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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』28
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生果1
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 28
仏、阿難に告げたまはく、「かの国の菩薩は、みなまさに一生補処を究竟すべし。その本願、衆生のためのゆゑに、弘誓の功徳をもつてみづから荘厳して、あまねく一切衆生を度脱せんと欲ふをば除く。阿難、かの仏国のなかのもろもろの声聞衆の身光は一尋なり。菩薩の光明は百由旬を照らす。ふたりの菩薩ありて最尊第一なり。威神の光明はあまねく三千大千世界を照らす」と。阿難、仏にまうさく、「かのふたりの菩薩、その号いかん」と。仏のたまはく、「ひとりをば観世音と名づけ、ふたりをば大勢至と名づく。このふたりの菩薩は、この国土において菩薩の行を修して、命終りて転化してかの仏国に生れたまへり。阿難、それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を具足す。智慧成満して深く諸法に入り、要妙を究暢し、神通無礙にして諸根明利なり。その鈍根のものは二忍を成就し、その利根のものは不可計の無生法忍を得。またかの菩薩、乃至成仏まで悪趣に更らず。神通自在にしてつねに宿命を識る。他方の五濁悪世に生じて、示現してかれに同ずること、わが国のごとくなるをば除く」と。
仏、阿難に告げたまはく、「かの国の菩薩は、仏の威神〔力〕を承けて、一食のあひだに十方無量の世界に往詣して、諸仏世尊を恭敬し供養したてまつらん。心の所念に随ひて、華香・伎楽・ゾウ蓋・幢幡、無数無量の供養の具、自然に化生して念に応じてすなはち至らん。珍妙殊特にして、世の所有にあらず。すなはちもつてもろもろの仏・菩薩・声聞の大衆に奉散せん。〔散ぜし華は〕虚空のなかにありて、化して華蓋となる。光色イク爍して、香気あまねく熏ず。その華の周円、四百里なるものあり。かくのごとくうたた倍してすなはち三千大千世界に覆へり。その前後に随ひて、次いでをもつて化没す。そのもろもろの菩薩、僉然として欣悦す。虚空のなかにおいてともに天の楽を奏し、微妙の音をもつて仏徳を歌歎す。経法を聴受して歓喜すること無量なり。仏を供養したてまつること已りていまだ食せざるの前に、忽然として軽挙してその本国に還る」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 28
釈尊が阿難[に仰[せになった。
「その国の菩薩[たちは、みな一生補処[の位に至ることができる。ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願[の功徳[を身にそなえて、その位につかないでひろくすべての人々を救うこともできる。
阿難よ、その国の声聞[たちが身から放つ光は一尋[であるが、菩薩の放つ光は百由旬[を照らす。中でもふたりのも菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか」
釈尊が仰せになる。
「ひとりを観世音[といい、ひとりを大勢至[という。このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界[で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏[の国に生れたのである。
阿難よ、だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力[を得て、すべてを明らかに知ることができる。そして、資質に応じてあるものは音響忍[や柔順忍[を得、あるものは尊い無生法忍[を得るのである。またその菩薩たちは、仏になるまで二度と迷いの世界に帰ることがなく、自由自在な神通力で常に過去世のことを知り尽くしている。ただし、わたしがこの国に出てきたように、菩薩自身の願によって、他の五濁[に満ちた悪い世界に生れ、そこの人々と同じ姿を現すことも自由である」
続けて釈尊が仰せになる。
「その国の菩薩たちは無量寿仏のすぐれた神通力を受けて、一度食事をするほどの短い時間のうちにすべての数限りない世界に行き、さまざまな仏がたを敬い供養する。香り高い花・音楽・天蓋[・幡[など、思いのままに数限りない供養の品々がすぐさまおのずから現れてくるのであるが、みなとりわけすぐれて珍しく、この世では見られないものばかりである。菩薩がそれらの品々を仏がたや菩薩や声聞たちにささげると、まかれた花は空中で花の天蓋となってきらきら輝き、香りがあたり一面に広がる。この花の天蓋は、周囲が四百里のものから、だんだん大きくなって世界中をおおうほどのものまである。そしてそれらの花の天蓋は、新しいものが現れるにしたがい、前のものから次々と消えてなくなる。菩薩たちはともに喜びにひたり、空中にあって美しい音楽を奏で、すばらしい歌声で仏の徳をほめたたえ、教えを聞いて限りない喜びを得る。このようにして仏がたを供養しおわり、食事の時までに、たちまち身もかるがると無量寿仏の国に帰るのである」
- 註釈版
- 仏、阿難[に告げたまはく、「かの国の菩薩[は、みなまさに一生補処[を究竟[すべし。その本願、衆生のためのゆゑに、弘誓[の功徳をもつてみづから荘厳[して、あまねく一切衆生を度脱[せんと欲[ふをば除く。阿難、かの仏国のなかのもろもろの声聞衆[の身光[は一尋[なり。菩薩の光明は百由旬[を照らす。ふたりの菩薩ありて最尊第一[なり。威神[の光明はあまねく三千大千世界[を照らす」と。阿難、仏にまうさく、「かのふたりの菩薩、その号[いかん」と。仏のたまはく、「ひとりをば観世音[と名づけ、ふたりをば大勢至[と名づく。このふたりの菩薩は、この国土において菩薩の行を修して、命終りて転化[してかの仏国に生れたまへり。
- 現代語版
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釈尊[が阿難[に仰[せになった。
「その国の菩薩[たちは、みな一生補処[の位に至ることができる。ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願[の功徳[を身にそなえて、その位につかないでひろくすべての人々を救うこともできる。
阿難よ、その国の声聞[たちが身から放つ光は一尋[であるが、菩薩の放つ光は百由旬[を照らす。中でもふたりのも菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか」
釈尊が仰せになる。
「ひとりを観世音[といい、ひとりを大勢至[という。このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界[で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏[の国に生れたのである。
<かの国の菩薩[は、みなまさに一生補処[を究竟[すべし>
(その国の菩薩[たちは、みな一生補処[の位に至ることができる)
「かの国の菩薩」というのは、如来願力と諸仏の勧めによって安楽国に生まれた正定聚不退転の菩薩ですが、この真実信心獲得の念仏者はみな「一生補処を究竟すべし」とあります。現代語版では「みな一生補処の位に至ることができる」と訳していますが、これでは自動的に補処の位に至るような誤解を与えてしまいますので、経の本意とは違うでしょう。
まず「一生補処[」とは何かと申しますと、「補処」とは「釈尊の跡継ぎ」という意味であります。釈尊の説かれた内容・精神を継承しながらも、説かれた言葉や教学に執着するのではなく、時代が移り変われば新たな苦悩や社会的課題や情報が加わりますので、言葉や学問を補[って、常に新たな時代の牽引役を果たすことを補処といいます。
