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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』29
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生果2
この章で重要なのは、浄土の菩薩は供養が供養に留まらず、聞法に展開してゆくという点です。
真実念仏者である浄土の菩薩が為すべき法式について、経では「相好成就[」、「諸仏供養」、「聞法(無量寿仏の法を聞く)」「菩薩自身の説法」の四つを挙げていますが、前章では「相好成就」(三十二相を具足)と「諸仏供養」が説かれ、前者のために普賢[の徳を修すること、後者のために十方無量[の世界に往詣[することが説かれていました。
そこで今章は「聞法(無量寿仏の法を聞く)」の実際を学び、次章では「菩薩自身の説法」を学びます。
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 29
仏、阿難に語りたまはく、「無量寿仏、もろもろの声聞・菩薩の大衆のために法を班宣したまふ時、すべてことごとく七宝の講堂に集会して、広く道教を宣べ妙法を演暢したまふに、〔聞くもの〕歓喜し、心に解り、道を得ざることなし。即時に四方より自然に風起りて、あまねく宝樹を吹くに、五つの音声を出し、無量の妙華を雨らす。風に随ひて周遍して自然に供養すること、かくのごとくして絶えず。一切の諸天、みな天上の百千の華香・万種の伎楽を齎つて、その仏およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を供養したてまつる。あまねく華香を散じ、もろもろの音楽を奏し、前後に来往して、かはるがはるあひ開避す。この時に当りて〔大衆の〕熙怡快楽すること、勝げていふべからず」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 29
さらに釈尊[が阿難[に仰せになる。
「無量寿仏[が声聞[や菩薩[たちに法をお説きになるとき、すべてのものは七つの宝で飾られた講堂に集まる。そこでひろく教えを説き、すばらしい法をお述べになると、これを聞いてみな喜び、心に受けとめて、さとりを開かないものはない。そのとき、あたり一面からおのずから風がおこって宝の樹々に吹きわたると、さまざまな音を出し、数限りなく美しい花を降らし、その花が風に運ばれて国中に散りしかれる。このような供養がおのずからおこり、絶えることがない。また天人はみな、数えきれないほどの香り高い花や万にものぼるさまざまな種類の音楽で、無量寿仏をはじめ菩薩や声聞たちを供養する。香り高い花をひろく散らし、さまざまな音楽を奏で、自由に行き交うのであるが、そのときの快さ楽しさはとても言葉にいい尽くすことができないほどである」
- 註釈版
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仏、阿難[に語りたまはく、「無量寿仏[、もろもろの声聞[・菩薩[の大衆[のために法を班宣[したまふ時、すべてことごとく七宝の講堂に集会[して、広く道教[を宣[べ妙法[を演暢[したまふに、〔聞くもの〕歓喜[し、心に解[り、道を得ざることなし。
- 現代語版
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さらに釈尊[が阿難[に仰せになる。
「無量寿仏[が声聞[や菩薩[たちに法をお説きになるとき、すべてのものは七つの宝で飾られた講堂に集まる。そこでひろく教えを説き、すばらしい法をお述べになると、これを聞いてみな喜び、心に受けとめて、さとりを開かないものはない。
これは、浄土に生まれた菩薩の特典として無量寿仏(阿弥陀仏)の直説を聞くことができる≠ニいうのですが、果たして無量寿仏の説法を直接聞いた人はあるのでしょうか。あるとすればどんな教えなのでしょう。
<無量寿仏[、もろもろの声聞[・菩薩[の大衆[のために法を班宣[したまふ時>
(無量寿仏[が声聞[や菩薩[たちに法をお説きになるとき)
ここに「班宣」とあります。これは「班は分かつの意で、仏が相手の能力に応じて、法を分けのべること」でありますから、仏は相手の状態を見極め、どうすれば着実に成長できるかを考えて指導することを言うのでしょう。自分の知識をひけらかすような説教は時として相手に迷惑がかかることもあります。本当のことだったら何をしゃべっても良い≠ニいうことにはならないわけで、仏の説法は、相手の年に応じ、個性や立場、身心の状態などを考慮して宣[べられるのです。
