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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』9

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 法蔵修行

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【九】 仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。自然の音楽、空中に讃めていはく、〈決定してかならず無上正覚を成るべし〉と。ここに法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、誠諦にして虚しからず。世間に超出して深く寂滅を楽ふ。阿難、ときにかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし。不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して作なく起なく、法は化のごとしと観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。あるいは長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、あるいは六欲天主、乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる。かくのごときの功徳、称説すべからず。口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし。身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず。容色端正にして相好殊妙なり。その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香・G蓋・幢幡、荘厳の具を出す。かくのごときらの事もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき」と。

 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上
【九】 釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、<必ずこの上ないさとりを開くであろう>とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。
 阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。
 空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。
 その間、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり、はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った。それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり、お姿は気高く、表情はうるわしい。またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した。これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである」


 法蔵菩薩の華々しい旅立ち

 法蔵菩薩は四十八願と重誓偈を起こした後、いよいよ永劫の修行に入りますが、その前に、誓願に呼応して天地が感動に震え、賞賛の声が鳴り響きます。

註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。自然の音楽、空中に讃めていはく、〈決定してかならず無上正覚を成るべし〉と。ここに法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、誠諦にして虚しからず。世間に超出して深く寂滅を楽ふ。

現代語版
釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、<必ずこの上ないさとりを開くであろう>とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。

 ここは先の重誓偈の最後「斯願若剋果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙華」(この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。 虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨らすべし)という誓願が成就した姿です。

 この麗しき感動は一見、法蔵菩薩ひとりに恵まれたもののように思われますが、法蔵菩薩は一切衆生の胸(本心・精神)に宿って修行され、やがて修行を成就し、功徳は衆生の身心に入り満ちて下さる(つまり、そうした人類の歴史を浄め貫く精神や、真実の精神が報いた身に「法蔵菩薩」・「阿弥陀仏」と名がついた)わけですから、本来これは全ての衆生に開かれた感動なのです。ですから誰でも仏縁に遇い、きっかけが整えば、法蔵菩薩の感動は全て私たちの経験ともなっていきます。つまり私の足元の大地は打ち震え、日常生活に華が咲き、<この人生は必ず成就する>という確信に満ちた歌声が「全ての私」に聞こえてくるのです。

 こうしたことは、たとえば私自身も子どもの頃から同様の感動に包まれた経験が何度もあることから知ることができます。やがて死ぬのに何故生きるのか?≠ネどと生死の問題で深い悩みを抱えていた頃、突然、悩んでいても仕方がない。とにかく今のこの一生を懸命に生き切ろう。どこまでも自分の可能性を開き、名は残せなくとも、わが生涯を歴史に刻んでいこう≠ニ私の腹が定まったことがありました。そしてその成就を誓うと、海が私を励まし、山が私に迫り、大丈夫だからこのまま努力を続けなさい。必ず適うから、いつまでも見守り続けているよ≠ニ語りかけて下さった。そうした経験が私にはありますが、おそらく、本気で大きな誓いを立てた人たちには、同様の経験があるのではないでしょうか。

 ただし、もしこの経験によって、海を依りどころとし、山を拝んでいれば自然宗教になってしまいます。幸いなことに私は、これは海や山が語っているのではなく、私に託された人類の血が叫んでいるのだ≠ニ直感しました。後にこの経験は、島田幸昭師の
「大身を現して虚空に満ち 小身を現わして性根と成る」(参照:{『千の風になって』という宗教体験}
というお言葉を読む機会に恵まれて経緯を知ることができたのですが、自分自身がどういう願いを持つかによって全く異なった世界に住むことになる、ということをこの時身をもって知りました。
 つまり今現在自分を取りまく状況は、自分自身の願いに応じて動いているのです。大地が感動し歴史的功徳の華の上を歩むのか、虚しく寂しい世界に閉じて生活するのかは、ひとえに自身の願いが決定するのです。したがって、現在の状況に問題があるとすれば、私の持っている願いに根本的な問題がある、と言えましょう。私的な願いに固執するのではなく、清浄・荘厳の歴史を創造し続けている「真実の願い」が「私の願い」となることが肝心なのです。

 先の子どもの頃の感動はまだ幼いものでしたが、後に仏願の生起本末を聞き開いて得た感動は、この身は罪悪深重なれど、正定聚・不退転の華が回向され、日々の生活に彩りが具わった感動です。これは、物心がゆたかになる感動ではなく、貧しいながらもあらゆる物心が意味を持ち、輝き、活かされることを意味します。すると恨みや憎しみなどの貧しい心さえ捨てられず、活かされ、人生成就の華と化すのです。
「大千まさに感動すべし」と誓願をかけ、「大願を具足し修満」してゆく法蔵菩薩の修行は、こうした世界中の華が降り注ぎ、世界中一切の声援を受けて始まった華々しい修行なのです。

