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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』31

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 浄穢欣厭

 前章までは、浄土建立[じょうどこんりゅう]の歴史とその果報[かほう]の詳細を学んできましたが、今章からは、浄土とは対照的な穢土[えど]の有様が語られます。またこの章は「三毒段[さんどくだん]」とも呼ばれていますが、三毒は貪欲[とんよく]瞋恚[しんに]愚癡[ぐち]の煩悩で、三垢[さんく]とも三惑[さんわく]とも呼ばれ、特に仏道修行の中心課題としてきました(参照:{百八煩悩})。三毒など煩悩が報いた悪世界を穢土といいます。
 題に「浄穢欣厭[じょうえごんえん]」とあります。『往生要集』では、「一は厭離穢土[えんりえど]、二は欣求浄土[ごんぐじょうど]」とあり、また「厭離穢土といふは、それ三界[さんがい]は安きことなし、もつとも厭離すべし/欣求浄土といふは、極楽の依正[えしょう]は功徳無量なり」と、三界六道[さんがいろくどう](欲界・色界・無色界/地獄[じごく]餓鬼[がき]畜生[ちくしょう]阿修羅[あしゅら]・人・天/参照:{論註・荘厳清浄功徳成就 #3})を離れ、功徳無量の極楽浄土を願い求めることを勧めています。

 ところで、三界六道の「穢土」と真実報土の「浄土」はどういう関係にあるのでしょう。
 一般的には、穢土がどこかにあって浄土もどこか別の場所にあり、穢土に住んでいた人間が仏の招きで旅立ち、やがて浄土に到着する≠ニいうイメージでとらえられているのではないでしょうか。しかしこれを実体として理解すると迷信的・妄想的世界になってしまいます。本当の穢土・浄土はこういうものではありません。
 またある人は、穢土も浄土も同じ場所で、ただ本人の心の状態・境地によって穢土にもなり浄土にもなる≠ニ言うかも知れません。これは全くの間違いという訳ではないのですが、説明が不充分です。確かに、穢土と浄土の関係は場所的な違いではなく心の状態・境地も関わってくるのですが、最も大事なのは穢土を穢土と知らしめて浄土あり、浄土を浄土と願わしめて穢土あり≠ニいう関係性です。穢土と浄土は表裏一体で、浄土に生まれることを願う「欣求浄土[ごんぐじょうど]」のその背には穢土の宿業がのしかかっているのであり、また穢土を厭い離れる「厭離穢土[えんりえど]」のその足元には浄土の功徳が宿り、行者の身に満ちて働き、新たな仏性の歴史と環境を創造し続けていくのです。
 このことは、例えば曇鸞大師は――

淤泥華[おでいけ]〉とは、『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地[ろくじ]には蓮華を生ぜず。卑湿[ひしゅう]淤泥[おでい]にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導[かいどう]せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに[たと]ふ。まことにそれ三宝を紹隆[しょうりゅう]して、つねに絶えざらしむと。
『往生論註』93
「淤泥華」とは、経《維摩経》に「高原の陸地には蓮華は生じないが、湿った泥の中に蓮華が生ずる」と説かれている。これは、この土の凡夫が煩悩の泥の中にあって、浄土から出られた菩薩に導かれて、よく仏の正覚をひらく華、すなわち信心を生ずるのにたとえたのである。まことに仏法僧の三宝を十方世界にひろめて、つねに絶えないようにするのである。
(聖典意訳)
と仰る通りで、煩悩の泥の中にある凡夫こそが真実信心を得て浄土の華の台に生まれることが適うのです。これらの譬えでは、泥が穢土の象徴であり、蓮華が浄土の象徴です。煩悩の泥田がなくなれば浄土の蓮華もまた枯れてしまうのです。
 ただし「たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ」と鳩摩羅什が述べてみえますように、煩悩の泥を養分としながらも、煩悩の泥に染まらぬ美しい人生の華を咲かせることが浄土の本意なのであり、「毒を食わば皿まで」と煩悩の毒に染め抜かれることを勧めるものではありません。

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 31

 仏、弥勒菩薩ともろもろの天・人等に告げたまはく、「無量寿国の声聞・菩薩の功徳・智慧は、称説すべからず。またその国土は、微妙安楽にして清浄なることかくのごとし。なんぞつとめて善をなして、道の自然なるを念じて、上下なく洞達して辺際なきことを著さざらん。よろしくおのおのつとめて精進して、つとめてみづからこれを求むべし。かならず〔迷ひの世界を〕超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。〔安養国は〕往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲て、寿の楽しみ極まりあることなかるべし。 しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。この劇悪極苦のなかにして、身の営務を勤めてもつてみづから給済す。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。有無同然にして、憂思まさに等し。屏営として愁苦し、念を累ね、慮りを積みて、〔欲〕心のために走り使はれて、安き時あることなし。田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ。思を重ね息を累みて、憂念愁怖す。横に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために焚かれ、漂され、劫奪せられ、消散し磨滅せば、憂毒&M010367;々として解くる時あることなし。憤りを心中に結びて、憂悩を離れず。心堅く意固く、まさに縦捨することなし。あるいは摧砕によりて身亡び命終れば、これを棄捐して去るに、たれも随ふものなし。尊貴・豪富もまたこの患へあり。憂懼万端にして、勤苦することかくのごとし。もろもろの寒熱を結びて痛みとともに居す。貧窮・下劣のものは、困乏してつねに無けたり。田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければまた憂へてこれあらんことを欲ふ。たまたま一つあればまた一つ少け、これあればこれを少く。斉等にあらんと思ふ。たまたまつぶさにあらんと欲へば、すなはちまた糜散す。かくのごとく憂苦してまさにまた求索すれども、時に得ることあたはず。思想するも益なく、身心ともに労れて、坐起安からず、憂念あひ随ひて勤苦することかくのごとし。またもろもろの寒熱を結びて痛みとともに居す。ある時はこれによつて身を終へ、命を夭ぼす。あへて善をなし道を行じて徳に進まず。寿終り、身死してまさに独り遠く去るべし。趣向するところあれども、善悪の道よく知るものなし。 世間の人民、父子・兄弟・夫婦・家室・中外の親属、まさにあひ敬愛してあひ憎嫉することなかるべし。有無あひ通じて貪惜を得ることなく、言色つねに和してあひ違戻することなかれ。ある時は心諍ひて恚怒するところあり。今世の恨みの意は微しきあひ憎嫉すれども、後世にはうたた劇しくして大きなる怨となるに至る。ゆゑはいかんとなれば、世間の事たがひにあひ患害す。即時に急にあひ破すべからずといへども、しかも毒を含み怒りを畜へて憤りを精神に結び、自然に剋識してあひ離るることを得ず。みなまさに対生してたがひにあひ報復すべし。人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。善悪変化して、殃福処を異にし、あらかじめ厳しく待ちてまさに独り趣入すべし。遠く他所に到りぬればよく見るものなし。善悪自然にして行を追うて生ずるところなり。窈々冥々として別離久しく長し。道路同じからずして会ひ見ること期なし。はなはだ難く、はなはだ難ければ、またあひ値ふことを得んや。なんぞ衆事を棄てざらん。おのおの強健の時に曼びて、つとめて善を勤修し精進して度世を願ひ、極長の生を得べし。いかんぞ道を求めざらん。いづくんぞすべからく待つべきところある。なんの楽をか欲するや。かくのごときの世人、善をなして善を得、道をなして道を得ることを信ぜず。人死してさらに生じ、恵施して福を得ることを信ぜず。善悪の事すべてこれを信ぜずして、これをしからずと謂うてつひに是することあることなし。ただこれによるがゆゑに、またみづからこれを見る。たがひにあひ瞻視して先後同じくしかなり。うたたあひ承受するに父の余せる教令をもつてす。先人・祖父もとより善をなさず、道徳を識らず、身愚かに神闇く、心塞がり意閉ぢて、死生の趣、善悪の道、みづから見ることあたはず、語るものあることなし。吉凶・禍福、競ひておのおのこれをなすに、ひとりも怪しむものなし。 生死の常の道、うたたあひ嗣ぎて立つ。あるいは父、子に哭し、あるいは子、父に哭す。兄弟・夫婦たがひにあひ哭泣す。顛倒上下することは、無常の根本なり。みなまさに過ぎ去るべく、つねに保つべからず。〔道理を〕教語し開導すれども、これを信ずるものは少なし。ここをもつて生死流転し、休止することあることなし。かくのごときの人、矇冥抵突して経法を信ぜず、心に遠き慮りなくして、おのおの意を快くせんと欲へり。愛欲に痴惑せられて道徳を達らず、瞋怒に迷没し財色を貪狼す。これによつて道を得ず、まさに悪趣の苦に更り、生死窮まりやむことなかるべし。哀れなるかな、はなはだ傷むべし。ある時は室家の父子・兄弟・夫婦、ひとりは死しひとりは生きて、たがひにあひ哀愍し、恩愛思慕して憂念〔身心を〕結縛す、心意痛着してたがひにあひ顧恋す。日を窮め歳を卒へて、解けやむことあることなし。道徳を教語すれども心開明せず、恩好を思想して情欲を離れず。昏矇閉塞して愚惑に覆はれたり。深く思ひ、つらつら計り、心みづから端正にして専精に道を行じて世事を決断することあたはず。便旋として竟りに至る。年寿終り尽きぬれば、道を得ることあたはず、いかんともすべきことなし。総猥&M011211;擾にしてみな愛欲を貪る。道に惑へるものは衆く、これを悟るものは寡なし。世間怱々として&M011167;頼すべきものなし。尊卑・上下・貧富・貴賤、勤苦怱務しておのおの殺毒を懐く。悪気窈冥にしてためにみだりに事を興す。天地に違逆し、人心に従はず。自然の非悪、まづ随ひてこれに与し、ほしいままに所為を聴してその罪の極まるを待つ。その寿いまだ尽きざるに、すなはちたちまちにこれを奪ふ。悪道に下り入りて累世に勤苦す。そのなかに展転して数千億劫も出づる期あることなし。痛みいふべからず、はなはだ哀愍すべし」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 31

