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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』10

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 弥陀果徳 十劫成道

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【10】阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり。その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコH碼碯、合成して地とせり。恢廓曠蕩にして限極すべからず。ことごとくあひ雑廁し、うたたあひ入間せり。光赫焜耀にして微妙奇麗なり。清浄に荘厳して十方一切の世界に超踰せり。衆宝のなかの精なり。その宝、なほ第六天の宝のごとし。またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず。また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし。また四時の春・秋・冬・夏なし。寒からず、熱からず。つねに和らかにして調適なり」と。そのときに阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王およびJ利天、なにによりてか住する」と。仏、阿難に語りたまはく、「第三の焔天、乃至、色究竟天、みななにによりてか住する」と。阿難、仏にまうさく、「行業の果報、不可思議なればなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「行業の果報不可思議ならば、諸仏世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。ゆゑによくしかるのみ」と。阿難、仏にまうさく、「われこの法を疑はず。ただ将来の衆生のためにその疑惑を除かんと欲するがゆゑに、この義を問ひたてまつる」と。

 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上
【十】 阿難が釈尊にお尋ねした。
 「法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか」
 釈尊が阿難に仰せになる。
 「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」
 阿難がさらにお尋ねした。
 「その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか」
 釈尊が仰せになる。
 「さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・瑪瑙などの七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがない。そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい。そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている。さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである。またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる。また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もない。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である」
 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
 「世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界やトウ刀利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか」
 すると釈尊が阿難に仰せになった。
 「では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか」
 阿難が釈尊にお答えする。
 「それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます」
 釈尊が仰せになる。
 「それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてあるというなら、仏がたの世界もまたそのようにしてたもたれているのであり、無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。そこで須弥山がなくても差し支えないのである」
 阿難が申しあげる。
 「世尊、わたしもそのことを疑いませんが、ただ将来の人々のために、このような疑いを除きたいと思ってお尋ねしたのでございます」


 浄土は無窮なる願土であり報土

 仏教は問いが大事であります。どういう問いを発することができたか≠ニいうことが人生の内容を決定づけていきます。前節までに阿難はじめ一万二千人の弟子や菩薩たちは、法蔵菩薩は誓願を因として不可思議兆載永劫の修行を完遂した、ということを学びましたが、その内容の素晴らしさに皆胸を躍らせたことでしょう。
 しかしこれだけでは話は済みません。最も重要なことが抜けています。それは、法蔵菩薩の修行が今現在を生きる自分にとってどういう意味を持つのか、という点です。他人事ではない、いよいよ自分の問題として仏性の歴史を問う時がきました。

註釈版
阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり。

現代語版
阿難が釈尊にお尋ねした。
 「法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか」
 釈尊が阿難に仰せになる。
 「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」
 阿難がさらにお尋ねした。
 「その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか」
 釈尊が仰せになる。
 「さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。

<法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん>
(法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか)
 不可思議兆載永劫の修行を行った法蔵菩薩ですから、既に成仏されているのではないか、との期待がある一方、誓願は適ったが既に直接には現代社会に力を発揮できない過去仏となられたのではないか、との懸念が生じています。もし懸念通りだとすると、現代とちがって昔は良い時代だった≠ニいうことになってしまいます。

<いまだ成仏したまはずとやせん>
(あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか)
 さらには、いくら法蔵菩薩が不可思議兆載永劫の修行を行ったとしても、誓願で打ち出された内容が余りに高度で広範囲に及ぶゆえ、法蔵菩薩はまだ成仏していないのではないか。つまり弥勒菩薩のように未来仏なのではないか、との懸念も生じています。
 自分と直接関わりの無い過去仏の修行であれば、これらは単なる歴史の記録に過ぎません。また修行が未完成であるとすれば、以上のことは未来に希望を託すだけの夢物語に過ぎなくなります。

<いま現にましますとやせん>
(それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか)
 法蔵菩薩が誓願を成就し既に成仏されていて、しかも今も直接現代社会に力を発揮している―― もしこの通りであれば一番素晴らしいことです。しかし、一切衆生を済度する誓願が成就し、今現在もそのはたらきが発揮されているとすれば、今のこの社会や世界の有様がこれほど醜いはずはないでしょう。あきらかに矛盾していると思われるのですが……

<仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と>
(釈尊が阿難に仰せになる。「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」)
 釈尊の答えは、最後の<いま現にまします>が正解ということです。一番素晴らしい結果ですが、このことを素直に信じて良いのでしょうか。本当に誓願は適ったと言えるのでしょうか。

 ここはこの経典を解釈する上で最重要点の一つですから、先の矛盾点についてもう一度検証し、改めて如来の真実義を解していきましょう。
 たとえば法蔵菩薩の建てた四十八願のうち第一願「無三悪趣の願」では自分の国に三悪道が無いように≠ニ願われています。そして第十四願「声聞無量の願」ではその国中の声聞の数に限りが無いように≠ニ願い、さらに第十八願においてはすべての人々に至心・信楽・欲生の一心を与え、その信心が一生相続してゆくように≠ニ願われています。
 このように四十八願を一つひとつ見ていきますと全体的に――わが国土(法蔵菩薩が打ち建てようとする世界)は遍在無辺で、極めて清浄であり、評判が良く、輝かしく荘厳されるように≠ニ「国土の内容」を願い、十方全ての人々がわが国土に生まれるように≠ニ「一切衆生の往生」を願い、国中の人天や菩薩や入出無碍の自立した菩薩たちが、わが国土に具わっている徳を様々に発揮するように≠ニ「念仏行者の内容」を願う。つまり、国土と念仏者の内容が素晴らしいことと同時に、一切衆生の往生まで願われているのです。しかも、こうした三点が完遂されなければ法蔵菩薩は「私は正覚を取ることができない」(正覚を取ったことが成就しない)と何度も明言されています。
(参照:{四十八願総括}
 すると、今現在のこの世の有様はどうだ。戦争は止まず、差別と侮蔑に人々はおののき苦しんでいるではないか。あらゆる世界で三悪道は去らず、阿弥陀仏の浄土に往生しようと願うものは少なく、浄土真宗の門徒や僧侶のうちにも内容や評判の悪い者は大勢いるではないか。これでも法蔵菩薩の誓願は成就したと言えるのか≠ニの疑問が湧いてくるでしょう。
 いや、それより何より、今現在、自分自身の内容≠ェ願意に適っていません。他人はいざ知らず、自分自身の迷いや無明が解決していないことは、紛れもない事実です。