 理想と現実の真ん中で修行

註釈版
阿難、ときにかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし。

現代語版
 阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。

<かの比丘、その仏の所:そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり>とありますが、世自在王仏は法蔵菩薩によって発見された理想の人間像であり、法蔵菩薩は現実を背負った求道精神です(つまり理想と現実が照らしあって仏性の歴史が展開する)から、菩薩が誓願を発した時に身近にみえるのは当然でしょう。
 では、<諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す:さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである>とはどういうことでしょう。
 総じて言えば「諸天・魔・梵・竜神八部・大衆」は、我執・無明に迷う衆生・大衆のありさまを言います。法蔵菩薩はそうした大衆の中心で世自在王仏に見守られながら誓願を起こしているのです。
 たとえば「諸天」とは迷いの六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を代表した天であり、「魔」とは悪魔であり、「梵」とは梵天であり、「竜神」とはたたりの神であり、「八部」とは仏法を守護する八種の鬼神ですが、元来は迷うた存在です。日々我執と無明に穢された浅ましい日々を送っている大衆の真ん中で、法蔵菩薩は誓願を建てられたのです。
(参照:
{往生論註を味わう13 #比較できるものからできないものへ }

 次に、<この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す>とありますが、「妙土」・「仏国」はどこにあるのでしょう。
 これは次の章で明らかになることですが、無量寿仏の国は特定の場所にあるのではありません。<もろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す>とありますように、「行業の地:仏の行い(本願浄業)を原因としてもたらされたところ」が阿弥陀仏の国土であり、その地に生まれる者も「功徳善力をもつて」住むのです。これは衆生から言えば「境地」でありますが、個人的な境地ではなく、一切衆生に本願力が恵まれ(本願力回向)成就した境地です。
 元来、衆生の国土は浅ましい穢土でありますが、この一切衆生の穢土が法蔵菩薩によって摂取され、清浄・荘厳のはたらきによって妙土に生まれ変わるのです。これが「仏願の生起本末」と言われる内容であり、このいわれ・経緯を「聞きて疑心あることなし」という信心が「功徳善力」の内容なのです。

<所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり>について、
「所修の仏国」とは、法蔵菩薩が「一向に専志して妙土を荘厳」した国土であり、「恢廓広大:その国土は限りなく広大」であるとは、仏の誓願は一切衆生を抱き取った誓願だから広大なのです。「超勝独妙:何ものも及ぶことなくすぐれ」とは、阿弥陀仏の誓願が諸仏に超え優れているため、その果報も超勝独妙なのです。
<建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし>
 これは仏国に生まれた衆生は決して流転せず不退転であることを言います。
 諸行は無常でありますから、万物は常に変化して少しの間もとどまりません。しかし変化し続ける≠ニいう法は常なるものです。また法蔵菩薩の願力と阿弥陀仏の仏力は衰えることも変わることもありませんから、浄土(安楽国)も同様に「常然にして、衰なく変なし」なのです。浄土は願土であり報土であります。そこで仏は、無常なる万物への執着をなくさしめ、常住の法を勧めるのです。勧められた法と浄土の徳により、私たちは菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になる≠ニいう道を得ることができるのです。

 永劫の修行は、歴史は今の構造の内的展開です。宇宙は現に自己完結していながら、無限に拡大しているのと同じく、内外一如の歴史的構造を説いているのです。

{大経全体について} より

私は聖徳太子の佛国品を読んで、これだと思った。聖徳太子の『維摩経義疏』であります。というのは、阿弥陀の浄土はどこにあるのかと言うと、あるものは衆生の世界だけ、この世だけですよ。あるものは我々の世界だけ。そうすると、仏には元、国がないのです。菩薩には元、国がないのです。そうすると、どこかを「私の国」と取らねばいけない。どこを取ったか、仏国を摂取する。どこを取ったかと言うと、「衆生のあるところ至らざるところなし」で、一切衆生がこれが私の国と抱き取ったのです。この世界が阿弥陀の国だから。
 そうすると、現在の阿弥陀の国は汚れ果てておるでしょう。五濁悪世、穢土だから。そこで、これを浄めるのです。浄めただけでいいかと言うと、なんぼ掃除をしただけではいけない。さらに今度、それを荘厳しないといけない。きれいにしないといけない。そういうこと。これはちょっと考えればすぐ解るのであります。

仏説無量寿経講話(島田幸昭)より

 修行の実際

註釈版
不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して作なく起なく、法は化のごとしと観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。

現代語版
 このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。
 空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。

<不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して>
 一切衆生を胸に抱き取って歩むのが本願の精神ですから、衆生の数においても、衆生の内容においても、菩薩は「はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積」む必要があります。この永劫にわたる歴史的功徳が私たち一人ひとりに宿り、満ち満ちて、私の人生の上で華と開くよう仕向ける。これこそが、法蔵菩薩が五劫の間考えて四十八願を見つけ、不可思議兆載永劫にわたって修行し、清浄荘厳成就の浄土を創造された、唯一の目的なのです。

<欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず>
 欲は欲望執着、瞋は瞋恚いかり、害は害を与えようとすることです。欲・瞋・害の順ですから、欲をおこすことで、様々なことに腹が立ち、結果として害を与える≠ニいう流れになっています。これはまさに私たちがたどる因縁果の悪い流れ、基本的な迷妄の順でしょう。まずこれを断ち切らねば成仏はとてもおぼつきません。
 ところでここに「覚」と「想」がありますが、「覚」は「分別起」でありはっきり意識されて起こる心=A「想」は「具生起」であり意識されにくいが深層に染みた心≠ナす。因果の順で言えば「想」が因で「覚」が果。また「想」の方が根深いので断つことが難しいのですが、「覚」を断つことによって長年の蓄積で「想」も断つことができる。卑近な例で言えば、酒や煙草を断つ際、本気で断とうと決意した「覚」の段階と、深層の癖まで断った「想」の段階があることでも解るでしょう。
 ただ、法蔵菩薩は人里離れた場所で一人修行するのではありません。そういう存在に名がついた菩薩ではないのです。先に<その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す>とありましたように、一切衆生のど真ん中で誓願は発せられています。ですから、修行も一切衆生のど真ん中、人類の歩みとともに修行されてみえるのです。

法蔵とは
どこに修行の場所があるか
みんな私の胸のうち
なむあみだぶつ

(栃平ふじ)

 では法蔵菩薩は私の胸のうち≠ナ、具体的にどのように修行なさってみえるのでしょう。
 これは至心・信楽・欲生の三心の展開を見てみれば解るでしょう。
 衆生は欲覚・瞋覚・害覚を生じ続け、欲想・瞋想・害想を起し続けています。衆生は劫初より今に至るまで一瞬たりとも清浄の心なく、煩悩に汚染され、偽りばかりで真実の心がありません。この衆生の迷い続けているありさまを内側から嘆くことによって仏性は目覚め、仏性は現実の歴史を歩む中でみずから法蔵菩薩と名のり出、衆生済度の誓願を起こし、仏の一心を三心に割って衆生に具体的にふり向け恵むのです。
 親鸞聖人はこのことを『顕浄土真実教行証文類』(信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈)において以下のように述べてみえます。

注釈版
 また問ふ。字訓のごとき、論主(天親)の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。

 答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

現代語版
 また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるためには本願の三心を一心と示した天親菩薩のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことはどう考えたらよいのであろうか。

 答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
 この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである。

 そして、<利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり>、<真実の信楽をもつて欲生の体とするなり>と、衆生の信を脱皮せしむるため一心のはたらきが三心となって<欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず>ということが具体的に成就してゆくのです。
 つまり法蔵菩薩は決して衆生を責めず、衆生と共に迷いから立ち上がる姿を見せ、誓願を起こして成就の修行を続けることで、衆生に目覚めをふり向け、修行の成果である無上の功徳を回施されるのです。これは、生命一切を清浄・荘厳せしむる仏性の全歴史が、一一の衆生にその成果の全てを与えてみえることを意味しています。私たちは、全ての先祖に宿った法蔵菩薩の浄らかな業全てをふり向けられているのですが、仏教に遇わなければ気づかず、その本質の扉が開かれることは[まれ]であります。これが称名念仏によって、仏の一心が三心に開かれて願いが回向され、私の人生の上で成就してくるのです。
 ただしこれは、ある日ある時この願いが成就しました≠ニ完成を誇り役割を終えるものではありません。仏は常に菩薩の願いを胸にはたらき続けてみえるのです。その願いが一時一刹那も弛まない。先に<建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし>とあるのは、そうした願いの大地、願土の性質やはたらきが常であることを「衰なく変なし」と表しているのです。
(参照:
{至心信楽の願}

 そうすると、仏さまに「欲覚・害覚起さず」と言うが、一体どういうわけだろうか。私になった、私と一緒に私になった仏です。法蔵菩薩でしょう。そうすると実は、「欲覚・害覚起さずに」私を起こすこと。私を起こす。衆生を起こすんだが、仏は起こさん。「おいおい、おいおい、またこういう根性おこっとるよ」と、そういう衆生になり切って。
 もっと言うなら、衆生が迷えば仏も迷うの。一瞬、迷うんだけれども、迷うても迷うても巻き込まれんのです。

仏説無量寿経講話(島田幸昭)より

<色・声・香・味・触・法に着せず>
 欲・瞋・害についての説明が長くなりましたが、「色・声・香・味・触・法に着せず」以下の修行も同じような道程によって衆生に回施されるのです。したがって「色・声・香・味・触・法に着せず」や「無上正真の道に住せしむ」といっても、法蔵菩薩ひとりの修行ではなく、また衆生の煩悩を責めて刻苦する修行でもなく、衆生と共に自らと法を見つめ続けて歩む楽しき同行≠ネのです。「色・声・香・味・触・法」とは眼耳鼻舌身意のもたらしたもので、これに「着せず」、つまり執着しないということです。

<忍力成就して衆苦を計らず>
「忍力」とは耐え忍んでゆくことです。この忍力を成就して「衆苦を計らず」ですから、苦しみが苦にならない。『讃仏偈』の最後に<たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ>とありますが、これが成就されてくるのです。私たちは通常、耐え忍んで努力することは嫌いなはずなのですが、すべきことが見つかり本気になれば、他人からみたら辛苦しているようでも、本人は辛苦とは思わない。努力が楽しいのです。嫌々やるから辛苦が辛苦のまま溜まってしまうのです。