「一生」ということは、そうした「釈尊の跡継ぎ」という立場を目指した途端に、自分はとてもそのような立場に立つことができる私ではない≠ニいう深い宿業の闇が見えたことをいいます。宿業の闇が見えてそれでも浄土の功徳を頂く自分は一生かかってでも仏の跡継ぎになりたい∞せめて一生を終える時なりでも何とか仏の跡継ぎになりたい≠ニいう敬虔な願いが出てきたことを「一生補処」というのです。決して俺は浄土を覚ったので補処の立場に立つことができるのだ≠ニか俺は釈尊の跡継ぎだから、釈尊ではなく俺の言う事に従えば良いのだ≠ニいう驕慢な態度を言うのではありません。重い宿業を背負いながらも立ち上がった、そうした菩薩の思いや立場を鑑みて「一生補処」と言ったのですから、あくまで敬虔な態度で「補処」をいただくのです。
ここにおいて「一生涯、真実の法を聞かせていただきたい」という聞法精神と、「一生涯、真実の道を求め歩んでいただきたい」という求道精神が回向されるのです。そしてこの前者の精神を浄土の声聞といい、後者の精神を浄土の菩薩というのです。
<その本願、衆生のためのゆゑに、弘誓[の功徳をもつてみづから荘厳[して、あまねく一切衆生を度脱[せんと欲[ふをば除く>
(ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願[の功徳[を身にそなえて、その位につかないでひろくすべての人々を救うこともできる)
敬虔な態度で「補処」をいただくとどうなるか、ということが「その本願、衆生のためのゆゑに、弘誓[の功徳をもつてみづから荘厳[して、あまねく一切衆生を度脱[せんと欲[ふ」という内容なのです。現代語版では「その位につかないでひろくすべての人々を救う」と訳してありますが、こんな二股[があるような単純な内容ではありません。「除く」ということは、具体的に還相回向の内容を示し、敬虔な態度で一生補処を究竟することを言うのです。つまり、一生補処を究竟すること、一生涯釈尊の跡継ぎになろうと願い求めていくことが究極の内容ですが、究極をそのまま目標として立てることは、自らを省みればどうしても憚[られるので、敬虔な態度を示して「除く」と言うのです。
「除く」という言葉は{還相回向の願}にも「恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く」とありますので、驕慢な態度を誡めなければ還相回向は実現できないということを繰り返して説かれるのでしょう。
前置きが長くなりましたが、「その本願、衆生のためのゆゑに、弘誓[の功徳をもつてみづから荘厳[して、あまねく一切衆生を度脱[せん」ということは具体的に何を説いているのでしょう。
「その本願、衆生のためのゆゑに」とは、できの悪い衆生のために仏は本願を起こしたのだ≠ニいうような恩着せがましいものではなく、無量寿仏の本願が衆生一人ひとりの願いとなって発揮されること≠意味します。その証拠に「弘誓[の功徳をもつてみづから荘厳[して」と説かれているでしょう。如来本願の功徳によって菩薩本人の身心を荘厳する、つまり、枯れ木に華が咲くように、無味乾燥な人生に清浄なる彩りが与えられるのです。
「あまねく一切衆生を度脱せん」ということは衆生済度で、人々を迷いの道から救い、本当の安楽を示し導くことを言います。一般的に「衆生済度」と聞くと、相手の悩みを聞いて手助けしていくことを考えますが、それだけでは相手が本当に救われたことにはなりません。それに、自分が手助けするといっても、本当に相手を手助けできる私かどうかも鑑みなければなりません。そうした上からの目線≠ナ救済するのは宗教的暴力に他ならず、本当は、先ほどから言うように「みずから荘厳して」で、本願の内容が輝く人格となって発揮されること、自分の内容が輝くことがそのまま「あまねく一切衆生を度脱」させることになるのです。
これはたとえば、集団の中で一人でも人格的輝きを発揮する人が出現すれば、周囲もその輝きにあこがれ慕い、おのずと感化を受けることがあるでしょう。同じように「みずから荘厳して」が「あまねく一切衆生を度脱せん」に直結しているのです。
では具体的に何をどう荘厳するのかというと、{還相回向の願}には「普賢[の徳を修習[せん」とあります。 親鸞聖人は「還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有に回入して 普賢の徳を修するなり」(高僧和讃36)と曇鸞大師を讃じつつつつ「普賢といふは仏の慈悲の極まりなり」と左訓されてみえます。「普賢の徳」とは普[く賢[いことが解る人徳≠ナす。お前は馬鹿だ∞みんな出来の悪い凡夫だ≠ネどと相手を蔑[ろにし、お前のような悪人や馬鹿でも助かる道がある≠ニ貶[しながら救うのではありません。相手を尊敬することが普賢の徳なのです。この「浄土にまゐり、果ては普賢のふるまひをせさせて衆生利益せさせんと回向したまえる」ことが還相回向なのです。
私が相手を本気で尊敬すれば、相手はこの尊敬心に応えようと願って悪道から離れることができます。また、ただ単に相手を尊敬するばかりではありません。その人から、その人でなければ説けない人生の法を聞かせていただくのです。伝えたくてもその手段がなく孤独に暮らしている人たちは、せっかくの尊い宝も持ち腐れになってしまいがちです。このひとり一人の尊い内容をとことん尋ねてゆくことが普賢の徳なのです。たかだか五十年百年の人生を聞いてどうなる≠ニ相手を否定するのではなく、短い人生でも、その奥に一切の生命を貫き背負った催しがある、その声なき声を聞かせていただくのです。そうすれば相手も育ち自分も育つ。こうした功徳を願文では「普賢の徳」といい、ここでは「弘誓の功徳」と説いています。そしてこうした功徳によって菩薩本人の身心を荘厳するわけです。
考えてみて下さい。私のことを本気で信じ尊敬してくれる人のことを。そうした人こそ輝ける還相の菩薩でありましょう。
<阿難、かの仏国のなかのもろもろの声聞衆[の身光[は一尋[なり。菩薩の光明は百由旬[を照らす>
(阿難よ、その国の声聞[たちが身から放つ光は一尋[であるが、菩薩の放つ光は百由旬[を照らす)
声聞と菩薩の名が出てきましたが、これは浄土には二種類の人間がいる≠ニ言うのではありません。いるのは浄土の土徳と名号徳にお育ていただく念仏者なのですが、念仏者自身の聞法精神を名づけて「声聞」といい、念仏者の環境全体を背負った求道精神を名づけて「菩薩」というのです。
もう少し詳しく説明しますと、一般的に大乗仏教で「声聞」というと阿羅漢の自利のみ求める低い仏道修行者≠竍仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者≠指します。しかしこの経典にある「その国(浄土)の声聞」は、内容は正定聚不退転の菩薩でありますが、菩薩としての私は一生涯においてお育ていただきます≠ニわが身を振り返った時に出てくる言葉なのです。念仏を行じる時は常に菩薩の立場ですが、聞法は声聞の立場に立ち返り、つねに自分は一人の人間として人生をどう領解するのか≠ニ、まずは我が身一個人において聞くのです。もし聞法の時にまであの人はどうだ、この人はどうだ≠ネどと考えていたら、それは余所見[であり、他人に関しても余計なおせっかいになります。瓜生津隆真師も人のことばかり見ていて自分自身のことをかえりみることを忘れていると、とんでもない失敗をする。「脚下照顧[(あしもとをみよ)」とは、すべての仏法者における大切な心構えである≠ニ仰ってみえます。これが「もろもろの声聞衆[の身光[は一尋[なり」ということなのです。「身光」とは徳のはたらき≠言います。