 釈尊[しゃくそん]弥勒菩薩[みろくぼさつ]天人[てんにん]や人々などに[おお]せになった。
無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国の声聞[しょうもん]菩薩[ぼさつ]たちの功徳[くどく]智慧[ちえ]がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。
 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻[りんね]を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生[おうじょう]しやすいにもかかわらず、[]く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。
 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、[うれ]え悩むことには変わりがなく、あれこれと[なげ]き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。
 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。
 また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品品に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。
 世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。また持ちものは互いに融通[ゆうずう]しあって、むさぼり惜しんではならない。そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはならない。争いを起して怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。
 人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっておリ、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。
 それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。
 このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることや、人に恵み施せば福が得られることを信じない。善悪因果[ぜんあくいんが]の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。
 生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常の道理である。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。
 こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかリである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲[ざいよく]色欲[しきよく]をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。
 あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。そうして長い年月を経ても相手への思いがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛[おんない]や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがない。心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切ることができない。こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうするすべもない。世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでいる。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのである。これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いである。
 このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである。ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、とつぜん命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生れ変り死に変りして、何千億劫[なんぜんおくこう]もの長い間、浮び出ることができない。その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことである」


 前章までは浄らかで麗しい安楽浄土の有様が説かれ、また浄土に生まれたい≠ニ願いをおこせば即ち生まれることを得る、このことは誰がどの方面から見ても疑うべくもない真実≠ナあることは証明されるのですが、最後に残る最大の懸念[けねん]は自分自身であります。

浄土に生まれたいと願う「私」はどうであろうか≠ニ、願うわが身自身を振り返ると、煩悩に振り回され、穢土の宿業から自由にならず、悪世に縛られて自在に動けない自分自身が見えるではありませんか。まさに「罪悪深重[ざいあくじんじゅう]煩悩熾盛[ぼんのうしじょう]の衆生」と言う他はない「根無し草の私」です。すると、このような不誠実な性根のない私が本当に浄土に生まれたいと願っているのか≠ニいう本音を問わねばなりません。いわば、浄土と浄土に生まれる道理は解った、しかし私自身のこの不誠実さは許せない≠ニの叫びが、三毒・五悪を誡める段となったのでしょう。

 ちなみに三毒・五悪段の経緯について、『浄土三部経(上)』(中村元・早島鏡正・紀野一義 訳注/岩波書店)には――

「三毒段」も含めて「五悪段」は初期大経たる「漢訳」・「呉訳」と、今の「魏訳」の三本だけに存し、「唐訳」・「宋訳」・「梵本」・「チベット訳」に欠いている。(親鸞が全く「五悪段」に触れていないという点は、かれの大経理解の方向を知る上に重要な手掛かりを与えるであろう。)従って近年、「五悪段」の真偽・付加説が学者らによって盛んに論ぜられるに至った。
 まずこの五悪段は、用語も文章も調子も他の章節とは異なっていて、難解な漢語が羅列され、そうして中国的色彩の強い思想が表明されている。話の相手としても弥勒が引き合いに出されている。そこで一部の学者はこの一段は、中国人の学者がこの経典を中国人に親しみ易くするために作成し、挿入したものであろうと解した。しかし、この一段は後世の偽作であるとも断定できない。初期の原典を伝えると推定される「漢訳」や「呉訳」にはこの一段があるばかりでなく、文章もまるで引き写したように似ている。近年の研究として池本重臣氏「大無量寿経の教理史的研究」中、「五悪段の検討」の論文はこの問題に関して解明するところが多い。池本氏は荻原・望月・津田の諸博士の説を批判したあとで自身の見解をのべ、「無量寿経の五悪段は、最初に成立した呉訳・漢訳の二本には原本から存在していたと考えられること、「魏訳」の五悪段は原本には存在していたのではなくて、「魏訳」の際に呉・漢両訳を参考して成文したのである。すなわち、いわゆる五悪段は初期無量寿経の特異性を最も具体的に示している云々」と述べている(同書、二〇一ページ)。とにかくここには人間悪の忌憚なき暴露があるという意味で、この一段は思想的に重要である。
漢文書き下し 「弥勒菩薩」註
とあります。
 ちなみに、なぜ「呉訳」・「漢訳」の原本には「三毒・五悪段」があり、「唐訳」・「宋訳」・「チベット訳」の原本と「梵本」では省略されたのかを私なりに推測しますと、いくら克服するためとはいえ、煩悩や五悪をあまり深く見つめ過ぎますと、克服どころか逆に煩悩・五悪の闇に飲み込まれてしまう危険がありますので経典から削除したのではないでしょうか。しかし時代が下って、煩悩性や社会悪が顕著な世の中になりますと、自らの問題としてこれを懺悔しないわけにはいかなくなり、「魏訳」の際に衆生を啓蒙するためこれを復活させた。さらに先師に伺って言えば、もし『仏説阿弥陀経』に「三毒・五悪段」に相当する部分があったなら、「青色青光、白色白光」に対して「青色青陰、白色白陰」の宿業が説かれていただろう≠ニの達見です。
 なお親鸞が全く「五悪段」に触れていない≠ニいうのは、本当に触れていないのではありません。我が事として懺悔の内容に消化されているのです。有名な「悲歎述懐」は自らの姿を三毒・五悪段においても見出すことができた、その「人間悪の忌憚なき暴露」でありましょう。多くの僧侶は三毒・五悪段を他人事として理解し他人に教誡する材料としたのでしょうが、親鸞聖人は自らの問題として提示されたわけです。
 これは道綽禅師以来綿々と続く懺悔の歴史でありますが、もし三毒・五悪段に説かれるような人間悪・社会悪の内容がこの経典に含まれていなければ、菩提心を起こし覚った人は良いのですが、不誠実な私たちは浄土へのあこがれが空想的に思い描かれるだけで、本当にこの胸に響き身に満ちる信心とはならなかったでしょう。魏訳の際に康僧鎧[こうそうがい]が呉訳・漢訳に習って三毒・五悪段を挿入された意図がここにあります。

