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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』27b
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈2
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
前章に続いて真実信心の要めである「往覲偈」を学びたいと思います。前半は、念仏者が浄土に往生(即得往生)し、無量寿仏に覲[えることが適い、自分の国も安楽浄土と同じような素晴らしい内容にしたい、自分も仏になりたい≠ニ、真実回向の願いを述べ、無量寿仏からは必ずこの安楽国のような環境の国をつくることができる≠ニ励まされました。
そこで後半は、これら全てを知っている諸仏が、菩薩たちに安楽国への往生・往覲を勧め、往相回向と還相回向を明かにし、教えに出あうまでの歴史を称え、足元の現実からの学びを尊み、信心生活全体の心がけが説かれます。
仏説無量寿経 27
その時に、世尊、しかも頌を説きてのたまはく、
「東方の諸仏の国、その数恒沙のごとし。
かの土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。
南西北・四維・上下〔の仏国〕、またまたしかなり。
かの土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。
一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華・
宝香・無価の衣を齎つて、無量覚を供養したてまつる。
咸然として天の楽を奏し、和雅の音を暢発して、
最勝の尊を歌歎して、無量覚を供養したてまつる、
〈神通と慧とを究達して、深法門に遊入し、
功徳蔵を具足して、妙智、等倫なし。
慧日、世間を照らして、生死の雲を消除したまふ〉と。
恭敬して繞ること三匝して、無上尊を稽首したてまつる。
かの厳浄の土の、微妙にして思議しがたきを見て、
よりて無上心を発して、わが国もまたしからんと願ず。
時に応じて無量尊、容を動かし欣笑を発したまひ、
口より無数の光を出して、あまねく十方国を照らしたまふ。
光を回らして身を囲繞すること、三匝して頂より入る。
一切の天・人衆、踊躍してみな歓喜す。
大士観世音、服を整へ稽首して問うて、
仏にまうさく、〈なんの縁ありてか笑みたまふや。やや、しかなり。願は
くは意を説きたまへ〉と。
〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、八音は妙なる響きを暢ぶ、
〈まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。
厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。
一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、
もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。
諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん〉と。
諸仏は菩薩に告げて、安養仏を覲せしむ、
〈法を聞きて楽ひて受行して、疾く清浄の処を得よ。
かの厳浄の国に至らば、すなはちすみやかに神通を得、
かならず無量尊において、記を受けて等覚を成らん。
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、
みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。
菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。
あまねく一切を度せんと念じ、名、顕れて十方に達せん。
億の如来に奉事するに、飛化してもろもろの刹に遍し、
恭敬し歓喜して去り、還りて安養国に到る。
もし人善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
曾更世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。
声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。
たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごとし。
如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。
たとひ一切の人、具足してみな道を得、
浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、
力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。
仏慧は辺際なくして、かくのごとく清浄に致る。
寿命はなはだ得がたく、仏世また値ひがたし。
人信慧あること難し。もし〔法を〕聞かば精進して求めよ。
法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、
すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし。
たとひ世界に満てらん火をも、かならず過ぎて要めて法を聞かば、
かならずまさに仏道を成じて、広く生死の流を済ふべし〉」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 27
そこで釈尊は、そのことを次ぎのように重ねてお説きになった。
東の仏がたの国はガンジス河の砂の数ほどに多いが、
その国々の菩薩[たちは、無量寿仏[の国に往[き仏を仰[ぎ見る。
南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々もまた同様であり、
それらの国の菩薩たちも、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見るのである。
菩薩はみなそれぞれに、うるわしい花と
かぐわしい香[と最上の衣をささげて、無量寿仏を供養[したてまつる。
みなともに美しい音楽を奏[で、みやびやかな音色[を響かせ、
すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。
「実にみ仏は神通力[と智慧[をきわめ尽し、深い教えの門に入り、
すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません。
その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます」 と。
うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏[してこの上なく尊いこの仏を礼拝[したてまつる。
その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、
菩薩はこの上ないさとりを求める心を起[し、自分の国もこのようにありたいと願う。
そのとき無量寿仏はにっこりとほほえまれ、
口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる。
もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり、
すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである。
そこで観世音菩薩[は服装を正し、伏して礼拝して問う。
「み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。どうぞ、そのお心をお説きください」 と。
仏は雷鳴[がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志[して、その願[の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻[やこだまのようであるとさとりながらも、
さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻[や幻影[のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、
さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、
ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」と。
仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次のようにお勧[めになる。
「この仏の教えを聞き、求めて修行し、速[やかに清らかな世界を得るがよい。
無量寿仏の清らかな国に往[ったなら、すぐさま神通力を得て、
無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得ることができるのである。
この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、
残らずみなその国に往き、おのずから不退転[の位に至る。
そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、
ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。
そして数限りない如来に仕[えるため、神通力によりさまざまな国に往き、
如来を敬[い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。
もし人が功徳[を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。
清らかに戒[を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。
以前に仏を仰[ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、
うやうやしく教えを尊[び、仰[せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。
おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない。
過去世[に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。
声聞[や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。
如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、
声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる。
たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、
清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、
力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、
仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。
そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。
その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。もし教えを聞くことができたなら、努[め励[んでさとりを求めるがよい。
教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそ
わたしのまことの善き友である。だからさとりを求める心を起すがよい。
たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。
そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう」 と。
- 註釈版
- 諸仏は菩薩に告げて、安養仏[を覲[せしむ、
〈法を聞きて楽[ひて受行[して、疾[く清浄[の処[を得よ。
かの厳浄[の国に至[らば、すなはちすみやかに神通[を得、
かならず無量尊[において、記[を受[けて等覚[を成[らん。
- 現代語版
- 仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次のようにお勧[めになる。
「この仏の教えを聞き、求めて修行し、速[やかに清らかな世界を得るがよい。
無量寿仏の清らかな国に往[ったなら、すぐさま神通力を得て、
無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得ることができるのである。
往覲偈の初めに「東方[の諸仏の国、その数恒沙[のごとし/かの土の菩薩衆[、往[いて無量覚[を覲[たてまつる」とありましたが、これは往生の様相をただ客観的に説いたもので、なぜ菩薩衆は無量覚(=安養仏・無量寿仏・阿弥陀仏)を仰ぎ見るのか?≠ニいう理由までは明かされませんでした。それをこの箇所で明かすのです。
<諸仏は菩薩に告げて、安養仏[を覲[せしむ>
(仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次のようにお勧[めになる)
「諸仏」とはどういう存在のことでしょう。「菩薩」とは誰のことでしょうか。
結論から申しますと、「諸仏」とは{華光出仏}にありました「三十六百千億の仏」のことです。この浄土の蓮台の華から生まれた諸仏が「百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙[の法を説きたまふ」というのですが、その最初の教説が、無量寿仏を仰ぎ見るように勧める内容なのです。安楽浄土の素晴らしい真心の環境が名をともなって十方に響き渡り、仏となって菩薩衆に至り届き、菩薩衆に宿って無量寿仏を仰ぎ見ることを勧めるのです。
また「菩薩」とは畢竟[「自分」のことなのですが、迷いの凡夫が意識した自分ではありません。自分というものの中には、浄土より至り届いた仏もいれば、貪欲な餓鬼や無明の畜生もいます。その中で、真実の法を聞きたいと願う「声聞」がお育てにあずかり、信行を通して本当に真心の成就した人間になりたいとの願いが起こる、その願が起こった菩薩に向かって「菩薩よ、無量寿仏に直接お目にかかりなさい」と、浄土より至り届いた仏が呼びかけるのです。
<法を聞きて楽[ひて受行[して、疾[く清浄[の処[を得よ>
(この仏の教えを聞き、求めて修行し、速[やかに清らかな世界を得るがよい)
「法を聞きて」(この仏の教えを聞き)とありますが、無量寿仏はどのような法を説いてみえるのでしょう。
経典を学べば解りますが、論理や体系的な教えを説いているのではありません。法蔵菩薩の四十八願と兆載永劫の修行、そしてその果徳である浄土の環境が教えそのものなのです。ここに創造的根本主体たる無量寿仏の「いのち」があります。人間が人間としての求道の歩みを進んで咲かせた真心の歴史、ここに花開いた「仏のいのち」を学ぶことを「法を聞きて」というのです。
さらには「法を聞きて」が適えば、必須[として「自分も無量寿仏のいのちを継いで生きていきたい」との願いが出てまいります。法蔵菩薩の歩みが我が歩みと重なってくるのです。実際、私のこの身心には法蔵菩薩の兆載永劫の歩みが「仏性」として至り届いて宿っているのです。もちろん我が身は「煩悩具足の凡夫」という一面もありますが、煩悩が私なのではありません。煩悩は「悪い癖」でありますから、癖をなくした私は真実に生んと願う菩薩であります。そこで「楽[ひて受行[して、疾[く清浄[の処[を得よ」との仏の導きが活きてくるのです。
<かの厳浄[の国に至[らば、すなはちすみやかに神通[を得>
(無量寿仏の清らかな国に往[ったなら、すぐさま神通力を得て)