 こうした事実があるにも関わらず、経典には「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる」と説かれている。理屈で言えば矛盾していますが、経典は真心で説かれたものですから、その真意を探らなければなりません。
 この難問に、たとえば曇鸞大師は以下のように答えを導いてみえます。

おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

『往生論註』巻下 105 より

意訳▼(聖典意訳より)
 およそ、「回向」ということばの意味を解釈するならば、菩薩が自身で集めたところのあらゆる功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに仏果[ぶっか]に向かわせることである。
 「巧方便」というのは、菩薩が自分の智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。たとえば木の火ばしをもって、草木を[]んで焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便[ぎょうほうべん]と名づける。
 いまここに方便というのは、すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。それはかの仏国はすなわち、ついに仏になるところの道であり、最もすぐれた方法だからである。

<その身を後にして、しかも身先だつ>(自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏する)というたとえは素晴らしい表現なのですが、少し補足しますと――国土と念仏者の内容と、一切衆生の往生≠自らの問題としてひたすら願う。すると、願いそのものは理想ですから事相(事実)の成就は永遠の彼方なのですが、真に願いをもって立ち上がり一歩を踏み出せば、踏み出す現実において願いそのものは成就する。「願いの中に成就あり」と聞かせて頂いている通りです。

 それは、現実のどの瞬間瞬間をとってみえても、「求道の途中」という面においては法蔵菩薩の願力が生き、「この瞬間瞬間にこそ全ての願力と永劫の修行が報いている」という面においては無量寿仏の仏力が報いて成就している。こうした浄土の「願土」としての面と「報土」としての面の両方が成就していることを示しているのです。つまり浄土は、法蔵菩薩の願力と阿弥陀仏の仏力によって支えられてはじめて本当に生き生きとした活動が適うのです。
 逆に言えば、ある日ある時、願いが事実として成就してしまった。もう願う必要はない。後は願いが成就した国に人々を導くだけだ≠ニ解釈してしまえば、その国土に願いは無く、はたらきは押し付けと化し、仏の寿命も枯れてしまいます。時として宗教団体が人々に強制を強い、洗脳とも言える方法で布教しているさまを見ると、まさにこの固執した国土への導きが横行していると言えるでしょう。さらにもし阿弥陀仏の本願はまだ成就していない≠ニいうことであれば、本願は単なる理想論であり、未来に希望を託すだけのあやふやな夢に過ぎません。現に今を生きる自分の力とはならないのです。
「浄土は無窮なる願土であり報土である」という活動面が解ればこうした法執や疑念は消え去り、常に環境を浄化し新たな創造力を発揮し続けてゆく道が開かれていることが領解できるでしょう。

 浄土の場所

 さて、それでは浄土はどこにあるのでしょう。今住んでいる社会が浄土でしょうか。それとも遥か彼方にあるのでしょうか。
 ここで再度同じ箇所を引いてみます。

<仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と>
(釈尊が阿難に仰せになる。「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」)
 この中で、<法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に>までは前節で明らかにしました。次の<西方にまします。ここを去ること十万億刹なり>とはどういうことでしょうか。実は以前、
{地獄・極楽の食事風景「#極楽はどこにあるのか?」}において極楽浄土の在り処[ありか]について述べたことがありますが、重要な問題ですので、内容はほぼ重複しますが今一度詳説させていただきます。

 極楽浄土の場所について述べる際、多くの書では西方十万億土彼方にある≠ニ中途半端な説明に留まっています。しかし丁寧に経典を読み解けば極楽の在り処は明確に示されているのです。特に浄土三部経においては、それぞれ表現を変えて全く一つの地が示されています。以下それを明らかにしましょう。

阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。

『仏説無量寿経』10・巻上・正宗分・弥陀果徳・十劫成道 より

▼意訳(現代語版より)
 阿難が釈尊にお尋ねした。
「法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか」
 釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」

そのとき世尊、韋提希に告げたまはく、「なんぢ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。なんぢ、まさに繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひとを観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬へを説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん。

『仏説観無量寿経』7・序分・発起序・散善顕行縁 より

▼意訳(現代語版より)
 そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
 「そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである。だからそなたは思いを極楽世界にかけ、清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきりと想い描くがよい。わたしは今、そなたのために極楽世界のすがたを想い描くためのいろいろな方法を説き、また清らかな行を修めたいと願う未来のすべての人々を西方の極楽世界に生れさせよう。

そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく。「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。

『仏説阿弥陀経』2・正宗分・依正段 より

▼意訳(現代語版より)
 そのとき釈尊は長老の舎利弗に仰せになった。
「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いておいでになる。

 ここで問題なのは『現代語版』の不正確な意訳です。書き下し文と比べてみればいかにあやふやな訳であるか解るでしょう。こうした勝手な訳が行われるために経典の真意が理解できなくなるのです。
『仏説無量寿経』10では、書き下し文は<ここを去ること十万億刹なり>とありますが、現代語訳では「ここから十万億の国々を過ぎたとことにあって……」と原文と異なった訳をしています。後に申しますが、「去る」と「過ぎる」は正反対の意味なのです。漢文経典では丁寧に解りやすく別の漢字で訳してあるのに、わざわざその意図を外す必要はないはずです。
 次に『仏説観無量寿経』7では<阿弥陀仏、ここを去ること遠からず>(阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである)とあります。「この世界」がどういう意味かはっきり意識された訳とは言えませんが、解釈次第で何とか正法を維持できるようです。
 最後の『仏説阿弥陀経』2、<これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり>(ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある)とあります。ここの現代語訳には問題はなさそうです。

