昧が適ったという他力の道理は知っておかねばならないでしょう(参照:{法蔵修行#3})。
不生不滅[ふしょうふめつ]」とは、「生ずることも滅することもなく、常住である」という「さとりの境地を形容」しています。本来は「ものの存在が認識を超えている、つまり空であることを表す概念」でありましたが、やがて「自由自在な絶対的主体性」を意味するようになりました。これは、概念が修せられて行者の境地となったことで意味が変化したのでしょう。また「不は否定ではなく絶対の意。全体が生であること」ですから、今ここにおいて自分が生き切る、生きることに全集中することが不生不滅という意味になります。
 以上のような三三昧や不生不滅の三昧や「もろもろの三昧門[ざんまいもん]を修して」ゆくことが浄土の菩薩の修行でありますが、この自利の修行がそのまま菩薩の説法として利他となることが浄土の土徳で適うのです。
<阿難、かのもろもろの菩薩、かくのごときの無量の功徳を成就せり。われただなんぢがために略してこれを説くのみ。もし広く説かば、百千万劫[ひゃくせんまんごう]にも窮尽[ぐじん]することあたはじ>
(阿難よ、その国の菩薩たちはこのようなはかり知れない功徳をそなえているのである。今、わたしはそなたのためにそのほんの一部を説いたのであって、もし詳しく説けば、どれほど長い年月をかけても説き尽すことはできない)
 説明が長くなりましたが、浄土の菩薩が成就した功徳を、一生補処[いっしょうふしょ]相好成就[そうこうじょうじゅ]諸仏供養[しょぶつくよう]、真の聞法、菩薩自身の説法、という順で見てまいりました。しかし世尊は、本当に全ての功徳を説こうと思えば、百千万劫[ひゃくせんまんごう]かけても説き尽くすことはできない≠ニ称賛しています。本来、浄土の菩薩である真実信心獲得者はこのように限りない功徳を頂いているのですが、この本来を現実に発揮できるということが信じられないことが何より悲しく嘆かわしいことなのです。

仏慧功徳をほめしめて 十方の有縁にきかしめん
信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし
『浄土和讃』50

 資料

人間は私が尊いと同じように相手も尊いのです。ところが、今ごろはどうかと言いますと、「自信をもって教人信する」。私は信心をもらった衆生済度する。人をばかにしておる、相手を軽べつするのでしょう。そうでしょう。高飛車に出てから。そんなものはまことの宗教ではありません。仏教ではありません。これから出てきます。お互いに仏教はいつでも相手を尊敬するここから始まるのです。相手の人格を尊敬するということは、いつも申しますように、相手を粗末にする者は、相手を粗末にする以前に、自分を粗末にしておるのです。そうでしょう。
<中略>
 それならどんなことかといいますと、ここでは「かの(阿弥陀仏の)国に生まれた菩薩は講説すべし」説くべきときに正法、正しい法を説くと言いますよ。しかも仏の智慧に従って説いていって、忘れることもなく、間違ったことを教えることもない、まことの道を説いていくと言うのであります。これで見ればいかにも口で説法、今私がしゃべっておるようにしゃべると思いましょう。ところが、だんだんと読んでみれば、どうもこれは口の説法ではないらしいですよ。「身業説法」解りますか。身体で説法する。生活そのものが説法。
 だから見なさいね。ちゃんと昔から言うでしょう。親の言うたことは子どもは聞かんが、親のしたことは見て習うと言いましょう。これです。説法というと、私らは口の説法だとこう、皆、思いきっておるのです。昔の人の解釈を見てもそう書いてある。ちゃんと今までは阿弥陀の説法を聞いたから、今度は私が阿弥陀の説法を、お取り次ぎでみんなに説法する、こういう考え方。そうではないのです。
 ちゃんと阿弥陀の説法を聞いたら、今度は口は黙って手足が説法するのです。洗濯すること、畑を耕すこと、することなすことがもうおのずから毛穴から仏法がにじみ出てくるのです。そうすると後ろ姿、なんとうちのおばあちゃんは隣のおばあちゃんと違ってから、やっぱりお寺へ参るだけあって、「自分の親を褒めるではないが、うちのおばあちゃんは立派なおばあちゃんだ。私もああいう立派なおばあちゃんになりたい」。これが無言の説法でしょう。だから、こういう説法がある。これは何もこういうことだけではないよ。
 いつも申しますように、法蔵菩薩が世自在王仏に聞いた説法です。「時に国王あり、世自在王仏に説法を聞いて、国を捨て位を捨てて弟子になった」と書いてありましょう。今まであれほど王さまになりたい、王さまになりたい、栄耀栄華したいと言うて王さまになっておったその人が、たった一席のご説法で、財産も要らんぞ、国も要らんぞ、名誉も要らんぞ、死んでも構わんぞ、どんな辛苦をしても構わんぞ、どえらいさとりが開けたもんだなあ。一体どんなご説法を聞いたんだろうか。なんぼ訪ねてもお経にはただ「仏の説法を聞いた」というだけでしょう。おかしいな、こんなに大事な問題を、昔の人は不思議が起こらなんだのだろうかと思うて訪ねてみたところが、ちゃんと解ってきた。
 何かというと、お礼の言葉が一番大事なのです。法蔵菩薩が世自在王仏に対してお礼の言葉はどうか。「光顔巍巍として威神無極」あなたのいいご説法、いいお話を聞かせてもらいましてありがとうございました。どこにも書いてないよ。「光顔巍巍」でしょう。「なんとあなたのお顔は光り輝くお顔でございます。私は今まで、あなたのようなこんなに生き生きした光り輝くお顔を見たことがありません。それに比べてみれば、私のこの着た着物は」王さまですから「こんな着物はみんな炭団のごとく炭のごとく値打ちがないことになってしまいました」こうでしょう。だから見なさい。「身業説法」目の前に現れた世自在王仏の人格そのものに照らされたのです。解りましょう。  ここだけではない。これから説いていくさとって後の修行ということは、口の説法もありますが、同時に後ろ姿そのものが無言の説法。そこに私がしようと思わんでもひとりでにお念仏の徳がにじみ出てくれば、こんな喜びがどこにありますかな
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

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