「厳浄の国」とは無量寿仏の浄土である安楽国・極楽です。この浄土に至るということは、自力で至ろうとすれば、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」(参照:{十劫成道「#浄土の場所」})というように、一切衆生の迷いを離れた世界を尋ね、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて」という一切衆生の仏性の展開を一々尋ねていく必要があるのですが、浄土回向のはたらきによって、信じ願うこと一つで浄土に至ることが適うのです。浄土の尊さを「南無阿弥陀仏」と尊ぶことでその功徳は全て私の身心に満ちてくるのです。ただし「私は浄土に至りました」と誇るところには浄土はありません。浄土に至ろうと願い続けることが至るということなのです。
すると「すみやかに神通[を得」ということも、願い続けることが成就であるという意味では同様です。具体的には{5:令識宿命の願}から{10:不貪計心の願}に願われた六神通を言います。詳細を言いますと――
- 宿命通
- 自分や世界全体の宿命が識られ、現在只今の歴史的事実を覚るはたらき。
- 天眼通
- 相手の尊さを観る眼。一切衆生の仏性世界を拝み見て自利利他円満の菩薩道を歩む原動力となる。
- 天耳通
- 相手の本心の訴えを聞く耳。一切衆生の本心の叫び声を聞いて心身深く刻んで憶えていく力となる。
- 他心通
- 相手の悩みや本心を理解する真心。誰しも心の奥底に背負いきれない悲しみや悩みを宿して生きていることを知り尽くす力となる。
- 神足通
- 相手の身になり立場に立って自他を超えてゆく心の足。一切衆生と語り合い真心を通わせて自利利他の菩薩行を行じていく力となる。
- 漏尽通
- 煩悩を滅尽させる智慧。自利利他の菩薩行を行じる際に妄念・我執をおこし、おためごかしの偽善によって身に執着が起こることを防ぐ。
このように、人間の個人的な問題だけではなく、社会において人間関係を破綻なく営み、人類の歴史を引き受けて充実した人生を送る、そうした上で必要となる能力やはたらきを神通と言います。
<かならず無量尊[において、記[を受[けて等覚[を成[らん>
(無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得ることができるのである)
これは、{往覲偈1 「#無量寿仏より成道の予告を頂く」}の内容を言います。無量寿仏は菩薩衆の願いは解っている、菩薩たちはこの安楽国のような優れた国をつくりたいと志し、その願いの通りに自分の国を清らかで麗しい環境に整えることができ、自身も必ず仏になることができる≠ニ予告されるのです。諸行無常を覚りながら、無常を嘆いてこの世を厭[うのではなく、自分の人生をこの無常の世の真っ只中において成就させてゆこう≠ニ願い続けている菩薩衆に対し、「願いは必ず成就する」と力強く記別[(予告)を与えるのです。
- 註釈版
- その仏の本願力[、名[を聞きて往生[せんと欲[へば、
みなことごとくかの国に致[りて、おのづから不退転[に到る。
菩薩、至願[を興[して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。
あまねく一切を度[せんと念じ、名、顕[れて十方に達せん。
億の如来に奉事[するに、飛化[してもろもろの刹[に遍[し、
恭敬[し歓喜[して去り、還[りて安養国[に到る。
- 現代語版
-
この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、
残らずみなその国に往き、おのずから不退転[の位に至る。
そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、
ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。
そして数限りない如来に仕[えるため、神通力によりさまざまな国に往き、
如来を敬[い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。
ここは往相回向と還相回向の内容が簡潔に述べられています。最初の二句が往相回向で、三句目は安楽浄土において建てた願い、四句目からは還相回向になります。
<その仏の本願力[、名[を聞きて往生[せんと欲[へば>
(この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは)
「仏の名を聞いて往生を願う」とありますが、なぜ仏名がそれほど重要となるのでしょう。それは、仏は全ての徳を名に込めて人々に施すからです。
法相[の祖師[、法位[のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称[するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名[を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定[して疑[なし。称名往生[これなんの惑[ひかあらんや」と。
『顕浄土真実教行証文類』行文類二60 大行釈 引文 より
意訳▼(現代語版 より)
法相宗の祖師、法位が『大経義疏[』にいっている。
「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである。仏の功徳はわたしたちの罪を滅して利益を生じる。名号もまたその通りである。もし仏の名号を信じたなら、善根[を生じて悪を滅するのは、間違いのないことであり、疑いのないことである。名号[を称[えて往生を得ることに、何を迷う必要があろうか」
身近な例で言えば、政治家や芸術家やスポーツ選手などでも、各人の活躍は名に集約されて人々の耳に入ります。人々の賛同を得る活動が集積されればその徳は名声となって広がり、人々はその名声を聞くだけで徳を思い出し、私も彼の活躍に習って励もう≠ニ思い直し、生きる力が湧いてきます。
まして創造的根本主体である無量寿仏は、その名を聞くだけで功徳の恩恵にあずかることができるのです。また絶望の淵に迷う私たちにこれほど尊い仏の願いがあり、願いを心に据えて人生を歩む人がいるのなら、同じ人間として、私も尊い人生を歩むことができるのではないか≠ニ、人々は本来的な希望を見出し、苦難の人生を生き抜くことが適うのです。
しかしこの前提として、無量寿仏の名の由来[がわからなければ馬の耳に念仏≠ナ、本当の力とならないのは言うまでもありません。
しかるに『経』(大経・下)に「聞[」といふは、衆生、仏願[の生起本末[を聞きて疑心[あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向[の信心なり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末)65 信一念釈 より
意訳▼(現代語版 より)
ところで、『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。
これで「名[を聞きて」が単なる名前ではなく「聞法」であることが解るでしょう。名に込められた無量寿仏の歴史を聞かせていただくのです。仏性の歴史が私に力を与えてくれるのです。
<みなことごとくかの国に致[りて、おのづから不退転[に到る>
(残らずみなその国に往き、おのずから不退転[の位に至る)
仏の願いを聞かせていただけば、まず自分自身のこれまでの生き様がいかに卑しく情けないものであるかが解るのですが、一方で、仏の願いは本来自分自身の本当の願いではなかったか≠ニも思い返されるのです。
ちなみに衆生は、無量寿仏の慈悲によってのみ助かるのではありません、本願を見出せてはじめて本当に助かるのです。慈悲は仏の初動であって全てではありません。たとえば育児や教育も、親の慈悲は必要ではありますが、慈悲だけで子育てはできません。人間が人間として一人前に育っていくには人間としての法則があるのです。どういう時に褒めてどういう時は叱るのか、人間関係を無視してはいけないし、社会の常識や、人類の歴史を智慧として身につけねばなりません。親はそうした全てを包括した願いを見出し、この願いを中心として子育てをする。自分が念頭に置いて育った願いが、子どもにとっても願いになるからこそ親子が繋がるのです。子どもの人生に親が直接手を加えていては独り立ちできない人間になってしまうことは自明の理でしょう。