実は仏・菩薩の光明(はたらき)は、大きく分けて、「智慧」のはたらきである「智慧の光明」(自受用・心光)と、「徳」のはたらきである「身放の光明」(他受用・色光)の二種があります。「智慧の光明」は覚ることですから、一瞬にして百仏世界・千仏世界を照らすことができますが、「身放の光明」は自身の行を通しますから、まず一尋(両手を伸ばした長さ)から照らすのです。無量寿仏自身の身光も、最初は「七尺を照らし」と説かれている通りです(参照:{弥陀果徳 光明無量 })。
古来より浄土に声聞がいるのは何故だろう≠ニいうことが問題になってきましたが、真剣な聞法態度のことを浄土の声聞と言うのだと解れば、往相においても還相においても声聞が存在する意味が解るでしょう。
すると「菩薩の光明は百由旬[を照らす」はどういう意味でしょう。
まず「菩薩の光明」は、先の「声聞衆の身光」の延長ですから、ここでは「菩薩の身光」、菩薩の徳のはたらきを言います。「百由旬を照らす」の「由旬」は、梵語「ヨージャナ」の音写で、一由旬は「帝王一日の行軍の距離」、または「牛車の一日の旅程」とされています。実際の距離はというと、約11.2km、約14.4km、約21km、約28kmなど諸説あります。試みに1由旬=15kmで計算しますと、百由旬は1500kmですから、菩薩の徳のはたらきは一国家全体におよぶ=Aということになるでしょう。これは具体的に何を述べているのでしょうか。
それは、先の「もろもろの声聞衆[の身光[は一尋[なり」では、自分自身は一人の人間としてどう生きたら良いのか≠ニ真っ直ぐ我が身のみを振り返るのですが、ここから立ち上がって家庭的・社会的役割を背負って歩みだす場合は、浄土の菩薩となって正定聚不退転の菩薩の徳がはたらくのです。つまり私というものは、「私個人」でありながら同時に「家族の一員」であり「会社の一員」であり「一国民」でもあります。すると私の為すことは自分一人でありながらも、家族全体を背負った自分となり、会社や組織を背負った自分となり、国家を背負った自分となりますから、家を照らし、組織を照らし、国家を照らしてゆく、このことを「菩薩の光明は百由旬[を照らす」と説かれるのでしょう。先師は「全体を背負っておる運命共同体」「環境を背負っている私」と仰いました。
<ふたりの菩薩ありて最尊第一[なり。威神[の光明はあまねく三千大千世界[を照らす」と。阿難、仏にまうさく、「かのふたりの菩薩、その号[いかん」と。仏のたまはく、「ひとりをば観世音[と名づけ、ふたりをば大勢至[と名づく。このふたりの菩薩は、この国土において菩薩の行を修して、命終りて転化[してかの仏国に生れたまへり>
(中でもふたりのも菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか」
釈尊が仰せになる。
「ひとりを観世音[といい、ひとりを大勢至[という。このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界[で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏[の国に生れたのである。)
ここに「観世音」と「大勢至」の菩薩の名が紹介されていますが、これはどういう存在に対して名がついたのでしょう。一般的に「観世音」と「大勢至」は無量寿仏の慈悲と智慧をあらわしている≠ニ理解されているようですが、実はそうでないことがここに証明されています。
なぜならば、「このふたりの菩薩は、この国土において菩薩の行を修して、命終りて転化[してかの仏国に生れたまへり」とあります。もし観世音・大勢至が無量寿仏の慈悲と智慧をあらわしているのであれば、二菩薩が命終える以前は無量寿仏の智慧と慈悲は存在しないことになってしまいます。それでは二菩薩は命を終えた後で無量寿仏の国に生れることはできませんし、そもそも智慧と慈悲の無い無量寿仏の国などはあり得ないでしょう。もし、無量寿仏の国には元々智慧と慈悲はなく、そこに観世音と大勢至が智慧と慈悲をもたらした≠ニいうことであれば、この『仏説無量寿経』上巻においてその因果を明かにしなくてはならなりません。しかし上巻には観音・勢至は全く登場しないのです。経は――既に無量寿仏の浄土は完成していた。そこに、娑婆世界で修行を終えた「観世音」と「大勢至」が生まれた≠ニいう流れになっています。
虚心坦懐にこの経典を読めば、「命終りて転化[してかの仏国に生れたまへり」ということですから、二菩薩は少なくとも先人・ご先祖に違いありません。「命終りて」はせめて命終えるまでには≠ニいう真心の言葉と解釈すべき箇所もあるのですが、ここでは「転化して」とありますからそのまま先祖の徳≠ニ解釈すべきでしょう。そして先祖を二種に分け、ともに尊い大徳があるということは、「観世音」は全ての女性の先祖、または真実の母、「大勢至」は全ての男性の先祖、または真実の父ということになるでしょう。浄土には真実父母の徳が加味されている≠ニの理解です。性は二種だけではない≠ニの意見があるかも知れませんが、ここではそこまでの詳細は略します。
さらに、原則として仏・菩薩には性はない≠ニいう見解もありますが、これは出家主義の偏った理解でしょう。人類の存在において性の営みがどれほど重要かは論を待ちません。これ程重要な性の問題を無視してしまえば、今ある現実は見えず、法も衆生の元に届かなくなってしまいます。ただ、もし単純に先祖を男女や父母に分けられないとすれば、金剛心と柔軟心∞厳しさと優しさ∞叱ることと褒めること≠ネどといった、矛盾しながら統合して人々を導いてゆく二種の徳のはたらき≠ニいう理解でも良いのですが、抽象論に終始しているきらいはぬぐえません。
二菩薩はさらに日天子と月天子に譬えられることもあります。
これは親鸞聖人の言葉ですよ。「観世音菩薩は日天子として現れる。勢至菩薩は月天子として現れる」と、こういう言葉が出てくるんですよ。これを裏から言うなら、月天子とはお月さまのこと、日天子とはお日さまのこと。お日さまを通して、お日さまを見れば観世音菩薩の徳が解ります。今度、お月さまを見れば勢至菩薩の徳が解りますと、こういうことでしょう。
だから、月も自然でしょう。日も自然でしょう。花を見たり山を見たりすることによって、だんだんと仏の徳が解ってきたのです。裏から言うならば、仏拝めば親拝め。仏が知りたかったら、お父さんお母さんを通さないと仏が解らない。今度は裏から、仏を拝もうと思えば親を拝め。反対に今度は仏が解ったら、拝めば本当の親が解る。今まで見ておった親は自分の得手勝手な親です。都合のいい親しか見えなかったのです。
ところが、なんぼうちの財産を無くしようが、なんぼ借金を残そうが、今度は親そのものがありがとう、尊うなってくる。仏に会わなかったら本当の親が拝めないと、こう親と仏がいつもこう対照に向き合わせになるでしょう。あれと同じように、我々人類がだんだんとそういう仏が解ってきたのは自然というもの。山を見、川を見、星を見、月を見ることによって、だんだんと魂がそういう成長してきたという。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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私たちにとって、かくも尊い経典や浄土がここまで身近になってきたその原因は、ひとえに先祖代々の真心の徳≠ノよることは胸に手をあてて考えれば解るでしょう。実際の先祖が為してきたことは無明煩悩の離れない業ですが、その宿業に泣き、慚愧[・懺悔[の真心が世界中に満ち満ちていることもまた真実です。
実の親や先祖は尊敬できる人もできない人もいるでしょう。しかし尊敬できない親や先祖でも、その生き様をじっくり見直してみれば、そう生きざるを得なかった人生なのであり、この宿業を引き受けて命がけで生きてこられたということは、何よりも辛い厳しい修行をされたのであります。特別の修行ではない、本当の人生の修行。私のような頑固者を育てるという重い課題を背負って菩薩の修行をされたのが親であり先祖なのではないでしょうか。浄土は仏のいのちそのものですが、名ばかりの親が本当の親に成りたいという願いをもったときは、子にとっては最尊第一であり、広がって三千大千世界を照らす存在であると仰ぐことができるのです。
