『往生論註』巻上
この四句は荘厳虚空功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、煙・雲・塵・霧、太虚を蔽障し、震烈シン 雨の声なり カク 大雨なり 上よりして堕つ。不祥のサイ 天の火なり 霓 屈れる虹、青赤あるいは白色の陰気なり つねに空より来りて、憂慮百端にしてこれがために毛竪つ。菩薩これを見そなはして大悲心を興したまへり。「願はくはわが国土には宝網交絡して、羅は虚空に遍し、鈴鐸 大鈴なり 宮商鳴りて道法を宣べん。これを視て厭ふことなく、道を懐ひて徳を見さん」と。このゆゑに「無量宝交絡 羅網遍虚空 種種鈴発響 宣吐妙法音」といへり。
- 聖典意訳
- 無量の
宝 交絡 して[ 羅網虚空 に[ 遍 ぜり[
種種の鈴 [ 響 きを発して[ 妙法音 を[ 宣吐 す[ この四句を、荘厳地功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳されたのかというと、ある国土をみれば、煙や雲や塵や霧が空を覆いさえぎり、はげしい雷雨が上から落ち、不吉な天火や虹が空からきて、憂いが多く、これがために身の毛がよだつ。法蔵菩薩は、これを見られて大悲の心をおこされ、「わが国土は、宝の網をめぐらして空を覆い、大小の鈴がいろいろの音を立てて尊い法を説き、これをながめてあくことなく、さとりの道を心に念じ、その徳をあらわさせよう」と願われた。こういうわけで「無量の宝交絡して 羅網虚空に遍ぜり 種種の鈴響きを発して 妙法音を宣吐す」といわれたのである。
「荘厳三種(水、地、虚空)功徳成就」の第三、「荘厳虚空功徳成就」。浄土の虚空の詳細を観察します。
『仏説阿弥陀経』には「又舎利弗、極楽国土、七重欄楯、七重羅網、七重行樹……」とありますが、最初の「七重欄楯」は人生を導き、立ち上げる手がかりとなる七重の手すり、最後の「七重行樹」は正定聚の菩薩であり念仏行という意味になります(参照:{荘厳地功徳成就「#七重の行樹と欄楯」})。そして残された「七重羅網」が、以下明らかにする「荘厳虚空功徳成就」の内容です。具体的には、大悲護念のまごころに覆われている浄土を観察します。
無量宝交絡 羅網遍虚空 種種鈴発響 宣吐妙法音
この四句は荘厳虚空功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、煙・雲・塵・霧、太虚を蔽障し、震烈シン 雨の声なり カク 大雨なり 上よりして堕つ。不祥のサイ 天の火なり 霓 屈れる虹、青赤あるいは白色の陰気なり つねに空より来りて、憂慮百端にしてこれがために毛竪つ。
▼意訳(意訳聖典より)
無量の宝 [ 交絡 して[ 羅網虚空 に[ 遍 ぜり[
種種の鈴 [ 響 きを発して[ 妙法音 を[ 宣吐 す[
この四句を、荘厳地功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳されたのかというと、ある国土をみれば、煙や雲や塵や霧が空を覆いさえぎり、はげしい雷雨が上から落ち、不吉な天火や虹が空からきて、憂いが多く、これがために身の毛がよだつ。
漢文は難解な文字が並んでおりますが、要するにこれは、迷いの三界に埋没している私たちに、日々の暮らし全般、日常を覆っているものの内容を問うているのです。
衆生は一日一日を暮らすことに精一杯であり、今日は心穏やかに過ごしたい=A明日は希望を持って暮らしたい≠ニ望むのですが、<煙や雲や塵や霧が空を覆いさえぎり>つまり暗雲が立ち込めていて幸せの見通しは立たず=A<はげしい雷雨が上から落ち>つまり見下げたような無慈悲な罵声が方々から浴びせられ=A<不吉な天火や虹が空からきて>つまり次々のしかかる災厄の連続に日々戦々恐々としていて=A<憂いが多く、これがために身の毛がよだつ>つまり憂鬱なことが多く、そのため身心が傷つき震え、空を見上げて絶望するだけ≠ニいう状態から抜け出すことができません。