同様に、無量寿仏が真の仏と成ったのは本願が見出せたからでありますから、私たちもその本願を身近に感じ、身に満たし、生活の中で発揮できて初めて「助かる」と言えるのです。仏教には「自灯明・法灯明」の大原則がありますが、仏が直接手を差し伸べれば「他灯明」になってしまいます。これでは自分の人生とは言えません。唯一、仏の見出した「法」が私の灯明になるのです。この法が本願であり、仏の本願を我が願いとして生きることが全てなのです。
そこで、仏の願いを自分の願いとして生きていこう≠ニ思い立つ、その心が起こる時、それがまさに「かの国に致りて」ということであり、この願いが継続され翻ることがないことを「おのづから不退転に到る」と言うのです。
ただし「かの国に致りて」と言っても「私は既に安楽浄土に至った」と誇るところに真の往生はありません。「かの国に致らん」と願い続けることがすなわち「かの国に致りて」ということなのです。事実としての成就は永遠の彼方でありますが、そのことが即ち願いそのものが永遠に成就するということなのです。
また「不退転の位に至る」といっても、不退転は無退転ではありません。絶対に変らぬ信念を持つことが不退転なのではなく、幾度も幾度も退転を繰り返しながら、その都度願生の心が深められてゆく、このことを不退転というのです。信念は時として凶器にもなります。柔軟な求道心を持ち、留まることなく日々新たに学び、自分の人生を創造してゆくことが不退転の位に至るということなのです。
<菩薩、至願[を興[して、おのれが国も異なることなからんと願ふ>
(そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い)
これは{往覲偈1「#我が国も安楽国のようにありたいと願う」}に――「かの厳浄[の土[の、微妙[にして思議[しがたきを見て/よりて無上心[を発[して、わが国もまたしからんと願ず」とありましたが、これは{十劫成道}から{華光出仏}までの弥陀果徳を拝見し、浄土の清浄荘厳が思いはかる(思議)ことができないほど素晴らしいことが解ったので、この浄土に永遠に留まる≠ニいうのではなく、自分の国もこの浄土と同じように素晴らしい環境にしていくことを願うのです。衆生の荒れ果てた国土である穢土[を耕し、清浄なる各種の荘厳[によって麗[しい仏の国である浄土を造る≠フです。
無量寿仏の国は一切衆生を胸に抱いた浄土であり、永く継続する国ですが、私の国は有限で無常の国です。しかしこの有限無常の国の内容が無限常住の国の功徳を宿していることが尊いのです。つまり、この有限無常の世界では、通常ここだけでしか通用しない狭い価値観≠竍今しか通用しない刹那的な価値観≠ノよって生きているので、せっかく頂いた尊い生命が、苦痛を受けながら小さく短く縮こまってしまいがちです。ここに仏性の発露である本願を見出し、人間本来の創造的価値観を発揮できれば、たとえ行動範囲は有限で無常の人生でも、その内容は人類普遍の価値を表出した人生として称えられ、永きにわたってその賞賛は継承されていくでしょう。釈尊や親鸞聖人の言葉がいまだに光を失わないのは、たとえ行動範囲は有限でも、生死のある無常の人生でも、見出し行じた内容が永遠普遍の価値のある人生だったからであります。
<あまねく一切を度[せんと念じ、名、顕[れて十方に達せん>
(ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む)
続いて還相回向になりますが、あまねく一切を度[せんと念じていく。しかし念じるだけでは力になりません。衆生済度には何が必要かと申しますと「その名をすべての世界にあらわしたい」と望むのです。
{重誓偈}には「われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん/究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ」とありますが、これは先ほども説明しました通り「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり」で、仏願の生起本末を宿した一切の功徳を名に込めて施してゆくのです。
そしてこの「名」はもちろん無量寿仏の名「南無阿弥陀仏」も尊く、これが根本にあるのですが、仏の願いが自分の願いとなれば、自分の名も「十方に達せん」と願う必要があります。内容が成就すれば自ずと名も成就します。逆に言えば、名が成就しなければ内容も本物ではないのです。独りよがりの善であれば名はともないません。名声がともなわないのはどこか自分自身の内容に問題があるのです。
ただしこれは名誉欲で言う名声ではありません。自分の理性でこしらえたことは否定されても良いのですが、如来の真心をわが真心として為してきたことだけは受け取ってくれよ≠ニの願いが、名としても成就することを望むわけです。
他人の評価は気まぐれで、その一々を気にする必要はありません。しかし、人間は総体としては厳しい目を持っています。偽者はどこかで見抜かれてしまうのも事実です。人間は大抵自分に対しては甘く、他人に対しては厳しい目で採点します。自分の言動が本物か偽物か、甘い自己採点ではなく厳しい他人の目で評価されることも必要でしょう。ここで自分の一生の内容が名として顕れれば本物に間違いありません。
<億の如来に奉事[するに、飛化[してもろもろの刹[に遍[し>
(そして数限りない如来に仕[えるため、神通力によりさまざまな国に往き)
では還相の菩薩は実際どのような態度で「あまねく一切を度[」してゆくのでしょう。たとえば、俺は無量寿仏に遇ってきた、俺には信心がある、お前たちは信心を得ていない。だから俺は信念をもって正しい信心を皆に伝えてゆく≠ニいう態度で法を説いたとします。説く側はいざ知らず、聞く側に立ってみたらいかがでしょう。奴隷根性[が染み込んでいる腑抜[け人間なら感化されるかも知れませんが、自分の人生を成り立たせていこうとする芯[のある人間ならば反発が起こるに違いありません。宗教による洗脳は、宗教者の最も避けねばならぬ道であります。自灯明のないところに正法はありません。
しかし実際の宗教団体は「自信教人信[」とばかり説き、自分の信心を武器のようにして相手にぶつけて「布教だ、伝統だ」と迫ります。相手の心情も知らず、相手の尊いことも解らず、はなから相手を馬鹿にし、相手の価値観を否定し、自分の考えまとめた教学を相手に押し付ける、もしそんな態度で仏教が伝わるとしたらそれはもはや仏教ではありません。
経典にははっきりと「億の如来に奉事[する」とあります。これが本来の布教伝道なのです。相手を尊び、一切衆生を敬い念じて生活することが還相回向なのです。なぜなら、「億の如来」とは「十万億仏土」の主体であり、仏土は「諸仏の国」であり「教化されることになる衆生の類をとりあげて、かれらのことを仏国土と呼んでいる」(意訳『維摩経義疏』仏の国土/参照:{無三悪趣の願})からです。この主体を奉事[するのですから、教化対象としてのひとり一人の世界を否定するのではなく、相手に仕える、相手から学ぶ、一切衆生から学ぶのです。
「神通力によりさまざまな国に往き」の「神通力」は先に説明しました六神通を言いますが、その中でも特に神足通を言います。単に相手から学ぶだけではなく、相手の立場に立ち、三世一切衆生の立場に立つのです。
<恭敬[し歓喜[して去り、還[りて安養国[に到る>
(如来を敬[い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである)
三世一切衆生の立場に立って何をするのかと申しますと、相手を恭敬供養[するのです。「往覲偈」前半では「一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華[・宝香[・無価[の衣を齎[つて、無量覚[を供養[したてまつる」とあり、安楽浄土の根本主体である無量寿仏を恭敬供養させていただくのですが、還相回向では菩薩はひるがえって、一切衆生を恭敬供養させていただくのです。相手を馬鹿にし否定するのではなく、自分の身を低くし、相手を尊び、その人でなければ解らない人生観・世界観を教えてもらうのです。すると仏仏想念[、仏と仏とがあい念じあう喜びが生まれてきますが、これほどの素晴らしい歓喜はありません。これによって互いに救われるのです。