(参照:{観世音菩薩・大勢至菩薩は具体的には誰なのですか?})
- 註釈版
- 阿難、それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を具足[す。智慧成満[して深く諸法に入り、要妙[を究暢[し、神通無礙[にして諸根明利[なり。その鈍根[のものは二忍[を成就し、その利根[のものは不可計[の無生法忍[を得[。またかの菩薩、乃至成仏[まで悪趣[に更[らず。神通自在[にしてつねに宿命[を識[る。他方の五濁悪世[に生じて、示現[してかれに同ずること、わが国のごとくなるをば除く」と。
- 現代語版
阿難よ、だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力[を得て、すべてを明らかに知ることができる。そして、資質に応じてあるものは音響忍[や柔順忍[を得、あるものは尊い無生法忍[を得るのである。またその菩薩たちは、仏になるまで二度と迷いの世界に帰ることがなく、自由自在な神通力で常に過去世のことを知り尽くしている。ただし、わたしがこの国に出てきたように、菩薩自身の願によって、他の五濁[に満ちた悪い世界に生れ、そこの人々と同じ姿を現すことも自由である」
よく一般には「往生即成仏[」と言い習わされています。しかしこれは厳密に言いますと間違いで、往覲偈から見てきましたように、また「安楽仏国[に生ずるは 畢竟成仏[の道路にて 無上の方便[なりければ 諸仏浄土をすすめけり」(高僧和讃43)とあるように、浄土に生まれることは仏に成る途中の要所に過ぎません。安楽浄土に生まれた(生まれようと願った)者は、浄土の蓮華台でお育ていただき、浄土の土徳がその身に満ち、自ずと功徳が発揮されるのです。ではどう発揮されるのでしょう。
この経に聞けば、「相好成就[」、「諸仏供養」、「聞法(無量寿仏の法を聞く)」「菩薩自身の説法」の四つが挙げられていますが、ここでは「相好成就」(三十二相を具足)と、そのために普賢[の徳を修することの重要性が説かれています。
大乗仏教においては、菩薩は普賢の徳を身につけるため三大阿僧祇劫[にわたって修行し、その後百大劫[かかって相好を成就する≠ニ説くのが一般的ですが、『仏説無量寿経』では先に相好成就を挙げ、後にそのための道程を説くのです。
<阿難、それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を具足[す>
(阿難よ、だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて)
これは{具足諸相の願}の成就であります。菩薩の肉体の上に浄土の徳が華開いて三十二相を満足させるのです。往相は自分自身の問題ですから人相は関係ありませんが、還相は人間関係や社会が問題となりますから人相は重大事となるのです。願文ではこの「具足諸相の願」が{還相回向の願}の前に置かれているほどです。
これを『唯信鈔文意』4にしたがって解釈しますと――
「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」で、大真理そのものは私と縁を結べないが、「この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこして」兆載永劫の修行の結果「あらはれたまふ御かたち」が真実報身である無量寿仏です。「この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして」私に至り届き、諸仏のお勧めによって本仏の無量寿仏に詣でることが適いました。
ここで重要なのは、無量寿仏は特定の形は持たないが、あらゆるものの形をとってその功徳が発揮されるということ。さらにそれが人格として発揮される時は、必ず「かの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を具足[す」という形をともなうのです。無量寿仏の寿命が念仏者の寿命となり、無量寿仏の形なき形(特定の形は持たないが無限の形を持つ)が念仏者ひとり一人の形となり、三十二相となって報いるのです。真心というものは特定の形はありませんが、それだけに無限の形をとって報います。
さらに譬えれば、たとえば「搗[いた餅[より心持ち」という諺[があるでしょう。「搗いた餅」に真心がこもっていればそれは形として表れます。投げ捨てるように出されたような餅では真心を疑います。丁寧に出された餅を通して搗いた人の「心持ち」が伝わるのです。丁寧な形で出された「餅」を「三十二相」に譬えれば、「心持ち」は「仏の寿命」にあたります。特に三十二相は人間の肉体の上に報いる形ですから最も重要な形です。この三十二相の徳によって衆生は浄土の徳を身近に感じることができるわけです。
<智慧成満[して深く諸法に入り、要妙[を究暢[し、神通無礙[にして諸根明利[なり>
(智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力[を得て、すべてを明らかに知ることができる)
これは諸仏の智慧の生活≠ナあり念仏者の生活≠表しています。三十二相を得るためには生活を通さねば成就しないことは自明の理でしょう。ここに「智慧成満[」とありますから、念仏者は如来より回向された智慧をもって生活することができることを言います。
その具体的内容が、まず「深く諸法に入り」ですから、仏教だけではなく、あらゆる分野を深く理解し体験することを言います。どんな尊い道でも専門だけに留まっていては生活に広がりが持てません。
次に「要妙[を究暢[し」、これは様々な分野の知識をただ記憶するのではなく、肝心要[を深く理解していることを言います。ただ単に知識量が多いだけではなく、肝心要はこれである≠ニ達意的に受け取ることが諸仏の智慧なのです。
「神通無礙[にして」とは、そうした達意的に覚った内容を生活の上で応用し役立てることを言います。あらゆる学びや経験も宝の持ち腐れになっては仕方ありません。また、原理主義者になって頑[なに教学を押し進めれば周囲は敵だらけになることは眼に見えています。自らの人生観・世界観として消化し、生活の現場現場で障害なく発揮させてこその智慧でしょう。教学は身体で消化し切り、現場において言葉や形が次々と創造される、そうした智慧を神通無礙というのでしょう。
「諸根明利[なり」とは、諸根(眼耳鼻舌身意の六根)が明朗で利発であること、つまり身に回向された智慧は身心を快活にし、明るくさっぱりして勢いよく生活することが適うことを言います。宗教によっては、教えを学べば学ぶほど陰鬱[になり、ねちねちとした遺恨にとらわれてしまうことになりかねませんが、浄土の智慧は不断の智的快活をもたらす教えであり、念仏者はその体現者でありましょう。
<その鈍根[のものは二忍[を成就し、その利根[のものは不可計[の無生法忍[を得[>
(そして、資質に応じてあるものは音響忍[や柔順忍[を得、あるものは尊い無生法忍[を得るのである)
これは{得三法忍の願}の成就を言います。「忍」とは、ここでは経験智とか体験智といわれる智慧のことで、「法理をさとって認証し、心を安んじる」こと、「二忍[」とは「音響忍[」と「柔順忍[」を言います。
「音響忍」は、「音」を聞いて「響」が解るということ、「仏の説法の音声を聞き、諸法の道理を知って法に安住すること」を言います。覚っていない人は大抵経典にはこう説かれている∞聖人はこう仰った≠ニ言葉を聞くだけに終始し、そう説かねばならなかった背景にある深い道理≠ノまでは心が及びません。結果として記された経の文字や仏の音声を手がかりに、複雑で深遠なる人生の響きを見分け聞き分けていく智慧が「音響忍」です。