 このように、浄土三部経に記された極楽の場所ですが、要点としては――

  1. 十万億≠ノついて
  2. 過ぎる≠ニ去る≠フ差は何か
  3. ここを去る≠ニかこれより≠ニ言われるここ≠ヘ一体どこか
  4. 西方≠ニは何を意味しているのか
ということになるでしょう。これらが解れば浄土の場所が解るはずです。

1)十万億≠ノついて。

 十万億は全人類の頭数≠ナあり衆生の総数≠ナあり、衆生世界の総数と同時に諸仏世界の総数≠ニ理解して頂けばよいでしょう。

「十万億」とは、生きとし生けるものの数を十万億と数えたのである。つまり全人類の数が十万億あるということである。この十万億という数は、浄土教の経典だけではなく、『華厳経』系統の経は、みなこの思想の上に立ってゐるのである。『梵網経』には十万億という数の内容を次のように説いている。中央にビルシャナ仏があって、千の光明を放つ。一一の光明に一体づつの大釈迦仏がある。その千の大釈迦仏は、おのおの百億の光明を放つ。一一の光明にまた一体づつの小釈迦仏がある。その十万億の小釈迦仏は、十万億の衆生の世界に至って法を説くという。即ち一人の衆生に一つの世界があり、その一一の世界に一体づつの仏がある。この外に衆生も世界もなく、また仏もない。十万億の数を以て十方世界のことごとくを摂めつくすのである。
 この『梵網経』の思想にもとずいて、仏教国日本を建設しようとして、その理想を現わして作られたのが、奈良の大仏である。日本が仏教を受け入れた当時に於ては、経説は経意のままに正しく領解せられてゐたのであるが、時代を経るに随って、その真意を見失われて来たことは、まことに悲しいことである。

島田幸昭著/地音法灯 第二集『極楽』上巻より

2)過ぎる≠ニ去る≠フ差は何か

「過ぎる」は『仏説阿弥陀経』に<これより西方に、十万億の仏土を過ぎて>とありますが、重要なのは法を直接説いている対象、相手の境地・境涯を見なければなりません。
『仏説阿弥陀経』では、仏は幾度も「舎利弗よ」と呼びかけてみえます。教えの内容は全人類・一切衆生を念じていますが、経典は基本的に対機説法であり、この時の直接の相手は、既に出家の悟りを開き「智慧第一」と賞賛されていた長老舎利弗です。迷いは既に滅し、智慧勝れ、信心を得ている相手に対しては、その境地を[ひるがえ]す必要はありません。そこでそのままの境地を伸ばして一切衆生・一切諸仏を供養し極楽に行くことを願いなさい≠ニ言う意味で、<これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ>と勧められたのでしょう。
過ぎる≠ノついては、島田師が丁寧に内容を明かされてみえます。

「過ぎる」とは、素通りではありません。出会う人を敬い拝み、出会う人毎から教えを受け、お育てに預かってゆくことです。しかしそれはたんに人間だけではありません。山を見ても川を見ても、鳥の鳴き声、雨の音を聞いても、日々降りかかって来る一つ一つの出来事の上に、仏の姿を見、仏の声を聞いて、人生を学び、自己を知って、自分の道を見出だしてゆくのです。

{令得天眼の願} より

これは十万億の一つ一つの仏を供養し、それによって一一の仏からお育てに預かってゆくことですから、ここでも「百千万億ナユタの諸仏の国」を過ぎて、諸仏を供養し、相手から自分も教えられてゆく、自利利他の菩薩行を行じながら、しかも自己を超え、相手を超えて、弥陀の国への旅を続けてゆく、いわば諸仏の国の視察旅行ではないでしょうか。

{神足如意の願} より

 この過ぎる≠ノ対して去る≠ヘ「人の相違」を表しています。

『大経』に「ここを去る」という「去」の字は、『説文』に「人の相違なり」とある。人の相違とは世界が違うということである。たとい体は隣あって坐っていても、世界が違えば千里の距りである。暗の世界と光の世界、迷いと悟りは、その場所は隣あっていても、二つの世界には無限の距りがある。しかし「去る」と「距たる」とは違う。またある『説文』には「ともに来って相対するなり」という説明がしてある。距たるは二つのものは間隔をおいて離れ離れにあるのであるが、去るは二つのものがたがいに照らし合うて、相手を明らかにすると同時に、それによって却って自らを現わすという関係にあることである。この世をこの世と照らしてあの世があり、あの世をあの世と現わしてこの世がある。濁悪の世を照らし浄めて浄土があり、浄土のはたらく場所として濁悪の世があるのである。浄土を離れて穢土もなく、穢土を離れて浄土もない。もし穢土の自覚なくして浄土が語られ、浄土の信証なくして穢土が論ぜられるならば、それらはすべて机上の戯論であり、観念の遊戯に過ぎぬ。仏教とは自覚の教ということであり、そこに説かれてるものはすべて自覚の内容である。随ってその説は唯だ自覚を通して、自覚の内容としてうなずいて聞く外に領解の道はない。

『極楽』上巻 「たのしむ生活」 より

『仏説無量寿経』は全人類・一切衆生に呼びかけて説いているのであり、直接の説教相手も、まだ迷いの去っていない阿難です。『観無量寿経』も同様に、自業自得の苦に悩みながら、責任転嫁して釈尊に不平不満をぶつけた韋提希[イダイケ]夫人に対して説いています。したがって共に相手の迷いを翻す必要がありますから、どちらも過ぎる≠ナはなく去る≠ニ言わざるを得ません。