人々が救われる原理は、自分が否定され無理やり救いの器に乗せられることではなく、自分の存在が本当に意味あるものである=A自分の一生が虚しいものではなかった≠ニいう生き甲斐が獲得できることでしょう。孤独に逡巡[を繰り返す人生だったものが、真実の教えにであい、自分にしか為せない生き方で答を出し、それが他人から賛意を得られ学ばれていけば、これほど嬉しいことはありません。逆に、孤独のまま生きて、誰からも相手にされず、他人から自分の一生を否定されて死んでいく、これほど辛いことはないでしょう。自分と相手が敬いあう関係になることが人生の全てといっても良いほどなのです。
無量寿仏の寿命は仏性の根本であるとともに、一切衆生に広がり、人々の胸に宿り、血と汗と涙をともない、苦悩の現場をくぐりぬけてきたいのちです。ですから、仏を拝むは衆生を拝む、衆生を拝むは仏を拝む。どちらが欠けても供養は不完全と言わねばならないでしょう。
「還[りて安養国[に到る」というのは、以上のような往相・還相ということも全て本願力回向の催しであった、私の足元にまで及んではたらく浄土の催しであった、と根本の他力を再確認することをいいます。自分で努力して為していたつもりですが、振り返ってみれば、浄土・真心の環境が遠く自分にまで及んではたらいていたのだなあ、と根本の安楽浄土に還るのです。
ちなみに、人が逝去[されることを「還浄[」という言葉で表すことがあるのですが、本来の意味はこの「還到安養国[」や『仏説阿弥陀経』の「還到本国[」で、還相回向を果たす中で浄土が顧[みられることを言うのです。
以上が諸仏のお勧めとして説かれている内容です。
- 註釈版
- もし人善本[なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有[てるもの、いまし正法[を聞くことを獲[。
曾更[世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬[にして聞きて奉行[し、踊躍[して大[きに歓喜[す。
驕慢[と弊[と懈怠[とは、もつてこの法を信ずること難[し。
宿世[に諸仏を見たてまつりしものは、楽[んでかくのごときの教[を聴[かん。
- 現代語版
- もし人が功徳[を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。
清らかに戒[を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。
以前に仏を仰[ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、
うやうやしく教えを尊[び、仰[せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。
おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない。
過去世[に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。
ここは単純に読めば、過去に宿善が必要で持戒を保つことも必要である∞過去に諸仏を仰ぎ見ることも必要である≠ニ解釈できますが、善本や諸仏は何を表しているのでしょう。
<もし人善本[なければ、この経を聞くことを得ず>
(もし人が功徳[を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない)
「善本」とは「宿善[」や「宿縁[」ともいい、過去に積んだ功徳≠ナ、この善が原因となって『仏説無量寿経』を聞くことができるようになった、と説かれています。
すると、「善本」の無い者は浄土の教えを聞くことができないのでしょうか。そうだとすると、いくら浄土を勧めても振り返らない奴等は、宿世に功徳を積んでいなかったからだ≠ニ罵ることになりかねません。
実はこうした考えはすぐ先に出てきます「驕慢[」な態度で正しくありません。
親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』の総序において――
ああ、弘誓[の強縁[、多生[にも値[ひがたく、真実の浄信、億劫[にも獲[がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁[を慶[べ。
と歎じてみえます通り、浄土の教えに出あうのは「たまたま行信を獲ば」でありますから、誰にでも出あう可能性があり、偶然性もあるのですが、出あった限りは「遠く宿縁[を慶[べ」るようになる。浄土教との縁は一見偶然のようであったが、内容としては、出あうべくして出あうことができたのです。
ここにおいて自分の人生が顧みられ、さらには先祖代々の求道さえも包括[して「穢[を捨て浄を欣[」って人生を重ねてきたことが想い起こされるのです。しかし同時に「行に迷[ひ信に惑[ひ、心昏[く識寡[なく、悪重く障[多きもの」から中々脱却できなかった、と重く受けとめられるのです。
自分もご先祖も、していることは罪悪深重の業から解放されてはいません。それでも「穢[を捨て浄を欣[」って善本を重ねようとしてきた。結果は散々なものであったかも知れない。どれ一つとして誇れるものはなかったかも知れないけれど、永い迷いを重ねてきたことの一つ一つがこの身に宿っている、だからこそこの経典に出あうことができた。『仏説無量寿経』を聞くという一つの成果によって、自分や先祖の罪や迷い一切は全て善本となるのです。これが「もし人善本[なければ、この経を聞くことを得ず」という真意でしょう。
<清浄に戒を有[てるもの、いまし正法[を聞くことを獲[>
(清らかに戒[を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる)
「戒」は「五戒」「八戒」「十戒」「具足戒」などの「声聞戒」や「菩薩戒・大乗戒」が仏教にはあります(参照:{戒律について}が、こうした戒を守ることは、人間としての善なる営みを崩さないためには必須条件でありましょう。しかしこれも先の善本と同じで、「清浄に戒を有[てるもの」になろうと願っても、実際に守り切ることはできないものです。特に身口意の意においては、戒律とは真逆の方向に暴走することがしばしば起こります。
しかし、逆走しがちな自我をよくよく見つめ、慚愧[・懺悔[してゆくことこそ戒の催しで、「俺は戒を守っている」と誇るところに戒の発揮はありません。そういう意味では、自分の言動に目がついて反省し、慚愧・懺悔する人たちは全て「清らかに戒[を守ったもの」と言えるのです。なぜなら、実際に今私たちは浄土の教えを聞くことができているのです。戒律を守り切れていない私たちが「正しい教えを聞く」機会に恵まれたということは、私たちはみな持戒の功徳をいただき、自らの言動を見つめ、慚愧・懺悔の日々を送っていた、ということに他なりません。慚愧・懺悔なくして仏法に出遇うことはできない、このことを「清浄に戒を有[てるもの、いまし正法[を聞くことを獲[」というのでしょう。
<曾更[世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、謙敬[にして聞きて奉行[し、踊躍[して大[きに歓喜[す。>
(以前に仏を仰[ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、うやうやしく教えを尊[び、仰[せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。)
念仏者は「曾更[世尊を見」たと説かれていますが、どこで世尊を見たのでしょう。そもそもここで言う「世尊」とは誰のことでしょうか。
一般的に言えば、ゴータマ・シッダルタとして生まれて悟りを開かれた釈尊その人ということになりますが、釈尊を見ていない人は念仏を喜べない≠ニなれば随分と窮屈な話です。すると、釈尊滅後五百年間(もしくは千年間)は正法の時代で教行証が満足していましたので、覚り得た世尊が沢山みえたということを言うのかも知れません。これは膨大な経典が次々編纂された事実を鑑みても明らかでしょう。そうすると世尊に遇う範囲はもう少し広がるでしょうが、それでも何かしっくりしない説です。一切衆生の済度を願うにはこうした領解では不満足でしょう。