「柔順忍」は人生随順の智慧で「思惟随順忍」ともいい、「自ら思惟をめぐらし、諸法の真理にすなおに順って法に安住すること」を言います。これは先の「音響忍」が成熟すれば自ずと得られる智慧で、八地以上の菩薩である普賢の徳とも言われています。{触光柔軟の願}には「わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん」とありますが、「光明のお照らしによって、邪見の角を振り立てている自分の浅ましい相が見えると、おのずと念仏が出る」ことを身心柔軟というのです。心静かにわが身をふり返れば、無明煩悩に穢れた私たちの浅ましい現実が見えるのですが、この足元の現実が見えたということは、見ている私の眼は尊いのであります。そしてさらに奥には、見せしめている何かがありこれが尊いのでありますが、この尊いものが浄土なのです。穢土を穢土と照らして浄土あり、浄土を浄土と願わしめて穢土がある。こうした金剛の裏づけがあってこそ、現実においては「触光柔軟の願」が頑[なだった我が身を柔順ならしめるのです。
「無生法忍」は「修習無生法忍」ともいい「相を離れてただちに法の真理にかなって安住すること」を言います。{聞名得忍の願}には「わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得」と願われていますので、南無阿弥陀仏の名の徳を尋ねてゆくことであらゆる「深総持[・陀羅尼[」を得ることができる、一つの言葉の中にたくさんな意味を有っている言葉である深総持の内容を全て得ることができる、とあります。島田幸昭師は「無生法忍」を達意的に「表に表れた事象ではないが、そうかといって、不生不滅という涅槃のことでもない。一つのこの世で形造られたものではあるが、形のないもの、つまり世とか性格とか、歴史とか社会とか、慣習とか国柄とか、また法則とか原理」であり「世間解」であると解されました。本当に人生が解る、世間が解るということは、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」(良寛)で、人生の裏表が解り世間の裏表が解り、なおかつ、それら総体の催しや法則が達意的に解るということが「無生法忍」でしょう。
「鈍根[のものは二忍[を成就し、その利根[のものは不可計[の無生法忍[を得[」ということは、先の二忍(音響忍[・柔順忍[)は、浄土に生まれた菩薩全てが得る智慧ですが、無生法忍[は得られる菩薩と得られない菩薩がいる、と説かれています。しかし経典の真意を尋ねてみれば、実は全ての浄土の菩薩は三法忍全てを得る資質や素地はあるのですが、「無生法忍」だけは長い経験とそれらを統合する勘が必要となり、法忍を得るためには時間がかかる場合がありますので、このように念を入れて説かれたのでしょう。
<またかの菩薩、乃至成仏[まで悪趣[に更[らず>
(またその菩薩たちは、仏になるまで二度と迷いの世界に帰ることがなく)
「趣」とは、「衆生が自分のつくった業(行為)によって導かれ趣[く生存の状態、または世界」であり、「悪趣」は特に地獄[・餓鬼[・畜生[の三悪道を指します(参照:{無三悪趣の願})。ちなみに天・人・修羅[の世界を「三善趣[」と呼ぶ場合もありますが、地獄・餓鬼・畜生・人・天(修羅は餓鬼や天に含める)世界全てを「五悪趣」とする場合もあります。これは各宗旨・宗派の世界観の違いによって分類分けが異なるのです。『仏説無量寿経』で「悪趣」を地獄[・餓鬼[・畜生[の三悪道に限定したのは、一切衆生の済度という視点から人・天を悪趣に含めなかったのでしょう。
悪趣に堕ちるのには原因があり、自分のつくった行為によってこの状態に導かれたのですが、三悪道の中でも最悪の「地獄」に陥る原因は「我執」と「無明」にあります。そしてこの「我執」が「餓鬼」であり、「無明」が「畜生」に当たります。
「餓鬼」に趣く原因が「我執」にあるということは、餓鬼は無いものねだりの横着者≠ナあり利己主義者≠ナあることを意味します。無いものねだりは物欲に留まりません。自分の身勝手な考えに固執し、都合が悪いことはすべて他人のせいにしている人たちを餓鬼と呼びます。餓鬼は満ち足りることを知りませんから常に不平不満をたぎらせています。
「畜生」に趣く原因が「無明」にあるということは、畜生は愚かで無自覚な者であることを意味します。また「畜生」は「畜養[される生類」という意味ですから、単なる動物ではなく飼いならされた者≠竍奴隷根性から抜け出せない者≠言うのでしょう。畜生は自分自身が悲惨な状態にあるのにそれに気づかず、自分の人生を自覚し立ち上がることを忘れてしまっています。島田幸昭師は、「足るを知らざるを餓鬼といい、足らざるを知らざるを畜生という」とまとめてみえます。
こうした餓鬼と畜生が集まれば社会は歪み汚されていくことは当然でしょう。「地獄」は単純な原因で起こった結果ではなく、こうした多くの歪みが永い間重なり、人間環境・社会環境が悪業を抱え込んでしまった結果なのです。浄土の菩薩はこうした三悪趣に陥ることなく、確実に成仏への道を歩むというのですが、ここでは浄土の土徳として説かれていますので、実際の菩薩は悪趣と無縁ではありません。これはすぐ後に説かれてます。
<神通自在[にしてつねに宿命[を識[る>
(自由自在な神通力で常に過去世のことを知り尽くしている)
「神通」とは、{5:令識宿命の願}から{10:不貪計心の願}に願われた六神通を言いますが、この中でも特に宿命通を取りあげているのは、後の五神通を略して述べていると解釈することもできますが、先の「悪趣に更らず」と同様、様々な活躍の前に何よりも人生の基礎固めをしっかり行なわねばならない、という意が込められているのでしょう。浄土の菩薩は様々な活躍や飛躍ができますが、そうしたことは縁次第ということもあり、常においては、まず自分自身が立っている現実を引き受けていかねばなりません。ここを転べば全ての日常が浮いたものとなり、浄土が現実の反動としてしかはたらくなってしまいます。これを諫[めるため特に宿命通を出したのでしょう。
<他方の五濁悪世[に生じて、示現[してかれに同ずること、わが国のごとくなるをば除く>
(ただし、わたしがこの国に出てきたように、菩薩自身の願によって、他の五濁[に満ちた悪い世界に生れ、そこの人々と同じ姿を現すことも自由である)
ここも「除く」とあります。先にも申しましたように「除く」は、驕慢な態度を誡め、敬虔な態度で還相回向に臨む時に用いる表現です。浄土の徳分においては「かの菩薩、乃至成仏[まで悪趣[に更[らず。神通自在[にしてつねに宿命[を識[る」ですが、実際の菩薩は「他方の五濁悪世[に生じて、示現[してかれに同ずること、わが国のごとくなる」のです。
「他方の五濁悪世[に生じて」とは、五濁悪世の人と同じ世界を共有するということです。「五濁悪世」とは、「悪時代における五種のけがれ」であり、五種は「劫濁[(時代的な環境社会のけがれ)・見濁[(悪見による思想の乱れ)・煩悩濁[(三毒煩悩や悪徳がはびこるけがれ)・衆生濁[(人間の資質が低下したけがれ)・命濁[(菩提心の発揮期間である寿命が短くなるけがれ)」をいいます。
「示現[してかれに同ずる」とは、先の五濁悪世のけがれに呻吟[している人と関わり、身を変え、その迷っている人に成り切ってゆくことをいいます。浄土を背景に持つ浄土の菩薩が苦悩の現場に足をつけ、五濁悪世のけがれを一身に引き受けてゆくのです。
「わが国のごとくなるをば除く」の「除く」は還相回向の敬虔な態度をいいますが、「わが国のごとくなる」とはどういう意味でしょう。現代語版では「そこの人々と同じ姿を現す」と訳してありますが、これでは「かれに同ずる」までの意味しかなく、「わが国のごとく」の意は含まれていません。注釈版では「釈尊みずからがこの娑婆世界に応化して、衆生済度するのと同じであるという意」とあります。
