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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』19

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳3

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢが言是なり。たとひ帝王のごとき、人中の尊貴にして形色端正なりといへども、これを転輪聖王に比ぶるに、はなはだ鄙陋なりとす。なほかの乞人の帝王の辺にあらんがごときなり。転輪聖王は、威相殊妙にして天下第一なれども、これをトウ利天王に比ぶるに、また醜悪にしてあひ喩ふるを得ざること万億倍なり。たとひ天帝を第六天王に比ぶるに、百千億倍あひ類せざるなり。たとひ第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞に比ぶるに、光顔・容色あひ及逮ばざること百千万億不可計倍なり」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 釈尊が阿難に仰せになった。
「まことにそなたのいう通りである。しかし、王は人の中でも尊ばれる身の上で姿かたちが美しくととのっているといっても、転輪聖王にくらべると、とても卑しくて見劣りがする。それはちょうど今乞人を王のそばに並べたようなものである。転輪聖王はそれほどに威厳にあふれ、この世でもっともすぐれているが、帝釈天[たいしゃくてん]にくらべるとまた万億倍も醜く劣っている。その帝釈天であっても、他化自在天[たけじざいてん]の王にくらべるとまたまた百千億倍も見劣りがする。そしてその他化自在天の王でさえ、無量寿仏の国の菩薩や声聞にくらべると、その輝かしい容姿に及ばないことは、百千万億倍ともはかり知ることができないほどである」


 帝王と転輪聖王

註釈版
 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢが言是[ことば ぜ]なり。たとひ帝王のごとき、人中[にんちゅう]尊貴[そんき]にして形色端正[ぎょうしきたんじょう]なりといへども、これを転輪聖王[てんりんじょうおう]に比ぶるに、はなはだ鄙陋[ひる]なりとす。なほかの乞人[こつにん]の帝王の[ほとり]にあらんがごときなり。
現代語版
 釈尊が阿難に仰せになった。
「まことにそなたのいう通りである。しかし、王は人の中でも尊ばれる身の上で姿かたちが美しくととのっているといっても、転輪聖王にくらべると、とても卑しくて見劣りがする。それはちょうど今乞人を王のそばに並べたようなものである。

 浄土の住民の容姿について釈尊は、<顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず>(顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない)と説かれたのですが、前章では、古来の業論解釈が入ることで内容が凝り固まってしまいました。もちろん阿難の述べた宿命論的な因果一貫の業論≠竄サの他の因果論も、一から十まで全て間違っているわけではありません。物事の一面は示しているのですが、仏教以外の因果論は部分的な解釈に留まり、物事一切を完全に解き明かし人々を覚りに導く道理とはなっておりません。
 そこで釈尊は、あえて阿難の解釈を「なんぢが言是[ことば ぜ]なり」と一旦認めた上で、徐々にそうした次元ではない浄土の住民の容姿≠明らかにします。それというのも、釈尊は常に安穏な言葉を語られるのであり、後に阿難もその心遣いに感銘を受けてみえる様子がうかがえるのです。

アーナンダは語った。
「自己を苦しめることにならない言葉をこそ、人は語るべきである。また、自己の語った言葉によって、他人を傷つけるべきではない。そうした言葉こそ、よく語られた言葉である。
 他人が聞いて喜ぶ言葉、すなわち好ましい言葉こそ、人は語るべきである。他人の悪を取りあげないで語るのが、好ましい言葉である。
 不滅の言葉こそ、真実である。これは、いにしえからの真実である。心の静まった人は、真実と道理と真理の上に安立するといわれる。
 安らぎに達するために、そして苦しみを終滅させるために、ブッダの語られた安穏な言葉、これこそが、言葉のうちの最上のものである」
『テーラ・ガーター』より

「安穏な言葉」は全経典に共通しているのですが、特に浄土経典ではそれが顕著にあらわれています。大衆会の場で披露した阿難の解釈を一旦は是とし、ここを足がかりとして真実を明らかにするのです。

 釈尊はまず、帝王と転輪聖王を比較し、乞人と帝王の違いと同じくらいの差があることを説きます。転輪聖王は古代インドの理想的国王で、正義や徳をもって世界を治める仁王のことです。身に三十二相をそなえ、即位の時、天から輪宝を感得し、これを転じて天下を威伏治化するのです。

