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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』26

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈(序)

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 26

 仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称歎したまはざることなし。東方恒沙仏国の無量無数の諸菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養したてまつり、もろもろの菩薩・声聞の大衆に及ぼさん。経法を聴受し、道化を宣布す。南西北方・四維・上下〔の菩薩衆〕、またまたかくのごとし」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 26

 釈尊[しゃくそん]阿難[あなん]に仰せになった。
無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。そのため、ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩[ぼさつ]たちがみな無量寿仏のおそばへ往き、その仏を[うやま]って供養[くよう]するのであって、その供養は菩薩や声聞[しょうもん]などの聖者[しょうじゃ]たちにまで[およ]んでいる。そうして教えをお聞きして、人々にその教えを説きひろめるのである。南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である」


 全ての生命から尊敬される存在が無量寿仏

註釈版
 [ぶつ]阿難[あなん]に告げたまはく、「無量寿仏[むりょうじゅぶつ]威神[いじん][きわ]まりなし。十方世界[じっぽうせかい]無量無辺不可思議[むりょうむへんふかしぎ]諸仏如来[しょうぶつにょらい]、かれを称歎[しょうたん]したまはざることなし。
現代語版
 釈尊[しゃくそん]阿難[あなん]に仰せになった。
無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。
 
{十一・十七・十八願成就}に述べましたように、『仏説無量寿経』上巻は「阿弥陀仏のいわれ(始終・経緯)」を明かし、下巻は「南無のいわれ」として真実信心の内容を明かす巻であります。そして往覲偈は下巻全体の肝要[かんよう]が説かれていて、さらにこの序文は往覲偈のあらましを明かしますので、序文の内容が真実信心の原理原則となるわけです。

無量寿仏[むりょうじゅぶつ]威神[いじん][きわ]まりなし>
無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の大いなる徳はこの上なくすぐれており)

 これは上巻にあります「陀仏成仏のいわれ(始終・経緯)」・「仏願[ぶつがん]生起本末[しょうきほんまつ]」全体が素晴らしい内容であることを、まずは世尊が褒め称えています。

十方世界[じっぽうせかい]無量無辺不可思議[むりょうむへんふかしぎ]諸仏如来[しょうぶつにょらい]、かれを称歎[しょうたん]したまはざることなし>
(すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる)

{諸仏称名の願}には「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟[ししゃ]して、わが名を[しょう]せずは、正覚を取らじ」と願われ、建立した願いを不可思議兆載永劫[ふかしぎちょうさいようごう]の修行(参照:{法蔵修行 })によって成就した、その無量寿仏(阿弥陀仏)を、世尊のみならず十方世界[じっぽうせかい]無量無辺不可思議[むりょうむへんふかしぎ]諸仏如来[しょうぶつにょらい]の全てがみな称歎[しょうたん]している、とあります。時代が移り変わろうが、場所や国や民族が異なっても、全ての人々が聞かねばならぬ法が『仏説無量寿経』であり、全ての生命から尊敬される存在が無量寿仏です。

 ここで問題なのは、たとえば衆生往生[しゅじょうおうじょう]とあり、菩薩往詣[ぼさつおうげい]菩薩往覲[ぼさつおうごん])といい、そして諸仏称歎[しょうぶつしょうたん]とある中の「衆生」「菩薩」「諸仏」はそもそも誰なのか、どういう内容をいうのか、ということです。またこの三者はどういう関係なのか、ということも明らかにしなければなりません。これが解らなければ往覲偈の構造が理解できませんので、結局は真実信心も明らかになってこないのです。

そうすると、これは私は諸仏の国というのは、例えば、この世界はお釈迦さまの国であって、そのお釈迦さまの国の我々は衆生であると、こう受け取るのではなしに、実は諸仏の国ということは、これは眼の覚めた人。そういう眼の覚めた、さとった、心の眼が開けた、仏の智慧が開けた。だから、仏の国とは自覚の世界。眼の覚めた人とこういうことでありますから、別に仏さんがおって、仏の国というんではなしに眼が覚めたその世界。それを仏の国と言うんだと思います。
 だから、ここでもそうでありまして「十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来が、かれを称嘆せざるはなし」でありますから、十方無量の不可思議の諸仏が皆、阿弥陀仏を讃め称えない者はいないと言いましょう。ということは何かと言いますと、その仏はどこにおるのか。諸仏はどこにおるのかということであります。そうすると、今までの学者の書いたものを読めば、十方の諸仏とは薬師如来であるとか、大日如来であるとか、こういうものを十方の諸仏というんだと書いてある。ところが、お経を読んでみれば、そうではないのです。あなたがた一人一人に皆、仏が宿っておるのです。