 経典で言えば、<十万億の仏土>は「一切衆生悉有仏性」と覚った菩薩が、一切衆生の仏性を供養して巡ることですから過ぎる≠ナすが、「一切衆生悉有仏性」を覚っていない衆生に対して説く場合は、あなたが今見ている迷いの世界を翻していきなさい≠ニいう意味で去る≠アとを勧める。つまり無明・我執に閉じた衆生と極楽の住民との「人の相違」や「境地の相違」を見ていくことが重要となるのです。
<十万億刹>の「刹」は業によってできた世界を表し、ここでは衆生の宿業世界であり、無明・我執が絡み合った迷いの世界を言います。ただし「刹」の字が用いられていても「仏刹」という浄らかな業の報いでできた仏土をいう場合もあります。
 ちなみに「刹土」や「国土」は、ある存在(人や主体)の身心態度の内容と、その存在を中心として創られた周囲の人々との関係性全体をいいます。衆生の内面や境遇を含め、衆生の置かれている客観的事実全体を「国土・刹土」と言うのです。
 衆生の国土はそのままでは我執・無明・社会悪の三途に穢れた荒野ですが、荒野は同時に耕地ともなります。衆生の国土は仏の教化対象であり仏性の働き場なのです。これは『維摩経義疏』に詳説されているのですが、仏はもともと自分の国を持っていません。ではどこに仏の国を造るのかといいますと、衆生の荒れ果てた国土を耕し、清浄なる各種の荘厳によって麗しい仏の国を造るのです。仏の教化対象として「衆生の国土」を「仏国土」と呼びますから、仏国土と言っても、浄と穢に通じて存在しているのです。ですから仏土は、仏性によって開拓した浄土面と未開拓の穢土面が矛盾的に混在しているのですが、「煩悩即菩提」であるのと同様「穢土即浄土」ということも言えるのです。
 つまり仏にとって衆生の国土は「仏の教化対象」という面もあるのですが、むしろ「仏の修行場」として手が合わされた面が重要となるのです。ですから、衆生こそ法蔵精神の正統な継承者であり、衆生国土こそ阿弥陀浄土の最前衛出張所であることを裏づけています。

 さらに「人の相違」を譬えてみれば、同じ碁や将棋の盤面を見ていても、名人の眼に映る世界と素人の眼に映る世界は違うでしょう。同じ芸術作品を見ていても、芸術を深く理解している人と金銭ばかりに眼がいく人とでは、結局見ている世界が違うのです。
 人生も同じで、仏と衆生の住む世界は、空間的な意味の場所に違いはありませんが、見ている人自身の内容が違うので、結局住む世界が全く異なるのです。「人の相違」を「去る」で表すのはそうした意味があります。先の「過ぎる」と「去る」を混同した誤訳が、いかに真意を外した訳であるか解るでしょう。

3)ここを去る≠ニかこれより≠ニ言われるここ≠ヘ一体どこか

過ぎる≠ニ去る≠ナも述べましたが、ここ≠ニは空間的な場所や住所をいうのではありません。<行業の果報>、つまり<それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうある>「地」がここ≠ナす。一般語で言えば、相手の「境涯」や「境地」をここ≠ニ指し、真実極楽との隔たりを述べてみえるのです。
 このことは先の経文で明かされていますので、順序が変りますがここに引いてみます。

注釈版
そのときに阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王およびトウ利天、なにによりてか住する」と。仏、阿難に語りたまはく、「第三の焔天、乃至、色究竟天、みななにによりてか住する」と。阿難、仏にまうさく、「行業の果報、不可思議なればなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「行業の果報不可思議ならば、諸仏世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。ゆゑによくしかるのみ」と。阿難、仏にまうさく、「われこの法を疑はず。ただ将来の衆生のためにその疑惑を除かんと欲するがゆゑに、この義を問ひたてまつる」と。

現代語版
 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界やトウ利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか」
 すると釈尊が阿難に仰せになった。
「では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか」
 阿難が釈尊にお答えする。
「それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます」
 釈尊が仰せになる。
「それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてあるというなら、仏がたの世界もまたそのようにしてたもたれているのであり、無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。そこで須弥山がなくても差し支えないのである」
 阿難が申しあげる。
「世尊、わたしもそのことを疑いませんが、ただ将来の人々のために、このような疑いを除きたいと思ってお尋ねしたのでございます」

 浄土の住民は、<功徳善力をもつて行業の地に住す>(功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいる)のです。この功徳は、個人的な功徳ではとても適いませんが、衆生の本性である真如・仏性が本願を見出し、兆歳永劫の修行によって円成した功徳が私に回向されることによって適うのです。いわば細胞の一つひとつに宿る歴史的本性が真心の環境を得て名のりをあげ、諸仏を通じて四十八願と成り、私に至り届いた功徳なのです。

 しかし釈尊が説かれる対象は、浄土三部経とも<功徳善力をもつて行業の地に住す>ことが適った相手ではありません。
『仏説無量寿経』の「ここ」は一切衆生の迷いの場です。『仏説阿弥陀経』の「ここ」は、悟りを開き信心を得た智慧第一の場ですが、十万億の諸仏供養はまだ果たしていません。では『仏説観無量寿経』に説かれた<ここを去ること遠からず>の「ここ」は一体どこでしょうか。
 これが解れば私たちにも極楽の場が目前に開けてきます。なぜならイダイケ夫人は、私たち凡夫・一般人の代表だからです。

『大経』に「ここ」といわれた場所は、迷いの世界のことであり、『小経』に「これより」と説かれたのは、「念仏申さんと思い立つ心のおこる」そこからである。そのことは『大経』では十万億の「刹」を去ってであり、『小経』では十万億の「仏土」を過ぎてであることにも現れている。
また『観経』に「ここ」といわれたのは、『大経』の「ここ」のように、ただ迷うているのでもない。そうかといって『小経』の「ここ」のように、念仏の信心もまだ起こってはおらぬ。今までひとをとがめ世をせめていた身が、相手の身になり、相手の立場がわかるようになって見れば、誰をとがめて見ようもない。していることはみんな無理のないことである。せめている自分自身もまたその中の一人である。それにしても何と浅ましいことであり、何と悲しい悪業因縁に結ばれていることであろうか。不幸せなものは私一人と思っていたが、みんな気の毒な人間である。問題の渦中にあるわれわれだけではない。これが人生だ。ようやく人間の在り方そのもの根底に根ざす、生けるものみな底に共通する人間業がわかり、同時にそれを照らし出している真実大悲の世界がうすうす解りかけて来た。この心に向って「阿弥陀仏ここを去ること遠からず」と説かれたのである。