 [][やす]くして人なし

註釈版
 [ぶつ]弥勒菩薩[みろくぼさつ]ともろもろの[てん]人等[にんとう]に告げたまはく、「無量寿国[むりょうじゅこく]声聞[しょうもん]菩薩[ぼさつ]功徳[くどく]智慧[ちえ]は、称説[しょうせつ]すべからず。またその国土は、微妙安楽[みみょうあんらく]にして清浄[しょうじょう]なることかくのごとし。なんぞつとめて善をなして、[どう]自然[じねん]なるを念じて、上下なく洞達[どうたつ]して辺際[へんざい]なきことを[あらわ]さざらん。よろしくおのおのつとめて精進[しょうじん]して、つとめてみづからこれを求むべし。かならず〔迷ひの世界を〕超絶[ちょうぜつ]して[]つることを得て安養国[あんにょうこく]に往生して、[よこさま]五悪趣[ごあくしゅ][]り、悪趣自然に閉ぢ、[どう]に昇るに窮極[ぐうごく]なからん。〔安養国は〕[][やす]くして人なし。その国逆違[ぎゃくい]せず、自然の[]くところなり。なんぞ世事[せじ][]てて勤行[ごんぎょう]して道徳を求めざらん。極長[ごくじょう][しょう][]て、寿[いのち]の楽しみ極まりあることなかるべし。
現代語版
 釈尊[しゃくそん]弥勒菩薩[みろくぼさつ]天人[てんにん]や人々などに[おお]せになった。
無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国の声聞[しょうもん]菩薩[ぼさつ]たちの功徳[くどく]智慧[ちえ]がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。
 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻[りんね]を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生[おうじょう]しやすいにもかかわらず、[]く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。
 最初に<[ぶつ]弥勒菩薩[みろくぼさつ]ともろもろの[てん]人等[にんとう]に告げたまはく>とあります。前章までは「仏、阿難に告げたまはく」と阿難を対象に法を説かれてみえたのですが、この章からしばらくは弥勒菩薩を対象として諸天人民に法を説かれます。この違いは何を意味するのでしょう。

 経全体の内容から言えば「一切の諸天・人民を開化[かいけ]」する真実功徳で貫かれているのですが、今説いている部分をより明確にするため法を聞く代表者を選ぶのです。するとここまでは「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」で、聞法歓喜の代名詞として阿難の名を挙げ、上巻に説かれた安楽浄土全体の内容が南無の信心となって私に至り満ち、私を通して浄土の功徳が顕現する≠ニいういわれを明かにされました。世の中には様々な楽しみがあるのですが、楽しいのは一時で、冷静になればものみな虚しく、時として苦痛の種にもなってしまいます。一生涯貫いて喜びとできるものは何か、それは法を聞く喜びであり、法の実践であります。この法を聞く喜びを阿難が代表していたのです。
 ちなみに『仏説観無量寿経』では「韋提希[いだいけ]」が聞法の代表者となっておりますが、「韋提希とは思惟に名づける」で、「韋提希夫人は、今までは阿闍世が悪い、提婆達多が悪い、門番が悪いと、こう人を責め世を責めておったものが、待てよ、一体私はどうか≠ニ、初めて自分の本心が生まれ出たのです。本心が生まれてみると、思惟におった本願が見つかる」と島田幸昭師は仰いました。

 すると今章からしばらく弥勒菩薩[みろくぼさつ]に向かって法が説かれます。弥勒は「真実信心うるゆゑに すなはち定聚にいりぬれば 補処の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり」(正像末和讃28)とありますとおり「補処[ふしょ]の弥勒」であり「一念往生、便[すなわ]ち弥勒に同じ」存在です。この菩薩の信心の眼で現実を見ると、現実の痛ましさが見抜かれるので「悲化段」ともいいますが、大悲は大非でありますから、「大いなる批判」ということでもあります。眼が覚めた信心の立場から現実を批判していくのですが、何もかも手当たり次第に批判するのではありません。菩薩は足元に浄土を踏まえているがゆえに、現実においても何が本質的な問題なのか解るのです。ただし問題が解るといっても、他人事のように解るのではなく、痛ましさとして真心で解るのです。では現実にはどいういう痛ましさがあるかというと、まずは人間生活一般として三毒煩悩の痛ましさが今章で明かされ、後の章では五悪や宗教界の痛ましさ、仏の跡継ぎとして立たねばならん宗教界の問題も挙げています。

 次に<無量寿国[むりょうじゅこく]声聞[しょうもん]菩薩[ぼさつ]功徳[くどく]智慧[ちえ]は、称説[しょうせつ]すべからず。またその国土は、微妙安楽[みみょうあんらく]にして清浄[しょうじょう]なることかくのごとし>とありますが、「かくのごとし」は前章まで詳説されていた内容を言いますのでここでは略します。

<なんぞつとめて善をなして、[どう]自然[じねん]なるを念じて、上下なく洞達[どうたつ]して辺際[へんざい]なきことを[あらわ]さざらん。よろしくおのおのつとめて精進[しょうじん]して、つとめてみづからこれを求むべし>
(それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい)
 浄土の菩薩は功徳・智慧が素晴らしく、浄土の環境も美しくて心安らぎ清らかであることも述べたわけですから、人々はこぞって安楽浄土に生まれることを信じ願い行じるはずなのに、「なぜそうしないのか」と問い、願生の志を示してほしいと言うのです。なおここには「つとめて善をなして」・「つとめて精進[しょうじん]して」・「つとめてみづからこれを求むべし」と、何度も「つとめて」と勧めます。自分から努力して善をなし、自分から努力して精進し、自分からすすんで浄土に生まれたいと願うのですから、いわゆる「他力」というものが「自分は何もしないでも信じていれば助けてくれる」という意味ではないことが解ります。
 ただし、自分から努力して善をなし、自分から努力して精進し、自分からすすんで浄土に生まれたいと願うことが、そのまま浄土に生まれる因となるのではありません。あくまで如来の四十八願と兆載永劫の修行が因であり、この功徳が回向されて衆生の願生が適うのです。つまり、自分から努力して善をなし、自分から努力して精進し、自分からすすんで浄土に生まれたいと願うこと、その全てが本願力回向の催し(他力)であると信知することになるのですが、これによって自分個人の努力が歴史的意義を持つものに質が転換するのです。
 では質が転換するとどうなるのかと言いますと、今までは足元に宿業の穢土があり、浄土は彼方にあると思い込んでいたのですが、南無阿弥陀仏と手が合わさりここをおいて他に生きるところなし≠ニ宿業を背負って立ち上がった途端、浄土は足元にあったことに気づくのです。このことについて島田幸昭師は「浄土の大地から生え抜いた蓮台の上に足が立っておる」と仰いましたが、先の「淤泥華[おでいけ]」のたとえにも「これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導[かいどう]せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに[たと]ふ」とある通りです。
 なお「上下なく洞達[どうたつ]して辺際[へんざい]なきことを著さざらん」というのは、何かと上下の差別をつけたがる世において、浄土は差別を超え出て皆が功徳を[こうむ]り、ひとり一人の個性が[ほと]りなく輝き発揮されてゆくことを言います。

<かならず〔迷ひの世界を〕超絶[ちょうぜつ]して[]つることを得て安養国[あんにょうこく]に往生して、[よこさま]五悪趣[ごあくしゅ][]り、悪趣自然に閉ぢ、[どう]に昇るに窮極[ぐうごく]なからん>
(そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻[りんね]を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる )
 親鸞聖人は、この「かならず〔迷ひの世界を〕超絶[ちょうぜつ]して[]つることを得て安養国[あんにょうこく]に往生して」(必得超絶去往生安養国[ひっとくちょうぜっこおうじょうあんにょうこく])から「自然の[]くところなり」(自然之所牽[じねんししょけん])まで詳しく解説されていますので以下に紹介します
必得超絶去往生安養国[ひっとくちょうぜっこおうじょうあんにょうこく]」といふは、「[ひつ]」はかならずといふ、かならずといふは定まりぬといふこころなり、また自然[じねん]といふこころなり。「得」はえたりといふ。「超」はこえてといふ。「絶」はたちすてはなるといふ。「[]」はすつといふ、ゆくといふ、さるといふなり。娑婆世界[しゃばせかい]をたちすてて、流転生死[るてんしょうじ]をこえはなれてゆきさるといふなり。安養浄土[あんにょうじょうど]に往生をうべしとなり。「安養」といふは、弥陀をほめたてまつるみこととみえたり、すなはち安楽浄土[あんらくじょうど]なり。「横截五悪趣悪趣自然閉[追うぜつごあくしゅあくしゅじねんぺい]」といふは、「[おう]」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣[ごあくしゅ]を自然にたちすて四生[ししょう]をはなるるを横といふ、他力と申すなり。これを横超[おうちょう]といふなり。横は[しゅ]に対することばなり、超は[]に対することばなり。竪はたたさま、迂はめぐるとなり。竪と迂とは自力聖道[じりきしょうどう]のこころなり、横超はすなはち他力真宗の本意なり。「[ぜつ]」といふはきるといふ、五悪趣のきづなをよこさまにきるなり。「悪趣自然閉[あくしゅじねんぺい]」といふは、願力に帰命[きみょう]すれば五道生死[ごどうしょうじ]をとづるゆゑに自然閉といふ。「閉」はとづといふなり。本願の業因[ごういん]にひかれて自然に生るるなり。「昇道無窮極[しょうどうむぐごく]」といふは、「[しょう]」はのぼるといふ、のぼるといふは無上涅槃[むじょうねはん]にいたる、これを昇といふなり。「道」は大涅槃道[だいねはんどう]なり。「無窮極[むぐごく]」といふはきはまりなしとなり。「易往而無人[いおうむにん]」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土[じっぽうど]に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。「無人[むにん]」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。しかれば、源信和尚[げんしんかしょう]は、「報土[ほうど]に生るる人はおほからず、化土[けど]に生るる人はすくなからず」(往生要集・下意一一二七)とのたまへり。「其国不逆違自然之所牽[ごこくふぎゃくいじねんししょけん]」といふは、「其国[ごこく]」はそのくにといふ、すなはち安養浄刹[あんにょうじょうせつ]なり。「不逆違[ふいぎゃく]」はさかさまならずといふ、たがはずといふなり。「逆」はさかさまといふ、「違」はたがふといふなり。真実信をえたる人は、大願業力[だいがんごうりき]のゆゑに、自然に浄土の業因たがはずして、かの業力にひかるるゆゑにゆきやすく、無上大涅槃[むじょうだいねはん]にのぼるにきはまりなしとのたまへるなり。しかれば、「自然之所牽[じねんししょけん]」と申すなり。他力の至心信楽[ししんしんぎょう]の業因の自然にひくなり、これを「[けん]」といふなり。「自然」といふは、行者のはからひにあらずとなり。
『尊号真像銘文』3