一人ひとり背負った宿業は重く、投げ出したくても投げ出せない責任にとらわれ、なぜこれほど苦しい思いまでして生きていかねばならないのか≠ニ嘆くこと幾たび。その幾たび幾たびは何とか超えてここまでやってきた。そしてようやく、やれやれと腰を下ろした途端、また新たな難題が自分に突きつけられ、手順や言葉を誤ったばかりに皆から罵られ、今までの苦労は水の泡と消えてしまった。「悪事は千里を行き、好事は門を出ず」という通り、人は他人の美徳には目を背け、暗部ばかりを探って針小棒大に喧伝する。心許せたはずの友には裏切られ、目をかけていた後輩には恩を仇で返されて希望はなくなった。絶望の淵で、せめても残りの人生は密かに生きるつもりだったのに、なお続く災厄や誹謗中傷の嵐が身に突き刺さってくる。憂鬱で震えが止まらない。このままではとても生きていくことはできない。かといって本能の業により死ぬもできない。どうにもならぬまま閉塞状態が続く。
このように、三界の有様は実に無慈悲で苦しいことばかりが多く、最後は虚しさで一杯になってしまいます。日々を覆う暗雲は深く重く生活を圧迫しています。
菩薩これを見そなはして大悲心を興したまへり。「願はくはわが国土には宝網交絡して、羅は虚空に遍し、鈴鐸 大鈴なり 宮商鳴りて道法を宣べん。これを視て厭ふことなく、道を懐ひて徳を見さん」と。このゆゑに「無量宝交絡 羅網遍虚空 種種鈴発響 宣吐妙法音」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
法蔵菩薩は、これを見られて大悲の心をおこされ、「わが国土は、宝の網をめぐらして空を覆い、大小の鈴がいろいろの音を立てて尊い法を説き、これをながめてあくことなく、さとりの道を心に念じ、その徳をあらわさせよう」と願われた。こういうわけで「無量の宝交絡して 羅網虚空に遍ぜり 種種の鈴響きを発して 妙法音を宣吐す」といわれたのである。
三界は先のように悲惨で無慈悲なありさまですが、こうした現実に
<願はくはわが国土には宝網交絡して、羅は虚空に遍し>(わが国土は、宝の網をめぐらして空を覆い)とは経の「七重羅網」を指しますが、「羅網」は、諸仏・諸菩薩や有縁の人々が大悲護念のまごころによって自分を見守っていて下さることを象徴しています。これが空中にひろがる飾りあみ≠ノよって表現されています。
「七重の羅網がある」、それで極楽という。「羅網」とは薄絹で造った網のことです。古代インドでは、幸福の象徴として帝釈天を描き、その宮殿の庭木には薄い絹の網がかけられ、その網の目の一つ一つには、色とりどりの宝の珠を垂らし、珠は光に照らされれば、各々光を放って、その光は互いに映じ合って、種々様々な美しい色に輝き、そよ風が吹けば珠と珠が触れ合って、えもいえぬ美しい自然の音楽が奏でられる。帝釈天の境界はこういう世界でもあろうかということが、その当時の貴族生活の夢であったに違いないでしょう。
しかしそういう官能的な美的享楽をそそるために、浄土経典はそれを借用したのではありません。そういう楽しみは、仏教では外楽といって、真実の楽しみとはいいません。大乗仏教はその当時のこうした国民感情を無下に否定せず、その事柄はそのまま受け容れて、その意を純化し、高い宗教的さとりの楽しみにまで高めているのです。<中略>「あみ」は慈悲の象徴であり、まごころを形に表したものです。網は生活の大地を踏みしめ踏みしめて生きている私たち一人ひとりの上に覆い被さっているのです。
<中略>
仏の大悲護念だけではない、一切の先祖も、師も友も、有縁の人々のまごころが、私の上に雨の如くにそそがれ、網のように覆い包まれているのです。『観無量寿経』には「無量寿仏を見るものは、十方の諸仏を見る。諸仏を見るが故に念仏三昧と名づける」といっています。砂漠のような乾からびた人の世にあって、大悲護念のまごころが身に受けられれば、どんな苦難の中にあっても、起ち上がって行く力が湧いて来るでしょう。それにも増した楽しみがどこにあるでしょうか。
島田幸昭著『阿弥陀経探訪』 より
ここで重要なことは、苦しい現実と全く別に浄土が存在している訳ではない、ということです。娑婆の苦を苦と映して浄土があり、浄土の楽を楽と映して娑婆がある。苦難の現実と浄土は真反対の内容でありながら、互いに内包し、互いを映し出しています。ですから、現実に起こる苦難のどの一つをとってもそこに浄土が映し出され、浄土のはたらきである功徳のどの一つをとってみてもそこには現実が映し出されているのです。