<少欲知足にして染・恚・痴なし>
 よく「足るを知らざれば餓鬼、足らざるを知らざれば畜生」と申します。「少欲知足」は前者の餓鬼性・我執を転じた徳です。「唯吾足知:ただわれ足るを知る」という言葉もよく知られた徳です。求めるがゆえに苦悩が生じる、そこで、ただわれ足るを知る。もちろん少欲知足で留まらず、次には、求めるべきを求めなければなりませんが、まずは欲望の奴隷状態から脱することが基本です。
 [ゼン]とは[むさぼ]りで、とらわれのある不純なけがれた心、執着・我執を言います。[]とは「瞋恚[シンニ]」で、怒り腹立ち、うらみ憎しみの心を言います。[]は本来「癡」で、ものの道理がわからぬ愚かな心、問題意識のない暗さ、無知・無明を言います。「染・恚・痴」は「貪瞋癡[トンジンチ]」のことであり、これは「三惑」「三毒」「三煩悩」と呼ばれ、一切の煩悩の中でも根本的な迷いを言いますが、この貪瞋癡の煩悩を生み出す根源は我執と無明にあります。

<三昧常寂にして智慧無礙なり>
 三昧[ザンマイ]とは、心を一つに定めて動かさないことで「定」と漢訳されたり、正しく受容するので「受」「正受」、平等心を保つので「等持」とも訳されます。常寂[ジョウジャク]は、三昧によって常に心静かに統一されていることを言います。心が散漫では何事も為せません。暴力的な気持ちを調え、捻じ曲がった心を直し、静かな集中心をもって物事を為せば、智慧は妨げなく発揮できますので「智慧無礙[ムゲ]なり」となります。

<虚偽・諂曲の心あることなし>
 虚偽[コギ]とは、うそ偽り、諂曲[テンゴク]とは、[]びへつらうことです。場を収めたり利益を得るため、自分の心を偽り相手にこびを売り、時には嘘をつくこともあるでしょう。これを毎日やっていますと、言動に誠意が無くなるのです。多くの人はこうしたことも世渡りのためには止むを得ない≠ニ誤魔化している有様です。ところが素晴らしいことに、一生のうち、本当に真っ正直な人間に遇う機会が必ず訪れる。誠意の塊のような人が世の中にはいるものです。すると、とてもそういう人にはかなわない。自分は何と無駄に人生を歩んできたのだろうか、と心が[ひるがえ]るのです。

 ここまでは○○しない≠ニ煩悩を断つ「清浄」の方向でしたが、以後は積極的に何かをする「荘厳」の方向で法蔵菩薩の修行が進みます。

<和顔愛語にして、意を先にして承問す>
 和顔愛語[ワゲンアイゴ]は文字通り和やかな顔と愛情のこもった優しい言葉≠ナす。これも表面を繕った顔や言葉ではなく、本当に愛情のこもった、虚偽・諂曲の心のない和顔愛語です。ちなみに、愛情といっても、それが菩提心に随順する内容で語られる場合は、梵語で「プレーマ」と言い、欲望や執着・貪り・煩悩などに向いたときは、梵語で「トゥリシュナー」といいます。勿論この和顔愛語の場合は「プレーマ」の内容を持った愛情です。
(参照:{真宗では「愛」をどうみるか}
[こころ]を先にして承問[ジョウモン]す」は、<相手の意思を先んじて知り、よく受け入れて教え導くこと>です。日本語に「先繰[さきぐ]機転[キテン]」という言葉がありますがこれに近い意味になります。ただし近いといっても同じではありません。先意承問[センイジョウモン]は、単に先に先に頭が働くのではなく、真心から身心が動く。自らの計算で計らうのではなく、相手の身になって、<相手の心を汲み取ってよく受け入れ>てはたらく菩薩行を言います。
 宗教者の中には、これ見よがしに功績を誇り、自慢し、自説を相手に押し付ける人がいますが、これは最も避けねばならない法執でしょう。こうした法執があるから宗教が民衆から離れ、本来の力を発揮できず、時として人を傷つけることになるのです。
 かつて徳永サノさんが「本当の優しさとは、人に気づかれずにやること」(『佐賀のがばいばあちゃん』より)と仰いましたが、全くその通りで、自分の手柄が残るようでは相手を恐縮させてしまいます。「先意承問」は宗教活動のかなめと言っても過言ではないでしょう。

<勇猛精進にして志願倦むことなし>
 勇猛[ユウミョウ]とは文字通り勇ましく強いことで、精進[ショウジン]は努力を継続して行うことです。先の四十八願に顕された内容を何とかして成就したい、成就せずにはおれない≠ニ、法蔵菩薩の志願は[]むことがありません。倦むとは、あきて疲れる、嫌になる、退屈する等の意味ですから、成就に向かって一瞬たりとも滞ることなく法蔵菩薩は修行してみえる。衆生とともに歩みを留めることはないのです。

<もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す>
 清白[ショウビャク]の法とは<清浄潔白な無漏(煩悩のない状態)の善法>で、こうした素晴らしい法を求め保って菩薩は修行し、その功徳によって群生[グンジョウ]恵利[エリ]する。衆生に成果をふり向け、利益を恵んでゆくのです。

<三宝を恭敬し、師長に奉事す>
「三宝」とは仏法僧。これを恭敬[クギョウ]する、つまり[うやうや]しく丁寧に、身心を引き締めて[うやま]う。そして、師長[シチョウ](先生や年長者)に身心を捧げてよく仕えてゆく。
(参照:{仏陀自身への帰依は否定しながら、三宝に帰依する訳}