▼意訳(現代語版)より
必得超絶去往生安養国[ひっとくちょうぜっこおうじょうあんにょうこく]」というのは、、「必」は「かならず」ということである。「かならず」というのは、定まっているという意味であり、また自然[じねん]という意味である。「得」は「えている」ということである。「超」は「こえて」という意味である。「絶」は、断ち切って離れるということである。「[]」は「すてる」ということであり、「いく」ということであり、「さる」ということである。娑婆世界[しゃばせかい]を断ち切って、生れ変り死に変りし続けてきた迷いの世界を超え離れて行き去るということである。安養浄土[あんにょうじょうど]に間違いなく往生するというのである。「安養」というのは、阿弥陀仏をほめたたえるお言葉として示されている。すなわち安楽浄土[あんらくじょうど]のことである。
横截五悪趣悪趣自然閉[追うぜつごあくしゅあくしゅじねんぺい]」というのは、「[おう]」は「よこざま」ということである。「よこざま」というのは、阿弥陀仏の本願のはたらきを信じることによって、行者のはからいによらずに、迷いの世界を自然に断ち切って、その世界に生を受けることを離れるのであり、このことを「横」といい、また他力というのである。これを「横超[おうちょう]」というのである。「横」は「[しゅ]」に対する言葉であり、「超」とは「[]」に対する言葉である。「竪」は「たてざま」ということであり、「迂」は「めぐる」ということである。「竪」と「迂」とは自力聖道門[じりきしょうどうもん]をあらわし、「横超」とはすなわち他力真宗の根本をあらわしている。「[ぜつ]」というのは「きる」ということであり、迷いの世界のきずなをよこざまに断ち切るのである。「悪趣自然閉[あくしゅじねんぺい]」というのは、本願のはたらきを信じおまかせすれば必ず迷いの世界への道が閉じるので「自然閉」というのである。「閉」とは「とじる」ということである。本願のはたらきが因となって自然に往生するのである。
昇道無窮極[しょうどうむぐごく]」というのは、「[しょう]」は「のぼる」ということである。「のぼる」というのは、この上ない涅槃[ねはん]のさとりに至ることであり、これを「昇」というのである。「道」は大いなる涅槃のさとりのことである。「無窮極[むぐごく]」というのは、きわまりがないということである。
易往而無人[いおうむにん]」というのは、「易往」とは、往きやすいということである。本願のはたらきにおまかせすれば真実の浄土に往生することが間違いないので、往きやすいのである。「無人[むにん]」というのは、人がいないということである。人がいないというのは、真実の信心を得る人は滅多にいないので、真実の浄土に往生する人がまれであるというのである。それで源信和尚[げんしんかしょう]は『往生要集』に、「報土[ほうど]に生れる人は多くなく、化土[けど]に生れる人は少なくない」といわれている。
其国不逆違自然之所牽[ごこくふぎゃくいじねんししょけん]」というのは、、「其国[ごこく]」とは「そのくに」ということであり、安養浄土[あんにょうじょうど]のことである。「不逆違[ふいぎゃく]」とは、理にかなっているということであり、間違いないということである。「逆」は「さかさま」ということであり、「違」は「たがう」ということである。真実の信心を得た人は、大いなる本願のはたらきによるので、自然に浄土往生の因が間違いないものとなり、そのはたらきに[]かれるから往きやすく、この上ない大いなる涅槃のさとりに至ることにきわまりがない、といわれているのである。そのようなわけで「自然之所牽[じねんししょけん]」というのである。本願他力の「至心信楽[ししんしんぎょう]」の因が自然にはたらくのであり、これを「[けん]」というのである。「自然[じねん]」というのは、行者のはからひによるのではないということである。

 自分から努力して善をなし、自分から努力して精進し、自分からすすんで浄土に生まれたいと願うことがかなえば、それは一見自力のようですが実は自力ではなく本願力回向の催し≠ナありますから、行者は本願に乗じて「かならず〔迷ひの世界を〕超絶[ちょうぜつ]して[]つることを得て」とあります。罪悪深重の自分が努力して善をなしたことが因であればとても「超絶」(娑婆世界をたちすてて、流転生死をこえはなれてゆきさる)とはなりませんが、本願力回向の信心ゆえに無量の功徳を発揮し、超絶して穢土を去ることを得、安養浄土に生まれることが適うのです。
 次に「[よこさま]五悪趣[ごあくしゅ][]」とありますが、五悪趣とは地獄[じごく]餓鬼[がき]畜生[ちくしょう]阿修羅[あしゅら]・人・天の六趣のうち阿修羅を省略(阿修羅は餓鬼・天に含まれる)した生存状態・世界をいいます。この中で「地獄[じごく]餓鬼[がき]畜生[ちくしょう]」は三途[さんず]ともいわれ「三悪趣」で決定しているのですが、「天・人・阿修羅[あしゅら]」は「三善趣」に数えられることもあり、また「三悪趣」に阿修羅を加えて「四悪趣」と呼ばれることもあります。これは何を善とし何を悪とするかによって判断が分かれるのでしょう。しかし足元に安養浄土という大本命を踏まえているのですから、五悪趣[ごあくしゅ]全ての問題を「[よこさま]に」断ち切ることが適うのです。

 では「[よこさま]に」とはどういう意味でしょう。これは浄土真宗の教相判釈[きょうそうはんじゃく]である「二雙四重[にそうしじゅう]」にも関わってくるのですが、親鸞聖人は仏教全体を「聖道門」の[しゅ]と「浄土門」の「[おう]」の二雙に分け、二雙にそれぞれ方便の「[しゅつ]」と真実の「[ちょう]」に分類し、都合「竪超[しゅちょう]」・「竪出[しゅしゅつ]」・「横超[おうちょう]」・「横出[おうしゅつ]」の四重となり、浄土真宗は「横超[おうちょう]」であるとし、これを教・証果・菩提心について批判的分類を行ないました。 例えば『顕浄土真実教行証文類』信文類には――

 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。
『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本)52 菩提心釈 より