今回の虚空で言うと、<憂いが多く、これがために身の毛がよだつ>という無慈悲な社会環境が認識されたからこそ、この認識を生み出した浄土に気づく。環境を浄化する<羅網虚空に遍ぜり>という慈悲心が社会や人々に満ち満ちていることに気づき、浄土の徳が身に添って働き続けて頂いていることが実感できるのです。
いずこより 我呼ぶ声ぞ 秋の暮 (句仏上人)
<鈴鐸 大鈴なり 宮商鳴りて道法を宣べん。これを視て厭ふことなく、道を懐ひて徳を見さん>
(大小の鈴がいろいろの音を立てて尊い法を説き、これをながめてあくことなく、さとりの道を心に念じ、その徳をあらわさせよう)
このことは「荘厳虚空功徳成就」に相当する『解義分』を読むことで詳細が明らかとなるでしょう。
『往生論註』70(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)
荘厳虚空功徳成就とは、偈に「無量の宝交絡して 羅網虚空に遍ぜり 種種の鈴響きを発して 妙法音を宣吐す」と言える故なり。
これがどうして不思議であるかというと、経(《大経》)に「無量の宝網が仏土を覆いめぐらし、それらはみな、金糸や真珠などのいろいろの珍しい宝で飾られてある。網の四方には宝の鈴が垂れていて、それらが光まばゆく輝くさまは、実にうるわしいきわみである。そこへ自然の徳風がそよそよと吹きわたるのであるが、その風は暑からず寒からずよく調和し、また速すぎも遅すぎもしない。そして、それが多くの羅網や宝樹を吹くと、はかり知られぬ微妙の法音をかなで、千万の優雅な徳香がかおる。それらをきけば、あらゆる煩悩の汚れがくまなく消え去り、その風を身に触れると皆快い楽しみが得られる」と説かれてある。この音声が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。
『総説分』では「鈴鐸」とだけありましたが、『解義分』には<四面に周匝せり。垂るるに宝鈴をもつてす>(網の四方には宝の鈴が垂れていて)とあります。「鈴」ですから振られれば良い音がするわけですが、これはどういう経緯で鳴る鈴でしょう。
実は浄土三部経全てを読んでみても、「鈴」が出てくるのはここに引用されている大経の「垂るるに宝鈴をもつてす」一箇所だけです。ではなぜ他の経典で鈴は省略されているのでしょう。
私がここにこだわる理由は、微妙の法音がどこで鳴っているのかによって多少解釈を変えなければならないからです。つまり、<宝行樹および宝羅網>そのものが出す音か、それらの揺れが<宝鈴>に伝わって出す音かが経典でははっきりしないのです。先に言いましたとおり小経や観経には鈴は登場しませんから、この二経典だけ読むと<宝行樹および宝羅網>そのものが<微妙の法音>を出すと解釈できます。しかし大経を読むと、揺れが<宝鈴>に伝わって法音を出す≠ニ解釈できますし、『浄土論』やこの『論註』では<種種の鈴響きを発して>とありますから、鈴が法音を発していると解釈されているのでしょう。ただし大経にも、鈴とは関係なく法音を出すとする箇所もあります。すると法音は、行樹と羅網と鈴の三者が出す音のようです。
ところで以上の解釈は具体的にはどういう内容の違いを表しているのでしょうか。こうした点を鑑みながら論註を読み進めていきましょう。
<無量の宝網、仏土に弥覆し、みな金縷、真珠、百千の雑宝の奇妙珍異なるをもつて荘厳し校飾して>
(無量の宝網が仏土を覆いめぐらし、それらはみな、金糸や真珠などのいろいろの珍しい宝で飾られてある)
先に申しましたとおり、「宝網」は慈悲の喩えであり、諸仏・諸菩薩や有縁の人々が大悲護念のまごころによって自分を見守っていて下さることを象徴≠オていますので、「無量の宝網」は、そうした慈悲に限りがないことを表しています。
「金縷、真珠、百千の雑宝の奇妙珍異なるをもつて荘厳し校飾」とは、単に慈悲が無限だというだけではなく、悩みの種類にあわせた慈悲が多種多様に発揮されることをいっています。人間を本当に済度するためには、相手の問題に合わせ、時期を見て慈悲を発揮しなくてはなりません。悩みには無限の種類があるのですから、済度する側にも無限の手立てが必要です。
<四面に周匝せり。垂るるに宝鈴をもつてす。光色晃耀してことごとくきはめて厳麗なり>