ではこの「世尊」の真意はどこにあるのでしょう。
まず注意がいるのは、今この経典は「世尊」その人が説いている、その「世尊」が「曾更[世尊を見たてまつりしものは」と説くからには、この『仏説無量寿経』編纂以前の世尊であり、また想定としては釈尊になぞらえて説かれているのですから、釈尊以前の世尊です。釈尊以前の世尊としては「過去七仏」が知られています。
つまり釈迦牟尼仏[出世以前にも、毘婆尸仏[・尸棄仏[・毘舎浮仏[・拘留孫仏[・拘那含牟尼仏[・迦葉仏[の名が確認されていますので、仏教は厳密に言えば釈尊以前からあったのですが、過去仏の詳しい教えは残っていず、ただ「諸悪莫作[ 衆善奉行[ 自浄其意[ 是諸仏教[」(諸の悪をなす勿れ 衆の善を奉行せよ みずからその心を清くする これ諸仏の教なり)の七仏通戒偈[を共通して受持した(ただし増一阿含経巻44には七仏おのおの別の偈が存在し、七仏通戒偈は迦葉仏の偈に近い)といわれています。
しかし過去七仏はこの『仏説無量寿経』には説かれていません。この経典で説かれている過去仏は五十三仏です。錠光[から処世[までの仏にであうことが「曾更[世尊を見たてまつりし」という事実なのです。これは人間普遍の経験でありましょう。経典には「乃往過去久遠無量不可思議無央数劫[に、錠光如来[、世に興出[して無量の衆生を教化し度脱[して、みな道を得しめてすなはち滅度[を取りたまひき。次に如来ましましき。名をば光遠[といふ。次をば……」(今よりはかり知ることのできないはるか昔に、錠光という名の仏が世にお出ましになり、数限りない人々を教え導いて、そのすべてのものにさとりを得させ、やがて世を去られた。次に光遠という名の仏がお出ましになった。その次に……)と、五十三仏が続いて世に出られ衆生を教え導いて、そのすべてのものにさとりを得させていかれた、とあります。
五十三仏の正体は{法蔵発願 五十三仏}に詳説してありますが、総じて言えば、信心の開けた眼で見た化仏であり、ここまで私がお育てにあずかった全ての事象を仏の名で称えているのでしょう。今までいたずらに暮らしていた時は気づかなかったが、こうして『仏説無量寿経』にであい、信じて、うやうやしく教えを尊び、仰せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至ると、これまでの一切の経験が尊く思い返され、過去にであった全てのご縁が尊く拝まれ、さらには遠く先祖のご苦労にも頭が下がり、仏の名をつけて手を合わすのです。これが「曾更[世尊を見たてまつりしもの」としての私の感謝でありましょう。
<驕慢[と弊[と懈怠[とは、もつてこの法を信ずること難[し>
(おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない)
せっかく『仏説無量寿経』にであい、教えを聞かせていただいて、大いに歓喜したとしても、ここに大きな落とし穴が待ち受けています。それは全体としては「法執」であります。教えに執着し慣れて横着になってしまうことです。
法執の第一は「驕慢」(おごり高ぶり)となって現れます。実に驕慢な態度の宗教者・信者ほど醜悪なものはありません。他人を馬鹿にし、他宗教を攻撃し、自分は真実の内にあり、他人は虚偽の中にあり≠ニ誇ってみせる態度にどれだけ多くの人々が迷惑し傷ついていることでしょう。相手を敬い相手から学ぶ態度がない宗教者は悪の権化であるとさえ言えるでしょう。世を大々的・根本的に汚しているのは宗教者に他ならないのです。時として「宗教さえなければ世の中はもっと平和になるのに」と声があがるのはこうした驕慢が原因なのです。
「弊」は疲弊[で、「やぶれる。ちゃんとしたものが、ぐったりとだめになる。たるんでくずれたさま」を言います。せっかく尊い『仏説無量寿経』をいただきながら、その尊さに慣れてしまい、教えの核心が破れ崩れてしまうことが問題なのです。
「懈怠」の「懈」は「おこたる。だらける。気をゆるめてなまける」こと、「怠」も「おこたる。心をたるませる。たるんで仕事をやらない。なまける。たるんださま」を言います。浄土ではまごころを象徴したマンダラ華が四六時中降りそそぎ新鮮さをたもっています(参照:{華光出仏})が、そうした浄土の新鮮さを忘れ、馴れてだらけてしまうことが問題なのです。蓮如上人はこうしたことについて――
一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。神にも仏にも馴れては、手ですべきことを足にてするぞと仰せられける。如来・聖人(親鸞)・善知識にも馴れまうすほど御こころやすく思ふなり。馴れまうすほどいよいよ渇仰の心をふかくはこぶべきこともつともなるよし仰せられ候ふ。
『蓮如上人御一代記聞書』138
現代語版:蓮如上人は、「神に対しても仏に対しても、馴れてくると手ですべきことを足でするようになる。阿弥陀如来・親鸞聖人・よき師に対しても、馴れ親しむにつれて気安く思うようになるのである。だが、馴れ親しめば親しむほど、敬いの心を深くしなければならないのは当然のことである」と仰せになりました。
と法執による懈怠に注意を促してみえます。
<宿世[に諸仏を見たてまつりしものは、楽[んでかくのごときの教[を聴[かん>
(過去世[に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる)
ここでは「もし人善本なければ」からのことをまとめて説いています。つまり自分は今、喜んでこの教えを聞くことができる、これは過去世に仏がたを仰ぎ見たからだ≠ニ領解することができる。過去の迷いや苦悩に沈んでいた人生に意味が生じたのです。さらにはこれだけの迷いを経なければ頑固な私は真実の法に目ざめることはなかったのだ≠ニ、我が身をふりかえることができ、辛い過去も輝く宝となって我が身に至っていたことを見出します。五十三仏に象徴される人類求道の道程を我が身に満たした者は、宿世に諸仏を見たてまつりしもの≠ニして、過去を懺悔しつつ肯定することができるのです。
それは自分個人のみのできごとではありません。先祖代々真実を求め、法を聞いてくださっていた、この「おかげ」が、私の身の上に報い、環境に報い、仏縁を深めて下さっていたのでしょう。
- 註釈版
- 声聞[あるいは菩薩[、よく聖心[を究[むることなし。
たとへば生れてより盲[ひたるものの、行[いて人を開導[せんと欲[はんがごとし。
如来の智慧[は、深広[にして涯底[なし。
二乗[の測るところにあらず。ただ仏のみ独[りあきらかに了[りたまへり。
たとひ一切の人、具足[してみな道[を得、
浄慧[、本空[を知り、億劫[に仏智を思ひ、
力を窮[め、講説[を極めて、寿[を尽すとも、なほ知らじ。
仏慧[は辺際[なくして、かくのごとく清浄に致る。
- 現代語版
-
声聞[や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。
如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、
声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる。
たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、
清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、
力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、
仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。
ここでは、二乗を廃して本願一乗海に入ることを勧めます。
<声聞[あるいは菩薩[、よく聖心[を究[むることなし。
たとへば生れてより盲[ひたるものの、行[いて人を開導[せんと欲[はんがごとし>
(声聞[や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである)