▼意訳(現代語版より)
ところで、菩提心には二種類ある。一つには[しゅ]すなわち自力の菩提心、二つには[おう]すなわち他力の菩提心である。また竪の中に二種がある。一つには竪超[しゅちょう]、二つには竪出[しゅしゅつ]である。この竪超と竪出は、権教・実教・顕教・密教、大乗・小乗の教えに説かれている。これらは、長い間かかって遠まわりをしてさとりを開く菩提心であり、自力の金剛心であり、菩薩がおこす心である。
また、[おう]の中に二種類がある。一つには横超[おうちょう]、二つには横出[おうしゅつ]である。横出とは、正行・雑行・定善・散善を修めて往生を願う、他力のなかの自力の菩提心である。横超とは、如来の本願力回向による信心である。これが願作仏心、すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心は、すなわち他力の大菩提心である。これを横超の金剛心というのである。
 他力の菩提心も自力の菩提心も、菩提心という言葉は一つであって、意味は異なるといっても、どちらも真実に入ることを正しいこととし、またかなめとし、まことの心を根本とする。よこしまで不純なことを誤りとし、疑いをあやまちとするのである。そこで、浄土往生を願う出家のものも在家のものも、信には完全な信と完全でない信とがあるという釈尊の仰せの意味を深く知り、如来の教えを十分に聞き分けることのないよこしまな心を永久に離れなければならない。
とありますが、「二雙四重[にそうしじゅう]」をもう少し解りやすくまとめますと、聖道門の「[しゅ]」は「生死[しょうじ]出ずべき道」であり、色も形もない「出世間」のことでありますが、世間を[たてさま]に超え出てしまえば世間に戻ることは難しくなってしまいます。
 では浄土門はどうかと言いますと、「[おう]」もやはり「生死[しょうじ]出ずべき道」、色も形もない「出世間」ではありますが、他力ゆえに世間を[よこさま]に超え出ているだけですから「出世間」をもう一度出て「出出世間」か適う、これがが浄土です。
 浄土は「青色青光、白色白光」で、色も形もありながら煩悩を滅した無漏[むろ]の「蓮華蔵世界[れんげぞうせかい]であります。「淤泥華[おでいけ]」の譬えどおり、煩悩の泥田にこそ浄土の蓮華が開く。信心の眼が開け南無阿弥陀仏と手が合わされば、宿業を背負った私の足元に浄土の華が開いているのです。この浄土の華は、浅ましい私を「浅ましい」と知らせて私を支えていますので「[よこさま]五悪趣[ごあくしゅ][]り」といい得るのであります。
 そして<悪趣自然に閉ぢ、[どう]に昇るに窮極[ぐうごく]なからん> とありますが、「悪趣自然に閉ぢ」は「五悪趣[ごあくしゅ][]り」ということが意識して成るのではなく、本願力回向の功徳によって私の意識を超えて成る、意識はするのですが私の意識によって煩悩を断つのではなく、浄土の催しによって煩悩を煩悩だと眼が着くため煩悩の働き場がなくなるのです。
[どう]に昇るに窮極[ぐうごく]なからん」は、やはり足元の浄土の催しによって[きわ]まりや限界のない真実の菩提心がはたらき、どこまでもどこまでも人生の本道を昇ってゆくことを言います。
 さらに言えば、生きているあいだ中、足元の浄土が私を支えてくれているがゆえに、もし私のいのちが終われば、自ずと足元の浄土に帰ることができるのです。死後、遠い世界に旅立たねばならん≠ニ考えるから往けるかどうか≠ニか本当にあるのかどうか≠ニ不安になるのですが、浄土真宗の死生観でいえば、死後にわざわざ遠い旅をして浄土に往く必要はないのであり、帰依の場所として足元の浄土に帰り、浄土によって生きることができるのです。
 浄土でなければ本当に人間は救われない理由がこれで解るでしょう。

<〔安養国は〕[][やす]くして人なし。その国逆違[ぎゃくい]せず、自然の[]くところなり。なんぞ世事[せじ][]てて勤行[ごんぎょう]して道徳を求めざらん。極長[ごくじょう][しょう][]て、寿[いのち]の楽しみ極まりあることなかるべし>
(無量寿仏の国は往生[おうじょう]しやすいにもかかわらず、[]く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう)
 最初に「[][やす]くして人なし」(易往而無人[いおうにむにん])という有名な言葉があります。「本願のはたらきにおまかせすれば真実の浄土に往生することが間違いないので、往きやすい」、それにも関わらず「人なし」というのは、「真実の信心を得る人は滅多にいないので、真実の浄土に往生する人がまれである」ということですが、この経の最後半にも「もしこの経を聞きて信楽受持[しんぎょうじゅじ]することは、[なん]のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。このゆゑにわが法はかくのごとくなし、かくのごとく説き、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし」とあり、また「一切世間極難信法[いっさいせけんごくなんしんぽう]」(称讃浄土経)とも説かれています。ではなぜ真実信心を得る人が滅多にいないのでしょう

 それは、衆生は「自力のはからい」・「行者のはからい」の抜き去りがたい凡夫ばかりだからです。信心はこの「はからい」・「理性」を抜くことが重要なのですが、これは何も努力しないことを言うのではありません。経文にも「よろしくおのおのつとめて精進して、つとめてみづからこれを求むべし」とありましたように、自分から進んで勤め、精進し、求めなければなりません。しかし求道の過程で、まごころを押し退[]け理性が居座ってしまうことがあるのです。理性はまごころの道具としておさまっている間は良いのですが、時として理性に主役を奪われ、如来の真実心を疑い、自我の求めによって部分的にしか仏意を理解せず、全体としての如来の本願力を封鎖してしまうことになりがちだからです。
 真実信心は努力で獲得するものではなく、努力の果てに、努力した側とは別の次元から湧き出る働きであり、背後から突き当たってくる岩盤のような力なのです。
(参照:
{「自然法爾」とはどういう意味ですか?}
その国逆違[ぎゃくい]せず、自然の[]くところなり」とは、安養浄土は真実道理にかなっていて、どこから誰から問われても間違いがなく、一度でも真実信心を発した人は本願力に乗じることが適い、仏力に引っ張られ、人生成就仏の本道を間違いなく進むことができる。もっと言えば、必然として人生成就仏の本道を進まざるを得ない自分となっていくことをいいます。
 したがって「なんぞ世事[せじ][]てて勤行[ごんぎょう]して道徳を求めざらん」(人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか)との仏の嘆きはもっともでしょう。せっかく「極長[ごくじょう][しょう][]て、寿[いのち]の楽しみ極まりあることなかるべし」(求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう)ということが予告できるのに、まごころから願い求めない衆生の不誠実さは、仏の眼から見れば何よりの悲劇です。
 なお「極長[ごくじょう][しょう]」とは、一般に言う長生き≠ニは違います。浄土のはたらきを受け、「生きて甲斐あり、死んで悔いの残らない」私の一生の内容が、生死を越えて極長・普遍の意味を持ち、永く人々の胸で浄土の一員として生き続けることを言います。反対に寿命が短い≠ニいうのは単なる短命をいうのではなく、ただその時その場をしのぐだけの軽薄な価値観で生きたことを言うのです。

この界に一人、仏の名を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて生ず。ただ一生つねにして不退ならしむれば、一つの華この間に還り到つて迎へたまふ
『顕浄土真実教行証文類』行文類二 35に 引文

この世界で一人の人が仏の名号を称えると、浄土に一つの蓮の花が生じる。生涯、信心を失うことなく念仏を相続するなら、その蓮の花がこの世界に来ってその人を迎えてくださるのである。
(現代語版)