【転輪聖王】てんりんじょうおう:
統治の輪を転ずる聖王の意。インド神話において世界を統一支配する帝王の理想像。世界の政治的支配者。転輪王とも輪王ともいう。全世界の皇帝。武力を用いず、ただ正義のみによって全世界を統治する理想的帝王。ジャイナ教徒やヒンズー教徒の間でも考えられていたし、また古碑文の中にも出てくるが、仏教では特に重要な意味をもつ。仏教では三十二相・七宝を具え、武力・刀剣によらず、正義によって征服し、支配するといわれる。これには金輪・銀輪・銅輪・鉄輪の四王がある。一説によると、人間の寿命が二万歳に達した時に、まず鉄輪王が出現して一天下の王となり、八万歳に達した時に金輪王が出て四天下に君臨し、四方を順化するという。その輪とは輪宝(これらの王が感得した神聖な車輪)が王を先導して、一切の障害を破砕、降伏する力のあるものである。
(佛教語大辞典/東京書籍)
【転輪聖王】てんりんじょうおう:
遮加越などと音写し,転輪王,転輪聖帝,輪王となどともいう. 輪宝をもつ王の意. 輪宝は輪形の武器で金・銀・銅・鉄の4種があり,仏の説法を象徴する法輪はこれにもとづく. 転輪聖王は,輪・象・馬・珠・女・居士・主兵臣の七宝を有し,長寿と無病と相好と宝にめぐまれる四徳があり,正法によって世界を統治するといわれる.
(真宗新辞典/法蔵館)
【転輪聖王】てんりんじょうおう:
(梵)チャクラ・バルティ・ラージャンの訳。輪・象・馬・珠・女・居士・主兵臣[しゅびょうしん]の七宝を有し、長寿・無患・顔貌端正・宝蔵盈満の四徳をそなえ、正法をもって世を治めると考えられた神話的な王。政治的な意味での国王の理想化であって、阿含経典などの中では法の王としての仏陀とよく対比される。仏陀の誕生と時、阿私陀[あしだ](アシタ)仙人が、家に在れば転輪聖王となり、出家すてば仏陀になるであろうと占ったという有名な伝説がある。須弥四州[しゅみししゅう]の四州の王であるか三州の王であるかなどによって、その輪宝は金輪宝であるとか銀輪宝・銅輪宝・鉄輪宝であるとかいい、また過去には大善見王・頂生王など、未来にはジョウ伽王・無量浄王などの転輪聖王があるという。
(総合佛教大辞典/法蔵館)

 帝王が武力や権力によって国を治めるのに対し、転輪聖王は人徳によって全世界を治めます。
 また帝王は自分の欲望に従って国を治めますが、転輪聖王は正義に随って全世界を治めます。
 帝王の治める国の人々はいつも不安にかられ争い反発しますが、転輪聖王の治める国々では人々は心配がなく平和になり聖王に喜び随います。
 王としての内容がこの通りですから自ずと容姿にも表れ、<四海に光宅してもつて風を垂るるものは仁王なり>「広く世界を治め、徳をもって人々を導くものは仁王である」(最澄著『末法灯明記』)と、仏と同じ三十二相を具える仁王として称えられるようになります。

 ちなみに「帝王」や「帝国」といった表現は、前近代においては尊崇の念がこもった表現でしたが、現代においては強権政治的な傲慢さや頑迷さを批判する意味で用いられます。武力や強権を発動して人々を支配する政治は劣った政治であり、人々から推挙された者が政治を行うべきである≠ニいう考え方が全世界のすう勢であり、実際に今は国民の支持がなければ政治は動きません。そういう意味から言えば、「転輪聖王」という古代インドにおける理想王は現代においても生き続ける政治的理想像なのでしょう。

 なお『往生論註』では、浄土における阿弥陀仏の存在意義を明らかにするため、転輪聖王の治世を譬えに引いて、<宝輪、殿に駐 馬を立む まればすなはち四域虞ひなし。これを風の靡くに譬ふ>(転輪王が車を宮殿に駐め、そこにいて国を治めると、四方の人々は心配がなくなる。これを、風が吹いてすべてのものがそれに靡くにたとえる)とたたえています。
(参照:{『論註』荘厳主功徳成就「#羅刹と転輪聖王」}