ところで、無量寿仏の直説は私にも聞こえるのでしょうか。
ここでは、無量寿仏は「もろもろの声聞[・菩薩[の大衆[のために」法を説くとあり、『仏説阿弥陀経』には「いま現にましまして法を説きたまふ」とあります。このように無量寿仏は今現在、一切大衆のために法を説いてみえるのですから、私たちにその直説が聞こえてこないわけがありません。
この真意を探れば、前章に説かれた「諸仏供養」が関係していることが解るでしょう。「経法[を聴受[して歓喜すること無量なり」との文言がありましたが、恭敬供養[は相手の人生観を尊びそこに法を見出すということに他ならず、これがそのまま無量寿仏の直説となるのです。釈尊が説いても無量寿仏の直説であり、親鸞聖人や蓮如上人が仰られても弥陀の直説、周囲の人たち、たまたま出会った人たち、子どもからお年寄りまで、真剣に人生を問えば相手はちゃんと応えてくれます。応えていただいた内容がそのまま弥陀の直説。たとえ言われた言葉には間違いがあっても、内容が不充分であっても、問う側の諸仏供養が成就していれば、仰られた一言ひとことの奥に無量寿仏の直説の響きが聞こえてくるのです。弥陀の直説が聞こえないのは、相手の言う言葉の一々にひっかかったり、その時その時の悪感情に執着してしまうからでしょう。
また、如来の直説は人間に限ったことではなく、『仏説阿弥陀経』3には――「かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。このもろもろの鳥、昼夜六時に和雅の音を出す。その音、五根・五力・七菩提分・八聖道分、かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この音を聞きをはりて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。<中略>このもろもろの鳥は、みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して、変化してなしたまふところなり」とあります通り、阿弥陀仏は鳥に変化して(化身)までも法を説かれてみえる。さらに言えば「非情説法」、たとえば「草木国土悉皆成仏[」という言葉もあります。また『続伝灯録』には「渓声[はすなわちこれ広長舌[、山色豈[に清浄身[ならざらんや」(谷川を流れる水の音はそのまま仏陀の説法であり、気高くそびえ立つ山の姿がどうして仏陀のお身体でないはずがあろう)という東坡[の言葉が見えます。大乗仏教では人間も動物も草木や国土までもみな仏として尊ぶのです。
ただし、この言葉に執われ自分も本来は仏である≠ニ決め付けてしまうと極端な本覚思想になってしまい、これは堕落につながります。なぜならこれは、相手の言動や内容が仏そのものであると言っているのではないからです。全ての生命は仏の寿命を受け継いでいるのですが、衆生はその本来を覚らず迷いに迷って生きています。しかし浄土の菩薩は、迷いの奥に無量寿仏の直説を聞くことができる、それゆえ恭敬供養[を行なう中で相手を諸仏と見、法を聞かせていただけるのです。
<すべてことごとく七宝の講堂に集会[して>
(すべてのものは七つの宝で飾られた講堂に集まる)
「七宝の講堂」は{弥陀果徳 道樹楽音荘厳}に「無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里、その本の周囲五十由旬なり」とあり、親鸞聖人は「七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり 十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし」(浄土和讃35)と称えてみえます。この「方便化身の浄土」は「嘘」とか「仮の」という意味ではありません。「仏に成る方法・道程」という意味での「方便」でしょう。また{弥陀果徳 講堂宝池荘厳}には「講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す」とあります。
「講堂」には二種の意味があり、ひとつは「都市の公会堂」、もう一つは「経典を講じたり、法を説いたりする建物」で、ここでは主に後者を指します。ただし広義で「都市の公会堂」と理解しても良いでしょう。公会堂は常に開かれていて、いつでも誰でも中に入って休息することができ、宗教行事も行われる場所で、釈尊も各地の公会堂で説法したことがありました。ですからこの「講堂」は、法が講じられる場≠ナあると同時に法を広く論じる場≠表していると言えるでしょう。また、現実に建てられた講堂ばかりが講堂ではなく、聞法の志がある者にとっては、あらゆる状況、あらゆる場所が法が講じられる講堂となります。先の東坡には「無一物中無尽蔵[、花有り月有り楼台[有り」(何もないところにこそ限りないものが包まれている。花もあれば月もあり、楼閣もある)という有名な語がありますが、これは出家としての境地であり、在家浄土教においては「一々物中無尽蔵」と領解できるでしょう。