 三経がそれぞれ異なった三つの立場に立っての説法であることは、その序説にも明らかである。即ち『大経』は釈尊の念仏三昧の場所である「王舎城の耆闍崛山の中」で説かれ、『観経』は苦悩の牢獄と変わった王舎城の一室での説法であり、『小経』の説かれた場所は、仏弟子の修行の道場である舎衛国の祇園精舎である。また昔から『大経』は法の真実を説き、『観経』は機の真実を説き、『小経』は念仏の行を説くといわれていることにも、三経の立場の相違を知ることができるであろう。

島田幸昭著『極楽』上巻 三経の「ここ」 より

 これだけ懇切丁寧に諭していただけば私のような愚かな人間にも解りますが、少し注釈を加えますと、『仏説観無量寿経』(観経)のこの時点でのイダイケ夫人の状態は――提婆達多[ダイバダッタ]の企みと自業自得の罪で夫の頻婆娑羅[ビンバシャラ]王が幽閉され、それを助けようとした彼女も実の息子の阿闍世[アジャセ]に殺されかけ、幽閉されて嘆き悲み、遠く釈尊に向って礼拝し、招待を願った。願いに応じて釈尊がイダイケ夫人の前に現れると、「自分にどんな罪があってこんな悪い子を産んだのか、世尊もどうしてダイバダッタとの親族なのか」と怒りをぶつけていたが、釈尊の様々な法施によって心落ち着き、やっと極楽世界に生まれたい≠ニ願いを起こすことができた……という今の彼女の状況・立場・心情・境涯に向かっての「ここ」なのです。

 それは、人間共通の宿業が見え、不幸は自分だけではないと気づき、社会の地獄性・餓鬼性・畜生性の三悪道が見え、同時に地獄・餓鬼・畜生の三悪道を見せしめている真実清浄荘厳の世界の正体がうっすらと見えかけた「ここ」です。
 イダイケ夫人の世界と極楽の内容は十万億刹の開きがあるが、極楽・安楽国の名を聞き、内容を教えられ、極楽往生を願うことによって、極楽の方がイダイケ夫人に近づいて来る。足元の浄土が歴史をくぐり個人の苦悩を通って、この場に現れ出ようとしているのです。
 すると極楽浄土は真近にあります。ここを尊び、釈尊は<ここを去ること遠からず>と極楽の在り処をイダイケ夫人に示しました。まさに時を逃さず機を得た釈尊の名指導でしょう。

 では、うっすらと極楽が見えかけたイダイケ夫人と、はっきりと極楽を見ている釈尊の違いはどこにあるのでしょう。それは、「天眼を得ていない」ことが理由として示されます。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。如来、いま未来世の一切衆生の、煩悩の賊のために害せらるるもののために、清浄の業を説かん。善いかな韋提希、快くこの事を問へり。阿難、なんぢまさに受持して、広く多衆のために仏語を宣説すべし。如来、いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西方極楽世界を観ぜしむ。仏力をもつてのゆゑに、まさにかの清浄の国土を見ること、明鏡を執りてみづから面像を見るがごとくなるを得べし。かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。

『仏説観無量寿経』8 序分・発起序・定善示観縁 より

 阿難よ、そなたはこれからわたしが説く教えを忘れずに心にとどめ、多くの人々に説きひろめるがよい。わたしは今、韋提希と未来のすべての人々が西方の極楽世界を想い描くことのできるようにしよう。仏の力によって、ちょうどくもりのない鏡に自分の顔かたちを映し出すように、その清らかな国土を見ることができるのである。そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ちあふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう」
 さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである」

「凡夫」とは、人間本来の尊さを覚らず、人間本来の尊い行動を実行せず、人間本来の尊い徳(信頼)を得ていない状態をいいます。
「天眼」は天眼智[てんげんち]とも天眼通[てんげんつう]ともいうが、<どんな人をも仏として尊敬できること>をいいます。
<遠く観ることあたはず>は、特別な人や身近な人は尊敬するが自分と状況が離れた人や身近に居ない人は軽蔑する、という狭い見識・差別・邪見がこびりついていることです。決して未来を予知したり遠方を透視する超能力ではありません。
 これらを総じて言えば、「一切衆生悉有仏性」、「衆生即仏性」ということが本当に解ることが、天眼を得て遠く観ることが適う、という内容です。人間は本来的にいえば凡夫では断じてありません。ところが「悉有仏性」が見えず、自他の本質を凡夫だと誤って卑めることこそが凡夫の行状なのです。
 仏法を説いているふりをしながら、経典の意を曲げ、衆生の本性を凡夫だと卑しめる「五姓各別」等の差別・邪見こそが、「邪見驕慢悪衆生」、「獅子身中の虫」の姿に他ならないのです。
(参照:{令得天眼の願}{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか?}

4)西方≠ニは何を意味しているのか

 以上のように、安楽国・極楽は本来無辺際であって、「西方」と説く必要はありません。覚ってみればあらゆる場が極楽浄土です。娑婆といえど穢土といえども、このどこを取っても安楽国を映しています。娑婆を娑婆と照らしているのが浄土、そして浄土を浄土と示すのが娑婆です。娑婆と浄土は正反対の内容でありながら、互いを映し出すことにおいては表裏一体になっているのです。

 しかし、まだ覚っていない衆生に「ここを離れて極楽はない、今この場こそ浄土」と説いても、迷っている衆生が見る「ここ」は極楽ではありません。前に述べたように、衆生の考える「ここ」は仏の示したい「ここ」とは違います。相手の機(世界観)の相違が浄土を指す方向を決定するのです。仏の「ここ」は、衆生にとっては「彼の地」となります。
 すると、衆生に極楽を説く場合は「ここ」ではなく、別の方向を向いて「彼の地」に願いをかけさせねばなりません。そこで選ばれたのが「西方」です。

 では東西南北上下の六方の中で何故「西方」が選ばれたのでしょう?