(網の四方には宝の鈴が垂れていて、それらが光まばゆく輝くさまは、実にうるわしいきわみである)
「網」は慈悲の喩えですが、網の四方に「宝鈴」が垂れている理由は何でしょう。これは、被った慈悲に対して私たちは実に鈍感である、ということの裏返しでしょう。人間は、損害や無慈悲な行為に対しては敏感で一生恨みを抱いてしまいますが、賜った慈悲の大きさには案外気づかず過ごしています。感謝より不平不満の方が大きく、たまに感謝の心をもって人に優しくしても、すぐに恩着せがましい気持ちが起こり、感謝の心はすぐに消えてしまいます。そこで慈悲のあみの周囲に鈴がついていて、発揮された浄土の慈悲を仏法として説いて下さるのです。
すると、大経にのみ「宝鈴」の記述があるのは、そうした衆生の鈍感さを鑑みた上での表現でしょう。衆生よ、汝は鈍感ゆえに、常に賜っている大悲の大きさ豊かさに気づかぬであろう。そこで仏法の宝の鈴を四方に用意した。この鈴が揺れれば、鈍感な衆生も気づいてくれるだろう≠ニいう、大変念の入った大悲心が「宝鈴」なのです。比べて観経と小経に「宝鈴」の記述が無いのは、まだ人々の感受性を信じて編纂された経典なのでしょう。
「光色晃耀してことごとくきはめて厳麗なり」は、大悲護念のありさまを衆生に伝えるこの宝鈴が極めて尊く厳麗であることを表しています。これは仏法の尊さや厳麗さを表現しているのですが、仏教教理が立派というだけではなく、微妙な慈悲を受け取ることができる人間や、文化文明として発揮されたもの等まで称えているのでしょう。浄土の慈悲は恩着せがましくはないのですが、それでも気づいてゆくのが正定聚の菩薩の智慧なのです。
<自然の徳風やうやく起りて微動す。その風、調和にして寒からず暑からず。温涼柔軟にして遅からず疾からず>
(そこへ自然の徳風がそよそよと吹きわたるのであるが、その風は暑からず寒からずよく調和し、また速すぎも遅すぎもしない)
浄土に吹く風は浄土の土徳を受けた風ですから、寒くもなく暑くもなく、速過ぎず遅すぎず、丁度良い調和した風が四六時中吹いている、ということですが、そんな都合の良い風ばかり吹く場所がどこにあるのでしょう。インドは暑い日が多いはずですし、日本には四季があって暑い日も寒い日もあります。台風だって襲ってきます。いくら風光明媚が売りの観光地でも、こんな条件の良い場所は聞いたことがありません。それに第一、もし四六時中調和した風が吹いていたとしても、これでは刺激がなく、退屈で眠たくなってしまうのではないでしょうか。そんな場所が浄土なのでしょうか。
実はこの徳風は、覚った境地で嘆じる風なのです。迷った衆生が同じ風を受ければ、暑さ寒さ速さ遅さに右往左往し、不平不満が出るばかりです。また風と言っても、地面を駆ける風ではなく、人生に吹く風を言うのです。なぜなら仏教の課題は気象問題ではなく、人生の問題だからです。
「風」は日本語でも人生の喩えとして多用されています。「浮世の風」「仇の風」「臆病風」「親風」「神風」「恋風」「心のすきま風」「何処吹く風」「魔風」「無常の風」等々や、気象用語であっても「物言えば唇寒し秋の風」という句や「波風」のように人生になぞらえた用法もあります。
さて、人生には順風満帆な時もあれば、逆風や暴風が吹き荒れる時もあります。最悪は「地獄の業風」までも吹き荒れるのが人生でしょう。しかし、こうした荒れた風を受けたとしても、受ける側がそれをどう受け止めるか、ということで全く趣が異なってしまいます。
たとえば「
(参照:{「極楽の余り風」の本当の意味})
<もろもろの羅網およびもろもろの宝樹を吹きて、無量の微妙の法音を演発し、万種の温雅の徳香を流布す>
(そして、それが多くの羅網や宝樹を吹くと、はかり知られぬ微妙の法音をかなで、千万の優雅な徳香がかおる)
「もろもろの羅網」は先に言いましたとおり様々な大悲護念のまごころ≠ナあり、「もろもろの宝樹」は前回申しましたとおり念仏の行者・正定聚の菩薩≠ナあり如来回向の信心行・念仏生活≠ナす(行と行者は不二の存在)。
そこに浄土の徳風が地獄の猛火風と変じて涼し≠ニ吹くと、「無量の微妙の法音を演発し」ということですから、次から次へと限りなく仏法が語られるのです。艱難辛苦に遭い、逆風や暴風が吹き荒れる中で、様々な大悲護念のまごころを通し、念仏行に勤しむ生活を通せば、おのずと尊い教えが無限に語られてくるのです。