 貪欲[とんよく]のありさま

註釈版
しかるに世の人、薄俗[はくぞく]にしてともに不急[ふきゅう][][あらそ]ふ。この劇悪極苦[ぎゃくあくごっく]のなかにして、身の営務[ようむ]を勤めてもつてみづから給済[きゅうさい]す。[そん]となく[]となく、[びん]となく[]となく、少長[しょうちょう]・男女ともに銭財[ざんざい][うれ]ふ。有無同然[うむどうねん]にして、憂思[うし]まさに等し。屏営[びょうよう]として愁苦[しゅうく]し、[おもい][かさ]ね、[おもんばか]りを積みて、〔欲〕[しん]のために走り使はれて、安き時あることなし。田あれば田に[うれ]へ、[いえ]あれば宅に憂ふ。牛馬六畜[ごめろくちく]奴婢[ぬひ]銭財[ぜんざい]衣食[えじき]什物[じゅうもつ]、またともにこれを[うれ]ふ。[]を重ね[そく][]みて、憂念愁怖[うねんしゅうふ]す。[よこさま]に非常の水火・盗賊・怨家[おんげ]債主[さいしゅ]のために[]かれ、[なが]され、劫奪[こうだつ]せられ、消散[しょうさん]磨滅[まめつ]せば、憂毒シュ々[うどくしゅじゅ]として[とく]くる時あることなし。[いきどおり]りを心中[しんちゅう]に結びて、憂悩[うのう]を離れず。心堅[しんかた]く意固く、まさに縦捨[じゅうしゃ]することなし。あるいは摧砕[さいさい]によりて身亡[みほろ]命終[いのちおわ]れば、これを棄捐[きえん]して去るに、たれも[したが]ふものなし。尊貴[そんき]豪富[ごうふ]もまたこの[うれ]へあり。憂懼万端[うくまんたん]にして、勤苦[ごんく]することかくのごとし。もろもろの寒熱[かんねつ]を結びて痛みとともに[]す。貧窮[びんぐ]下劣[げれつ]のものは、困乏[こんぼう]してつねに[]けたり。田なければ、また憂へて田あらんことを[おも]ふ。[いえ]なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。牛馬六畜[ごめろくちく]奴婢[ぬひ]銭財[ぜんざい]衣食[えじき]什物[じゅうもつ]なければまた憂へてこれあらんことを欲ふ。たまたま一つあればまた一つ[]け、これあればこれを少く。斉等[さいとう]にあらんと思ふ。たまたまつぶさにあらんと欲へば、すなはちまた糜散[みさん]す。かくのごとく憂苦[うく]してまさにまた求索[ぐしゃく]すれども、時に得ることあたはず。思想するも[やく]なく、身心ともに[つか]れて、坐起安[ざきやす]からず、憂念[うねん]あひ[したが]ひて勤苦[ごんく]することかくのごとし。またもろもろの寒熱[かんねつ]を結びて痛みとともに[]す。ある時はこれによつて身を終へ、命を[ほろ]ぼす。あへて善をなし[どう]を行じて徳に進まず。寿終[いのちおわ]り、身死してまさに[ひと]り遠く去るべし。趣向[しゅこう]するところあれども、善悪の道よく知るものなし。
現代語版
 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、[うれ]え悩むことには変わりがなく、あれこれと[なげ]き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。
 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。
 また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品品に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。
 ここから所謂[いわゆる]「三毒段」と呼ばれる箇所に入りますが、特別に三毒煩悩のありさまを述べてみえるというより、私たちが生きて生活する生々しい現場をありのままに述べてみえる、という面が第一でしょう。そしてその中に三毒煩悩の影響があるわけです。この節は三毒煩悩のうちの貪欲[とんよく](むさぼり)の影響を生々しく描いています。貪欲は、足ることを知らず、自分の好みに向かって渇愛[かつあい]の心を起こす≠アとを言います。経の内容についてはほぼ解説がいらないほどでしょう。「田あれば田に[うれ]へ、[いえ]あれば宅に憂ふ」と同時に「田なければ、また憂へて田あらんことを[おも]ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ」ということですから、財産があろうが無かろうが、どちらにしても貪欲があれば憂いは去らないのです。現代に置き換えれば、会社があれば会社に悩み、株があれば株に悩む≠ニ同時に会社がなければ会社が欲しいと悩み、株がなければ株が欲しいと悩む≠ニいうことが穢土における貪欲のはたらきでしょう。貪欲ゆえに今ある現実を受け入れられないわけです。

 ところで、穢土を穢土と知らしめて浄土あり≠ニいうことで言えば、貪欲のこころに至り届いた無量寿仏の願行のありさまはどうなのでしょうか。つまり、「こころは煩悩・随煩悩等具足[ずいぼんのうとうぐそく]せり。刹那刹那[せつなせつな]に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の[へん]せぬところなければ、機法一体[きほういったい]にしてこころも南無阿弥陀仏なり」と『安心決定鈔』6に説かれたところを領解しますと、煩悩を煩悩と知らしめているのは浄土の功徳に他なりません。すると、「田あれば田に[うれ]へ、[いえ]あれば宅に憂ふ」・「田なければ、また憂へて田あらんことを[おも]ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ」という貪欲に至り届いた浄土の功徳相はどうなるのでしょう。
 たとえば
{万物厳浄の願}には、「国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく称量することなけん」(わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてすぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう)とあります。すると、「あれが足らんとか、これが気に入らん、不足不満をいっていたものが、菩提心が生まれてくると、そこらにあるものが、皆尊いものに変ってくる」・「ここにも尊いお育ての大悲があったと、すべてのものが、心の糧として受けとることができる」のですから、田あれば田を尊み、[いえ]あれば宅に教わる=E田なければ、また喜び田なきことを生かす。宅なければまた喜びて宅なきことに学ぶ≠ニいうように、財産があればあるでこれを尊んで無限に生かし、無ければ無いことを幸いに軽々と生きる、これが貪欲に至り届いた浄土の功徳相でしょう。

 瞋恚[しんに]のありさま

註釈版
世間[せけん]人民[にんみん]父子[ぶし]・兄弟・夫婦・家室[けしつ]中外[ちゅうげ]親属[しんぞく]、まさにあひ敬愛[きょうあい]してあひ憎嫉[ぞうしつ]することなかるべし。有無[うむ]あひ通じて貪惜[とんじゃく]を得ることなく、言色[ごんしき]つねに和してあひ違戻[いらい]することなかれ。ある時は心[あらそ]ひて恚怒[いぬ]するところあり。今世[こんぜ][うら]みの[こころ][すこ]しきあひ憎嫉[ぞうしつ]すれども、後世[ごせ]にはうたた[はげ]しくして大きなる[あだ]となるに至る。ゆゑはいかんとなれば、世間の[]たがひにあひ患害[げんがい]す。即時に急にあひ[]すべからずといへども、しかも毒を含み怒りを畜へて[いきどおり]りを精神[しょうじん]に結び、自然に剋識[こくし]してあひ離るることを得ず。みなまさに対生[たいしょう]してたがひにあひ報復すべし。 人、世間愛欲[せけんあいよく]のなかにありて、[ひと]り生れ独り死し、独り去り独り[きた]る。行に当りて苦楽の[]に至り[おもむ]く。身みづからこれを[]くるに、代るものあることなし。善悪変化[へんげ]して、殃福処[おうふくところ][こと]にし、あらかじめ厳しく待ちてまさに独り趣入[しゅにゅう]すべし。遠く他所[たしょ]に到りぬればよく見るものなし。善悪自然にして[ぎょう]を追うて生ずるところなり。窈々冥々[ようようみょうみょう]として別離久しく長し。道路同じからずして会ひ見ること[]なし。はなはだ[かた]く、はなはだ難ければ、またあひ[]ふことを得んや。なんぞ衆事[しゅうじ][]てざらん。おのおの強健[ごうけん]の時に[およ]びて、つとめて善を勤修し精進して度世[どせ]を願ひ、極長[ごくじょう][しょう][]べし。いかんぞ道を求めざらん。いづくんぞすべからく待つべきところある。なんの楽をか欲するや。
現代語版
 世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。また持ちものは互いに融通[ゆうずう]しあって、むさぼり惜しんではならない。そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはならない。争いを起して怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。
 人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっておリ、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。
 それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。
 ここは三毒煩悩のうちの瞋恚[しんに](いかり)の影響を生々しく描いています。親類縁者などを憎み[ねた]めば、その業は時間を経るごとに膨張し、激しくなり、やがて積年の恨みとして暴発し、互いに滅びの道を歩むことになります。こうした報復合戦は現代においても後を絶ちません。瞋恚を克服することができたら、どれだけ平和が近くなるでしょう。ですからこの経典はもとより他の経典においても瞋恚を[いまし]める言葉は数多くあります。
荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
『ダンマパダ』
怒らないことによって怒りにうちかて。善いことによって悪いことにうちかて。与えることによって物惜しみにうちかて。真実によって虚言の人にうちかて
『ダンマパダ』
きわめて長い年月の間に積み重ねられた善行、布施、そして善逝(仏)への供養のすべてを、怒りは一撃のもとに打ち壊す。
『入菩提行論』

 こうした他者との報復合戦≠フ惨禍[さんか]は誰の眼にも明らかなのですが、実は瞋恚の問題において最も重要なのは、自分の瞋恚によって自分の身を滅ぼす≠ニいうことなのです。このことを経では――「人、世間愛欲[せけんあいよく]のなかにありて、[ひと]り生れ独り死し、独り去り独り[きた]る。行に当りて苦楽の[]に至り[おもむ]く。身みづからこれを[]くるに、代るものあることなし」と説いています。
 過去の[いさか]いを忘れ、こころから怒りを消し去らなければ、相手より先に自分が潰れてしまいます。どんな強い人間も瞋恚の重荷に耐え続けることはできません。怒りは相手ではなく自分自身に盛る毒なのです。自身に毒を盛れば当然のことながら毒を盛った世界に[おもむ]くことになります。ですから「[ひと]り生れ独り死し」云々というのは、人間は孤独である≠ニいう意味ばかりではなく、今ここに存在している自分の生存状況は、他者や偶然によってあるのではなく、全ては自身の身口意の行業によって得たものである≠ニいう道理を言うのです。
 ただしこれは理性で解する問題ではありません。理性が先走れば差別につながってしまいます。この道理はまごころ≠ナ聞くのです。まごころの智慧をもってこの道理を聞けば、破滅の道が解ると同時に、人生成就の道も解るでしょう。怒りなどの煩悩からは極力離れ、「つとめて善を勤修し精進して度世[どせ]を願ひ、極長[ごくじょう][しょう][]べし」(つとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである)とあるのは明々白々な永遠の道理に裏づけられているのであり、「浄穢欣厭[じょうえごんえん]」(厭離穢土[えんりえど]欣求浄土[ごんぐじょうど]」)は、どんな時代、どのような世界においても通用する人生成就の大原則なのです。