 実はこれはかなりの難問です。覚りを得て、衆生の心根を見据えた上で「西方」と決められたのですから、情緒的なことも考慮して答えを導かねばならないでしょう。
 以下、諸師のお示しを列挙し、味わいを深めてみたいと思います。

天地はじめて開くる時、いまだ日・月・星辰あらず。たとひ天人来下することあれども、ただ項の光をもつて照用す。その時人民多く苦悩を生ず。ここにおいて阿弥陀仏、二菩薩を遣はす。一は宝応声と名づけ、二は宝吉祥と名づく。すなはち伏羲・女窒アれなり。この二菩薩ともにあひ籌議して第七の梵天の上に向かひて、その七宝を取りてこの界に来至して、日・月・星辰二十八宿を造り、もつて天下を照らしてその四時春秋冬夏を定む。時に二菩薩ともにあひいひていはく、〈日・月・星辰二十八宿の西に行く所以は、一切の諸天・人民ことごとくともに阿弥陀仏を稽首したてまつれ〉となり。ここをもつて日・月・星辰みなことごとく心を傾けてかしこに向かふ。ゆゑに西に流る。

『須弥四域経』(『安楽集』39巻下に引用) より

【聖典意訳】:天地が初めてできた時、まだ日月や星がなかった。たとい天人が下ってくることがあっても、ただ[うなじ]の光を用いて照らしていた。その頃の人々は多く苦しみ悩んだ。そこで阿弥陀仏が二菩薩をおつかわしになった。その一人は宝応声[ほうおうしょう]といい、他の一人は宝吉祥[ほうきっしょう]という。すなわち支那の伏羲と女禍とがこれである。この二菩薩は共に相談して第七の梵天に行き、その七宝を取って此の世界に持ってきて、日・月・星辰・二十八宿を造って、天下を照らし、春秋冬夏の四季を定めた。ときに二菩薩が共にいうには、「日・月・星辰・二十八宿がみな西に行くわけは、すべての諸天人民にことごとく共に阿弥陀仏を礼拝させるためである」と、こういうわけであるから、日・月・星辰はみな悉く心を傾けて西に向かう。ゆゑに西へ運行するのである。

 太陽も月も星々も全ては西に向かって動きます。これは一切万物が往く処≠ニ同じ西方に畢竟依[ひっきょうえ]≠ェあることを示しています。ですから西方にある浄土こそ最終的・究極的に全ての生命の依りどころとなる場である、と明かされるのでしょう。

 また先師は――東方は若い血をたぎらせ、団結して現実を浄土に変革する≠ニいう革命的行動を誘発することを覚りとするのに対し、西方はあくまで組織を離れ一人になり現実の喧騒から一歩身を引いてみた時、「わが魂の底深く」(※註:魂と霊魂は違う)より呼び覚まされることを真の覚りとした、という違いも明かされます。

 阿弥陀の浄土が西にあるということは、アシュクの浄土が東にあるということを念頭に入れておかねばならぬ。<中略>アシュクの浄土が東にあり、アミダの浄土が西にあるということは間違いない。東と西の違いは、今日では理性の発達でたんに方向の違いと理解されているようですが、二千年昔の人々には感覚の相違で、阿弥陀の浄土は西にあると聞けば、生活感情を以て文句なしに頷けたのでしょう。
 朝露を踏んで野良に行く。東の空が明け初める頃、真紅に燃えてあかあかと耀く曉の光の下では、八十の老翁も手を振り足を伸ばして、力の限り羽ばたいてみたい若い血潮が全身に[みなぎ]るでしょう。「見よ、東海の空明けて、旭日高く輝けば、天地の精気溌剌と希望は躍る」、それが東の感覚です。地上に浄土を打ち建てんとするアシュクの妙喜国が東にあるとは、この感覚で説かれたのでしょう。

 一日の疲れを覚えて鍬を杖に立ちながら、あのやわらかな夕日の光を仰ぐ時、誰がわが来し方、世界の行く末を思わぬ者があるでしょうか。<中略>眼の前のことのみに心奪われている私たちを駆って、この孤独の中に立たしめる、それが西の感覚です。
 西の光によって呼び醒まされた魂、これこそ無始よりこの方 見失っていた本来の自己であり真実の我です。この今新たに目覚めた心に聞こえて来る「おいおい」という声なき声、今初めて聞く声ではあるが、久遠の昔より「わが魂の底深く 名告り続け」呼び続けていた声です。全人類、生きとし生けるものみなの魂の底に響き渡っているこの声、私たちが今まであくせくと追い求めていたものを全てを否定して、「世間虚仮」、「よろずのこと皆もって空ごとたわごとまことあることなし」と、投げ出さしめて止まぬ光、この声なく声、光なき光、微かなれど力強い、その真実であることを疑うことのできぬ至高の権威。これこそ「わが魂の底深く名告り続ける久遠の」如来の声であり、魂の故郷、浄土の光です。
<中略>
人間の煩悩によごされていない自然も美しいが、人間の真心の染み着いた行為的世界はもっと美しい。美しいものは景色や花だけではない、見ている自分の眼も顔も、昔の猿のままではなく、これらは皆先祖が永い歴史を通して造り上げた、青い色には青い光、赤い色には赤い光の蓮華蔵荘厳世界と称えられた行為的世界の「本願成就の報土」です。「人声やこの道帰る秋の暮」。

「西方の感覚と夕方そのもの」八葉通信15号/無峰 より

 朝からずっと汗を流して働いて、日が暮れかけてふと西方を見ると、厳かな夕日が私を照らしています。そこには組織を離れて一人になった私の本音や人々の心象風景が映し出されているのではないでしょうか。十方世界の中心であり、あらゆる生命が往き願う「安楽」の場をあえて「西方」と定められた仏意は、心ある者ならば各自の胸に響いているのではないでしょうか。

<仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり>
(釈尊が仰せになる。「さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている)
「ここ」が空間的な場所でないのと同様、「十劫」も物理的時間を指すのではありません。本願成就の功徳が私に至り届いた「今・今・今」を自覚し、仏徳讃嘆で「念仏申さん」心が起きたその時、久遠の歴史が具体的に足元から働いてくるのです。「今」の内容の中に「劫」(久遠の歴史)が全て宿っていることが自覚できた。「十」は満数ですから、この自覚の円満成就を「十劫」と称えるのでしょう。