「声聞[あるいは菩薩[」は「よく聖心[を究[むることなし」とあります。「聖心」は「仏のさとりの心」ですから仏の三心(至心・信楽・欲生)をいいますが、この三心を「声聞・菩薩」は知りきわめることはできない、と説かれています。そしてその譬えとして「生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなもの」と表現しています。現代ではこれを譬え方が悪い≠ニ批判する向きもありますが、ひとまず譬えんとする意図は受け取れるでしょう。しかし本当の問題は譬え方ではありません。内容です。
今までの経典ならば「声聞・縁覚」を問題視していました。彼等は生死解脱の出家仏教者ですから、創造的世界である浄土の覚りは「聖心を究むることなし」でも良いのですが、大乗の「菩薩」までもこれを究めることができないとなれば一体誰が究めることができるのでしょう。つい先ほどまで経典は、浄土に生まれた正定聚の菩薩こそが無量寿仏の心を究め、私の日々の生活の上に浄土真実の世界を顕現していかなければいけない≠ニいう意を明かにしていたのですから、このままでは解りかねる内容です。
実はここは菩薩ちがい≠ネのです。同じ「菩薩」という名を冠しても、「大乗の菩薩」と「浄土の菩薩」には違いがあるということを言うのでしょう。
「声聞」にしてもただ仏法を聞くだけに留まっている人≠ニいう意味の「声聞」と、聞法精神が開き浄土環境から学ぶ人≠ニいう意味の「浄土の声聞」は内容が違います(参照:{弥陀果徳 寿命無量})。同様に、「大乗の菩薩」は自分と相手との人間関係を課題にし、共に「人間」を成就させていく菩薩でありますが、「浄土の菩薩」は自他と人間関係とそして環境を問題とし、人間と環境を成就させ、さらには新たな仏性の歴史を創造する「創造的前衛主体」となった菩薩であります。ですから、大乗の菩薩では「聖心を究むることなし」でありますが、浄土の菩薩はそうではありません。浄土の菩薩は既に仏と同等の智慧があります(仏と菩薩は徳の内容だけが違う)から、聖心を究むることが適うのです。
ただし、私は既に聖心を究めました≠ネどと驕慢な態度が出たら、それは「菩薩の死」と言わねばなりません。道心が「驕慢[と弊[と懈怠[」によって亡びた菩薩は、既に菩薩とは言えないのです。ちょうど、車に乗らない運転手は運転手ではなく、絵を描かない画家は画家でないのと同様です。聖心を究めよう≠ニ希望を持って願い続けてこそ菩薩は菩薩としての値打ちがあるわけです。
<如来の智慧[は、深広[にして涯底[なし。
二乗[の測るところにあらず。ただ仏のみ独[りあきらかに了[りたまへり>
(如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、
声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる)
これは先の二句と同じ意味を具体的に明かしています。なぜ大乗の声聞・菩薩が聖心を究めることができないかと言うと、単に縁起の法から導き出された悟りでは仏心を本当に領解したことにはならないからです。本当は、人間がお育ていただく場、今のこの状況そのものにこそ無量寿仏の智慧が込められていて、この限りなく深く広がりをもった環境の徳(土徳)を尊ばない限り「如来の智慧海」は見出すことができないからです。たとえば「世間虚仮[ 唯仏是真[」と言いますが、これは一面であって、世間が虚仮であろうがなかろうが、自分はこの世間で生きていくしか方法がありません。世間以外に学び行じていく場はないのです。無量寿仏の聖心もこの世間において永年修した果徳です(参照:{法蔵修行})。そこでこうしたことも解らずに浄土経典を読むべからず≠ニ注意を加えているのでしょう。さらには、如来の智慧は広がりに限界があったり、深さに底があったりするものではない≠ニいうことも含んでいて、それが次の句から出てきます。
<たとひ一切の人、具足[してみな道[を得、
浄慧[、本空[を知り、億劫[に仏智を思ひ、
力を窮[め、講説[を極めて、寿[を尽すとも、なほ知らじ。
仏慧[は辺際[なくして、かくのごとく清浄に致る>
(たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、
清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、
力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、
仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない)
ここは「一切の人」ということですから、二乗の人だけでなく浄土の菩薩に対しても述べています。彼等が「具足[してみな道[を得、浄慧[、本空[を知り、億劫[に仏智を思ひ、力を窮[め、講説[を極めて、寿[を尽す」ということ、これは仏教の全てであると考えられてきました。しかしたとえこれらが成就したとしても、足元の人生そのものはさらに深く、これが解らぬ限り仏の智慧を知ることはできないのです。この経典を編纂された経家が、当時の仏教界・宗教界をどう見ていられたのかが解る一言でしょう。
実際に今でも、私は智慧を得た∞空を覚った∞長く仏智を思いはかった∞仏法を説き尽くした∞寿命の限りを尽くして学び修した≠ニ誇りながら、家族からは煙たがられ、誰彼かまわず論戦を挑んでは友人をなくし、自身の生活は荒れ、世間の物事にもうとい、という僧侶や宗教者も数多く見受けられるのではないでしょうか。そんなことをいくら繰り返しても自分自身の人生の内容はなおざりのままでしょう。
さらに、周囲の声に耳を傾けてみれば、お前は難しそうなことばかり言っているが、お前自身は相手のことを何も知らない最低の人間ではないか。せめて家族として最低限の勤めだけは果たしてくれよ≠ニ、あきれ果てられているのではないでしょうか。また教えを語れば、どんなに尊い教えも、お前の口から出ると屁理屈にしか聞こえない。教えを語る前に、お前自身が人間として成長し、相手を理解し、人間的環境としてどうであるかを鑑みなさい≠ニ逆に諭されてしまうでしょう。もちろん面と向かってそう言う人は少ないでしょうが、僧侶が帰った後は僧侶の悪口のオンパレードだった≠ニいう噂はよく耳にするところです。
このように、涅槃や法性真如を知ったとしても、それだけでは何の足しにもならないことは事実が証明しています。書物に書いてある教えや修行法は参考意見に過ぎないのです。本当に知り修さねばならぬことは、二度とは生まれて来ぬ私自身のこの人生、自分自身が創造し清浄に荘厳しなくてはならない自分の人生、このこと一つでしょう。この人生を成就させるには、周囲の人たちも同様に私とは異なる世界を持っていることを知り、これらが重々無尽に重なっている今のこの現実を無限に深く生きることです。永遠の世界などに心を奪われず、今生きているこの現実の一つ一つに全身全霊を込めて挑んでいくことが、本当に永遠に生きるということなのです。自分自身の現実の一々において「仏慧[は辺際[なくして、かくのごとく清浄に致る」ということが証明されてくるのです。
- 註釈版
-
寿命はなはだ得がたく、仏世[また値[ひがたし。
人信慧[あること難[し。もし〔法を〕聞かば精進[して求めよ。
法を聞きてよく忘れず、見て敬[ひ得て大きに慶[ばば、
すなはちわが善き親友[なり。このゆゑにまさに意[を発[すべし。
たとひ世界に満てらん火をも、かならず過ぎて要[めて法を聞かば、
かならずまさに仏道を成[じて、広く生死[の流[を済[ふべし〉」と。
- 現代語版
-
そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。
その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。もし教えを聞くことができたなら、努[め励[んでさとりを求めるがよい。
教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそ
わたしのまことの善き友である。だからさとりを求める心を起すがよい。
たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。
そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう」 と。
往覲偈の最後です。ここに信心生活の心がけが説かれています。
<寿命はなはだ得がたく、仏世[また値[ひがたし>
(そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい)