 愚癡[ぐち]のありさま

註釈版
かくのごときの世人[せにん]、善をなして善を得、道をなして道を得ることを信ぜず。人死してさらに生じ、恵施[えせ]して福を得ることを信ぜず。善悪の事すべてこれを信ぜずして、これをしからずと[おも]うてつひに[]することあることなし。ただこれによるがゆゑに、またみづからこれを見る。たがひにあひ瞻視[せんじ]して先後同[せんごおな]じくしかなり。うたたあひ承受[じょうじゅ]するに父の[のこ]せる教令[きょうりょう]をもつてす。先人[せんにん]・祖父もとより善をなさず、道徳を識らず、身愚[みおろ]かに神闇[たましいくら]く、心塞[こころふさ]がり意閉[こころと]ぢて、死生[ししょう][おもむき]、善悪の道、みづから見ることあたはず、語るものあることなし。吉凶[きっきょう]禍福[かふく][きお]ひておのおのこれをなすに、ひとりも[あや]しむものなし。 生死の常の道、うたたあひ[]ぎて立つ。あるいは父、子に[こく]し、あるいは子、父に[こく]す。兄弟・夫婦たがひにあひ哭泣[こっきゅう]す。顛倒上下[てんどうじょうげ]することは、無常の根本なり。みなまさに過ぎ去るべく、つねに保つべからず。〔道理を〕教語[きょうご]開導[かいどう]すれども、これを信ずるものは少なし。ここをもつて生死流転[しょうじるてん]し、休止[くし]することあることなし。かくのごときの人、矇冥抵突[もうみょうたいとつ]して経法[きょうぼう]を信ぜず、心に遠き[おもんばか]りなくして、おのおの意を快くせんと[おも]へり。愛欲に痴惑[ちわく]せられて道徳を[さと]らず、瞋怒[しんぬ]迷没[めいもつ]財色[ざいしき]貪狼[とんろう]す。これによつて[どう]を得ず、まさに悪趣[あくしゅ]の苦に[かえ]り、生死窮[しょうじきわ]まりやむことなかるべし。哀れなるかな、はなはだ傷むべし。 ある時は室家[しつけ]の父子・兄弟・夫婦、ひとりは死しひとりは生きて、たがひにあひ哀愍[あいみん]し、恩愛思慕[おんないしぼ]して憂念[うねん]〔身心を〕結縛[けつばく]す、心意痛着[しんいつうじゃく]してたがひにあひ顧恋[これん]す。日を[きわ]め歳を[]へて、解けやむことあることなし。道徳を教語[きょうご]すれども心開明[しんかいみょう]せず、恩好[おんこう]を思想して情欲を離れず。昏矇閉塞[こんもうへいそく]して愚惑[ぐわく][おお]はれたり。深く思ひ、つらつら計り、心みづから端正[たんじょう]にして専精[せんしょう][どう]を行じて世事[せじ]を決断することあたはず。便旋[べんせん]として[おわ]りに至る。年寿終[ねんじゅおわ]り尽きぬれば、道を得ることあたはず、いかんともすべきことなし。総猥カイ擾[そうわいかいにょう]にしてみな愛欲を[むさぼ]る。道に[まど]へるものは[おお]く、これを悟るものは[すく]なし。世間怱々[せけんそうそう]としてリョウ頼[りょうらい]すべきものなし。尊卑[そんぴ]・上下・貧富・貴賤、勤苦怱務[ごんくそうむ]しておのおの殺毒[さつどく][いだ]く。悪気窈冥[あくけようみょう]にしてためにみだりに[][おこ]す。天地に違逆[いぎゃく]し、人心に従はず。 自然[じねん]非悪[ひあく]、まづ[したが]ひてこれに[くみ]し、ほしいままに所為[しょい][ゆる]してその罪の極まるを待つ。その寿[いのち]いまだ尽きざるに、すなはちたちまちにこれを奪ふ。悪道に下り入りて累世[るいせ]勤苦[ごんく]す。そのなかに展転[てんでん]して数千億劫[すうせんおくこう]も出づる[]あることなし。痛みいふべからず、はなはだ哀愍[あいみん]すべし」と。
現代語版
 このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることや、人に恵み施せば福が得られることを信じない。善悪因果[ぜんあくいんが]の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。
 生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常の道理である。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。
 こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかリである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲[ざいよく]色欲[しきよく]をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。
 あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。そうして長い年月を経ても相手への思いがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛[おんない]や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがない。心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切ることができない。こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうするすべもない。
世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでいる。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのである。これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いである。
 このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである。ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、とつぜん命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生れ変り死に変りして、何千億劫[なんぜんおくこう]もの長い間、浮び出ることができない。その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことである」
 ここは三毒煩悩のうちの愚癡[ぐち](おろか)の影響を生々しく描いています。愚癡は「無明[むみょう]無智[むち]迷妄[めいもう]、迷い、錯覚、妄想」であり、「現象や道理に関して心が暗くて的確な判断が下せず、迷い惑う心理作用のこと」をいいますが、総じていえば智慧がないことを言います。仏教は智慧の宗教≠ニ言われるほどで、この智慧がないということですから、愚癡は全ての煩悩や悪の根源と見なされ、また「十二因縁[じゅうにいんねん]」(苦悩の因果関係を十二項目で考察した教え)においては無明は苦の第一原因として考察されていますから、愚癡こそが穢土の苦悪の根源であり、最も厭離すべきものでしょう。

 愚癡[ぐち]の第一に挙げられているのは「善悪因果[ぜんあくいんが]の道理をまったく信じない」ということです。ちなみに「信」とは、理性で納得する段階を超え、性根にまで入る、いわば骨身に染みて解る=u体解」ということです。この「善悪因果」については、「吉凶[きっきょう]禍福[かふく][きお]ひておのおのこれをなすに、ひとりも[あや]しむものなし」(善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない)とあります。現実に自分の人生を創造していく過程において、常に自分の[]いた種がいま実ったのだ≠ニ解らなければそもそも自分の人生とはなりません。今ここで私が念じ行なう一つひとつが私の人生を創るのです
 しかし穢土においては先祖代々他人まかせ≠フ間違った人生観を受け継ぎ、悪業を重ねても省みることなく、その報いも他人に責任を押し付け、生き方を柔軟に変える試みはせず、愚行と言い訳ばかり重ねて生きています。そのため人々は不幸に押し潰され続けているのですが、善悪因果[ぜんあくいんが]の道理を信じなければ、この愚行の輪から脱出する術さえ解りません。

 愚癡[ぐち]の第二に挙げられているのは、「生死の常の道」の道理を説いて導いても信じるものは少ない≠ニいう問題です。諸行無常[しょぎょうむじょう]は三界の理法であり、諸法無我[しょほうむが]は三世の実相であることは明々白々であるにも関わらず、人々はこうした永遠の真実から目を背け、本当の安らぎを得ようとはしません。目先の愛欲に溺れ、怒りに心狂わせ、代々にわたって貪欲・瞋恚に迷う生存を続けている私たちです。このために覚りを求め得ることなく、地獄[じごく]餓鬼[がき]畜生[ちくしょう]など苦悪の生存状態に陥って身動きが取れなくなっているのですが、「生死の常の道」の道理を信じなければ、こうした愚行の輪(生死流転[しょうじるてん])から脱出する術さえ知り得ません。

 愚癡[ぐち]の第三に挙げられているのは、憂念[うねん]〔身心を〕結縛[けつばく]す」、「心意痛着[しんいつうじゃく]」、「昏矇閉塞[こんもうへいそく]して愚惑[ぐわく][おお]はれたり」とあります、愛別離苦[あいべつりく]などの憂鬱[ゆううつ]な想いが身を[しば]り、心痛[しんつう]が取れず、心が暗く閉じ[ふさ]がる≠ニいうことです。現代で言えば心神喪失[しんしんそうしつ][うつ]状態が長く続くことを言うのでしょう。こうなると、たとえ仏の教えを聞いても心は[ふさ]がったまま、長期間陰鬱[いんうつ]な状態が続くので、人生が成就することがありません。そうしたことにならないよう、人々は世の道理をよく見極め、「落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切る」ことが肝心です。さもないと、暗く散漫に心が閉じたまま一生が過ぎ、そのまま寿命が尽きてしまいます。