ではなぜ菩薩の国が「わが国のごとくなる」(釈尊の国と同じようになる)ことが可能なのでしょうか。それは、{往覲偈1#無量寿仏より成道の予告を頂く}に説かれたことを拠としているのです。つまり――
一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
(すべてのものは夢や幻[やこだまのようであるとさとりながらも、
さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである)
という箇所です。
釈尊は安楽浄土の功徳を五濁悪世において説かれました。『仏説阿弥陀経』を見ると、「釈迦牟尼仏[、よく甚難希有[の事をなして、よく娑婆国土[の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提[を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信[の法を説きたまふ」と、諸仏の称説を紹介してみえます。しかしこれはひとり釈尊だけの内容ではありません。浄土に生まれた菩薩は釈尊のように還相回向を為し、五濁の世に安楽国のような国をつくることができる、そのことを「わが国のごとくなる」と励ましてみえるのです。
もちろん釈尊と念仏者の行動は同じではありません。心根や規模や言動はまるきり違っています。それでも無量寿仏に手が合わされば、私を通さねばはたらかない浄土の徳が相手にはたらくのです。これこそ先の「かの国の菩薩は、みなまさに一生補処[を究竟[すべし」という、釈尊の跡継ぎとしての姿でしょう。
ただし、私の為したままが浄土の徳なのではありません。私の罪業の底をさらって浄土の徳は周囲にはたらくのです。だからこそ「他方の五濁悪世に生じ」る必要があるのです。
- 註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「かの国の菩薩は、仏の威神[〔力[〕を承[けて、一食[のあひだに十方無量[の世界に往詣[して、諸仏世尊[を恭敬[し供養[したてまつらん。心の所念[に随[ひて、華香[・伎楽[・ゾウ蓋[・幢幡[、無数無量[の供養の具[、自然[に化生[して念に応じてすなはち至らん。珍妙殊特[にして、世の所有[にあらず。すなはちもつてもろもろの仏・菩薩・声聞[の大衆[に奉散[せん。〔散ぜし華は〕虚空[のなかにありて、化[して華蓋[となる。光色イク爍[して、香気[あまねく熏[ず。その華の周円[、四百里なるものあり。かくのごとくうたた倍してすなはち三千大千世界[に覆[へり。その前後に随ひて、次[いでをもつて化没[す。そのもろもろの菩薩、僉然[として欣悦[す。虚空[のなかにおいてともに天の楽[を奏[し、微妙[の音[をもつて仏徳[を歌歎[す。経法[を聴受[して歓喜すること無量なり。仏を供養したてまつること已[りていまだ食[せざるの前に、忽然[として軽挙[してその本国に還[る」と。
- 現代語版
- 続けて釈尊が仰せになる。
「その国の菩薩たちは無量寿仏のすぐれた神通力を受けて、一度食事をするほどの短い時間のうちにすべての数限りない世界に行き、さまざまな仏がたを敬い供養する。香り高い花・音楽・天蓋[・幡[など、思いのままに数限りない供養の品々がすぐさまおのずから現れてくるのであるが、みなとりわけすぐれて珍しく、この世では見られないものばかりである。菩薩がそれらの品々を仏がたや菩薩や声聞たちにささげると、まかれた花は空中で花の天蓋となってきらきら輝き、香りがあたり一面に広がる。この花の天蓋は、周囲が四百里のものから、だんだん大きくなって世界中をおおうほどのものまである。そしてそれらの花の天蓋は、新しいものが現れるにしたがい、前のものから次々と消えてなくなる。菩薩たちはともに喜びにひたり、空中にあって美しい音楽を奏で、すばらしい歌声で仏の徳をほめたたえ、教えを聞いて限りない喜びを得る。このようにして仏がたを供養しおわり、食事の時までに、たちまち身もかるがると無量寿仏の国に帰るのである」
これは、{供養諸仏の願}には「たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力[を承[けて、諸仏を供養し、一食のあひだにあまねく無数無量那由他[の諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ」(わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けてさまざまな仏がたを供養するにあたり、一度食事をするほどの短い時間のうちに、それらの数限りない国々に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません)とあり、往覲偈の後半には「億の如来に奉事[するに、飛化[してもろもろの刹[に遍[し、恭敬[し歓喜[して去り、還[りて安養国[に到る」(そして数限りない如来に仕[えるため、神通力によりさまざまな国に往き、如来を敬[い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである)とあります通り、浄土に生まれた菩薩(生まれんとする願いが成就した念仏者)は諸仏供養をさせていただくのです。
<かの国の菩薩は、仏の威神[〔力[〕を承[けて、一食[のあひだに十方無量[の世界に往詣[して、諸仏世尊[を恭敬[し供養[したてまつらん>
(その国の菩薩たちは無量寿仏のすぐれた神通力を受けて、一度食事をするほどの短い時間のうちにすべての数限りない世界に行き、さまざまな仏がたを敬い供養する)
諸仏供養の詳細は、まず「国中の菩薩、仏の神力[を承[けて」とありますから、無量寿仏のすぐれた神通力を受け、浄土の徳をいただいた菩薩は≠ニいうことです。「一食[」は「一念」と同じひとときの間に≠ニいうことですが、「一食」は生活を通した短い時間をいい、「一念」は精神的な時間を指す≠ニ聞いております。そうした短い時間において「十方無量[の世界に往詣[して」ということですから、生活の一歩一歩において全人類を念じることを言います。そうした中で「諸仏世尊[を恭敬[し供養[したてまつらん」とあります。恭敬供養は浄土に生まれた菩薩の日常生活における基本姿勢でしょう。しかし浄土に生まれていない人々は、たとえ十方無量の世界におもむいたとしても自分や組織や一国の利益にしか興味がなく、西に行けば西にへつらって東の悪口を言い、東に行けば東には綺語を用いて西の悪口を言う有様です。
真の「恭敬供養」は、「恭」は「目上の人の前に者をささげるときのかしこまった気持ち」で、「敬」は「身心を引き締めてかしこまり、ていねいにする」という意、「供」は「役立てる。左右の両手でうやうやしくささげるさま」という意、「養」は「やしなう。食物を与えて力づける」という意ですから、恭[しくていねいに敬[い、物心をささげて役立てていただく≠ニいう意になります。ですから恭敬供養と綺語(おべっか)は全く違うもので、供養は道心の発露、綺語は我執・染心の発露でしょう。
具体的に言いますと、「恭敬」には懺悔が関わっていますので、まず十方の諸仏世尊を念じてその願いや求道精神を訪ね、私の無始以来の罪悪を懺悔させていただくのです。そして全ての人々の御前において我が身を慎み、へりくだり、相手を尊敬し、物心を奉げるのです。そうすると、同じ動作を行なうにしても、常に十方諸仏の御前に自分をさらけ出し、十方衆生の幸せが願われた中で我が生活を成り立たせてゆく≠ニか歴史を貫き一切衆生を抱いた心根で物事を為す≠ニいうことになってくるでしょう。
<心の所念[に随[ひて、華香[・伎楽[・ゾウ蓋[・幢幡[、無数無量[の供養の具[、自然[に化生[して念に応じてすなはち至らん。珍妙殊特[にして、世の所有[にあらず>
(香り高い花・音楽・天蓋[・幡[など、思いのままに数限りない供養の品々がすぐさまおのずから現れてくるのであるが、みなとりわけすぐれて珍しく、この世では見られないものばかりである)