「寿命はなはだ得がたく」を現代語版では「そもそも人として生れることは難しく」と意訳していますが、寿命が単に生物としての人間≠ニいう意味であれば少し弱い訳≠ニ言わざるを得ないでしょう。ここで言う「寿命」は、{寿命無量の願}と{眷属長寿の願}、そして{弥陀果徳 寿命無量}に言う寿命で、特に衆生においては、「寿」は衆生に宿った法蔵菩薩の願心をいい、「命」は衆生の菩提心を現わしている≠フです。無量寿仏の寿命である無上菩提心は、彼の仏国に生まれようと願う人民に回向され、限りなく展開し、実にはかり知れないほど長く保たれる、このように釈す意味での寿命です。そしてこの寿命を今日まで保っていたからこそ真実の法に出あうことができた∞今日まで生きながらえて道を求めたからこそ本物の教えに出あうことができた≠ニいう感激が「寿命はなはだ得がたく」という言葉になったのでしょう。これは自分個人の寿命に限らず、遠く先祖の胸を通ってきた寿命でもあります。ようこそ私まで寿命をつないでいただきました≠ニの感謝でしょう。
次の「仏世[また値[ひがたし」の「仏世」は、一般的には「釈尊在世期間」という意味ですが、この経典は「去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ」で、永遠普遍の内容を明かにするのですから、釈尊ご自身の生死に関わらず、法の常住は期間を区切るものではありません。
しかしここで重要なのは「値[ひがたし」という箇所です。仏がこの世に出られたその訳を経に聞きますと――
世に出興[するゆゑは、道教[を光闡[して、群萌[を拯[ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲[してなり。無量億劫[にも値[ひがたく見たてまつりがたきこと、なほ霊瑞華[の、時ありて、時にいまし出づるがごとし。
現代語版:(如来が)世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。このような仏のお出ましに会うことは、はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうど優曇華の咲くことがきわめてまれであるようなものである。
とあります。諸仏如来がこの世に次々と出られた、このことも重要なのですが、さらに重要なのは、諸仏が出世された値打ち≠この世に顕すことです。この出世の本懐∞出世の大事≠ノついて 親鸞聖人は、「諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり」(『尊号真像銘文』17)と讃じてみえます。つまり、もしこの『仏説無量寿経』が説かれなかったならば、どんなに多くの諸仏がこの世に現れても、衆生にとっては何の値打ちもなかったのです。ところがこの尊い経典を世に出すことができた、この感激を、「仏世[また値[ひがたし」と歎じてみえるのです。
<人信慧[あること難[し。もし〔法を〕聞かば精進[して求めよ>
(その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。もし教えを聞くことができたなら、努[め励[んでさとりを求めるがよい)
諸仏は「弥陀の願海一乗のみのりを説」けば、一応は本懐を遂げることができますが、もちろん説いただけでは済みません。今度は衆生の身の上に功徳を実現させねばならなりません。経の真意を信知し「弥陀の願海一乗のみのり」を領解することが必要です。そこで「人信慧[あること難[し」と、世尊は信心獲得させて頂く衆生の立場に立って説かれるのです。それは、難しいぞ≠ニ脅すのではなく、既に如来回向の信心を頂く者に対して、信心の智慧がいかに尊いか、有り難いかを忘れないように説き、そこで「もし〔法を〕聞かば精進[して求めよ」と、慣れて蔑ろにしないように導くのです。
<法を聞きてよく忘れず、見て敬[ひ得て大きに慶[ばば、
すなはちわが善き親友[なり。このゆゑにまさに意[を発[すべし>
(教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそ
わたしのまことの善き友である。だからさとりを求める心を起すがよい)
「法を聞きてよく忘れず」の「よく」は「能く」ですから、自分から積極的に法を聞いてゆき、身に即けていつでも忘れることがないようにすることを言います。先に、「往覲偈[]の要[は「観仏[」と「聞法[」、と書きましたが、まずは無量寿仏に詣[でて法を聞き、次に諸仏に見[えて法を学ぶ(参照:{聞名見仏の願})。こうした主体的な聞法と観仏によって自我が破れ、自分の人生観は定まりつつ拡大を続けていくのです。
具体的には、人生の学びは特別の先生でなくても良く、出遇う人・出遭う物事一つひとつが法となって聞こえ学ぶことができるようになる、それは本当に相手に出あっているからです。今までは、相手と会って話をしても本当に出あってはいなかった。無明・我執が邪魔をして相手の言葉や表情を真摯に受け取ることができなかったけれど、この『仏説無量寿経』を学んでようやく本当に人々と出あうことが適ったのです。それは仏仏想念で、相手をしっかりと見、敬い学ぶことができたことで適った、すると世尊は「すなはちわが善き親友[なり」と称えて下さるのです。世尊も私たちも、本当に出あうことが適えば、肝胆相照らす親友になることができるのです。
<たとひ世界に満てらん火をも、かならず過ぎて要[めて法を聞かば、
かならずまさに仏道を成[じて、広く生死[の流[を済[ふべし〉」と>
(たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。
そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう」 と)
ここは往覲偈の絶唱です。「世界に満てらん火」とは火災が発生している状態を言うのではありません。この世に満ちている苦悩・煩悩を火に譬えているのです。
往覲偈は信心の内容を明らかにしたものですが、その最後に苦悩煩悩の穢土を世渡りしていくことが説かれているのです。つまりそれだけの覚悟と実行力を起こさせるものが真実信心なのであり、決してこの世を厭い離れることが信心なのではありません。
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
『浄土和讃』31
このように、信心は全てのものを活かすのです。阿弥陀仏といえど、諸仏といえど、真実信心(南無)がなければその存在意義は失われてしまいます。特に親鸞聖人は、「聖人一流の御勧化[のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」と称えられるように、信心の内容、法の受け取り方を深めていかれました。森羅万象全ては信心によって本当に生きてくるのです。それは、正しい人生観を持つこと、正しい心構えや態度を保って仏や人々に接すること、往覲偈はこの信心の内容を余すことなく説かれた偈文なのです。
衆生というものは迷ってどうしても一遍さとらなければいけないのです。そうすると、さとりの世界はなんぼもあるわけではないのです。本当のさとりの世界は阿弥陀の国よりほかにないのです。だから、極楽世界しかないのです。大日如来とか、薬師如来とかこういうものがあって、そういう実態は、皆、人間が自分で描いた化仏なんです。だから、名前からしてから、本当ではないのです。阿弥陀という、あるものは阿弥陀だけ。大きな象をたくさんなめくらが、自分自分の考えで撫でたのと同じように、ただあるものは阿弥陀の浄土だけ。阿弥陀の浄土を、ある人は阿弥陀仏を薬師如来と受け取ったのです。ある人は大日如来と受け取ったのでありますから、本当はあるものは阿弥陀の世界だけ。こういうことであります。
したがって、我々はどうしても、そこに迷っておる私は阿弥陀の国に生まれていかなければいけないのです。ところが、眼が覚めてみたら、実は私には私の国がある。そうすると、私の国をつくるためには阿弥陀の真実の世界というものを、私の上に真実の世界を顕現していかなければいけないのです。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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