「七宝」は、七財(七聖財[・七法)や七菩提分[(七覚分[・七覚支[)などの果報だと言われていますが、こうした限定されたものというより無量の宝≠ニいう意味でもあります。
(参照:{弥陀果徳 十劫成道「#浄土の基本的な内容」})
「集会」は、諸仏が集会する、皆が集うということです。すると「すべてことごとく七宝の講堂に集会[して」とは、実際にどこかで集会を開いて大々的な法話会を催す≠ニいう意味にとらえがちですが、そうではありません。聞法は恭敬供養を通して我が身一人においてするのですが、我が身一人の聞法であっても一即一切で、それがそのまま一切衆生を抱き込んだ法であることを意味するのです。
<広く道教[を宣[べ妙法[を演暢[したまふに、〔聞くもの〕歓喜[し、心に解[り、道を得ざることなし>
(そこでひろく教えを説き、すばらしい法をお述べになると、これを聞いてみな喜び、心に受けとめて、さとりを開かないものはない)
これは恭敬供養によって、三世一切の諸仏衆生、森羅万象[全てから教えをいただくことがそのまま無量寿仏の直説となる、弥陀の直説として聞こえるということを言います。ここで大事なのは、無量寿仏がすばらしい法をお述べになる≠ニいうことではありません、聞くことができる≠ニいう事が肝心なのです。このことは、注釈本にはわざわざ「〔聞くもの〕歓喜[し」と、「聞くもの」が挿入してありますが、漢文の経典では「広宣道教 演暢妙法 莫不歓喜 心解得道」で、聞くことは当然のこととして略してあります。
いかなる名画もそれを見抜くことがなければ絵の具の集積に過ぎず、いかなる名曲も楽しみ聞くことがなければ音の羅列に過ぎません。感動が互いに感応して名画となり名曲となるのです。同様に、無量寿仏の直説も、法を受け入れ身心に響かせる聞法精神がなければ、だらだらと流れ去る現実に過ぎません。「聞くもの」でなければ「歓喜[し、心に解[り、道を得」ることが出来ないのです。このように信心によってあらゆるものが活かされるのですから、信心が重要ということは聞法においても言えるのです。
- 註釈版
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即時[に四方[より自然[に風起りて、あまねく宝樹[を吹くに、五つの音声[を出[し、無量の妙華[を雨[らす。風に随[ひて周遍[して自然に供養[すること、かくのごとくして絶えず。
- 現代語版
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そのとき、あたり一面からおのずから風がおこって宝の樹々に吹きわたると、さまざまな音を出し、数限りなく美しい花を降らし、その花が風に運ばれて国中に散りしかれる。このような供養がおのずからおこり、絶えることがない。
「風」や「宝樹[」「五つの音声[」「無量の妙華[」などと説かれていますが、これは何を表しているのでしょう。中身が知りたいところです。
実はこれに相当することは既に上巻にあり、「自然[の徳風[やうやく起りて微動[す。その風、調和にして寒からず、暑からず。温涼柔軟[にして、遅からず、疾[からず。もろもろの羅網[およびもろもろの宝樹[を吹くに、無量微妙[の法音[を演発[し、万種温雅[の徳香[を流布[す。それ聞[ぐことあるものは、塵労垢習[、自然に起らず。風、その身に触るるに、みな快楽を得。たとへば比丘[の滅尽三昧[を得[るがごとし」と、浄土の衆生を荘厳(浄めつつ創造)する浄土の土徳として紹介されています(参照:{弥陀果徳 眷属荘厳4「#地獄の猛火も涼風に変える徳})。
要点だけ述べますと――
「即時[に」とは、衆生・森羅万象が弥陀の直説として聞こえたその時に=A
「四方[より自然[に風起りて」とは、四方八方から吹いてきた恐ろしい人生顛倒[の熱風・寒風・暴風・地獄の猛火も浄土の徳により涼風に転じられて=A
「あまねく宝樹[を吹くに」とは、如来回向の信心や念仏生活を通せば=A
「五つの音声[を出[し」とは、宮商角徴羽[の不協和音のように互いに相破りながら相和し=i破調和如来)、
「無量の妙華[を雨[らす」とは、限りないまごころの智慧が咲いた曼陀羅華[で世間を彩[る=A