 浄土の基本的な内容

註釈版
その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコH碼碯、合成して地とせり。恢廓曠蕩にして限極すべからず。ことごとくあひ雑廁し、うたたあひ入間せり。光赫焜耀にして微妙奇麗なり。清浄に荘厳して十方一切の世界に超踰せり。衆宝のなかの精なり。その宝、なほ第六天の宝のごとし。またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず。また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし。また四時の春・秋・冬・夏なし。寒からず、熱からず。つねに和らかにして調適なり」と。

現代語版
 その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・瑪瑙などの七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがない。そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい。そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている。さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである。またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる。また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もない。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である」

<その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコH碼碯、合成して地とせり>
(その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・瑪瑙などの七つの宝でできており)
 浄土の七宝は具体的に何かといいますと、七財(七聖財[シチショウザイ]・七法)や七菩提分[シチボダイブン]七覚分[シチカクブン]七覚支[シチカクシ])などの果報だと言われています。「自然」とは「必然」ということであり、宝を持ち込んで飾ろうとする人がいるわけではないのに宝が生まれる。ものや物事を生かす智慧によって宝と成る。浄土の菩提心が個々の人間に至って信心となり、打ち出の小槌のように宝が生まれることをいいます。
 七財は「信・戒・慚・愧・聞・捨・慧」を言います。

「信」とは、尊信で、自分を信じ、相手を信じ、この世を信ずること。私のようなものでも、まことの法に遇えば、心の眼が開け、相手の尊さが解り、この世に浄土の華が開くに違いないことを信ずること。
「戒」とは、信の花がわが身に咲くように、身を大切にし、行いを慎しむこと。
[ザン]」とは、常に「わが魂の底深く名告り続ける久遠の願い」である四十八願に呼びさまされて、人間としてまた社会人として、絶えずわが身の生き方を反省させられること。
[]」は、絶えず自分の本心の声に耳を傾け、自分の本心を偽らぬように生きること。
「聞」は、先覚者から正しい道を聞き、またどんな人からも、どんな出来事からも、常に自分の生きる道を聞き、正しい人生観を身につけようとすること。
「捨」は「施」ともいわれて、自分の全てを挙げて、全人類の幸せ、全世界の平和を念じて、人間の成就と社会の荘厳と歴史創造に生き、自分のすることには私心を挟まず、したことには誇らず、また恩着せがましい心を離れること。
[]」は空っぽの智慧といわれていますが、ただ我執がなく、色眼鏡がとれて、あるがままの相が見えるという鏡のような慧ではなく、自分が置かれている歴史的現実において、歴史的に形成されて来た社会的宿業と浄土が見え、魂の底深くに名告り続けて止まぬ久遠の願いに動かされて、主体的に自分の全身に宿された三十五億年の歴史の華を咲かせ、新しい歴史を創造する智を産み出すまごころの慧です。

島田幸昭著『阿弥陀経探訪』 より

 七財はまた「信・戒・施・聞・慧・慙愧・不放逸」、「信・戒・施・聞・慧・慚・愧、かくのごとき七法を聖財と名づく」との説明もあります。
 さらに「七宝」を「七菩提分(七覚支)」と解すれば、これは以下の覚りを得るために役立つ七つの事柄≠ナあり、覚りに導く七項目・行法≠宝とします。
(1)択法覚支[チャクホウカクシ]
教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる。
(2)精進覚支[ショウジンカクシ]
真の正法を択び取ったらそれに専念し精進する。一心に努力する。
(3)喜覚支[キカクシ]
真実の教えを実行する喜びに住する。
(4)軽安覚支[キョウアンカクシ]
身心を常にかろやかで快適な状態に保つ。
(5)捨覚支[シャカクシ]
対象へのとらわれを捨てる。なにごとにも執着しない。
(6)定覚支[ジョウカクシ]
心を集中して乱さない。
(7)念覚支[ネンカクシ]
常に禅定と智慧を念じ、おもいを平らかに偏見をもたない。
 しかし因位における願文
{妙香合成の願}には「みな無量の雑宝」によって浄土の依報荘厳が成立することが願われています。これを鑑みれば、七宝の七はあくまで満数を超える無量の意≠宿した数字として象徴的に用いられると領解できるでしょう。

<恢廓曠蕩にして限極すべからず>
(実にひろびろとして限りがない)
 これは、迷いの娑婆世界では自然環境や社会環境や国境等の問題によって、人的・文化的交流が偏狭なものに閉じ、心の隔たりが生み出されているので、浄土の開かれた環境の徳によって、浄土往生を願う衆生の心を大きく開くことをいいます。狭小な環境や境涯を打ち破ってゆこうとする力が浄土から振り向けられるのです。

<ことごとくあひ雑廁し、うたたあひ入間せり。光赫焜耀にして微妙奇麗なり>
(そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい)
 宝はその宝のみを美しく輝かすばかりではありません。互いにはえ合い映しあってより輝きを増すのです。人生は、たった一つの宝が多方面に影響を現すことがよくあります。これを一人の人間に譬えれば、一つの物事に通じることができれば多方面に通じるようになることを言うのでしょう。語学の世界に堪能になればその成果は語学に留まらず、歴史の理解や科学の理解にも役立つでしょう。芸術を学べば哲学の理解にも反映されますし、政治が解れば宗教の理解も深まるものです。こうした才能が生かされるのも真心の智慧によるもので、これが浄土の功徳の一つなのです。
 またこれを組織で譬えれば、一人の人の成果が他の人にも力となり、一つの部署の成功が他の部署にも好影響を与えるということもあるでしょう。互いの智慧や才能がコラボレーションし、協和した際の効果は絶大です。しかも協和するのは才能ばかりではありません。互いの欠点も補完され長所同様に生かされ、個性が引き出され、互いに飾られ映えあうのです。そのためには、笑いたい時には思い切り笑うことができ、泣きたい時には思い切り泣ける、浄土はそうした環境でもあります。さらには、和して同ぜずの自主性が保たれつつ、互いに尊敬しあい、影響を与え合うことが適う環境でもありましょう。このように浄土の功徳は清らに映えつつ重なりあって美妙なはたらきをみせるのです。