これは{供養如意の願}に「たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし意のごとくならずは、正覚を取らじ」(わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がさまざまな仏がたの前で功徳を積むにあたり、供養のための望みの品を思いのままに得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません)とありますから、この願成就の果報でしょう。
真実信心は万物を宝に変える打ち出の小槌ですから、浄土の菩薩は、どのような相手に対しても、相手が喜ぶ供養の品が思いどおりに具[わってくるのです。先に「諸仏世尊[を恭敬[し供養[したてまつらん」とありましたが、本当に供養することができているのかどうか∞自分の思い込みでしかないのではないか≠ニいう疑問が出てくると思います。この疑問に応えるのが「無数無量[の供養の具[」が出現するかどうか、「思いのままに数限りない供養の品々がすぐさまおのずから現れてくる」かどうかなのです。
供養の品々の具体的な例として、「華香[・伎楽[・ゾウ蓋[・幢幡[」が挙げられています。
「華香[」は「香り高い花」と訳されていますが華のような良い香り≠サのものも供具となるでしょう。法蔵菩薩は「口気[は香潔[にして、優鉢羅華[のごとし」でありますから、浄土の徳を回向された菩薩も念仏の功徳がその人の言動を通じて芳[しい香りのように漂う≠フでしょう。しかし私たちは時としてどことなく全体的に臭気紛々[漂っている人≠ノ会うこともありますが、それはその人に悪い下心があったり、相手を蔑[む態度から醸[し出されてくるのです。こうした人に限って「俺のどこが悪いのか説明しろ」と相手を詰[る傾向にあるのですが、これは不徳の無さに原因がありますので、説明の仕方が難しいのです。
「伎楽[」は「音楽」ということですが、これは浄土の功徳が菩薩を通して人々に心地よく回施されることを言うのでしょう。特に「楽」は「たのしい。こころよい。好ましい状態にあって身心が軽やかで安楽なること」という意味であり、具体的にはまたあの人に会って楽しく法を語り合いたい≠ニ思わせる快い感情を与えることを言うのでしょう。浄土の菩薩の生活は、相手から音楽のように何度も何度も繰り返し楽しみたい∞幾度も幾度も法を聞きたい≠ニいう印象を与えるものです。もし相手にあいつは高飛車な態度で偉そうなことを言う奴だ。もう二度と会うものか≠ネどという印象を与えてしまったとしたら、それは自分の生き方が高飛車で傲慢な内容だからに他なりません。実は宗教者の多くは教えを説くことばかり先走り、相手の思いなど無視して自説を押し付け、嫌な印象ばかり与えているのですが、これに気づく人は案外稀[なので気をつけなければなりません。
「ゾウ蓋[」は仏殿にかける絹の天蓋[のことで、相手の真心と供養の善根が感応して、辺り一面に仏の功徳が咲き広がることをいいます。すぐ後に「華蓋[」が説かれますがこれと同様の内容です。
「幢幡[」は、「はたぼこ、長旗、仏堂を飾る旗、また幡竿から垂れた幡。色のついた布に字や模様をかいてたらしたはた。ひらひらとひるがえるのぼり」を言いますが、これも浄土の果報を言います。幡(旗)は、国旗や五輪旗・社旗・校旗などのように、国や学校や理念などの象徴図であり、それらの存在を現わすものですから、菩薩が幢幡を出すということは、本願と浄土を象徴する形が供養において現れることを言います。これは人間関係の一つひとつにおいて浄土を象徴する形が現れる≠ニいうことであり、裏から言えば浄土の菩薩ひとり一人が浄土の象徴を生み出せる≠ニいうことでしょう。現在の『日本国憲法』第一章・第一条では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とありますが、浄土の象徴はひとり無量寿仏だけではなく、浄土の菩薩が浄土の象徴を無限に生み出してゆくことができるのです。このことからも浄土は創造的世界であることが知れるでしょう。浄土の菩薩は浄土より回向された幢幡として、恒にそうした象徴となるものを創造し続けているのです。
「無数無量[の供養の具[」とは、ここに挙げた華香[・伎楽[・ゾウ蓋[・幢幡[はごく一部の供養の具であることを言うのでしょう。人生の一こま一こまにおいて供養の具が必要なのですから、四種ではなく無数無量でなければ供養は成就しません。
「自然[に化生[して念に応じてすなはち至らん」とは、あの人に対して供養の具をどうしようか≠ネどとはからい悩む必要がないことをいうのでしょう。恭敬供養が本物であれば供養の具は自ずとそろいます。もしそろわないということであれば、その供養は本物ではなく自分の思い込みに過ぎない、ということがあばかれているのです。結果には必ず原因があるのですから、もし目の前の相手が嫌な顔をしていたら、自分自身、本音では相手を貶[し、無視し、誤解しているということに他なりません。
「珍妙殊特[にして、世の所有[にあらず」とは、供養の具は一般的な物ではないということです。かといって現実に存在する物は供養の具とはならない≠ニ単純に割り切ってしまっても真意を外します。あるのは現実だけです。物も心も仏も供養の具も、全て今現実に存在しているのであり、それ以外に存在するものを問うのは戯論でありますから論じないのです。それが「世の所有[にあらず」とはどういう訳かと言うと、今ここに存在する物や心がたったこれだけのもの≠ニしか見えていなかったものが、供養の具となった途端に特別の尊い宝≠ノ成ることを言います。たとえばお金にしても、数字としてしか見ていない時の金は数字でしかありません。しかし、相手を尊敬して渡した時のお金には仏の命が宿りますから、数字では量り切れない宝となります。言葉も、単に発音するだけなら説明文に過ぎませんが、相手を尊敬して発言する時は、言葉の意味以上の内容が相手の胸に響くはずです。このように「世の所有[」であったものが供養の具となった途端に「世の所有[にあらず」と成るのです。
<すなはちもつてもろもろの仏・菩薩・声聞[の大衆[に奉散[せん。〔散ぜし華は〕虚空[のなかにありて、化[して華蓋[となる。光色イク爍[して、香気[あまねく熏[ず。その華の周円[、四百里なるものあり。かくのごとくうたた倍してすなはち三千大千世界[に覆[へり。その前後に随ひて、次[いでをもつて化没[す>
(菩薩がそれらの品々を仏がたや菩薩や声聞たちにささげると、まかれた花は空中で花の天蓋となってきらきら輝き、香りがあたり一面に広がる。この花の天蓋は、周囲が四百里のものから、だんだん大きくなって世界中をおおうほどのものまである。そしてそれらの花の天蓋は、新しいものが現れるにしたがい、前のものから次々と消えてなくなる)
供具を諸仏・菩薩・声聞たちにささげると「虚空[のなかにありて、化[して華蓋[となる」とあります。華はまごころの華≠ナあり、華蓋は天蓋[と同じで花笠、それも天空に咲くまごころの花笠≠ナす。
天蓋は、{三輩往生・中輩}などでも説明しましたが、日差しや雨を防ぐための傘で、屋外で仏が説法された際に用いたと伝えられています。つまり元来は仏の身体をあまねく覆うもの≠ナ、説法者に日傘や雨傘を捧げる≠ニいう意味もありますが、総じて言えば、相手の真心と供養の善根が感応して、辺り一面に仏の功徳が咲き広がることを象徴しています。なぜ供具が天蓋となったかと申しますと、世の中には真実の法を妨げる邪な思想や暴力がはびこり、その為に人々は嘘や悪意に惑わされ戦々恐々として毎日をおくる破目に陥っています。そこで天蓋をかけ、相手の真心を護るのです。
「光色イク爍[して、香気[あまねく熏[ず」は、奉げられた供具は仏の功徳でありますから全て光り輝くもので、念仏の徳が快く香るものであることを言います。