<大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ>
 法蔵菩薩は大変困難な修行を一時の怠りもなく修して浄土を創造してみえのですが、その根源的理由は他でもない、修行の成果・功徳を一切衆生の人生の上に「成就せしむ」ためであり、私たち一人ひとりの人生の本質に施しを与えるためであります。そして実際、一瞬の停滞もなく、刻々と、誓願を胸に抱いた修行の成果が私たちに施されているのであり、このことは現実に私の人生の上で証明されてくるのです。
 ですから、本願を信じて念仏すれば、「功徳を成就せしむ」との法蔵菩薩の精神が我が背を貫いていることがわかるでしょう。この背にある本質が身に満ちて現れ出てくること、これが真実信心の要めなのです。

<空・無相・無願の法に住して作なく起なく>
「空・無相・無願」は三解脱門とも三三昧[サンザンマイ]などとも言います。「空」は、一切の存在や事象は因縁によって生じたもので固定的実体はない、つまり空であると観察すること。「無相」は、一切は空であるから差別の相はないと観察すること。「無願」は、差別の相はないのだから願い求めるものは何もないと観察すること。こうした三三昧の人生観(法)を身に[]けて(住して)、どっしりと腰の据わった、落ち着いた精神で生活すれば、「作なく起なく」、つまり、浅はかな夢を追って右往左往することなく≠ニいうことでしょう。「作」とははたらきや作用、「起」とは現れ出ることです。
 ところで、ここで疑問を持たれた方もみえるでしょう、「無願の法に住して」というが、法蔵菩薩は四十八願を起こしているではないか≠ニ。
 実は、「無願の法」と言った場合の「願」は、歴史や人生の本質ではないことに執着した願いで、この願いは確かに捨てなくてはなりません。つまり我執や法執といった欲望・煩悩を捨てることを「無願」と言ったのです。しかし四十八願(本願)は、歴史や人生の本質が発揮されることを願うものです。欲望のような執着ではなく、絶対に捨てられない真心の願いが本願です。
 たとえば、私は人間として生まれたのだから本物の人間に成りたい≠ニか親になったのだから、今までの自堕落な生活は捨て、真っ当な親になりたい≠ニいうように、足元から照らされて起きた願い、これが本願です。こうした本物の願いが生まれてくれば、人道を踏み外してでも欲望を叶えたい≠ニか親の役割なんて捨てて遊び呆けたい≠ネどという執着・煩悩の願いはおのずと力を失います。
 またたとえば、尊い法を学ぶにあたり仏法を聞き開こう≠ニ願うのは本質的な願いでありますが、勉強の途中で怠け癖がでてきたり、要らん欲望が出てくる。これは執着的な願いです。真に道を求める者は、腹が減ろうが、雑音があろうが、惑わずに聞き開きます。本当の願いがあるから、邪念の願いは力を失うのです。
 法蔵菩薩も、本願を起こしたがゆえに無願となったのです。逆に、無願の法に住そう≠ニ励んでも本願は成就できません。
 ここで重要なのは、無願の法に住すために本願を起こしたのではない、ということです。本願を起こせば、無願の法に住することは副次的に成就します。本物が登場した、だから偽者が去った。大事なのは偽者が去ったことではなく、本物が現れたことです。
 ところが中には、空・無相・無願の法に住むことが本意だが、できない衆生のために本願が建てられた≠ニ云う人もいます。しかしこれは間違いです。あくまで本願成就が主なのであり、空・無相・無願は結果の一つに過ぎません。本願がなければ歴史社会が成就しないのです。特に、浄土の清浄・荘厳のうち、清浄は空・無相・無願でも成就しますが、荘厳は本願が建てられねば成就しません。

<法は化のごとしと観じて>
 この「法は化のごとしと観じて」も前と同じで、すべては仮のもの、幻のような人生だと見とおすのですが、これが目的ではありません。幻のような人生に気づく≠ニいうことは、幻ではない本物の人生に気づく≠ニいうことでもあります。尊い願いに貫かれている人生≠ノ気づくことにより、今までの浅はかな夢幻のような人生≠ェ見えてくる。大事なのは前者の、尊い願いに貫かれている人生に気づくことです。
 こうしたことは「無常・苦・無我・不浄」についても同じことが言えます。
(参照:{「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを「#常楽我浄の四顛倒」}

<粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す>
(自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた)
 言葉は社会生活・家庭生活の基本でしょう。言葉を丁寧に扱うか粗略に使うかで人生が決まると言っても過言ではありません。汚い言葉で人をののしると、相手は見た目以上に傷つきます。言った本人は平気な顔をして忘れてしまいますが、言われた相手には凄まじい怨念が湧きます。そのため、いつかその報いで相手から罵倒されたり復讐される。こうした繰り返しが娑婆のありさまでしょう。僧侶でも、本当のことだからという理由で相手の心情を無視して厳しい言葉を投げかける人がいますが、控えていただきたい。いまこの言葉を言って相手のためになるだろうか≠ニ問うてから発言すべきでしょう。
 『入菩提行論』に――