 愚癡[ぐち]の第四に挙げられているのは、世の中の乱れに埋没して自分自身を偽る性根の無さの問題です。時代が下り物質文明が栄えれば栄えるほど社会悪はかえって増し、邪悪な思想がはびこり、煩悩の業が幾重にも積もります。そのため人間自体の資質が低下し、人々は争いや災厄などの影響で本来の寿命を全うできずに死んでしまうのです。このように、とても依りどころとはならない世の中なのに、人々は世間の悪い慣習や迷走する価値観を頼りにし、欲望をむさぼり、苦悩に振り回されて生きているのです。たとえば――戦時中は好戦的な態度を装っていたのに、戦争が終われば昔からの平和主義者のようにうそぶく。一つの思想が流行[はや]ればその思想の体現者[たいげんしゃ]のように振る舞いながら、その思想が[すた]れば口をつぐみ、新しく出てきた思想に乗り換える。世の中の流行り廃りばかり気にかけ、景気の動向によって生活信条まで変える。こうした性根の[]わらない生き方をしていれば、世の濁流に飲み込まれ、苦しみの世界に落ちたまま浮ぶことができなくなってしまいます。
 また経には、「悪気窈冥[あくけようみょう]にしてためにみだりに[][おこ]」とありますが、「悪気窈冥」とは「内に悪意を含み外に[あらわ]さないこと」を言います。悪意は一刻一秒も身を離れずにいるのに、他人には自分の悪意を見せないよう立派に振舞っている私たちです。それもこれも、世の中の生業[なりわい]体裁[ていさい]を第一に考え、浄土の真実道理を[ないがし]ろにしているからに他なりません。これは本気で浄土に生まれたい≠ニ願う態度ではないでしょう。さらには、他人に嘘偽りの立派な態度を見せているうちに、自分自身まで偽って賢者になったと思い込んでしまっているのが私たちの浅ましい日常です。本当に浄土に生まれ、覚りを開きたいと願うのなら、内に含んだ悪意は外に顕すため口外[こうがい]し、深く懺悔せねばなりません。嘘偽りの立派な態度こそが、浄土と覚りをさまたげるのです
 親鸞聖人は、こうした愚かな人間の生き様に対して――

賢者[けんじゃ]の信を聞きて、   愚禿[ぐとく]が心を[あらわ]す。
賢者の信は、       [うち][けん]にして[ほか][]なり。
愚禿が心は、       内は愚にして外は賢なり。
『愚禿鈔』44
『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心[しじょうしん]〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生[いっさいしゅじょう]身口意業[しんくいごう][しゅ]するところの解行[げぎょう]、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐ[もちい]んことを明かさんと[おも]ふ。[ほか]賢善精進[けんぜんしょうじん][そう][げん]ずることを得ざれ、[うち]虚仮[こけ][いだ]ければなり貪瞋[とんじん]邪偽[じゃぎ]奸詐百端[かんさひゃくたん]にして悪性侵[あくしょうや]めがたし、[こと]蛇蝎[じゃかつ]に同じ。三業[さんごう]を起すといへども、名づけて雑毒[ぞうどく]の善となす、また虚仮[こけ]の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。<中略> この雑毒[ぞうどく]の行を[]してかの仏の浄土に求生[ぐしょう]せんと[おも]ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中[いんちゅう]に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那[ないしいちねんいっせつな]も、三業[さんごう]所修[しょしゅ]みなこれ真実心のなかになしたまひしによりてなり。
『愚禿鈔』45
と、嘘偽りの立派な態度を誡められ、如来回向の真実を受領して浄土に願生する道理を示されました。そしてこのことを具体的な形で示されたのが 蓮如上人です。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。一向に不信のよし申さるる人はよく候ふ。ことばにて安心のとほり申し候ひて、口にはおなじごとくにて、まぎれて空しくなるべき人を悲しく覚え候ふよし仰せられ候ふなり。
『蓮如上人御一代記聞書』74
 蓮如上人は、「なかなか信心を得ることができないと口に出して正直にいう人はよい。言葉では信心を語って、口先は信心を得た人と同じようであり、そのようにごまかしたまま死んでしまうような人を、私は悲しく思うのである」と仰せになりました。
(現代語版)

一 何ともして人に直され候ふやうに心中を持つべし。わが心中をば同行のなかへ打ちいだしておくべし。下としたる人のいふことをば用ゐずしてかならず腹立するなり。あさましきことなり。ただ人に直さるるやうに心中を持つべき義に候ふ。

『蓮如上人御一代記聞書』107
 蓮如上人は、「どのようにしてでも、自分の心得違[こころえちが]いを他の人から直してもらうように心がけなければならない。そのためには、心に思っていることを同じみ教えを信じる仲間に話しておくべきである。自分より目下のものがいうことを聞き入れようとしないで、決って腹を立てるのは、実に情けないことである。だれからでも心得違いを直してもらうよう心がけることが大切なのである」と仰せになりました。
(現代語版)

 このように、御同朋の集いの中でこそ個人の信心も決定していくのです。

 資料

ただ讃めるだけだから、懺悔というものがそこに出ておらんですから。いうならば、ただ単に、「稽首礼」、仏足を稽首し奉るというだけであって、仏の足を敬うというだけであって、敬われずにおれない自分というものはどんなものかということが、インドではあまりはっきりしておらない。
 だから、私は読んでみまして、菩薩のものを読んでみれば、案外菩薩は法のこと、法の内容。法というものが、まことというものがどういうものかということは説いてありますけれども、現実の生活の浅ましさというものはあまり説いていない。その点、シナに来たって曇鸞大師からでありますが、どちらかというと、曇鸞大師もあまり深刻でない。今度、道綽禅師になってくると、非常に現実の悲しみという。お釈迦さまが亡くなって時代が、世が下がってきたとか、あるいは人間の力が衰えてきたとか、昔の人は優れておったが、我々はだんだんとそういう昔の人に及ばない、そういう浅ましいものが出てきた。五濁が増してきたと、こういう悲しみが道綽禅師あたりから出てきまして、そして、今度は社会という、我々は社会には勝てないのだと、社会とは世の中ですね。そういう環境には勝てないのだと、こういうことが非常に強く言われるようになったのは道綽禅師であります。
 その次に、善導大師になってくれば、そういう社会に勝てないと、環境には勝てないのだと、こういうことでなしに、自分自身の心の中をのぞいてみたと。そういうものが、非常に痛烈に自己批判があるわけであります。
 だから、親鸞聖人の機の深心と言いましょうか。親鸞聖人の自己反省ということよりも自己嫌悪ですね、むしろ。本当に我と我が根性が嫌になったと、こういうことを言わんばかりの親鸞聖人のお言葉でありますが、このお言葉のほとんどは善導大師のお言葉であります。「愚禿述懐和讃」という中にありますが、「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」と、ここから「無慚無愧のこの身にて」ということやら、「蛇蝎奸詐のこころ」とか、そういうこととを全部、善導大師のお言葉を、親鸞聖人が自分の言葉として、「善導大師あなただけではありません。私もそのとおりであります」と、こういう気持ちで説いておられるのでありますから、これを見ても解りますように、上の七高僧の三人は法を明らかになさった。法というのは、浄土とはどんなものか、阿弥陀仏とはどういうものか。お念仏すればなぜ助かるのか。こういうことの道理の方を、上の三人、天親菩薩、龍樹菩薩、曇鸞大師は説いておられる。
 今度、後のお方、道綽禅師から善導大師や、日本の源信僧都とか法然上人は、自分がどんな浅ましいものかということを説いておられる。だから、両方合わせて一つの親鸞聖人の宗教ができておると、こう思われるのであります。そういう点から、これからでてくる三毒、五悪段というのが、非常にこの経典の単なるそういう雲の上のことではなしに、本当の現実の泥田の中に咲いた仏法であるということが、思われてくるわけであります。
 ただ、その説き方が、これではただ単に、懺悔というような気持ちで説くのではなしに、これはお釈迦さまが、弥勒菩薩や諸天人とか、天とか人とかいうものを呼んで、そして、いかにお前たちの生活が悲しむべきものであるかと、こういうことでこんこんと教えるというような形で説かれておるのでありますけれども、実は我々から言うならば、単なる教えるのではなしに、これはそういう自分自身の自己反省というものを、こういう形で説かれた。
 というのは、経典ですから、お経だから、教えるという形になっておりますけれども、これはそういうお念仏する人の本当のお気持ちというものを、懺悔というものを、こういう形で説かれたのだと、こう思えばよかろうと思うのであります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

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