 言うならば、いつも申しますが、お釈迦さまが「奇なるかな奇なるかな、我、心の眼が開けてみたら、私がさとってみたら山川草木ことごとく成仏し、一切衆生に皆、仏性があった」と、こう言いましょう。「一切衆生悉有仏性」と言います。これは大乗仏教が仏性と言ったのです。仏性はまだ仏の子だから、種だからこれから仏になっていくのです。
 ところが、浄土教になってきたら、全部、これから仏になるのだから、小乗仏教でも大乗仏教でも仏の中身が違うのです。同じ仏といっても、仏が違うのです。

『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 少し補足させていただきますと、「無量無辺不可思議[むりょうむへんふかしぎ]諸仏如来[しょうぶつにょらい]」とは、たとえば{華光出仏}の最後に「三十六百千億の仏」とある仏であり、また{#第十七願成就}に「十方恒沙[じっぽうごうじゃ]諸仏如来[しょぶつにょらい]」とある仏であります。
 浅原才市同行は「わしが阿弥陀になるじゃない 阿弥陀の方からわしになる」といっていますが、阿弥陀の方からわしになる%燉eこそが私に成りきっていただいた三十六百千億の諸仏如来≠ナあり、大乗仏教でいう一切衆生悉有仏性[いっさいしゅじょうしつうぶっしょう]の「仏性」をさらに肯定・展開した内容で「諸仏」と言うのです。この仏性・諸仏の歴史的内容を『仏説無量寿経』上巻では世自在王仏と法蔵菩薩の出遇いから本願成就までの浄土建設物語≠ニして説いているのです。
 つまり諸経では単に「仏性」といっていた内容を、『大経』上巻では人類の血や肉を通した精神史・宗教史としてとらえ、躍動感あふれる弥陀成仏の物語として明らかにしています。そして下巻では、この果徳が諸仏如来として一切衆生に宿って働くことを示しています。そしてこの働きの初動こそ、<十方世界[じっぽうせかい]無量無辺不可思議[むりょうむへんふかしぎ]諸仏如来[しょうぶつにょらい]、かれを称歎[しょうたん]したまはざることなし>、ひとり一人に宿った諸仏如来が根本・本仏である無量寿仏を褒め称えている≠ニいう内容なのです。この両者の関係を譬えれば、ひとり一人に宿った諸仏如来≠ェ「波」であるとするならば、無量寿仏≠ヘ「海」に当たります(参照:{釈尊と阿弥陀仏の関係2})。

 また「衆生」は、広義では群生海[ぐんじょうかい]≠竍生きとし生ける者∞生命ある全ての者≠言いますが、狭義では迷いの世界にある生類≠言います。たとえば「一切の群生海[ぐんじょうかい]無始[むし]よりこのかた乃至今日今時[ないしこんにちこんじ]に至るまで、穢悪汚染[えあくわぜん]にして清浄の心なし、虚仮諂偽[こけてんぎ]にして真実の心なし」と、重い宿業を背負って生きる者のことを言います。
 こうした衆生の悲惨なありさまを「悲惨である」と見抜く、この見抜いた「我ならぬ我」こそが「諸仏如来」であります。『仏説観無量寿経』16には「諸仏如来はこれ法界身[ほうかいしん]なり。一切衆生の心想[しんそう]のうちに[]りたまふ」とありますように、どの人の心の中にも入り満ちてくださっている存在です。そして諸仏如来は、「悲惨である」と見抜くだけではなく、「ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海[しゅじょうかい]悲憫[ひびん]して、不可思議兆載永劫[ふかしぎちょうさいようごう]において、菩薩の行を行じ」られたのです。
 このことは、単によく解らないが、経典に書いてあるのだからそうしたものだろう≠ニ頭で納得するのではありません。確かにそうだ。書いてある通りだ!≠ニ、心想の奥深くにおいて共感する。経典を読んだことで魂の叫びというべきものを、誰もが、今聞くことができるのです。

 無量寿仏は一切衆生の成道を願って修行されたのですが、それは単に全体を済度するという大雑把な修行ではありません。私という一人、あなたという一人、この人という一人、あの人という一人、こうしたひとり一人の胸のうちにおいての修行です。そのためにこのことを、「無量無辺不可思議[むりょうむへんふかしぎ]諸仏如来[しょうぶつにょらい]」とか、「三十六百千億の仏」・「十方恒沙[じっぽうごうじゃ]諸仏如来[しょぶつにょらい]」と表現されているのです。そしてこれらの諸仏如来が無量寿仏を褒め称えている(諸仏称歎[しょうぶつしょうたん])のです。次節では、この諸仏称歎に随って衆生が無量寿仏の[みもと][もう]でて面会を求めるのですが、ここまで来れば衆生は既に衆生ではありません、「菩薩[ぼさつ]」となるのです。