<清浄に荘厳して十方一切の世界に超踰せり>
(そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている)
 浄土のはたらきを総合的に言えば清浄と荘厳の二つで、清浄とは煩悩に汚されず心をよくコントロールすること、荘厳とは人生を飾って自分と社会環境を創造していくことで、この内容が欲界・色界・無色界の三界や諸仏の世界に超え優れていることを言います。ただし清浄といっても、『維摩経』に「高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ず」とある通り、煩悩の泥田に根を張ってそれを養分としながら、泥田に染まらぬ美しい人生の華を咲かせることを勧めるのです。『出三蔵記集』(鳩摩羅什伝)には「たとえば臭泥[しゅうでい]の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華を採りて、臭泥を取ることなかれ」とある通りです。

<衆宝のなかの精なり。その宝、なほ第六天の宝のごとし>
(さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである)
第六天とは他化自在天[タケジザイテン]のことであり、欲界の最高処で、他の天界の神々がつくり出した欲境(欲望の対象)を自在に受けることができる境涯です。しかし第六天は魔王の住処でもあるため魔天ともいいます。浄土の宝を譬えるのに魔天である第六天を持ち出したのは、私たち衆生は欲界にどっぷりと浸かっているため第六天を超える宝は宝として認識することができない、という理由からでしょう。
 その証拠に同経には、「第六天上の万種の楽音、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声にしかざること、千億倍なり」(『仏説無量寿経』15 巻上 正宗分 弥陀果徳 道樹楽音荘厳)、「たとひ第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞に比ぶるに、光顔・容色あひおよばざること百千万億不可計倍なり」(『仏説無量寿経』19 巻上 正宗分 弥陀果徳 講堂宝池荘厳)ともあり、浄土の宝は第六天の宝とは比べ物にならないほど優れていることが真意なのです。
 具体的に浄土と第六天と違いを述べてみますと、世俗の世間では、先入観で固まった頑迷な優劣がはびこり、この優劣に従って上下が固定化・実体化され、評価が下されることになります。しかも評価する側の「ものさし」に合った事柄が評価され、そうでないものは排除されるのが社会の実態でしょう。
 比べて浄土の衆生は全身が喜びに輝く「不断の智的快活」として真金色の姿であり、また「青色青光、黄色黄光」の個性が輝き照らしあう世界です。差異が上下の評価で固定化されず、互いの特徴が生かされ、映えあって響く社会になってほしい、という願いが成就した環境が浄土です。こうした浄土の伝統が土徳(環境の徳)となって、優劣に悩む人々の問題を高度に解決し、人々を社会的・歴史的視野に立った覚りに導くのでしょう。
 何度も言いますが、浄土と娑婆に物や場所の違いがある訳ではないのです。ただ、目の前に存在する人や物や物事を見る眼が違うのです。物の深みを見る眼がなければ、どんな尊い宝も色や特徴が現われません。深い音を聞く耳がなければ、どんな尊い言葉も心に響きません。欲望に駆られた眼には、浄土の妙なる色は見ることが難しいのです。自分の都合や好き嫌いを募らせていては、本当の満足は得られないのです。ただ一つ、浄土回向の菩提心のみが、浄土の深い妙色を見さしめ、本当の満足を得る果報を生むのです

<またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず>
(またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる)
 このことについては二段階に見る必要があるでしょう。
 まずは、後にでてきます「そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す」という内容に素直に添えば、阿弥陀仏の浄土は、山や海や谷やくぼ地などのような地図上の場所や自然環境を指すのではなく、あくまで清浄・荘厳なる「行為的世界」であり、仏性の歴史が報いた文化文明世界を述べている、と読み取ることができます。しかも社会をよく観察すれば、そうした「行為的世界」「歴史的世界」の中にも地形的環境の影響を読み取ることができる。山で暮らしてきた人々の歴史と海での歴史は違います。それを<見んと欲へばすなはち現ず>と説いたのでしょう。
(参照:{初めて往く極楽浄土がなぜ「魂の故郷」と表現されるのでしょう?}
 しかし同時に、山や谷を地形としてのみとらえるのではなく、人々の境涯や人生に影響を与え続けるものとして理解することもできます。すると、山あり谷ありの人生に振り回されたり、お山の大将的な生き方になりがちなところを批判し、矮小な世界観を翻していくのが浄土のはたらきの一つである≠ニ理解することも可能でしょう。

<また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし>
(また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく)
 これは本願の中でも総願として第一に「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」と{無三悪趣の願}が述べられているように、浄土のはたらきの肝心要がこの三悪道の解決にあります。ちなみに地獄とは、様々な社会苦や社会悪であり、餓鬼は、我欲に執われ特定の思想や領解に固執した頑迷者、畜生は、奴隷根性が抜けず問題意識の無い愚か者を指し、またそうした問題点がはびこる環境を言います。

<また四時の春・秋・冬・夏なし。寒からず、熱からず。つねに和らかにして調適なり>
(春夏秋冬の四季の別もない。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である)
 このことについても先の須弥山同様、二段階に見る必要があるでしょう。
 まずは、四季や風といっても、暑さ寒さや地面を吹きぬける風のことを言っているのではなく、人生の波風を譬えているのであり、それに対して「和らかにして調適なり」は、浄土の功徳善力を説いているのです。
 さらには、自分がどんな境地に達していたとしても、人生には順風満帆な時もあれば、逆風や暴風が吹き荒れる時もあります。最悪は「地獄の業風」までも吹き荒れるのが人生でしょう。しかし、こうした荒れた風を受けたとしても、受ける側がそれをどう受け止めるか、ということで全く趣が異なってしまいます。浄土の功徳が回向されれば、地獄の猛火さえ「風と変じて涼し」で、恐ろしい人生顛倒の熱風・寒風・暴風さえ涼風に転じられていきます。
(参照:{「極楽の余り風」の本当の意味}

 なお、<そのときに阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王およびJ利天、なにによりてか住する>以下は、順を変えて↑{ここを去る≠ニかこれより≠ニ言われるここ≠ヘ一体どこか}で詳説させていただきましたのでここでは略します。

(その他参照:「荘厳清浄功徳成就」「荘厳量功徳成就」「荘厳妙色功徳成就」 「荘厳地功徳成就」「荘厳虚空功徳成就」

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