この天空に咲くまごころの花笠≠ェ「周円[、四百里なるものあり」とはどういう意味かというと、{道場樹の願}には「たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見することあたはずは、正覚を取らじ」とあり、「四」は浄土の四徳(常・楽・我・浄)を象徴していますので、天蓋は浄土の四徳が基本にあることを言うのでしょう。
「かくのごとくうたた倍してすなはち三千大千世界[に覆[へり」とは、自分の為す供養はごく小さなものかも知れませんが、小さいからと言って侮[ってはならず、中身は三千大千世界を覆うほどの内容であることをいいます。現代は情報ばかり多くなり、世界規模のことを考えると自分のようなちっぽけな人間ができることは何もないのではないか≠ニ悲観しがちですが、そうではありません。浄土より回向された真実の供養であれば、規模は小さくとも供された功徳はやがて周囲を感化し、人知れず世界中に広がってゆくものです。逆に規模ばかり問えば、内容がおろそかになったり、周囲とぶつかってばかりで広がりも望めません。形としての規模は問わず、心持ちの大きさを問い、自分自身で今できることは何かないだろうか≠ニ、実際の言動にうつすことが肝心でしょう。
「その前後に随ひて、次[いでをもつて化没[す」とは、そうしたまごころの供具・天蓋であっても、私はこういうことを為したのだ≠ニ執着になっては台無しであることをいうのでしょう。驕慢は供養とは正反対の態度だからです。そこで天蓋は、「新しいものが現れるにしたがい、前のものから次々と消えてなくなる」のです。これは、浄土の菩薩はそれだけ次々と新しい善根功徳を波及させることができるということでもありましょう。浄土は新鮮な願土でもあるのです。
<そのもろもろの菩薩、僉然[として欣悦[す。虚空[のなかにおいてともに天の楽[を奏[し、微妙[の音[をもつて仏徳[を歌歎[す。経法[を聴受[して歓喜すること無量なり。仏を供養したてまつること已[りていまだ食[せざるの前に、忽然[として軽挙[してその本国に還[る」と>
(菩薩たちはともに喜びにひたり、空中にあって美しい音楽を奏で、すばらしい歌声で仏の徳をほめたたえ、教えを聞いて限りない喜びを得る。このようにして仏がたを供養しおわり、食事の時までに、たちまち身もかるがると無量寿仏の国に帰るのである)
「そのもろもろの菩薩、僉然[として欣悦[す」とは、「僉」は「複数の人や物を寄せ集めること」で、「欣」は「喜」ですから、「菩薩たちはともに喜びにひたり」と訳されるとおりです。
「虚空[のなかにおいてともに天の楽[を奏[し、微妙[の音[をもつて仏徳[を歌歎[す」とは、{往覲偈}に、「咸然[として天の楽[を奏[し、和雅[の音[を暢発[して/最勝[の尊[を歌歎[して、無量覚[を供養[したてまつる」とあるように、普段から、仏法を語る際には下劣な表現をとらず、周りの人々と調和した言葉や表現を選び、なおかつ相手の心に響くことを念じて&ァ徳讃嘆させていただくのです。
「仏を供養したてまつること已[りていまだ食[せざるの前に、忽然[として軽挙[してその本国に還[る」とは、この章に説かれている一切のことは一食(「一食」は生活を通した短い時間をいい「一念」は精神的な時間を指す)に満たない時間に為されることを言います。
このことは、たとえば『仏説阿弥陀経』にも――
その国の衆生、つねに清旦[をもつて、おのおの衣コクをもつて、もろもろの妙華[を盛[れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。すなはち食時をもつて本国に還り到りて、飯食し経行す。
『仏説阿弥陀経』3
その国の人々はいつも、すがすがしい朝に、それぞれの器に美しい花を盛り、他の国々の数限りない仏がたを供養する。そして食事の時までには帰ってきて、食事をとってからしばらくの間はそのあたりを静かに歩き、身と心をととのえる。
とある通りで、文字通り浄土の菩薩は朝飯前に一切諸仏を供養し浄土に戻る≠ニいうこと、つまり諸仏供養は気が向いたらする程度ではなく、念仏者の毎朝の日課とすべきものなのです。菩薩の法式は様々ありますが、毎朝の日課ということは、仏道はもとより日常生活全ての基本が諸仏供養にあるということを言うのでしょう。そして「忽然[として軽挙[してその本国に還[る」ということは、「諸仏供養したぞ」の「ぞ」が消えるということです。「してやった」という恩着せがましさが消え、ただ軽々と相手の喜びが自分の喜びとなって満足するのです。
この身これ尊くあるか否あらず
ぬかづく人を尊しと思う
(九條武子)
子どものときには、猿がものを言う、キジがものを言う、アリがものを言う。もう何もかもが皆、そういうものを言う時代だったのです。ものを見ても、この世界がもう光り輝いていたのです。「蝶々とまれ、菜の花にとまれ」。蝶々が飛ぶのか、私が飛ぶのか、そういう愉快な世界。そういう自分が若々しいから、この世界が若々しいのです。だから、こういう時代を自然と人間が身分化【未分化】状態。だから、人間と自然かまだ分かれておらないのです。人間で言うならば、これはお母さんの胎内からおぎゃーと生まれても、まだ乳離れがしておらん、親離れがしておらん。親から言うて、ちゃんとしておらんと言いましょう。だから、ちゃんと本当の一人前の人間になっておらんのです。自然から、まだ本当の人間になっておらんのです。そういう自然と人間が分かれておらない時代。
今度、大人になってみたらどうか。
<中略>
そうすると、美しいのは美しいのだが、今までのようにもろ手を挙げて喜ぶことにいかんことになったのです。人生の裏が見えてきたから。解りましょう。これと同じように、今まではちゃんと、判らなかったものが、心の眼が開いたら、今まで見えなかった世界が見えるのです。
ところが、今の時代は、大人の世界は汚いところだけ分かってきたのです。まだ、もう一遍大人になって、老境という年を取ったら、今度は山を見れば山が御説法、川を見れば川が御説法で、今度は尊いものがまた見えてくるのです。だから、大体が皆、三段階。子ども時代と、大人の時代と、年を取った時代と、三段階通ってこなければいけない。ところが、大抵が途中で止まってしまっておるのです。このぐらいに。
例えば、おとぎ話でもそうでしょう。子どものときには、「どんぐりころころどんぶりこ お池にはまってさあ大変。どじょうが出てきてこんにちは」という。だから、どじょうがものを言うたといっても、子どもはほんまにしましょう。大人になれば、どじょうがものを言うもんかとなりましょう。ところが、おじいさんになれば、また言うんだもの。実際に。アリがものを言うの。
アリが行列しております。王さまがおられて馬に乗って行きよったら、「王さま王さま、お願いでございますが、どうぞ私らを踏まんようにしてください」と、こうアリが言うたとありましょう。本当の老境にになれば、それが聞こえてくるのです。
それと同じように、芭蕉でも言うておりましょう。「この道や 行く人なしに 秋の暮」と、人生は一人だなあ、孤独だなあと、名人は皆、孤独であります。ところが、次、読み替えて、「人声や この道帰る 秋の暮」言っておりましょう。人声が聞こえてくるのです。この人声は言葉の声ではないのです。これは橋を渡って帰れば、おばあさんの声が橋から聞こえてくるのです。今度は石を見れば石を見て、私は子どものときに、ここでお母さんにおんぶしてもらったことがあるがなあと、こういうときに親の声が聞こえてくるのです。そういうことを、老境である。
だから、それと同じように、人間がもっと心の眼が開かなければいけないのです。開いてくれば、山を見れば山が御説法と同じようにどの人の上にも仏を見ることができるという、そういうさとりの世界をお浄土と言ったのです。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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