 ですから衆生と菩薩はただ一人の人間の表と裏、身口意の業は浅ましい凡夫であり衆生ですが、裏は諸仏称歎[しょうぶつしょうたん]に随う菩薩であります。さらに諸仏称歎は本願力の[もよお]しの一つですから、菩薩の奥深くには法蔵菩薩の精神が躍動している、ということも言えるのです。驚くべきことに、実はこれは一切衆生の身の上において成就している果徳なのです。つまり『大経』上巻の内容は、仏教徒にも他宗教者にも無宗教者にも回向され、みなその身心の奥深くに宿している内容なのです。
 しかし真実の教法を聞く機会がないと、「一切[いっさい][]九十五種[くじゅうごしゅ][なら]ひて、みな悪道に[おもむ]く」で、邪教や世間の習俗・慣例・悪法などの影響によって、せっかくの法蔵精神が躍動せず、抑え付けられたり捻じ曲がって理解され、人生を虚しく過ごしたり過った道を辿[たど]ることになってしまいがちです。
 ですから聞法の縁を深くすることが何より肝心で、真実の法を聞くことにより信心決定[しんじんけつじょう]し、諸仏称歎[しょうぶつしょうたん]に随って迷いなく無量寿仏の[みもと][もう]でることが適うのです。これは我が身に本来的に回施されていた功徳が自然に活動することを言います。つまり、宿されていた功徳が、聞法により身に満ち、行動として発揮され、新たな歴史創造となってはたらくことを言います。そしてこのような菩薩を正定聚[しょうじょうじゅ]不退転[ふたいてん]の菩薩というのです。

 自分の真心を供え仏の真心を聞き開く

註釈版
東方恒沙仏国[とうぼうごうじゃぶっこく]無量無数[むりょうむしゅ]諸菩薩衆[しょぼさつしゅ]、みなことごとく無量寿仏の[みもと]往詣[おうげい]して、恭敬[くぎょう]供養[くよう]したてまつり、もろもろの菩薩・声聞[しょうもん]大衆[だいしゅ][およ]ぼさん。
現代語版
そのため、ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩[ぼさつ]たちがみな無量寿仏のおそばへ往き、その仏を[うやま]って供養[くよう]するのであって、その供養は菩薩や声聞[しょうもん]などの聖者[しょうじゃ]たちにまで[およ]んでいる。

東方恒沙仏国[とうぼうごうじゃぶっこく]無量無数[むりょうむしゅ]諸菩薩衆[しょぼさつしゅ]、みなことごとく無量寿仏の[みもと]往詣[おうげい]して>
(ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩[ぼさつ]たちがみな無量寿仏のおそばへ往き)

東方恒沙仏国[とうぼうごうじゃぶっこく]」とありますが、次節では南方から下方まで十方が紹介されます。以前、
上輩中輩下輩の三輩で信心の功徳は必ず具体的な相として発揮される≠アとを紹介し本願力はいかなる機にも報いる≠アとを証明しましたが、ここではまず東方を例に出し、その数において本願力は必ず無量無数の人々に報いる≠アとを証明するのです。なお「恒沙」は「恒河沙[ごうがしゃ]」ともいい、「恒河」が「ガンジス川」、「沙」は「砂」ですから、「ガンジス河の砂の数ほどもある」と訳してありますが、これ程多くの「仏国」とは何かということが問題になってきます。

 実は、生きとし生ける者はみな自らの国を持っている(参照:{無三悪趣の願})のですが、衆生の国土はそのままでは我執・無明・社会悪の三途[さんず][けが]れた荒野(穢土[えど])です。しかし荒野は同時に耕地ともなります。衆生の国土は仏の教化対象であり仏性の働き場なのです。これは『維摩経義疏』に詳説されているのですが、仏はもともと自分の国を持っていません。ではどこに仏の国を造るのかといいますと、衆生の荒れ果てた国土である穢土を耕し、清浄なる各種の荘厳[しょうごん]によって[うるわ]しい仏の国である浄土を造るのです。

 如来にはもともと自分の国土というものはないのである。ただ教化されることになる衆生の類をとりあげて、かれらのことを仏国土と呼んでいるのである。だから仏国土は浄と穢とを通じてあるのである。如来はいかなる者どもに対しても同じように教化を行なうのである。ゆえに浄と穢とに通じてすべて衆生のことを仏国土としているのである。
意訳『維摩経義疏』仏の国土