「風に随[ひて周遍[して自然に供養[すること、かくのごとくして絶えず」とは、このように浄土の徳風に道心をもって随えば、おのずから一切衆生を敬い、永く諸仏供養を果たすことになる≠アとを言います。
仏教のみならず多くの宗教では、人生、何をもって幸せとするのか≠ニいう問いを持ち続け、それに真摯に応えてきた歴史があります。
これを一般大衆に聞けば、大方財産と健康があれば幸せだ≠ニ答えるでしょう。また趣味や遊びの時間≠烽オくは学問的哲学的追及≠ニいう答えがあるかも知れません。さらには地位や名誉も必要≠ナあり、自分だけではなく、家族や親族、会社や国家、世界全体が永く安泰なこと≠ニ答える人がいるかも知れません。
確かにそれぞれの内容が幸せを膨らます要素ではありますが、求め過ぎてしまうと逆に苦痛の種ともなってしまいます。たとえば、財産を求め過ぎても、不景気になれば収入が減ったり会社を解雇されてしまいますので激しい執着は避けるべきでしょう。同様に老病死を免れることのできる人は誰もいませんので、健康を幸せの絶対条件にすれば人生は不幸へ向かう道すがら≠ニいうことになってしまいます。さらに、忙しくて趣味や学問に没頭できないこともあれば、良かれと思ってした事も他人から誤解され非難されることもあります。世界平和も、求めること自体は尊いのですが、本当の幸せとは何か∞どのように平和を実現するのか≠ェ解らないまま活動すれば、相手に迷惑をかけ事態を悪化させることにもなりかねません。実際に近代の世界史を振り返れば、様々なイデオロギー対立により憎悪が増し、改革や革命の名のもとに文化や生命を破壊し、人類全体として持っていた伝統の宝を次々と失ってしまいました。
このように、無常の風や人生顛倒[の風が吹く中では、人生何が起こるかわからず、大衆の求めは苦痛の種となっているのですが、ここで無量寿仏の直説を聞けば、幸せは今、私が、この状況で、生きて生活する中にこそある≠ニ聞こえてきます。これが浄土の聞法です。
浄土の聞法は、枯れ木に花を咲かせる花咲爺のように、彩りのない人生に彩を供え、打ち出の小づちのように無限に宝を生み出し、意見を闘わせる相手とも相和していくことができます。恭敬供養[の志によってのみ自他が生き、相破りながら相和す中で互いが学び、本当に世界平和が実現するのです。しかもそれは、あてのない明日や過去のことではなく、今私が立っている現実そのものが幸せの宝の山になる。「生きて甲斐あり 死んで悔いの残らぬ人生が尊い」と島田幸昭師は仰いましたが、これが本当に世界平和を実現する原理でありましょう。
- 註釈版
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一切の諸天[、みな天上の百千の華香[・万種[の伎楽[を齎[つて、その仏およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を供養したてまつる。あまねく華香を散[じ、もろもろの音楽を奏し、前後に来往[して、かはるがはるあひ開避[す。この時に当りて〔大衆の〕熙怡快楽[すること、勝[げていふべからず」と。
- 現代語版
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また天人はみな、数えきれないほどの香り高い花や万にものぼるさまざまな種類の音楽で、無量寿仏をはじめ菩薩や声聞たちを供養する。香り高い花をひろく散らし、さまざまな音楽を奏で、自由に行き交うのであるが、そのときの快さ楽しさはとても言葉にいい尽くすことができないほどである」
前章は念仏者が行なう諸仏供養でしたが、この章では念仏者自身が供養される立場になります。供養は一方通行ではなく相互に為されるところが尊いのです。前節「即時に四方より」から説かれた供養の内容も、主体は念仏者だけではなく「一切の諸天[」も含まれているでしょう。
「諸天」とは、{弥陀果徳 眷属荘厳3#2}や{『論註』荘厳妙色功徳成就#2}、{『論註』荘厳清浄功徳成就#3}に紹介しましたように、一般的には三界・六道の迷界のうちで最高最勝な有情[の生存、あるいはその有情、あるいはその有情の生存する世界のことで、ほぼ「神」の語に当たる≠フですが、ここでは念仏者を守る神的存在≠ニいう意味で使用されているようです。例えば『浄土和讃』100には「南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王[・帝釈帰敬[す 諸天善神[ことごとく よるひるつねにまもるなり」とあります。