 天王と浄土の菩薩・声聞

註釈版
転輪聖王は、威相殊妙[いそうしゅみょう]にして天下第一なれども、これをトウ利天王[とうりてんのう]に比ぶるに、また醜悪[しゅうあく]にしてあひ[たと]ふるを得ざること万億倍なり。たとひ天帝[てんてい]第六天王[だいろくてんのう]に比ぶるに、百千億倍あひ類せざるなり。たとひ第六天王を無量寿仏国[むりょうじゅぶつこく]菩薩[ぼさつ]声聞[しょうもん][なら]ぶるに、光顔[こうげん]容色[ようしき]あひ及逮[およ]ばざること百千万億不可計倍[ひゃくせんまんおくふかけばい]なり」と。
現代語版
転輪聖王はそれほどに威厳にあふれ、この世でもっともすぐれているが、帝釈天[たいしゃくてん]にくらべるとまた万億倍も醜く劣っている。その帝釈天であっても、他化自在天[たけじざいてん]の王にくらべるとまたまた百千億倍も見劣りがする。そしてその他化自在天の王でさえ、無量寿仏の国の菩薩や声聞にくらべると、その輝かしい容姿に及ばないことは、百千万億倍ともはかり知ることができないほどである」

 前節では、武力や権力による統治者である帝王と、仁徳によって推挙された転輪聖王を比べると雲泥の差があることが説かれましたが、その転輪聖王でさえ帝釈天や他化自在天の王には遠く及ばないと説かれます。では「帝釈天」や「他化自在天」とはどんな存在なのでしょう。

【帝釋】たいしゃく:
インドラ神。ヴェーダ神話における最も有力な神であったが、後、仏教にとり入れられて梵天とともに仏法を守護する神とされた。彼の名は俗語でSakkaとよばれるので、「釈」と音写され、また神々の帝王とみなされるので、「帝」という。仏教神話においては、トウ利天の主で、須弥山頂の喜見城に住む。
(佛教語大辞典/東京書籍)
【帝釈天】たいしゃくてん:
仏教守護の神。インド神話の神インドラIndra(因陀羅)がその起源で、別名をシャクラSakra(釈迦羅)という。帝釈の帝はインドラの訳、釈はシャクラの音写の略である。詳しくはシャクラ・デーヴァーナーム・インドラSakra devanam indra(諸天の中の王の意)ともいい、釈迦提桓因陀羅と音写し、略して釈提桓因[しゃくだいかんいん]という。インドラはリグ・ヴェーダの神々の中でもっとも崇敬を集めた神で、武勇神・英雄神の性格をもっており、本来の起源は雷神とされている。
仏教には梵天とともに早くからとり入れられて護法の善神とされ、仏陀説法の会座にもしばしば名を列ねている。地居天[じごてん]の主で天帝ともいい、須弥山[しゅみせん]((梵)スメールSumeru)頂上のトウ利天の善見城に住し、四天王を配下とする。また十二天の筆頭で東方を守護する。梵天とあわせて釈梵とよばれ、図像にも梵天・帝釈天を一対としたものが多い。東大寺法華堂蔵・唐招提寺蔵・東寺蔵(以上いずれも国宝)のものがその代表例である。なお図像に金剛杵[こんごうしょ]を持つもの、千眼を持つものがあるのは、いずれもリグ・ヴェーダのインドラ神の伝説に起源をもつ。
(総合佛教大辞典/法蔵館)
【第六天の魔王】だいろくてんのまおう:
欲界の第六天である他化自在天のこと。この天は常に多くの眷属を率いて人間界において仏道にさまがげをなすという。またの名を波旬ともいう。
(佛教語大辞典/東京書籍)
【他化自在天】たけじざいてん:
他化天・第六天ともいう。六欲天の第六。この天に生まれたものは、他の天の化作した欲境(欲望の対象)を自在に受容して楽を受けるという。欲界天の最高の場所である。
(佛教語大辞典/東京書籍)
【他化自在天】たけじざいてん:
(梵)パラニルミタ・ヴァシャヴァルティンParanirmita-vasa-vartinの訳。波羅維摩婆奢などと音写し、波羅尼蜜天[はらにみつてん]婆舎跋提天[ばしゃばつだいてん]と略称し、他化楽天・化応声天ともいう。欲界六天(六欲天)の一つ。他のものがこしらえた楽境を奪って、それを自在に享受するのでこの名がある。欲界六天の最高に位するので第六天ともいい、魔王の住所であるため魔天という。密教では胎蔵曼荼羅の外金剛部院に安置し、帝釈天の眷属とする。
(総合佛教大辞典/法蔵館)

 ちなみに帝釈天の住みかである欲界六天の第二「三十三天/トウ利天」は須弥山の頂上にあるのですが、山頂の四方に峰があって、峰ごとに八天ありますので合わせて三十三天となります。
 このように、帝釈天も他化自在天も「天」の世界に住む存在なのですが、天全体の構造はどうなっているのでしょう。