実際、様々な経典が説かれた背景には苦難の現場がありました。たとえば『仏説観無量寿経』は、実の息子に幽閉されたイダイケ夫人が絶望の底から仏法を求めた内容ですし、キサーゴータミー尼の出家はひとり息子の死がきっかけでした。逆に、平穏無事の無風状態の中では、仏法が真価を発揮する機会はなかなか見出せません。諸行無常の嵐や地獄の猛火が吹く中でこそ「はかり知られぬ微妙の法音」が奏でられるのであり、「千万の優雅な徳香がかおる」機会も訪れるのです。ちなみに「徳香」の喩えについては、『華厳経』には「香をたく道にも仏の教えがあり、華を飾る道にもさとりのことばがあった」と善財童子の道心を称えています。
<それ
(それらをきけば、あらゆる煩悩の汚れがくまなく消え去り、その風を身に触れると皆快い楽しみが得られる)
「それ聞ぐことあるものは」の「それ」は「無量の微妙の法音」であり「万種の温雅の徳香」ですから、「聞ぐこと」を「かぐこと」と読むわけです。意訳すれば聞く耳のある者は≠ニか聞こうとする者には≠ニなるでしょう。聞こうとしない人間には聞こえてきませんが、聞く気にさせるのも浄土の徳のはたらきです。
「塵労の垢習」は、
煩悩はたとえて言えば鉱山で火事が起こったようなものでしょう。表面の炎を消しても、熱は炭鉱の深層に宿っています。深層に宿る熱が煩悩の習気で、目立たない分気づきにくく、長く熱を保ち、時と機会を得ると災いが再発してしまいます。
(参照:{百八煩悩})
こうした深層の煩悩まで抑えることは中々至難の業なのですが、大悲護念のまごころを通し、念仏行に勤しむ生活を通した尊い教えが無限に語られてくれば、煩悩習気も自然に起こらずにすみ、「風その身に触るるにみな快楽を得」ることができます。人生成就の歩みに「快楽」がともなってくれば、煩悩の災いに身を破滅させるような退転はなくなります。自力で嫌々励むから退転があるのであり、勤め励みが快楽になれば歩みを止めることはなくなります。
ただし浄土の楽は欲界などの楽とは違います。先にも申しましたが、娑婆の苦を苦と映して浄土があり、浄土の楽を楽と映して娑婆があるのです。苦難の現実と浄土は真反対の内容でありながら、互いに内包し、互いを映し出していますので、煩悩が完全に消えることはあり得ません。煩悩が消えてしまえば道心もまた止んでしまうからです。
<この声、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや>
(この音声が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか)
「この声」とは「無量の微妙の法音を演発し、万種の温雅の徳香を流布す」という内容で、特に「微妙の法音」を指します。苦難の人生を通して無限に尊い教えが語られてくる「この声」が「衆生利益のはたらき」として「仏事をなす」のです。特定の人間や組織や教学によって仏事をなすのではなく、あらゆる人生の風が仏事をなすことが浄土の徳でありますから、寺や道場に居る時だけでなく、常に仏事をなすことが可能となります。
「いづくんぞ思議すべきや」は毎度繰り返されていますが、思議できない≠ニいうのではなく思議しても思議し尽くすことができない≠ニいう意味です。いわば味わい尽くせないほど味わい深い≠ニか語り尽くせないほど内容が深い≠ニいうように、浄土のはたらきの深みを表現している言葉なのです。
宝林・宝樹微妙音 自然清和の伎楽にて 哀婉雅亮すぐれたり 清浄楽を帰命せよ七宝樹林くににみつ 光耀たがひにかがやけり 華菓枝葉またおなじ 本願功徳聚を帰命せよ
清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ 宮商和して自然なり 清浄勲を礼すべし
『浄土和讃』39〜41 讃弥陀偈讃
観察門 器世間「荘厳虚空功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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