 もしも自分の心が愛着に傾き、あるいは憎悪に傾くのを知ったならば、その時は、行動に移るべきではなく、言葉を口にすべきでなく、森のように平静な態度をとるべきである。
 もしも心がそわそわとし、他人を嘲笑し、傲慢と執着を伴い、きわめて残忍となり、邪となり、狡猾となり、自慢に傾き、他人の欠点をあげつらい、軽蔑し、論争に陥ろうとするならば、その時は、森のように平静な態度をとるべきである。
とある通りです。
 そして自分と相手を利する言葉、「善語」を語る。それも先に<虚偽・諂曲の心あることなし>とありましたから、[]びへつらってお世辞を言うのではありません。
『アングッタラ・ニカーヤ』に――
 五つの要素を完備した言葉は、善い言葉であり、悪い言葉とならず、誤りなく、智者に非難されないものとなる。
 何が五つであるか。語るにふさわしい時に語られ、事実が語られ、柔和に語られ、ためになることが語られ、慈悲心によって語られる言葉である。
とあります通り、真心を込めて本当のことを語る、ということでしょう。「たくさんの言葉よりも ただ一言でよい 真に味のある言葉が聞きたい」という法語も頷けます。

<国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け>
 国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、ということですが、この経典の最初にも<国と財と位を棄てて山に入りて道を学す>とあります(参照:{2:巻上 序分 証信序 八相化儀}。同様の意味かとも思われますが、その後の展開が違います。
 結論から言いますと、「国と財と位を棄てて山に入りて道を学す」云々は、釈尊のご一生が表現されていて、この功徳が一切衆生に回施されている。「人間の一生に人類の歴史を繰り返す」中の一要素と言えるでしょう。比べて「国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け」には「山に入りて」がありません。ここが大きな違いで、法蔵菩薩は、国王としての立場はそのままなのですが、気位[きぐらい]慢心[マンシン]が捨て去られたのです。
 国王として権力を誇示し、財力や色欲を誇っていた法蔵が、世自在王仏に遇って、国王でありながら国王としての値打ちが無い自分に気づき、世自在王仏のような立派な王になりたい≠ニ願いを建てたことを「国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け」と顕すのでしょう。もっとはっきり言えば、これは「国」の成り立ちや性質が変ったことを言います。権力や財力の強制で成り立っていた国が、真心によって皆が集う国になった、つまり徳によって治まる国≠ノ変革されたことを表しているのです。
 法蔵菩薩は、仏国土を摂取し、その中の無量の妙土を清浄にし、荘厳したい≠ニの願いで貫かれていて、しかも菩薩の師は「世自在王仏」です。王としていかに自在に生きるべきか、という大問題を解決する中で「国を棄て王を捐て」たのです。ちなみにこれは、人類の国家観が変革された歴史そのものも示しています。

<みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ>
 すすんで六波羅蜜[ロクハラミツ]を修行し、他の人にもこれを修行させた、ということですが、「波羅蜜」は彼岸に至る=E願いを成就する≠ニいう意味で、「六波羅蜜」は大乗仏教の菩薩の実践すべき六つの徳目(六度万行)をあらわしています。具体的には、「布施:私財を惜しげなく与える(財施)、真理を語り教える(法施)、恐怖をとりのぞき安心をあたえる(無畏施)」、「持戒:自省し戒律を守る」、「忍辱:苦難や迫害を耐え忍ぶ」、「精進:徳目をたゆまず実践し続ける」、「禅定:精神を統一し、安定させる」、「智慧:命そのものを把握し、真実の智慧を得る」という六つをいいます。
 これは大乗仏教の実践というのみならず、社会において人間として生きる基本であることが解るでしょう。ですから、社会人として生きるためには、できてもできなくても、どうしても身に即けなければならない徳目なのです。
 しかし同時に、「私は六波羅蜜を完成しました」と言ったら嘘になる。自省すればするほど「今の私はとても六波羅蜜を完成できておりません」と懺悔が出ます。これが大事で、『大乗起信論』には、「本覚によるがゆえに不覚あり。不覚によるがゆえに始覚あり。始覚にきわまって本覚に同ずる。これを成就という」という道程を踏んで成就するのです。もちろん、完成を願いつつも完成は永遠の彼方。しかし願いの中に成就あり≠ナ、この願いのこもった法蔵菩薩の修行が「人を教へて行ぜしむ」と回向されて我が身に至ります。
(参照:{浄土真宗には善の勧めはない?}

<無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり>
 最初の「無央数劫に功を積み徳を累ぬるに」とは、以上のような法蔵菩薩の修行が、はかり知れない長い年月にも関わらず一瞬の休みなく続けられ、功徳が積み重ねられたことをいいます。これは単なる空想ではありません。私に回向された法蔵菩薩の功徳が、無限とも思えるほど長い歴史的困難を突破せずには得られない内容である、という今現在の驚きを言っているのです。
(注釈版と現代語版の区切りが違っていますが)「その生処に随ひて意の所欲にあり」は、「法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり」と現代語訳してあります。これは世自在王仏の徳が法蔵菩薩に反映されてきた証しでしょう。『讃仏偈』でも「願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく」云々と、理想仏である世自在王仏の智徳を褒めつつ、現実を背負って歩む法蔵菩薩自身もその功徳を得ようと願っています。私たちは生まれを自由に選ぶことはできません。しかし法蔵菩薩の願いは、どんな時代でもどこで生まれようとも、必ずその人の人生の上に成就の華を咲かせしめるものです。それが如来であり仏性であり本願であり、信心の内容なのです。