【天】てん:
デーバdebaの訳で、提婆[だいば]と音写する。天上、天有[てんぬ]、天趣、天道、天界、天上界というのも同じ意味である。
迷界である五趣や六趣(六道)のうちで最高最勝な有情[うじょう]の生存、或いはその有情、或いはその有情の生存する世界のこと。
有情自体を指すときは天人、天部(複数)、天衆[てんじゅ]ともいい、ほぼ「神」の語に当たる。
死後、天に生まれるための因である勝れた十善、四禅八定[はちじょう]を説く教えを天乗という。

@天の世界はこの地上から遥か上方にあると考えられ、下から順次に、四大王衆天(四王天ともいい、持国天・増長[ぞうじょう]天・広目天・多聞[たもん]天の四天王およびその眷属が住む)・三十三天(トウ利天ともいう。この天の主を釈提桓因[しゃくだいかんにん]即ち帝釈天[たいしゃくてん]という)・夜魔天[やまてん](焔摩天、第三焔天)・覩史多天[としたてん]兜率天[とそつてん])・楽変化天[らくへんげてん](化楽天)・他化自在天[たけじざいてん](第六天・魔天)があって、六欲天と称する。六欲天とは「欲界に属する六つの天」の意である。
次いで色界に属する天があるが、それは四禅天に大別され、全部で十七天(或いは十六天、十八天)から成る。即ち初禅天に梵衆天[ぼんしゅてん]梵輔天[ぼんぽてん]・大梵天の三天があり、第二禅天に少光天・無量光天・極光浄天の三天、第三禅天に少浄天・無量浄天・遍浄天の三天、第四禅天に無雲天・福生天[ふくしょうてん]・広果天・無煩天[むぼんてん]・無熱天・善現天・善見天・色究竟天[しきくきょうてん]阿迦尼タ天[あかにたてん])の八天がある。十六天説では大梵天を梵輔天の中へ含め、十八天説では広果天の上に別に夢想天を立てる。初禅天、第二禅天、第三禅天に属する九天は、いずれも楽を受ける天であるから楽生天[らくしょうてん]といわれる。大梵天は梵天、大梵天王ともいわれ、帝釈天とあわせて釈梵と称される。これにさらに四天王を加えて釈梵四王といい、仏法守護の善神の中に数えられる。また四天王や帝釈天や梵天のように多くの天衆を率いている天を天王[てんのう]という。以上諸天のうちで四大王衆天と三十三天とは須弥山[しゅみせん]の上部に住むから地居天[じごてん]といい、夜魔天以上は空中に層をなして住むから空居天[くうごてん]という。それらが住む宮殿を天宮[てんぐう]、天堂という。これらの諸天は上方になるに従ってその天衆の身体の大きさも寿命も次第に増大し、肉体的な条件もすぐれたものとなる。
さらに無色界[むしきかい]に属する諸天があって、空無辺処天・識無辺処天・無所有処天[むしょうしょてん]・非想非非想処天(有頂天)の四無色天から成る。これらはすべて無色(物質を超えている)の天であるから住処をもたない。
四大王衆天または三十三天にある者(異説もある)で、いきどりの心を起こすことによって、および遊戯の楽しみに耽って正念[しょうねん]を失うことによって、自ら天界より去る者があり、前者を意憤天[いふんてん]といい、後者を戯忘天[けもうてん]戯忘念天[けもうねんてん])という。

A天人の命が終ろうとするとき身体に五つの衰えがあらわれる。これを五衰(天人の五衰)という。異説もあるが代表的なものは(1)衣服が垢でよごれる、(2)頭にかむっている花の冠がしおれる、(3)身体が臭くなる、(4)わきの下から汗が流れる、(5)自らの位置を楽しまなくなる、の五である。
また六欲天が婬事をなすのには、四大王衆天と三十三天とでは人間と等しく肉体を交え、夜魔天ではただ相抱くのみ、覩史多天では手をとり、楽変化天ではあい笑み、他化自在天ではあい視るのみであるという。これを欲天の五婬と名づける。