さらに「諸天」は、私たちを守り導く先祖≠ニいう意味もあるでしょう。なぜなら、念仏者が諸仏現前三昧[において目の当たりにする存在は全て無上菩提心[を発[していているからです。ただしこれは、生前同様に先祖はどこかに生存していて子孫を守り導く≠ニいう意味ではありません。先祖の遺徳を通してのみ、私たちの胸に宿った法蔵精神が見出される≠アとを言うのでしょう。浄土は空想世界ではありません。
『仏説観無量寿経』31には、五百の侍女、阿耨多羅三藐三菩提心[を発して、かの国に生ぜんと願ず。世尊、ことごとく、「みなまさに往生すべし。かの国に生じをはりて、諸仏現前三昧[を得ん」と記したまへり。無量の諸天、無上道心を発せり≠ニあります。これは少なくとも天乗(死後、天に生まれるための因である勝れた十善、四禅八定[を説く教えを天乗という)を満たしているわけですから、互いを敬うことができるわけです。
このように、私が無量寿仏の法を聞かせてもらうことは、自分はもちろん、先祖にとっても何よりの喜びとなるのです。なぜなら、私は死後に何を喜びとするか≠考えてみれば解るでしょう。諸行は無常ですが仏は常住です。子々孫々まで法灯が広がることこそ当来における喜びなのです。道綽禅師は「前[に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪[へ、連続無窮[にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」(安楽集184)といわれました。聞法によって智慧が次々と生まれてくることが自他の人生を潤すのです。
ではどのように仏・菩薩への供養が行なわれるかというと、「みな天上の百千の華香[・万種[の伎楽[を齎[つて」とあります。「華香[・伎楽[」は前章でも述べましたが、「華香」は香り高い花≠ナあり華のような良い香り≠ナ、念仏の功徳がその人の言動を通じて芳[しい香りのように漂うことを言います。また「伎楽」は、供養が仏・菩薩に心地よく回施されることを言います。
「前後に来往[して、かはるがはるあひ開避[す」とは、「開避」は道をゆずること≠ナすから、「天上の百千の華香[・万種[の伎楽[」が交互に行き交っても騒々しい宴[とはならず、整然とした供養の場になるということでしょう。ただし、「この時に当りて〔大衆の〕熙怡快楽[すること、勝[げていふべからず」ということで、「熙怡快楽」は身心ともにやわらぎよろこぶこと≠ナすから、整然としていても堅苦しい供養ではなく、喜びに満ち溢れた供養であることを言っています。
この供養ということは、今までのそういう支えてくださったという過去のもの。これは大体シナのそういう思想で、「烏に反哺の孝あり」という。烏は小さいときに親が子どもを養ってくれたから、子どもは今度大人になったら、子どもが親を養い返すと、こういう思想がシナの思想であります。
インドではそうではないのであります。これは、過去のことをお世話になったというのではなしに、現在年寄りは過去の経験者である。経験豊かな、人生というものを経験豊かに知っておられる。そういう意味において、私は何にも知らない、世の中が解りませんから、こういう意味で相手を尊敬し相手の持っておられるものを、相手の人生経験をこちらが聞かしてもらうという、こういうことが供養である。何がうれしいというても、ただ単に相手を認めてくれるという意味の中に、相手をそういう人生の豊かな経験者であると。その経験といいまして、その道、大工さんなら大工さん、左官さんなら左官さん、そうでなくとも料理なら料理、奥さんなら料理が上手であるとか、あるいはいろんな世間のこと知っておるとか、こういういろんな人生経験の豊かなということにおいて、そこで若い者があなたのそのものを人生において得られたものを教えてくださいと教えを請う。そのために尊敬する、それが供養である。だから、供養ということは相手を尊敬することによって自分が相手から教えを受けるということが言われておるのであります。
だから、『観無量寿経』には念仏という。私らは長い間、この念仏というものが、まだ見たことのない阿弥陀仏という仏さまを拝むこととか、あるいはそういう仏さまの名前を称えることと、こういうふうに言われておりましたけれども、『観無量寿経』では、念仏というのは「無量寿仏を見奉るものは十方の諸仏を見奉る、十方の諸仏を見奉るがゆえに念仏三昧と名づける」と、初めのときは書きまして、だから、念仏三昧ということは仏と仏があい拝み合うこと。それが「仏仏想念」を略して念仏であります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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