法蔵菩薩が修行して、皆それ私に廻向する。私に与えていくの。それ、仏の智慧をもらって日暮らしをせないけない。仏のこういう徳をもらって日暮らしをせないけない。そのことを親鸞聖人が、仏のなさったことを用いよとおっしゃるのです。<中略>そういうことで、六度万行して、それによっていよいよ今度私が無上正真の道を求める心を発こさせる。「そうだ、いたずらにあかしいたずらに暮らしておったが、私は何のためかというと、私が私になる道を生きていかないといけない」。立派な人間になることを、そういう立ち上がる心を与えてくるの。それを、信心決定した人、正定聚不退転の菩薩になるの。
 だから、ここまでが菩薩の私を立ち上がらせるまで。さあ、立ち上がったらこれから何をするのか。この問題が、また不可思議兆載永劫のご修行の第三段階に移ってくるわけであります。
<中略>
 このように、私らはそういう親鸞聖人の「三心釈」という。この三心釈によって、初めて私たちがこういう法蔵菩薩の不可思議兆載永劫のご修行が、現在ただいまの私と離れておらん、ご修行だということが解るわけであります。

仏説無量寿経講話(島田幸昭)より

 無尽蔵の宝を衆生に恵む

註釈版
無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。あるいは長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、あるいは六欲天主、乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる。かくのごときの功徳、称説すべからず。口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし。身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず。容色端正にして相好殊妙なり。その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香・ゾウ蓋・幢幡、荘厳の具を出す。かくのごときらの事もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき」と。

現代語版
はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った。それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり、お姿は気高く、表情はうるわしい。またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した。これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである」

<無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ>
(はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた)ということですが、前節で<無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり>とありますように、法蔵菩薩の精神は、世間で言う生まれのよしあし≠竍時代差≠超えて一人ひとりの人生に華を咲かせる願いであることを受けての言葉です。
「無量の宝蔵」とは法蔵菩薩の歴史的功徳の宝は無限であること。「自然に発応し」とは、法蔵菩薩の功徳はあらゆる生命にとって必然的なものであり本質でもありますから、その功徳は一人残らず必ず回施され発揮されることを言います。
「無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ」とは、どんな人間でも心の底では人間として真に輝く道≠求めていますので、本願の精神を示せば必ず同感し、安心し、自堕落な生活を転じて、必ず成就に向けて立ち上がることができる、ということを示しています。私たちは「無上正真の道」を知らないから立ち上がることができない。知れば必ず立ち上がる。なぜなら、本願は私たちの本音の中の本音であり、先祖代々にわたって貫かれた血の叫びであり、輝くべき生命の呼び声だからです。この教化によって、正定聚不退転の菩薩が次々と誕生することになります。

<あるいは長者・居士・豪姓[ゴウショウ]尊貴[ソンキ]となり、あるいは刹利国君[セツリクククン]転輪聖帝[テンリンジョウタイ]となり、あるいは六欲天主、乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる>
(あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った)
 前節で<その生処に随ひて意の所欲にあり>とあり、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであることが示されましたが、ここでは長者・居士・豪姓・尊貴・刹利国君・転輪聖帝・六欲天主・梵王と、世間的にいう実力者・有力者≠ホかりが登場します。これは、法蔵菩薩の本願は一切衆生の無明・煩悩に応じ清浄・荘厳のはたらきとして喚起されたのですが、いざ本願が生起し成就に向かうためには、必ず各界実力者の生涯においての修行が欠かせないことを言います。つまり、社会的な責任を負わない中での修行には限界があり、人間としての本懐を遂げるためにはどうしても重責を担う立場を経験する必要があることを示しているのです。このあたりが、部派仏教と大乗仏教の大きな違いと言えるでしょう。
「四事」とは飲食・衣服・臥具(寝具)・医薬の四つで、日常生活で使用・消費される全ての物。これをもって<一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる>。「恭」は自分がへりくだること。「供」は相手を尊敬すること≠ナすから、出遇う人ごと諸仏としてつつしみ敬い物心を奉げる、ということです。
 するとここには、私は教えを学んで解ったから周囲の人たちを教化してやる≠ニか私の修行の成果を皆に分け与えてやる≠ニいう慢心はありません。もちろん、結果として法蔵菩薩の功徳は回施されるのですが、常に法蔵菩薩の方から、御自らが身を[かが]めて功徳が回施されるのです。一部の僧侶は、こんな大事なことも忘れて俺が人々を導いてやる=A俺が教えてやる≠ニ、傲慢な態度で説教しているのではないでしょうか。全く獅子身中の虫とも言える恥ずべきありさまです。