 このように、仏の教化対象としての「衆生の国土」を「仏国土」と呼びますから、仏国と言っても、浄と穢に通じて存在しているのです。ですから仏国は、仏性によって開拓した浄土面と未開拓の穢土面が矛盾的に混在しているのですから「煩悩即菩提[ぼんのうそくぼだい]」であるのと同様「穢土即浄土[えどそくじょうど]」ということも言えるのです。
 つまり仏にとって衆生の国土は「仏の教化対象」という面もあるのですが、むしろ「仏の修行場」としての面が重要となるのです。ですから、衆生こそ法蔵精神の正統な継承者であり、衆生国土こそ阿弥陀浄土の最前衛出張所であることを裏づけています。この阿弥陀浄土の最前衛出張所から根本の阿弥陀浄土に詣でることを衆生往生[しゅじょうおうじょう]とも菩薩往詣[ぼさつおうげい]菩薩往覲[ぼさつおうごん]とも言うのです。

恭敬[くぎょう]供養[くよう]したてまつり>
(その仏を[うやま]って供養[くよう]するのであって)

 では無量寿仏の国土に[もう]でるのは何をするためなのか、と言いますと、まずは恭敬供養[くぎょうくよう]≠ニあります。「恭敬」は敬虔[けいけん]な態度で相手を敬うこと≠ナあり、「供養」の本質は自分の真心を供える≠ニいうこと。これによって相手の真心の声を聞き、人生観を学び、尊敬し、物心にわたって相手の活動を援助させていただくことが適います。恭敬供養がいかに大切な善本であるか今さら言うまでもありませんが、たとえばこの『大経』の後の方では――

このもろもろの衆生も、またまたかくのごとし。仏智[ぶっち]疑惑[ぎわく]せしをもつてのゆゑに、かの〔胎生[たいしょう]の〕宮殿[くでん]に生じて、刑罰乃至一念[ぎょうばつないしいちねん]の悪事もあることなし。ただ五百歳のうちにおいて三宝を見たてまつらず、〔諸仏を〕供養してもろもろの善本[ぜんぽん][しゅ]することを得ず。これをもつて苦とす。余の楽ありといへども、なほかの[ところ][ねが]はず。
『仏説無量寿経』45 巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失
胎生[たいしょう]のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿の中に生れたのであって、何のとがめもなく、少しもいやな思いをしないのであるが、ただ五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない。このことがまさに苦なのであり、他の楽しみはすべてあるけれども、その宮殿にいたいとは思わないのである)
とあります。

 胎生[たいしょう]は、本願力回向の功徳を領解できず、自分勝手で[よこしま]な信心に依って「辺地の七宝の宮殿」に生まれてしまったことを言います。すると、「衆生往生[しゅじょうおうじょう]」で止まってしまい、「菩薩往詣[ぼさつおうげい]」や「菩薩往覲[ぼさつおうごん]」には至らないのです。これでは安楽国に往生する甲斐[かい]がありません。もちろん胎生であっても、いずれは化生[けしょう]同様、蓮華が開いて不退転の菩薩となり、「往詣」「往覲」が適うのですが、「いずれ」の時間差が余りにも大きいことには問題があります。この問題解決の要めが恭敬供養[くぎょうくよう]≠ネのです。
(参照:{三輩往生・中輩「#蓮華が開く時間」}{荘厳雨功徳成就}

<もろもろの菩薩・声聞[しょうもん]大衆[だいしゅ][およ]ぼさん>
(その供養は菩薩や声聞[しょうもん]などの聖者[しょうじゃ]たちにまで[およ]んでいる)

 無量寿仏を訪ねて恭敬供養[くぎょうくよう]させていただく、これは結局、安楽国の荘厳を[]めることでもあるのですが、この浄土は無量寿仏ひとりで創造されたのではありません。無量寿仏の寿命である無上菩提心は、彼の仏国に往生しようと願う人民に回向(往相回向・還相回向)され、限りなく展開し、実にはかり知れないほど長く保たれるのですが、こうしたもろもろの菩薩・声聞などの大衆を通してのみ無量寿仏は活動することができるのです。衆生を離れて仏は存在しませんし、大衆が動かなければ法輪を転ずることはできません。仏は大衆の胸のうちで修行をし、大衆の身の上において活動し、人間関係や社会環境において功徳を発揮するのです。
 もちろんこの社会は安楽国そのものではありません。衆生の妄想顛倒[もうぞうてんどう]により、あたかも罪業が固定的実体として存在しているように思い込まされ、迷妄が止むことがないのです。

罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき
『正像末和讃』107

 しかし、これはある意味衆生の心性は本来は清いので、妄想顛倒さえ止めばこの世はまことの人ばかりである≠ニいうことでもあります。そしてこれこそが浄土の内容なのであり、社会はこの浄土の確固たる裏づけがあってはじめてその存在に意味が生じるのです。
 ですから、安楽国に往詣させていただいた菩薩は、無量寿仏を恭敬供養させていただくと同時に、大衆を御同朋[おんどうぼう]御同行[おんどうぎょう]≠ニ手を合わせて敬い供養することが適うのです(参照:{「人民〔の寿命〕も、無量無辺」の疑問})。
 これは極めて大切なことで、下手をすると、無量寿仏に頭を下げた後俺は済度されたが大衆は不信心者だから済度されていない≠ニ見下げ、仏の代官のように振る舞い、自分の信心を押し付けるようになってしまうのですが、これほど傲慢なことはありません。無量寿仏とともに大衆にも頭を下げ、敬い供養させていただくことが、本願力回向の信心の催しなのです。

 全ての衆生が詣でるべき浄土

註釈版
経法[きょうぼう]聴受[ちょうじゅ]し、道化[どうけ]宣布[せんぷ]す。南西北方[なんざいほっぽう]四維[しゆい]・上下〔の菩薩衆〕、またまたかくのごとし」と。
現代語版
そうして教えをお聞きして、人々にその教えを説きひろめるのである。南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である」

経法[きょうぼう]聴受[ちょうじゅ]し>
(教えをお聞きして)

 浄土に[もう]でて何をするのかと言えば、先にありましたように、まず恭敬供養[くぎょうくよう]させていただくこと。敬虔[けいけん]な態度で相手を敬い、自分の真心を供え、相手の真心の声を聞き、人生観を学び、尊敬し、物心にわたって相手の活動を援助させていただくことを言います。実はこの供養の内容が「経法[きょうぼう]聴受[ちょうじゅ]する」ということになるのです。つまり、経典や論釈などを学んだり、お説教を聴聞するということも恭敬供養でありますが、そうした特別の人の教えを学ぶだけではなく、出遇う人ごと人ごとから、その人でなければ成立しない人生観、経験しなければ解らない尊い世界観を聞かせていただくのです。また、言葉を通した学びだけではなく、子は親の背中を見て育つ≠ニいうごとく、相手の生き様から学ぶことも大いなる供養であり聴受ということでしょう。
 さらには、これが浄土における一番大事な学びなのですが、浄土の素晴らしい環境の影響を受けて、自ずと尊い経法が身についてくる≠ニいうことがあるです。浄土に込められた真心の功徳≠「土徳」と言いますが、人はこの土徳によって育つということが一番大きいのです。スポーツでも、プロの世界に入ったことで強くなるということがあるでしょう。芸術でも、その本場に行ったことで肝心要を身につけるということがあるでしょう。大学や高校でも、その校風に染まって学びを深めることがあるはずです。『仏説無量寿経』で言えば、
{十劫成道}から{華光出仏}までの弥陀果徳は最高の人間教育環境ともいえ、この環境に往詣[おうげい]往覲[おうごん]することによって、人々は最高の人間教育を成就させることができるのです。

道化[どうけ]宣布[せんぷ]す>
(人々にその教えを説きひろめるのである)

 敬虔な態度で無量寿仏や人々から学んだこと、これを自分一人に留めておいてはいけません。広く人々に説き述べるのです。これは言葉で伝えるだけではありません。学びと同様、自分の生き様を通して人々に経法の内容を伝える、ということでもあります。

南西北方[なんざいほっぽう]四維[しゆい]・上下〔の菩薩衆〕、またまたかくのごとし >
(南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である)

 今までは、東方恒沙仏国[とうぼうごうじゃぶっこく]無量無数[むりょうむしゅ]諸菩薩衆[しょぼさつしゅ]がみな無量寿仏のおそばへ[][もう]でる内容が説かれていましたが、ここでは東だけではなく「南西北方」の四方と、「四維」(四隅)をあわせた八方と、上下をあわせて十方、つまりどんな場所や境遇に住んでいる人々も同様に往生[おうじょう]往詣[おうけい]往覲[おうごん]を果たし、浄土の経法を聞き、人々にその内容を伝えていくのだ、と結んでいます。
 なぜなら、これは先にも述べましたように、弥陀成仏の歴史は一切衆生の身の上において成就している果徳なのであり、仏教徒にも他宗教者にも無宗教者にも回向され、その身心の奥深くに宿している内容ですから、全ての衆生は浄土に詣でてその内容を学ぶ必要があるのです。

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