B天でない者をも仮に天と称して諸天を分類することがある。即ち名天[みょうてん](世間天、世天ともいい、国王をかりに天となづけたもの、人中の天の意)・生天[しょうてん](有情の生ずべきいわゆる天)・浄天(煩悩を断った清浄な者のことで、阿羅漢[あらかん]・独覚・仏をいう)の三種天、名天の代わりに挙天[こてん](転輪聖王は衆に推挙された帝王であるから挙天という)を加えた三種天、世間天・生天・浄天(預流果[よるか]から独覚まで)・義天(十住の菩薩)を四(種)天などに分け、四天に第一義天即ち仏を加えて五(種)天ともいう。
仏は浄天中の尊とされ、天中天、天中の最勝尊、天人師とも称される。また地天・水天・火天・風天・伊舎那天・帝釈天・焔摩天・梵天・毘沙門天・羅刹天[らせつてん]・日天・月天[がってん]を十二天(世界を護世の天部)といい、密教では金剛面天などを二十天という。

(総合佛教大辞典/法蔵館)
【天】てん:
……化身土文類末には諸天が念仏者を護持することを挙げているが,「天を拝し神を祠祀することを得ざれ」とする.
現世利益和讃には梵王帝釈などの諸天善神,四天大王,他化天の大魔王が念仏の人を守ると説く.
他化天とは,他の天が化作した楽を仮りて自分の楽しみとするから名づけられたもので,詳しくは他化自在天といい,第六天,魔天(大魔王がつかさどる)とも称し,浄土の荘厳の快楽自在であるのが第六天のようであるとも,また浄土の聖衆のすぐれていることは第六天の百千万億不可計倍であるともいう〔大経〕.
兜率天((梵)Tusita 都史多天)は上足,喜足とも訳し,その内院は一生補処の菩薩が住する所で,現に弥勒が修行しているとする.
<中略>
仏を第一義天というのは仏性不空の義によるとし〔術文賛―教〕,浄土の聖衆に人・天の名があるのは他の国土に順じて仮りに名をつらねたとする〔大経,論,浄讃〕.
なお天の神を天神,地の神を地祇といい,天神地祇を鬼神と名づける〔浄讃〕.
天道〔大経〕は業道を指し,天道自然,天道施張(網のように張りめぐらされ逃れることができない)と説く.
(真宗新辞典/法蔵館)

 なお古代インドの宇宙論では、諸天の住む須弥山は、一辺が80,000由旬[ゆじゅん]、高さ160,000由旬(このうち半分の80,000由旬は水面下で残り半分は水面上)、周囲320,000由旬の正方形(四角柱)の山で、北面は黄金、東面は白銀、南面は瑠璃、西面は玻リの四宝でできていると考えられていました。
「由旬」とは梵語「ヨージャナ」の音写で、一由旬は「帝王一日の行軍の距離」、または「牛車の一日の旅程」とされています。実際の距離はといいますと、約11.2km、約14.4km、約21km、約28kmなど諸説ありますが、試みに1由旬15kmで計算しますと、須弥山の一辺は1,200,000kmとなります。ちなみに地球と月の平均距離は384,400kmですから、須弥山の一辺はこの3倍以上ということになります。
 この須弥山を中心にして七つの金山(内側から持双山、持軸山、檐木山[えんぼくざん]、善見山、馬耳山、象耳山、尼民達羅山[にみんだつらざん]の順)が同心方形状にとりまき、各方山の間には深さ80,000由旬の深さをもつ七つの内海があり、いずれも八功徳水をたたえています。そして尼民達羅山から外は塩水の海となり、人間の住む三角形の南贍部[せんぶ]洲(梵:ジャンブ・ドヴィーパ/閻浮提[えんぶだい]とも音写)は尼民達羅山の南に位置しています。また尼民達羅山の東には半月形の東勝身洲(プールヴァ・ヴィデーハ/弗婆提[ほつばだい])、西には円形の西牛貨[ごげ]洲(アパラ・ゴーダニーヤ/瞿陀尼[くだに])、北には正方形の北倶盧[くる]洲(ウッタラクル/鬱単越[うったんおつ])があり、以上全てを直径1,203,450由旬の円柱状になった鉄囲山[てっちせん]が囲い、またこれら全てを金輪・水輪・風輪が支えている、という構造が考えられていました。ちなみに「物事の極限」を表す「金輪際[こんりんざい]」という用語はこの古代インドの宇宙論に由来しています。