<かくのごときの功徳、称説すべからず。口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし。身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず>
(それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり)
 ここでは法蔵菩薩の功徳を香りに[たと]えて表現しています。
「口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし」の口気[コウキ]は、しゃべり方、くちぶり、語気を指し、これが香り高く[いさぎよ]いことを言います。人柄はまず話しぶりから現れます。どんな立派な肩書きを持つ人でも、口ぶりや内容が下劣では皆から信用されません。法蔵菩薩は話しぶりが香潔で、それを優鉢羅華[ウハラケ]で譬えています。優鉢羅華は青蓮華[ショウレンゲ]という睡蓮[スイレン]の一種です。その葉は長く、かつ広く、青と白がはっきり分かれているため、偉大な人の眼の特徴に[たと]えられます。
「身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す」の毛孔[コウモウ]は、仏の三十二相に一一孔一毛生相[イチイチクイチモウソウ]とあるように、菩提心に無理がなく無碍であり、常に道の第一歩に立っていることを言います。ですから「身のもろもろの毛孔」とは人生の一歩一歩が新鮮であることを指し、しかも一歩一歩において香りの優れた栴檀香[センダンコウ]を出す。栴檀香は香木の一種で「栴檀は双葉より[かんば]し」という諺でもわかるように、幼少より優れた素質が現れてくることをいいます。法蔵菩薩は不可思議の兆載永劫にわたる修行の最初から、既に優れた性質を現していたことをいうのでしょう。
「その香は、あまねく無量の世界に熏ず」は、まさにその香り高い性質が、ありとあらゆる世界に漂い渡っていったことを表しています。
(参照:
{お浄土には青い蓮の花はあるのですか?}

<容色端正にして相好殊妙なり>
 お姿は気高く、表情はうるわしい、ということですが、菩薩といえども相好(声と姿)が整わねば仏とは成れません。智慧が智慧のみで留まっていては本物ではないのです。最後は身が問題。身を整えることが最後の最後までの課題となります。なぜなら、相好の功徳は衆生済度には必須だからです。どんなに法を理解していても、それを衆生に伝えるためには、まず自身が信用されなければなりません。「言葉は、それを発した人間の生き方によって、重くもなれば、軽くもなる」と言いますが、「生き方」の積み重ねが相好を整えるのです。軽薄な生き方をしている人は、声も姿も軽薄でしょう。嘘で固めた生き方をしている人は、理屈はどうあれ、最後は人から信用されません。
 真心で歩んだ一生には、真心のこもった相好が与えられます。「若い者は美しい。しかし老いた者は若い者よりもっと美しい」とホイットマンが言うように、法蔵菩薩は永い年月をかけて相好殊妙[ソウゴウシュミョウ]の功徳を積み重ねているのです。 (参照:{具足諸相の願}

<その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香・ゾウ蓋・幢幡、荘厳の具を出す>
(またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した)
 法蔵菩薩の手より「無尽の宝」が出現するというのですが、「無尽の宝」とは、どこか別の場所に宝が埋まっているという訳ではありません。いつも宝は足元にあり。真の友人は「ここ掘れワンワン」と教えてくれます。本願が衆生に至り、真実信心となり身に満ちることで、人生における経験一つひとつが宝に成ることを言います。真実信心は万物を宝に変える打ち出の小槌。人間には、一見価値のなさそうなものからも偉大な発明を生むような才能が隠れています。この才能が発揮されるのは、あらゆるものや事柄・経験を宝と見た法蔵菩薩の眼が私に至り届き、実際に無尽蔵に宝が生み出されてくる時です。
「衣服」は懺悔の象徴です(参照:{衣服随念の願})。
「飲食」は<『経』のなかに命を説きて食とす>とある通り、仏の命である菩提心を象徴しています(参照:{地獄・極楽の食事風景})。
「珍妙の華香」はすぐ前の<口気は香潔にして>云々で述べた通り、功徳が心地よく衆生に回施されることを象徴しています。
「ゾウ蓋」は仏殿にかける絹の天蓋[テンガイ]のことで、相手の真心と供養の善根が感応して、辺り一面に仏の功徳が咲き広がることを象徴しています。
幢幡[ドウバン]」は、<はたぼこ、長旗、仏堂を飾る旗、また幡竿から垂れた幡。色のついた布に字や模様をかいてたらしたはた。ひらひらとひるがえるのぼり>を言いますが、これも仏・菩薩の威徳をあらわす荘厳具です。幡(旗)は、国旗や五輪旗・社旗・校旗などのように、国や学校や理念などの象徴図であり、それらの存在を現わすものですから、法蔵菩薩が幢幡を出すということは、本願と本願によって建設する浄土を象徴する図も常に作られていることを言うのでしょう。具体的には、私たちは法蔵菩薩から回向された幢幡として、恒にそうした象徴となるものを創造し続けているのです。

<かくのごときらの事もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき>
(これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである)
「かくのごときらの事」とは、<無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ>(はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた)以降の事柄を言います。そうした素晴らしい功徳をあらゆる時・場面において「自在を得たり」ですから、障害なく行うことができたのです。
 これも既に『讃仏偈』において<願我作仏 斉聖法王:願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく>とありましたように、理想仏である世自在王仏の威徳を追いつつ現実を背負って歩む法蔵菩薩の修行が成就した結果なのです。仏性の歴史は、理想と現実が照らしあって展開してゆく道程であり功徳であります。
 私たちは、この本願の自在なる展開を受け、日々懺悔、恭敬供養、転法輪≠フ菩薩の法式に随って、真実信心を獲得し、人生を本当に成就させてゆく歩みを進めるのです。

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