「天」の説明が長くなりましたが、これはあくまで古代インドの宇宙論であって仏教のオリジナルではありません。経家・論家たちは当時の宇宙論を利用して法を説かれたのです。法は本来「形」がありませんから、形あるものを拝借して法の内容を明らかにされたのです。ですから、もしも(「もしも」ということは本来論じないのですが)釈尊が古代日本で仏教を説かれたのであれば、日本の神話や世界観に乗じて教えを説かれたでしょう。もしも現代であれば、現代の宇宙論を利用して教えを説かれるでしょう。須弥山を中心とした宇宙論は現代の天文学とは相容れませんが、これは重要な問題ではありません。当時の宇宙論に乗せて説かれた「法の真実」が重要なのであり、そこから「仏の真実意」を今汲み取ることが肝心なのです。
諸々の学問は外界を明らかにし、仏教は自分自身と人生を明らかにする≠ニいいます。どちらも重要なのですが、仏教は諸学問の成果を形として受け入れ、それらを人生として活かし、主体的に自分自身と環境を創造するのです。

『仏説無量寿経』のこの箇所で重要なのは、「無量寿仏国の菩薩・声聞の容姿が優れている」という真意で、迷いの世界で持て[はや]されている内容とは質がちがう≠ニいうことです。
 人々が「素晴らしい容姿」と聞いて思い浮かぶのは、行いが折り目正しく、目鼻立ちが調和して美しく整い、多くの人々に[うやま][かしず]かれ、美しい衣服を着て、いつも豪華な食事が食べられる、といった特別な才能や氏素性・境遇に基づいた容姿でしょう。しかし釈尊の真意はそこにはありません。

螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏族によってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
『ダンマパダ』
 名利の執着をはなれ得ない地上の営みは、いかに麗しく飾られても、畢竟、ほろびゆく玩具にすぎない。
(九条武子)京人形
 女の心を象徴するものは黒髪である。胸のおもひの乱れたる朝の鏡には、千筋の髪のひとつ/\が、泣きぬれてゐるかのやうである。よろこびに迎へた嬉しき朝は、艶やかなふくらみをもつて、むすぼれさへも容易に梳づられてゆく。
   元結のしまらぬあさは日一日黒髪さへもそむくかとおもふ
 黒髪は如何にうつくしく飾られても、みづからの心のむすぼれてゐる日は、かぎりなき寂しさを感ぜずにはをられない。私たちは、つねにいつはりのない内面をもつて、爽やかに外面の美を荘厳したい。
(九条武子)黒髪のむすぼれ
若い者は美しい。しかし老いた者は若い者よりもっと美しい。
(ホイットマン)
この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ。
『大パリニッバーナ経』

 本当に優れた容姿は、特別な才能や氏素性・境遇に限定されたものではなく、全ての衆生に回施されうるものにあるのです。私の思い込みを超えたいのちのはたらきが、根源より創造的に顕現[けんげん]されることが本当に優れた容姿なのです。
 経典の意を汲めば――浄土の真心が念仏の功徳となって人々に回施され、そのお陰で人々は生き甲斐をもって生きることが適う。特別な才能がなくても、特別な氏素性や境遇を経ていなくても、泥田に蓮華が咲くように、私が今在る苦悩の現場において信心歓喜の美しい華が咲くのです。念仏生活そのものが最上の容姿ではないか≠ニ信心の徳を褒め、最後に第六天王といえどもこの信心歓喜の生活に勝る内容のものではない≠ニ、人間が本当に真心で生きていくことの容姿を称えみえるのでしょう。

 そうすると、何がいいたいのかというと、これは本当のべっぴんさんは、これはそういう血筋とか、境遇からできたというべっぴんさんもおるんだが、またほかに人柄のべっぴんさん。人柄。しかも、教養という、そういう学問をすれば学問をしたようなべっぴんさんになるの、充実してくるから。
 ところが今度、同じ教養というても、まごころ。本当のお浄土の徳が出てきたべっぴんさんはもっと違ったべっぴんさん。まごころから。まごころというても、ただまごころじゃない、お浄土の徳はまごころと智慧と、賢いんだから。だから、顔そのものが一目見て、なんと賢い人だなあといいましょうが。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 経典では、「帝王」より「転輪聖王」、「転輪聖王」より「帝釈天」、「帝釈天」より「他化自在天」、「他化自在天」より「無量寿仏国の菩薩・声聞」≠ニ次々比較し、前者より後者の容姿の方が格段に勝れている≠ニ勧めるのですが、本当は比較するものではないのです。しかし衆生はつねに物事を比較して判断しますので、衆生の癖に合わせてこうした説き方をされたのでしょう。そして「百千万億不可計倍」と想像を絶する数値を出して、比較を超えた信心の内容を容姿として褒め称えてみえるのです。

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